(……腹が、焼ける)
せめて飲もうと、水煙にけぶる川面をのぞきこんだが、目に入るのはしょぼくれた狼の影がひとつ。
「……くそっ!」
流れに顔をつっこみ、虚像に喰らいつき飲み下すが、腹が満たされるはずもなく。むしろ、抗議めいて派手に鳴った。
「……くそ」
濡れた顔を振るでもなく、砂利に力なく伏せる。どうせ全身、霧でじっとり湿って重い。
深い霧が連日立ち込める天候は、初秋のこの時期にしては珍しく、そのためか狼の狩りは最近失敗続きだった。ここしばらくひとかけらの肉も口にできておらず、そろそろやせ我慢も限界というところ。それでも生きるためには、立ち上がって獲物を探し続けるしかない。分かっていながら、しかし彼は今動き出せずにいる。
(ここまでかも、しれんな……)
力なく土につけた喉から諦めの言葉がこぼれそうになった、その時。
「!」
ぴん、と狼の黒耳が勝手に立った。そのまま小刻みに動かし、音で認識する空間を広げていく。
まばらな雑草が風に揺れる乾いた音。
途切れぬ渓流の水音が、一番強く空間を支配している。
それを縫って、川原に転がる大岩に反響した小鳥の声が、高くに低くに響いている。
――そこからさらに、ノイズを探る。
(……!)
狼は跳ね起きた。
間違いない、四肢で水面を割り、川底の砂利を踏みつけた音。それも、おそらく――
(大物……か)
とても、久しぶりに感じる気配だった。
(――見るだけ、見てみるか)
のっそりと身を起こし、柔らかな足裏で地面をつかまえる。そのまま、黒い背が岩や潅木の間を音もなく、滑らかに進んでいった。
そろそろ山際に日が落ちる頃合だろうか。霧は淡く黄色がかって、次第に薄闇を含んでいく。
そのぼやけた暗がりの中、狼の視線の先に小さく浮かんだ影は、立派な枝角の雄鹿だった。戦うとすれば、強敵だ。うかつに正面からかかれば角の餌食だし、かといって背後に回れば後脚蹴りが強力で、返り討ちもありえる。体格とスタミナに秀でた相手だ、そうそう簡単に捕食者の手に落ちてはくれないだろう。「群れ」でかかれば話は違うが。
と、頭の中で、これまで培ってきた獲物の情報を並べて、狼は苦く笑った。
(今更なことを)
霧を抜け、大鹿の姿が徐々にあらわになりつつある。どうやら渡河中らしい、狼の潜む岸へと近づいて来ていた。
が、後ろ脚が踏ん張りきれず水に落ちた。ばしゃりと水音が鳴り、筋張った首が揺れる。傷の目立つ白茶けた枝角からも齢が見て取れる。
(…年寄りか。どうする…?)
先ほどはひどく捨て鉢になっていたというのに。獲物を前にすれば欲が沸いてきて、現金なものだと狼は自嘲する。
と、ふと不思議に思った。この老いた獲物は、なぜ、足元のなだらかな下流を渡らなかったのだろう?その方が楽そうなものだが。
(わけがある、のか?)
今いる場所は、川の上流にあたる。流れの幅は狭く、巨大な岩がごろごろしているが、逆に言えば川面を割る飛び石の上を進めば、水に一度も触れずに進める。
(つまり…脚が濡れるのを嫌っている?)
そこに問題があるなら、蹴りの威力も落ちているかもしれないと、狼の気持ちの天秤が攻撃に傾く。
(…いちかばちか、やってみるか)
「生きるためだけにこなす狩り」の日々に、忘れていた血が、静かにたぎり出すのを感じながら、風下から岩の陰を縫って慎重に近づく。
狙うのは、川岸に沿って防衛線を張り、渡りきろうとする相手を水に押し戻す作戦だ。
その時、ふと、甘い香りが狼の鼻腔をくすぐった。なんだ、と疑問を感じるいとまもなく。
高らかに水音がした。しぶきが顔まで飛んでくる、
(!?)
腹の底まで響くような蹄の音が鳴り、
「なにっ」
突っ込んでくる巨体に、とっさにあおられるように飛ぶ。
「グッ!?」
腹部に鈍く痛みの線。かすめていったのは、
(角!)
