佐為に導かれるまま、確かめるようにゆっくりと光の紐を追った。
一歩一歩踏みしめる足元には確かに地面のようなものがあって、儚げな印象とは違い硬く自重を支えてくれるのだが、一度でもそれを疑ったら緩々と崩れた闇に飲み込まれてしまいそうな恐怖がどうしても拭えなかった。
華のような光はオレたちが歩を進めれば誘導するように範囲を広げるのだが、ふと振り返ると今まで歩んできたはずの光の道はさほど遠くない距離でふっつりと途絶えてしまっている。背後にはただ闇だけがあって、確かに進んでいるのだという己の感覚が闇色に溶けるようにあやふやな物になってしまう。
本当は最初の場所から全く動いていないのではないだろうか。信じられるのは迷いを見せない佐為の手と己の爪先から細く繋がった紐だけで、その紐ですらどれだけ追ったところで弛む事も途切れることもなく延々と闇の先へ繋がっているのだった。
現世に帰る……希望へと進んでいるはずなのに、比例するように重くなる己の心と歩調から目を逸らしたくて、オレは佐為の背中に向かって語り掛けた。あの日から今日までに起きた事を全て。
最初こそ言葉を選び当たり障りのない話題を続けていたのだが、次第にそんな気遣いも忘れ長く彼を探し続けた日々を、その苦悩を、拗ねた声色で零してしまっていた。佐為が消えてしまってからのオレの苦い記憶を彼に吐き出すことで、少しでも心の距離を縮めたかったのかもしれない。
詰るような語調に気づかないはずもないだろうに、佐為は反論どころか相槌すら打たなかった。ただ時折肩越しに悲しげな笑みを浮かべるだけで、歩みを早めることも止めることもしなかった。気遣うようにオレに向けられた視線は、一瞬でまた先の見えぬ前方の闇に戻ってしまう。
怒らないまでも気を悪くするのではないかと、そう思っていたオレは佐為の態度に聊か拍子抜けして……理不尽とは知りながら苛つく気持ちが湧き上がるのを抑えられなかった。
「オレの話、ツマンナイ?」
子供じみたオレの口調に、慌てた様子で佐為が振り返る。困ったように眉根を寄せ、今にも溜息を吐きそうな唇を僅かに歪めたまま頭を振った。
「そんなことはありませんよ、ヒカル」
「けどさっきからずっと黙ったまんまじゃん!オレばっか喋って……久しぶりに逢ったのに!」
語尾を強めると、佐為は眉間の皺を深くした。逡巡を表すかのように長い睫が小刻みに瞬きを繰り返す。
「あなたの話がつまらない訳ではありません。……そうではなくて、知っているのですよ」
「どういうこと?」
怪訝そうに佐為の瞳を覗き込めば、彼は逃げるように視線を前方に戻した。言葉の続きを待つオレが焦れる前に、黙ったまま数歩進んだところで諦めたように口を開く。
「私はずっとあなたを見ていましたから。あなたの傍らから消えたあとも、ここからずっと。……だから、あなたの身に何が起こったのか私は全て知っているのです」
思わず足を止めたのは、思いもよらぬ佐為の言葉に驚きと苛立ちを覚えたから。だが、当て所も無く闇の中を進み続けたことで、不安がつのっていたのも理由の一つだろう。
佐為は突然動かなくなったオレに驚くこともなく、繋いだ手が離れぬように踏み出しかけていた踵を引いて、ゆっくりと振り返った。
「……嘘だ」
「嘘ではありません」
静かな声は偽りを含んでいるようには聞こえない。けれど佐為のその言葉を認めてしまえば、込み上げる怒りを抑えきれなくなる。
「だったら!オレがお前を探していたのも見てたんだよな!?オレが泣きながら……っ!!」
「……見ていましたよ」
オレが語尾を怒気で震わせても、佐為は冷静なままだった。その簡潔な言葉がどれだけオレの心を抉るのか彼は分かっていない。
