「さあ」
緋色の西日を受けて、黒々とした毛が艶光る。名も知らぬ草の茂みを前にして、狼はなぜか得意げに胸を張り、荒く鼻息をついた。意気揚々と尾は振られ、黄金の虹彩はぎらりと異様な興奮を帯びていた。その目前には、無慈悲な支配者におびえつつ逃げられぬ、哀れなる犠牲の子兎が一匹。
「食え!」
「……」
「さっさとしろ!殺されたいか!?」
「……、わかったよ……」
疲れたように肩を落とす子供が、少し気に食わなかったが、自分の言葉に従って大人しく頭を下げ、茂みの葉を食み出した姿を見て、狼はうむ、とひとりうなずいた。
今のところ、何もかも順調だとほくそ笑む。
夜半、ふらりとねぐらに戻ってきた狼を兎はひどく怖がったが、
「食え」
と投げ出された枯れ草の束を、「意味が分かりません」とでも言いたげに二度見していたさまが、狼には大変愉快だった。ひとしきり、怯えいぶかしむ子供の様子を楽しみ、クククと意味深に邪悪な笑みを浮かべてやってから、おもむろに眠りにつき、子供がしきりに毛づくろいをする音を耳のはじで拾いつつ、心地よいまどろみの時間を過ごし。
ねぐらの入り口の光が昼のまばゆい白から、夕方のやわらかな橙に染まるころ、狼は身を起こした。そして前日まではなかった兎の姿を見、にやりとする。見られた兎はすくみ上がる。奇妙な関係の成立だった。
狼は熱心に、じっと監視の目を注ぐ。食事のためとはいえ、一応、さらって来てからはじめて外に出したわけで、逃げられてはことだと狼は思う。
(何が逃走のきっかけになるかわからないからな!)
うんうんと何度もうなずく狼を、草の上に伏せ、もそもそと顎を動かし続ける子供が、時折ちらちらと横目で見る。
「む、なんだ」
「……あの、いえ……」
(そういえばいつまで食ってるんだこいつは)
狼としてはずいぶん思考にふけっていたつもりだったのだが、その間ずっと、兎の口は動き続けていたようだ。
「おい……お前、いつまで食ってるつもりだ」
「……」
もぐもぐと葉を噛むのをやめない子供の目線が、急に白けた気がする。
「……なんだ? 言いたいことがあるならハッキリ言え! さもないと……!」
「わかった言いますっ」
わかればよいのだ、とふんぞりかえると、ますます疲れたため息が聞こえて、狼はむっとする。
「ぼくらは、起きてる間はずーっと、食べてないといけないんだよ…」
「なにぃ!?」
予想外の答えに目をむく狼に向かって、兎の子供は、
「でないと、死んじゃうから」
と何でもないことのように付け加えた。
「なんだそれは、大げさな…」
「ほんとだよ。昨日のぶんじゃ全然足らなかったから、今食べておかないと。だから食べてもいい?」
「お、おお…」
なんだか気圧されてしまい、狼の返事は尻すぼみになる。黒い耳がへなりと倒れた。
言われてみれば、最初に突きつけた茂みは兎によりとっくに短く刈り込まれていた。次々に食べ進む表情はいやに真剣で、
(我々狼の狩りのようなものか。こいつらも楽ではないのだな…)
と、狼は草食動物たちの置かれた境遇を、生まれてはじめて身近に思った。
(しかしこれでは、「餌」を集めるのも大変だな…)
今はまだ、昨日食いためた分が効いていて、あと数日は腹が保ちそうだった。だが狩りと草集めを両立させようとしたら活動時間内ではなかなか厳しいことになりそうで、
(さて、どうする?)
と狼はそこまで無意識に考えて。
はっと我に返った。
(な、んだ。いまの思考は……)
まるで「これ」をずっと生かしておくのが大前提のような。
というか、目の前で無防備に草を食みつづける子供に食欲が……沸かない。狩ろうとする気が、起こらない。目の前で気絶していた時に感じた「うまそうだ」という気持ちが、麻痺したように起こらない、ということに気づき、狼は一気に我を失った。
(いやいや、そんなはずは! ま、まずい、なんだか知らんが猛烈にいやな予感が)
警戒していたはずの底なし沼に思い切り片脚を突っ込んだような、じわじわと飲み込まれていくような、危機の、予感。
(で、では、こんな馬鹿なことはもうやめて、さっさと食ってしまおう!今は腹に空きがないわけじゃない、気分が悪くなったりしないだろう多分きっと!)
即決即断、迷う暇を自分に与えたら逃げようがなくなる気がして、狼は先ほどまでの思考を一旦全て棚上げした。狼の心境の変化を露知らず、先ほどと何も変わらずもぐもぐと平和に食べている子供に一瞬で迫り、
「んぎゃっ!?」
首根っこをくわえてねぐらに取って返し、一番奥の壁際へと、またしても追い込む。ゆうべの再現だ。
(ここからやり直す、今ならまだ軌道修正がきく、はずだ!)