せせらぎを割って、狼は強引に着水する。
大鹿が鋭い切っ先を振り抜いた軌道を振り返り、狼は今更のように冷や汗をかく。先ほどまでのぎこちない動きからは想像もできない暴れようだった。
「と、待てっ!」
狼が躊躇しているうちに、水しぶきを蹴立てて獲物が遠ざかる。川下の浅瀬に突っ込み、今にも岸によじ登りそうだ。
(今、上がられたら逃げられるっ)
焦りつつも狼の体は滑らかに飛ぶ。水面を蹴りつけ、ひときわ大きな岩の頂点でさらに跳躍し、大鹿が今にも前脚をかけようとした岸に、
「行かせるかあっ!」
風を切って着地し鹿の鼻先に吼えかかった。
「……っ!」
さしもの相手も身を引き、脚で水を掻いて下がる。
「くくくっ、貴様をこのまま水から上がらせなければ、どうなるかな?」
黒狼は低く笑って、傲慢に獲物を見下ろした。
結果的だが狩りにはよい位置取りになった、岸の高さは飛び掛るにせよ、上陸を防ぐにせよ有利だ。あとはこのまま追い詰めていけば勝てる、と狼は考えた、が。
「ほう、見抜いたか。……だが、まだ青いの!」
しわがれた、だがいっそ恐ろしいほどに明るく道化た声がしたと同時に、唐突にぶんと振られた枝角が、川面をえぐりとるのを視界に納めたと思うやいなや、
「ぐわっ!?」
砂まじりの波頭が狼に襲い掛かった。細かい砂利が鼻面にぶつかって地味に痛く、とっさに目をつぶるしかない。
その隙をついて、
「うわあっ!?」
再度襲った大角は下方からすくい上げるようにして、捕食者を水上に軽々と投げ飛ばした。
結果狼は派手に音を立てて流れの深みに叩き込まれ、一瞬の忘我からどうにか立ち直り、水をかき浮上する。
「ぶはっ、き、貴様っ!?」
どうにか息をついた瞬間、
「とどめもささず勝ち誇るからよ、若造めが」
軽々しい調子の揶揄とともに蹄が連続して落ちてくる。まともに踏みつけられたらひとたまりもない「重さ」を伴った攻撃だった。狼は息継ぎも怪しい勢いで、水に顔を突っ込みながら身をくねらせ、ただかわし続けることしかできない。
「ぐぼっ、おのれっ」
「ほれほれ、わめく暇があるならどうにかしてみい!」
「くそおおおっ」
そのまましばし、猛り狂う獣二匹は川面をめちゃくちゃに荒らしまわった。
「はぁっ、はぁっ……!」
狼がほうほうの体で浅瀬に逃れたころには、全身ずぶ濡れになっていた。
毛を立たせ、体を震わせて水気を切るが、だいぶスタミナを消費してしまった。後いくらも保ちそうにない、と忌々しい気分になる。息を切らして、浅瀬に立つ憎たらしい獲物をにらみつけた、目線がかち合う。そして気づいた。
鹿の瞳が、両目とも白く濁っているのを。
(見えていない!?なのに、どうしてっ)
ここまでの攻撃を行えたのか。混乱する狼の、
「――行かせんよ」
思考をさえぎる、声がした。
「おまえには、行かせんよ。この先には――」
被捕食者のはずの相手が、ふいに、にたりと笑った。草ばかり食んできたはずの口元が上がる。捕食者のお株を奪うような、獰猛な笑い。
ガッ、と鹿の前脚が水を掻いた。続けて、二度。三度。しぶきが高らかに舞い、狼の顔に肩にふりかかる。
「……!」
(音か!)
