誰かがオレを呼んでいる。
とろとろとした澱のような闇の底にいたオレは、その声に誘われるままに緩やかに浮上する。水面から注ぎ込む光のような声の主を確かめたくて、なのに四肢に絡みつく闇はそれを阻む。早く早くと、心ばかりが急いている。
覚えのある柔らかな声。優しくて暖かい、それなのにこんなにも心を乱すあの声は……。
「ヒカル」
期待に答えるかのように、はっきりと己の名を呼ばれてオレは跳ね起きた。
急な覚醒に頭の芯が揺れ視界がぶれる。小さく呻き声を上げて傾いだオレの半身を、暖かい手が支えてくれた。歪む視界にさらりと流れる黒髪。その美しい一房を視線で辿って行けば、気遣わしげにオレを見つめる切れ長の瞳にぶつかった。
「……佐為?」
果たして目の前に居たのは、ずっと逢いたくて逢いたくて仕方なかった人。
端正なその顔は記憶のままに美しく、なのに不安げに細められた瞳は記憶よりもなお鮮やかにオレの目に飛び込んできた。
「気がつきましたか ?」
薄い唇が言葉を紡ぐ。姿形と同じように、聞き慣れたはずのその声もまた記憶よりも明瞭に俺の耳に届く。ああ、間違いない。オレはコイツに呼ばれたのだ。
「いや、ていうかマジで ……佐為?」
支えてくれる腕にしがみ付いて問いかければ、佐為は困惑と懐かしさの混じった複雑な表情で一つ息を付いた。宥めるようにオレの背を撫でながらしっかりと頷いて見せる。
「……はい。お久しぶりですね。ヒカル」
あまりにも暢気な物言いに一瞬呆けた後、すぐに我に返ったオレは高ぶる気持ちのままに彼の首元に掴みかかった。佐為は強引に引き寄せられ小さく眉を寄せたものの、抵抗はしなかった。
「……っオマエ!!久しぶりどころじゃねえだろ!?今までどうしてたんだよ!オレ……ずっとずっと叫んでたんだぞ!待ってたんだぞ!?……なのに……何で今まで現れなかったんだよっ!ていうか、何で消えたんだよ馬鹿野郎っ!!オレ、ずけえ逢いたかった……逢いたかったのに……っ」
激情のままに跳ね上がった声で一気に捲し立てる。それでも勢いは続かず語尾はもう涙混じりになっていた。佐為の首元を掴んだ手も、波が引くように力を無くしていく。それが恥ずかしくて悔しくて、オレは袖で乱暴に目元を擦った。
「……ヒカル……私も逢いたかったのですよ?」
そっと肩に手を置かれて、促されるように目元を覆っていた腕を下ろせば、痛みを堪えるかのように眉宇を寄せた佐為の顔が間近にあった。
「……嘘だ……」
「嘘ではありません。私もあなたに逢いたかった。あなたの傍から消えたくはなかった。……本当です」
真剣な面持ちで言葉を紡ぐ佐為を信じたい。でも、雪のようにオレの中に降り積もった冷たい孤独の時間がそれを許さなかった。
「……嘘だよっ……だったら何で今まで……」
「……私は一度死んだ身です。本来ならば現世に留まってはならぬものを、理を曲げてまであなたと共に在ったのです。……しかしそれも神の慈悲あっての事。許し無しに再び現世に現れるわけにはまいりません」
諭すような口調で告げられた言葉に、オレは眉を跳ね上げた。
「はあ?何言ってんだよ。今ここに居るじゃん」
「いいえ。ヒカルが此方に来たのですよ」
きっぱりと佐為が言う。だがその言葉の意味がオレには判らない。首を捻るオレの肩を佐為が促すように軽く叩いた。
「落ち着いて。まわりを良く御覧なさい」
言われて初めて佐為から視線を外し、辺りを見渡して漸くオレは違和感に気が付いた。 ここはどこなんだ。オレは確か夜道を歩いていたはずなのに、今目の前に広がっているのは漆黒の世界だった。いや、広がってるという表現が果たして正確なのかどうかも分からない。永遠に続いているのか、或いは手を伸ばせばそこで途切れているのか、それすらもわからない虚ろな黒が、ただ在る。