「見ていても、それでも応えてくれなかったのかよ!」
「応えていましたよヒカル。私は此処から何度もあなたに語りかけていた。……けれど、届かなかった。私の声はあなたに届かなかったのです」
「じゃあ何でさっきは聞こえたんだよっ!!」
佐為の言葉を信じたい。けれど今まで届かなかった声が、あの瞬間だけ聞こえたなんてそんな都合の良い話があるだろうか。
涙を必死に堪えた為か、吐き出した言葉は殆ど叫び声に近かった。それでも佐為から目を逸らしはしない。負けたのは彼のほうで、睫の奥に暗く光る瞳が、所在無げに自身の足元に落とされた。
「……あの時……彼方と此方の距離が近付いたのです。何故なのかは私にも分かりませんが……」
一度言葉を切ってから、佐為は緩やかに顔を上げる。白皙のかんばせは更に血の気を無くして磁器でできた人形のようだ。戦慄く唇はそれでも明瞭に彼の罪を告げる。
「だから魔が差しました」
「魔が差したって何だよ!」
罪を口にしたことで枷が外れたのか、佐為は滑らかに言葉を紡ぐ。
「私はあの時何故かとても厭な予感がしたのです。だから必死であなたに呼び掛けた。……けれど結果は此の通り。あなたを止めることはできず、みすみすこの場所へ連れて来てしまった」
「あれはオレがオマエの忠告を聞かなかったからで……」
オマエのせいじゃない、そう続けようとして佐為の瞳を見据えたオレは、その奥に滲む暗く濁った色に驚いて言葉を飲み込んだ。佐為に纏いつく空気にすら仄暗い闇が混じり始めたような気がする。
「……あの時、本当にあなたを助けたくて声をかけたのか……私は正直自信が無いのです」
「え?」
「あなたを此方へ呼んだのかも知れません」
細められた佐為の瞳を目にした時、オレは彼が贖罪の痛みを堪えているのだと思った。だがすぐにそれが間違いだと気付く。佐為は、嗤っているのだ。
彼がそんな貌をするとは信じたくなくて、繋いだままの手を強く握り締めた。けれど、彼は握り返してはくれない。
「バ、バカ言うなよ! なんでオマエがそんな事……」
「あなたに逢いたかったから……魔が差しました。本当は今だって現世へ導くふりをして、あなたをさらに闇へと引き摺り込もうとしているのかも知れません」
「佐為……」
重なった掌が一気に冷えた気がした。まるでヒトではないモノに触れているような錯覚に囚われ、一瞬だけ絡めた指先を緩めてしまいそうになって……すぐに思い直す。佐為は佐為だ。ずっとずっと逢いたかった大切な人。それなのに折角掴んだ手を放す事はできなかった。
「私が怖くなりましたか?」
「馬鹿にすんな!怖くなんかない!」
佐為は繋いだ手に視線を落とす。今にもオレがその手を放すのではないかと窺うように。「何故?私はあなたを貶める鬼かもしれないのですよ?」
「違う!!オマエは佐為だ!」
「何故そう言い切れるのです!私自身あまりに長い時間を生きて魂が擦り切れてしまいそうなのに!」
佐為の肩が震える。悲痛な叫びは昂る情動に掠れていた。
「佐為……」
「……時折、私は自分が判らなくなる。このまま闇に溶けて、己ではない何かに変わってしまうような気がするのです」
弱々しく呟かれた佐為の言葉に愕然とする。そうだ、それはオレがさっきから感じていた憂慮と同じものだ。彼だってこの場所に居て心許無さを感じない筈が無いのに。
オレは、少しだけ大きい佐為の手を包み込むように繋がりを深めた。
「……じゃあ、こんな所に居ちゃ駄目だ」
佐為は暫く黙ったまま俯いていた。表情が窺えない事に焦れながら、それでも返答を待っていると、深い溜め息と共に佐為の唇から拒絶の言葉が零れ落ちる。
「いいえ。私は転生を望んでいません」
「佐為!?」
