雨が降っていた。
冬の気配を感じる晩秋のある日、オレはいつものように和谷の家で検討会をしていた。
白熱した検討はすっかりと夜が更けるまで続き、気が付かぬうちに雨まで降り出していたようだ。和谷は泊るように勧めてくれたのだが、傘だけを有り難く拝借して、オレは雨に濡れる夜の街を自宅へ向けて歩き始めた。
傘を叩く雨は冷たい。濡れた地面を歩くたびにスニーカーが湿った音を立てた。お気に入りのスニーカーは、メンテナンスをしておかなければすぐに履き心地が悪くなる。面倒臭さと不快さに、オレは深い溜息を吐いた。
あの日から、オレは滅多に自宅以外の場所で眠らなくなった。
勿論、遠征とか法事とかどうしても外せない用事がある場合は別だが、少し無理をすれば自分の部屋のベッドで眠れるのなら、オレは必ず自宅へ戻った。そう、たとえこんな酷い雨の夜道を歩くことになっても。
――……佐為が。
その名を心に浮べただけで、複雑な思いに胸を締めつけられる。もう口に出して呼ぶことはしないが、それでも、今でも、心の中では何度も繰り返すアイツの名前。
――佐為が……戻るかもしれないから……。
あの日から何度も季節は過ぎて、17歳になった今でも。オレは……その望みを捨てられない。もしかしたら、目覚めたらまたアイツが俺の傍で笑っているんじゃないかって。それが叶わなくとも、自宅のあのベッドならせめてもう一度夢で逢う事ぐらいできるんじゃないかって。
子供っぽい感傷だと笑うこともできないくらい、オレは、アイツに再会することを諦められないでいる。
――帰らなければ……あの部屋に。
傘の柄を掴んだままの手を、ズキズキと痛む胸に当てる。知らず重くなっていた足を無理やり動かした。速度を上げればそれだけ水音も強くなる。泥が跳ね上がるのが少し気になりはしたが、ともかく今は早く部屋に辿り着きたかった。
――早く早く早く。早く帰って、帰って、帰っても……。
アイツはきっと居ない。何度も繰り返した落胆と、いつまでも拭い去れない奇妙な違和感。もうアイツに会うことは出来ないという確信。
――それでも。オレは諦めきれない。諦めたくないんだ。
襲いくる絶望に抗いたくて、いつの間にか駆け出していた。諦めという名の、アイツとオレの終焉から逃げるように。半ば振り回しているような状態の傘はあまり役に立たず、オレの肩も足元も雨露に打たれ次第に重く濡れていった。
――もう一度アイツの声が聞きたい。もう一度アイツと……!
――『ヒカル』
声が、聞こえた。間違えようのない、アイツの、佐為の声が。
望みが叶えられたのかと足を止めあたりを見廻すが、アイツの姿はない。ただ暗闇に降り注ぐ雨粒が、僅かに街灯の光を返しているだけだ。思慕が募ってついに幻聴まで聞こえるようになったかと、力なく立ち竦んだままオレは自嘲の笑みを浮かべる。声を出せば嗚咽になりそうで、一度だけ細く息を吐くと止めていた足を再び動かした。今度はゆっくりと。雨音の向こうにアイツの声を夢想しないように。
――『待って下さい。ヒカル』
まただ。今度は騙されないと、そう思いつつもあたりに彷徨わせる視線は止められない。違う。佐為じゃない。アイツなら姿を現してくれるはずだ。だが声がするだけで、暗闇の中に浮かび上がる彼を見つけることはできなかった。ならばやはりこれはオレの幻聴なのだろう。そうでなければ何かに欺かれているとでもいうのだろうか。
いずれにせよこのままでは己の作り出した幻影にまで、みっともなく縋ってしまいそうだ。今すぐにあの部屋に帰らなければ。
――『ヒカル!こっちへ』
走り出した足を引き止める、アイツの悲痛な声が聞こえた。けれどオレは逆らうように強く地面を蹴る。
「こっち?こっちってどこだよっ!」
走りながら思わず口をついた言葉は、ほとんど叫びになっていた。雨粒が頬を打つ。冷たいはずのそれに、温もりを持った一筋が溶ける。潤んだ視界でアイツの姿を探すことはもうしなかった。それでもせめて雨音の向こうにアイツの声を聞こうと、必死に耳をそばだてる。だが……返答はない。
「畜生!答えろよ馬鹿っ!」
――『ヒカルっ!ダメですっ!!』
叫んだのは殆ど同時だった。ほんの一瞬遅れて、右から眼もくらむような光がオレを照らし出す。本能的に危険を感じ、慌てて足を止める。だが間に合わない。雨に濡れた路面に足を滑らせたオレは、抵抗もむなしく光の中に躍り出た。
――『ヒカルっ!!』
初めて聞いた悲鳴に近いアイツの声を掻き消す、激しい水音と襲い掛かるようなクラクション……そして、衝撃。
オレは何が起きたのか理解できないまま、目を閉じる間も無く……体も、それどころか心まで文字通り跳ね飛ばされていた。
ヒカル17歳の晩秋。続きます。