その闇に飲み込まれないで居られるのは、座りこんだオレの足元に見たこともない華が咲き乱れ、辛うじて足場らしきものになっているからだ。夜の湖の暗い水面に浮かぶ蓮の葉のように頼りない。無意識に地面を確かめようと、密生した華を掻き分けてその奥へ指を伸ばしてみた。だが華の茎は途中から闇に溶けていて、オレが差し伸べた指先すらも輪郭をあやふやにしていたため慌てて手を引き抜く。
いや、そもそもこれも華なのか?華のように見えるがそうではなくて、ただ光だけがそこに在るのかもしれない。深さも広さも分からぬ闇の中で華のような何かが発光しているお蔭で、まるでスポットライトを浴びたかのようにオレたちの周りのさほど広くない空間だけぽつんと明るいのだった。
「……何なんだ、ここ」
寂しい空間だった。佐為の消えた部屋の冷たさが思い出されて、オレはぶるりと体を震わせた。
「……此岸と彼岸のハザマの世界。……とでも申しましょうか」
「……何だそれ」
「私にも詳しくは分かりませんよ」
視線を佐為に戻せば、苦いものを噛んだように口元を歪ませている。しかしそれも一瞬。歪ませた唇を開いて一つ息を吐くと、佐為は気遣うような眼差しでじっとオレの瞳を覗き込んできた。
「ヒカル、思い出して下さい。あなたは、車に撥ねられたのですよ?」
「……え?」
何を馬鹿なことをと、そう詰ろうとしてできなかった。佐為の言葉に堰を切られたように、脳裏にフラッシュバックする映像がオレから言葉を奪う。闇に降り続く雨。視界を真っ白に染めるヘッドライト。けたたましく響くクラクションとそのすべてからオレを引き剥がした衝撃。――そして、暗転。
この記憶が夢でないのなら、自分の生存を安易に信じることは難しい。けれど確かめるように己の体に触れてみても、傷どころか雨に打たれたのに濡れてさえいなかった。
「冗談だろ?だってオレちゃんと触れるぜ。幽霊なんかじゃ……」
「その幽霊の私に触れているでしょう?ヒカル」
「……あ……」
何かを堪えるように眉を寄せた佐為が、それでもはっきりと告げた言葉。確かめようと再び佐為に手を伸ばし、その衣を掴んで軽く引き寄せてみた。今までどんなに佐為に触れようとしても通り抜けるだけだったオレの指先は、拍子抜けするぐらいあっさりとその柔らかい布地の微かな抵抗すら感じとっている。
「……それが……今、私とあなたが同じ次元にいることの証ですよ」
吐息混じりの佐為の言葉に、オレは恐る恐る視線を上げた。
「……オレ……死んだ、の?」
「いいえ」
オレの言葉を遮るような速さできっぱりと答えた佐為。まるでオレの疑問を予測し予め用意していたかのような即答に、オレは怪訝そうな視線を向けた。だが佐為の視線は揺るがない。
「先程も申し上げた通り、此処はハザマの世界です。今、あなたの魂は一時的に体を離れているだけで、切り離されているわけではありません」
佐為は優しく微笑むと、オレの手を取って立ち上がった。促されるままオレも体を起こす。微かな衣擦れの音とともにふわりと香るのは佐為の香だろうか…それとも足元の華の芳香だろうか。
仄かな香りに酔いそうになる頭を軽く振って立ち上がり、佐為と向き合って視線を合わせた。佐為は一度驚いたように目を見開いて、そして直ぐに緩やかに笑みを浮かべる。
「嗚呼。……大きくなりましたね、ヒカル」
「あ、うん。前はオマエのこと見上げてたもんな」