「私の望みはあなたに託した。私はただ此方であなたを見守っていられればそれで良い」 自棄な調子で吐き出された言葉がオレには理解できない。佐為はこんな風に自らを諦めてしまうような男ではなかった筈なのに。碁が絡むのなら尚更だ。それなのに何故。
ふと、思い当たった可能性は、もともと覚束無かったオレの足元を崩壊させるほどの衝撃だった。
「……オレの、せいなのか?オレが望むから、佐為は何処にも行けなくて……此方に……こんな場所に縛られているのか?」
「……」
佐為は口を噤んだ。沈黙はオレの言葉を肯定しているのと同じだ。美しい眉宇が悲しげに歪んでいる。
ひたすらに佐為を求めた結果が、こんなに彼を苦しめていたなんて。けれど、どれほど強欲だとしてもオレは彼の手を放す事など出来はしないのだ。ならば選択肢など無い。
「だったらオレもここに居る!生き返らなくてもいい!佐為とずっと一緒に……っ!!」
オレの言葉に、佐為は狼狽えた様子で顔を上げた。驚愕に見開かれた瞳は、涙を湛えて光っている。唇を歪ませているのは、怒りかそれとも暗い悦びなのか、オレには分からなかった。
「ヒカル。お願いです。莫迦な事を言わないで」
「馬鹿はお前も同じだろ?」
佐為はオレの手を振り払った。咄嗟に繋ぎ直そうとしたオレの指をすり抜けて、衝動のままオレの両肩を掴む。懇願するように力を込められて、オレの顔が苦痛に歪んだ。
「ヒカル!!私はあなたに私のすべてを、私の一手を託したのです!逃れる事は許されません!」
「逃げてねぇよ!オレはオマエを選んでるんだ!オレは……オマエが……っ!!」
片手で素早く唇を塞がれてオレの言葉が途切れる。振り払おうとしたオレを制するように、肩を掴んでいる手に力が篭った。
「ヒカル!どうかその先は口にしないで!!」
唇に触れた細い指先は小刻みに震えていた。可哀想なくらい動揺している冷たくて白いその手を、オレは強い意志を込めて払った。もっと強く抵抗されると思ったのに、乾いた音と共にあっけなく拘束は解かれる。
「嫌だ」
「やめて。やめてください。私を暴かないで」
「嫌だ。全部見せてくれよ、佐為」
開放されたオレの唇は、容赦なく佐為を追い詰めていく。佐為は所在無く浮いたままだった掌を再びオレの肩に置き、震えるのも構わず縋り付いてきた。
「ヒカル……お願いです……」
オレはなかなか本心を言わない佐為に焦れていた。
……いや、そうじゃない。彼の吐き出す言葉に違和感を感じているのだ。オレはもう、佐為の答えを知っている。その答えを……佐為の本当の心を、早く声にして欲しいだけだ。
「……そうだ。オレは全部知ってるんだ」
「……ヒカル……?」
「オマエと、ずっと一緒だったんだ。オマエの心とオレの心はずっとひとつだった。判らない筈ない。判らなかったのはオレがまだガキだったからだ」
「……」
「ゴメンな、佐為。オレはもう子供じゃないんだ」
そして、知ってしまったら告げずには居られないくらいに、この気持ちは深くて重い。けれど、言葉にすることで、佐為とオレを隔てている壁を壊すことが出来るはずだ。だから。
「オレはオマエが好きだよ、佐為」
オレの告白が耳に届いた途端、絶望に揺れる佐為の瞳の、その奥に一筋閃いた歓喜の色をオレは見逃さない。確信はオレを高揚させる。
「……嗚呼……」
「オマエも、オレが好きだよな?」
「……どうして……どうして暴いてしまうのですか」
肩を掴んでいた佐為の指先から力が抜けていく。張り詰めていた何かがオレの言葉でぷつりと途切れ、緩み、そしてそれまでとは違うものに変容しようとしている。オレはこの変化を望んでいたのだ。おそらくは、佐為も。
「想いを通わせてしまったら、私は、あなたを離してあげられなくなる」