老鹿は自らを追い詰める水を、逆に利用して狼の動きを探っていたのだ。そして、理解する。余裕などではない。この相手は全力で、文字通り「死を賭して」戦っているのだ、と。活動の限界制限がみるみる近づいてくる中、最後まで立っていられるのは果たしてどちらなのか。
「――やる気か。おもしろい…!」
自然と、狼も笑みをこぼしていた。ここまで血が燃えたぎったのは久しぶりだった。
ここで完全に日か落ちたのか、視界がみるみる暗く沈んでいく。その中に、濁った目光がぎらぎらと燃えている。陽の恩恵を失い、水気を排除しきれなかった体表がみるみる冷えていく。猶予はあとほんの少しだろう。だがそれは相手も同じことだ。
「――どちらの命が先に、進めるか。試してやろうではないか!」
変わりゆく世界に叩きつけるように叫んで、狼は走り出した。冷たい流れに突っ込み、かまわずぶち破り、駆ける。対して低く構えた大枝角の切っ先が、通すまいと腕を広げるかのように迎えうつ。
「来い、若造ッ!」
「うおおおおっ!」
ひときわ高く水柱が上がった。
狼はゆったりとした足取りで、川岸をさかのぼっていた。ふくれた腹が重い。つられるように気分も満ち足りていた。調子のよさに改めて自嘲しつつも、いい戦いだった、と思う。互いに乾坤一擲、命をかけたヒリヒリするような戦いだった。ひとつ間違えば首をひと突きにされたのは狼のほうだったろう。
冷えた水により奪われた体温も危機的な状況で、ついに血肉を貪ったとき、体には確かな熱と歓喜が満ち、勝手に涙があふれそうになったものだ。
ため息が出る。
(そうそう簡単に捨てられるものではない、か)
十分すぎる糧によりみなぎった四肢は滑らかに動き、自動的に行くべき場所へと自我を運んでいく。
いつの間にか、最初に老鹿と遭遇した岩場を通りがかっていた。
山のふもと、渓流が断崖にはさまれた深い谷底へと様相を変える場所の手前に、霧に包まれてそびえる、ひときわ高い岩山が目に入った。
日課の遠吠えをしている場所だ。
(そうえば今日はまだだったな……)
空を見上げるが、霧に隠されて星は見つけられない。月のありかがぼんやりと分かるだけだ。
それでも今は、かすんだ世界に一声吼えてやりたい気分だった。
山すそまで近づき、さて、登るかと思ったそのとき。
(ん?)
石の崩れる音がしたかと思ったら、
「――あッ!?」
短い悲鳴と共に何かが落ちてきた。それも狼のちょうど頭上だ。
「どわぁっ!?」
ととっさに飛びのき難を逃れる。
落下物は狼の鼻先で地面に叩きつけられ、「きゃうっ」と、小さく声を上げた。そのまま、動かなくなる。
恐る恐る近寄ってみると、それは、もふもふとした毛玉だった。よくよく見れば、落下中に受けた印象より小さい。
(なんだ、こりゃ?)
とりあえず動きがなさそうなので、鼻先を近づけて嗅いでみる。日にあたった枯れ草のような、のんきな匂いがした。それと、
(……?)
なんだか懐かしい感じのする甘い匂いがまざっている。
(何だったろうか、これは?)
狼は首をひねる。しきりに嗅いでみるが、匂いが弱すぎてよくわからない。鼻すじに乗せるようにして毛玉を転がしてみる。力なく横たわった体躯。ぴん、と耳が長い。
「……兎か?」
久しぶりに見た。匂いも忘れかける程だ。
(死んだか?)
あまりに動かないので、少し強く鼻先でつついてみると、ゆるやかに腹が上下しているのがわかった。あらわになったそこはふかふかの毛に覆われて、柔らかそうだ。
それにしても、狼の前に落ちてきたあげく気絶するとは。
(どういうトロさなんだこいつは。よくも今まで生きてこれたものだな?)
狼はその場に腰を下ろし、あきれ顔で首をひねる。
兎の内情はよく知らないが、もしかするとこの個体は巣立ったばかりなのかもしれない、
よく見ると手足や耳の先がまだ丸っこかった。幼い獲物の動きが甘いのはままあることで、肉食獣たちは真っ先にそれを狙う、当然の理だった。
それにしても、「食べてください」と言わんばかりだ、この状況は。さっきまでの空腹極まりない狼であれば、天の恵みとばかりにヨダレをたらして食いついていただろう。だが今は限界まで食いためた直後だ。さすがに無理に飲み込めば気分が悪くなりそうだ。それでも、このまま捨て置くのも惜しい気がする。放っておけば他の捕食動物の餌食になるだけだろう。
(さて、どうしたものか?)