以前は首が痛くなるくらいあった身長差が、今は僅かに顎を上げれば視線が合うほどに近くなっていた。改めて自分の成長を感じるが、それは同時に佐為と離れていた時間の長さを示している。
背筋を這い上がる恐怖に、佐為の手を掴む指先に力が篭った。縋り付くオレを確りとした温もりが受け止めてくれる事に安堵して、そうして初めて息が掛かるほどに近い互いの距離に気が付く。慌てて顎を引き視線を逸らしたのは、体を離す為だけではなく、自覚した途端薄紅に染まった頬を隠したかったからだ。
現世で霊体として傍に在った佐為は肉体を持たぬ朧げな存在であり、光を纏って透ける身体は神懸って美しかった。だが今間近に見る佐為の瞳は、澄んでいるのに底の深さを感じさせる湖面のようで、触れられるほどに近づいてもなお神秘的で綺麗だった。
佐為はオレの態度を咎める事はしなかった。僅かに乱れたオレの呼吸が整うまでの間静かに待って、そうしてゆっくりと促すように繋いだままのオレの手を引く。
「……さあ、あまり時間がありませんよ。参りましょう」
「え?ど、どこへ?」
間抜けなオレの問い掛けに佐為が一瞬だけ眦を吊り上げた。見開かれた瞳の奥に不穏な光が閃くのを、オレは意外な気持ちで見つめる。佐為が瞳にこんな色を浮かべるのを見た事はないし、何より彼に似つかわしい色だとも思えなかった。
「……佐為?」
理由を知りたくて名前を呼べば、佐為は笑みの形に目を細めて暗い光を隠してしまう。誤魔化されたのだと分かっても、オレは見慣れたその微笑みに安堵してそれ以上の問いを諦めた。
「現世へ戻るのですよ、ヒカル。あなたの体へ。今ならまだ間に合います」
「……ホントに戻れる……の?」
恐る恐る尋ねたオレの顔は、おそらく困惑と安堵の間で揺れ動いていただろう。佐為は笑みを深くして頷いて見せてから、促すように空いた手でオレの足元を示した。
「大丈夫。見えませんか?ほら……」
「何?」
「あなたの足元から光の紐が出ているでしょう?あなたの肉体と魂魄を繋ぐ糸……魂の緒です。それを辿れば必ず戻れますよ」
言われて注意深く自分の足元を見る。華から溢れる光に紛れて最初は気付かなかったが、確かに華とは異質の光が一筋だけ自分の爪先から闇に伸びているのが見えた。
爪先からうっすらと淡い光が煙のように立ち上り、やがて束になって光量を増す事で漸く目視できる輝きを帯びる。両足から同様に伸びたそれは、互いに絡まりあって一本の紐状の光になっていた。
これが魂の緒だというのならこの紐の先はオレの肉体に繋がっているのだろうか。闇に伸びた光の紐は、闇の向こうに続いているようにもそのまま闇に溶けて途絶えているようにも見える。
「……そっか……」
それでも、佐為の言葉が嘘だとは思えなかった。彼がそう言うのだから、この紐を辿れば現世に戻れるのだろう。
安堵したのと同時につきりと胸が痛んだ。頭では戻らなければいけないことは分かっている。佐為の言葉通りなら猶予している場合ではない。分かっているのだが、漸く叶った逢瀬を終わらせることが惜しくて、なかなか一歩を踏み出せなかった。
「大丈夫です。私を信じてください、ヒカル」
オレの躊躇いを不安からだと勘違いしたのか、佐為は気遣うような視線を向けてくる。こんな顔をさせたいわけじゃないし、彼を信じていないと思われるのも嫌だ。
「……うん」
渋々頷いたオレに佐為は安堵したように頬を緩め、それから再びオレの手を引いて歩き始めた。佐為の背中に気付かれない程度の小さな溜息を零して、オレは力なく後に続く。……現世に、帰るために。
再会した二人。ハザマについてはほんのり雰囲気だけ感じていただければ。