情動を抑える為の抗いの言葉は、オレにとっては告白でしかない。
「いいよ」
あっさりと受け入れたオレに、ついに耐えられなくなったのか佐為は両手で自分の顔を覆った。表情を隠す指の隙間からくぐもった声が漏れる。
「あなたには未来がある。私にそれを奪わせないで」
諦めの悪い言い訳じみた懇願を聞いてやるつもりはなかった。やっとここまで彼に近づくことが出来たのだ。もう遠慮はしない。
オレは佐為自身の表情を隠すその手を、そっと掴んで引き剥がそうとした。佐為の肩が大きく震え、抵抗するように体ごと逸らされる。けれどオレはそれを許さない。
「触ってよ、佐為」
爪先立ちに唇を寄せ、佐為の耳元に囁きかける。オレの言葉が届いているのは紅を差した耳朶で一目瞭然なのに、佐為は頑なに顔を晒そうとはしなかった。
差し伸べた手を佐為の手に重ね、指を絡めるように一本一本引き剥がしていく。佐為が幾重にも纏う躊躇いを剥ぎ取って、その奥にある本当の心が見たかった。
「ヒカル……止めて下さい」
指の間から覗く、濡れた切れ長の瞳が複雑な色を湛えて揺れる。その瞳にしっかりと視線を合わせれば、僅かに佐為の抵抗が緩んだ。オレは好機とばかりに佐為を捕らえていた枷を取り除き、白皙の美貌を曝け出す。
「オレに触れてよ、佐為」
オレは引き剥がした佐為の掌を自分に近づけて、そうしてそっと頬に押し当てた。佐為と視線を合わせながら、猫が甘えるように摺り寄せてみる。
「……っ!」
誰かとこんな駆け引きをしたこともないオレの、精一杯媚を含んだ視線が彼にどれほどの効果をもたらしたのかは分からない。けれどこの拙い挑発は、これまでの二人の関係を変える切っ掛けにはなった筈だ。
佐為は濡れた瞳を切なく揺らし、何度も何か言葉を紡ごうと口を開いては閉じてを繰り返して……やがて諦めたように口端を引き上げた。艶を含んだ笑みは初めて見るもので、ゆらりと立ち上った彼の色気に呼応するようにオレの心が跳ねる。
佐為の瞳がオレを見据えた。それだけで体の奥に焔が灯り、じわじわと広がっていくのを感じる。
「碁の神に魅せられ、人の身を捨ててなお現に留まり、果ては鬼となりて哀れな子供を喰らうか……。私は何処まで堕ちれば良いのでしょう……」
己を卑下し嘲る言葉に反論しようとして……出来なかった。見慣れぬ艶めいた佐為の姿に、情けなくも圧倒されてしまったからだ。ぶわりと背筋を駆け上ったものが、恐れなのか愉悦なのかそれすらも判らない。
それでも辛うじて視線だけは逸らさずにいられた。逸らしてしまったら佐為が逃げてしまう予感がしたのだ。
「……佐為が鬼になるなら、オレもなってやるよ。黙って喰われてやる気はないからな」
欲を隠さない佐為の指先が、今度はしっかりとした意志を持って俺に触れてくる。経験のない自分が大人の彼に呑まれそうになるのを、精一杯の強がりで必死に食い止めようとした。……あまり成功したとは思えないが。
佐為の細い指はまずオレの頬に触れ、耳朶を掠めてラインを確かめるように滑り、顎に辿り着くとそのまま上向かせる為に持ち上げてきた。同時に上体を傾げて覗き込まれれば、触れてしまいそうなほど近くなった彼のかんばせに息を呑む。
動揺していると悟られたくなくて挑戦的に睨み据えてやったのに、佐為は余裕の笑みで受け止めるだけだ。
「ふふ……。何処までその威勢が続くか見せてもらいましょうか……」
「望むところだ」
負けたくなくて平静を装ったというのに、語尾は弱々しく震えて跳ね上がってしまう。誤魔化そうと次いだ言葉は、重ねられた佐為の唇に吸い取られ、音に成らないまま消えていった。
互いに疲弊し傷ついたことで、皮肉にも漸く近づけた二人。