気づけば、周囲を覆っていた霧は北に流れてゆき、天候は回復に向かいそうだった。が、また何がしかの理由によって、狩がうまくいかず困窮することも容易に起こりえると、狼は考える。
(独り、だからな……)
考えた末に、やはり「もったいない」思いを捨てきることができなかった。
どこを持つかしばらく迷って、結局首の後ろをくわえて運ぶことにした。ねぐらへと進むたび、ぷらぷらと兎の体がゆれる。
(まあ、いい土産か)
満腹と気分のよさもあいまって、その時は、そう思ったのだった。
川を離れ、西に進むと丈の高い草に覆われた原があり、その先にはささやかな森が見えてくる。南北に連なる山裾にはりつくようにして存在する、便宜的に長森と呼ばれる場所だ。
黒狼のねぐらはその西はじ、森の中に露出した岩壁に、自然とひび割れができた場所だった。入り口は狭く、茂った草に隠されて一見どこがそれであるか分からないが、内部は程よく広く、中で方向転換をしても頭をぶつけないくらいには横幅がある。さらに、雨風の吹き込みをかわしてまだ余裕がある程度に奥行きがあった。
のっそりと黒い体をねぐらに滑り込ませた狼は、一番奥のいつも寝床にしている乾いた土に、兎を下ろした。野生動物にあるまじきことだが、それはいまだ目覚める気配がなかった。くったりと四肢を投げ出し、力なく横たわる姿に、男はふと我に帰る。
で、自分は今日どこで寝ればよいのだろう? ここで、この子供を傍らに?
「む…?」
何だかおかしなことになっている、と首をひねるが、とりあえず土の上に腰を下ろし、兎を見下ろした。
川向こうで兎を捕らえた経験自体はあるものの、大抵すぐに引き裂いて食べきってしまったため、こんなにまじまじと生きた兎を観察するのは初めてだ。
行儀よく手足をそろえて前に出し、白いふわふわの胸にうめるようにあごを引いて眠る姿が頑是無さを感じさせる。毛の色は赤みがかった茶で、耳の先端、短い尻尾、鼻や目のまわりは色が薄い。腹側はまっ白だ。長い耳の中は血管が透けているのか薄桃色で、なんとも傷つきやすそうに見えた。よく見ると鼻先はひくひくと動き続けていて、口元の細長い毛も連動して細かく揺れる。
どのくらい見つめていたのか。気づけば狼は体勢が崩れ身を乗り出していて、鼻先が触れそうに近づいていた。
と、ふと。兎が薄目を開いた。耳が小刻みに震える。もぞりと、身じろぎ。
「……ん……ぅ……?」
高くかすれ、寝ぼけたような声だった。
「――気がついたか」
「ヒイッ!?」
しまった、狼は内心舌打ちした。つぶやきが声になってしまったのは完全に無意識だった。
子供ははじかれたように飛び起きて、即後ろに下がったが、壁に背をぶつけて余計にパニックに陥ったようだ。緑の目が飛び出しそうに見開き、全身の毛が逆立ってふくれている。
(……まあ、いきなり天敵を目の前にしたら、そうなるだろうな)
こうまで激しく動揺した相手に対すると、かえって冷静になるものだ。狼は気を取り直して、ことさらふんぞり返って、せせら笑ってみせた。
「あ、あわ、わわ…!」
兎の全身に、震えが走る。後ろ脚のつま先から、尻、背、首、耳の先へと、毛の逆立ちが作る波が通りすぎるのがはっきり見えた。そして、
「――っ!」
子供はただやみくもに前へと駆け出し、
(おいおい)
狼は呆れた。いくら恐慌状態とはいえ、せめて走る軌道は横に逸らせよ、と思う。でないと、
「逃げられんぞ?」
「っ!?」
すぐ横をかすめようとした背を、前脚だけでタイミングよく踏みつけてやれば、簡単に足止めできる。
「ふぎゅっ!?」
腹を地面で打ちつけたらしく間抜けな悲鳴が上がった。何が起きたのかわからない、とでも言いたげな声だった。
狼はさらに呆れた。
(いちいち起きたことに反応してどうする?)
すると、一拍おいて、子供はようやく次の動きに出た。どうやら、ジタバタと脚を動かして、押さえつけるものを跳ね除けようと試みている、らしいが。
(やれやれ、今度は行動が遅すぎる)
と、狼は肩をすくめた後。顎をしっかりと兎の背に乗せ、より強くのしかかった。
「ピィッ」
「なんだその声は?」
苦笑をもらしつつ、空いた前脚で兎の前後をふさいで固定する。獲物はもはや檻の中だ。
「……っ、ヤっ、はなし…っ」
「ほう、そう言われて離すとでも?」
身をよじらせてもがく子供を軽くいなしていると、
「なんでっ、こんな…!」
細い泣き声が顎の下から聞こえてきて、狼はニヤニヤ笑いが止まらなかった。彼我には力と動きの差がありすぎた。それが滑稽で、哀れで。なぜか、ゾクゾクと捕食者の魂を揺らす。その衝動に駆られたまま、獣は体の下に捕らえた子供に低くささやく。
「ただ殺すのもつまらんと思ってな。もう少し、あがいてみせろ」
「そんな……っ」
兎の声が苦しげにくぐもる。あえいだのか、大きく背が上下した。
よもや、呼吸を阻害するほど強く力をかけすぎたか? と狼は思い、顎をゆるめる。と、即またもバタバタとした動きで兎が走り出そうとするから、
「ふん、この程度か?」
と、前脚で簡単にあしらい、ねぐらの奥へと突き飛ばす。相手は軽く吹っ飛んで壁にぶつかり、ぐぅとうめき声をあげた。そして、よたつきながら起き上がろうとするところに、狼は即座に詰め寄り、逃げ場をふさいでにやつきながら観察する。
意地の悪いことをしている自覚はあった。悪趣味だとも。だが、
「……あ……、うぅ……っ」
柔らかな体の子供が、絶望に打ちひしがれ、諦めの表情で見上げてくるさまを、ずっと見ていたいと、なぜだか思う。
男は焦げ付くような視線で兎の全身をなぶり、思わせぶりに舌なめずりをする。
「粘りが足らんな、つまらん。この程度で楽になれるなどとは思わぬことだな…」
「ひ、…っ」
「もう少し、付き合ってもらおうか……!」
「嫌ぁっ」
狼はおもむろに、追い詰められた獲物の片耳にむしゃぶりつき、しなやかなそれを食んだ。
(牙は立てない、まだだ)
しかし、天敵の少しの加減次第で、簡単に傷つけられそうなのが分かったのか、目線の下の、赤茶の手足から力が抜ける。耳にひきずられるように中腰になった子供から、しゃくりあげる声が出た。
「……ひっ、うううぅ……!」
細かな震えが、耳を介して狼にも伝わる。もう少しからかってやろうか、と力をこめた、そのとき。
「――!?」
あの『甘い匂い』が狼の鼻をかすめた。一瞬、蘇る光景、それは、
――西日の中、羽虫がきらめき舞うのを赤茶の耳がぴんぴんと払う。くすくす笑う女の声、
『だって好きなんだもの』
実の赤を、映す緑の目は、まるで子供のように稚気めいていて――
男は火傷をしたように子供から飛び離れた。ようやく解放されて、力なくへたりこむ兎に対し、だが狼はじりじりと後ずさり、ついにはくるりと背を向ける。そのまま空洞の外へ出て行く様子に、とっさに身じろぐ子供だったが、
「動くな」
低く恫喝されて硬直する。
「ここから一歩でも出てみろ。命はないと思え」
捕食者の黄金の瞳に鋭くにらみつけられれば、弱い立場の者は凍りつくしかなかった。
狼がねぐらを一歩外に出れば、すっかり夜も更けて虫の声がさかんに響いていた。木立の影から覗く月は、まだ霧の衣に包まれたまま、ぼんやりと暗い。その下を、狼は落ち着くまで何とはなしに歩いた。そのまま草原に出る。ふと、南風に揺れる草を見て思いついたことがあった。
(持って行ったら食うだろうか、アレは)
口にくわえて茶色に乾燥した草を引く。ブチブチと千切れた分を適当に引きずった。
――自分を追い詰め、捕らえている者に「餌」を与えられたら、あの子供はどんな顔をするだろうか?
(顔を屈辱に歪ませるか、はねつけるか、それとも――)
そう考えると愉快さが蘇ってきて、彼は歩きながらくつくつと笑った。
(しばらく退屈せずにすみそうだ)
と、そう考えながら。