「へ、あ、え? なんで、食べろって、言って、なのに、……ひっ」
事ここへ至っても、どうもこの兎は一拍反応が遅い。言葉尻にようやく、剣呑な雰囲気を読んで硬直する子供に、
「……気が変わった」
と狼は口を開き、ぎざぎざした犬歯と、ひときわ大きな牙を見せ付ける。それは肉を引き裂くための凶器だ。だらり、こぼれた涎が糸を引き、兎が顔色を失う。
「あ……、あ……」
絶望に染まった哀れな子供があとじさっても、冷たい岩壁に阻まれるだけだ。
(それもゆうべやったことだろうに)
しつこく残る情を断ち切るように突き倒し、白い腹をむきだしにした。獣にとってこの姿勢はありえない事態だ。殺されるときでもなければ。それは子供にもわかっているのだろう、あからさまに全身がひきつった。そのまま、ひっ、ひっと短い呼吸を繰り返す。そのたびに震える腹に、するどい牙を近づけ、一思いにつきたてよう、と、する。
(血が、あふれるだろう。若い肉は甘いだろう。数度痙攣はするだろうがすぐに動かなくなるだろう)
狼は顔を、しかめた。想像しただけでひどく重苦しい気分になってしまった。
(まずい……!)
そう思って、息を、深くつく。落ち着こうとしての無意識の行動だった。
「ひ、ぁっ」
腹の毛をくすぐる微風に反応した、小さな哀れな、かすれた泣き声。それに。
――狼の下肢が反応した。
(は? あ…? ええ?)
頭が真っ白だ、と狼は人ごとのように思った。なにやら深刻に悩んでたはずのことが全部脳内から吹っ飛んだ。
(なんだこれっ、へっ? ……は!? はああああっ!?)
かくかくと顎が上下する、もはや動揺しすぎて声にすらならない。
(なんだこれどう考えても今そういう状況じゃないだろう、そんなトチ狂うほど溜まってたか自分!? いやそりゃずっとひとりで暮らしてきて女っ気なんてあるはずもないし、さかのぼって過去にだって女を作ったことなんてなかったし、兄弟3匹で団子になりながら育ってきてそんな雰囲気なぞとても入る余地はなかったし、ていうか「これ」、今まで知らんかったけどどう見ても「雄」だし!!)
と、脳内で長い悲鳴を上げる。
ひっくり返したことであらわになった兎のそこは、殺されたに等しい状況で当然可哀想なほどに萎縮していた。
そして一番ありえないことに、
(種が違うだろうこいつはああああ! なにが悲しくて捕食対象に欲情せねばならんのだ、食いでのありそうな肉塊におったてる馬鹿がどこにいる!)
と、「あきらかになにかまちがっている」欲望を内心で罵倒し倒したが、どうにも狼の愚息はまったく反省した様子が無い。
内心で混乱の嵐が吹き荒れている間どれだけ硬直していたのか。ぐるぐる回る思考は、唐突に襲った衝撃により強制停止させられた。ギャイン! とか間抜けな悲鳴が出た気がする。
「っ!?」
狼は目を白黒させた。したたかに鼻っぱしらを蹴られた、らしい。何かもふっとした質感のものに。
「あっ」
しまったといわんばかりの子供の呻き。兎の薄茶の後脚が、高く上がったまま固まっていた。
――蹴られた!?
それも急所だ。しかも、しかも!
(上位の者が下位の者に「思い知らせる」ときに攻撃する場所だ、そこは!)
狼は思わずかっとなった。しかしおさまらない混乱がそこに混ざってよくわからない感情が爆発した、すなわち、
「――っ!この……っ! 舐めおってキサマ生意気などちらが上に乗るのか思い知らせてやるぞおおぉぉぉっ!」
「はぎゃあ!?」
自分が口走ったのが信じられない、どうしようもない台詞に、まったく色気のない悲鳴がかぶった。かしこまって存在してすみませんと土下座しそうなほどちぢこまっている兎のそこに、狼は鼻先をつっこみ、勢いでべろべろと舐め回す。
「ひいっ、あううっ!?」
兎の体が反って跳ねた。一瞬地面から浮き上がる勢いだ。後ろ足がぶるぶると痙攣し、ひきつって伸びる。と、やわらかなそこが、ねぶる舌に沿ってぴんと芯を持った。
(…!)
すかさずしゃぶりつき、無心に舐め回す。狼の舌と唾液の這い回る音が空洞に反響して、妙にいやらしく響いた。
「あっ!? な、っにっ!? やぁっ、はうううー…っ!!」
困惑と混乱を色濃く映しながら、明らかに性的なものがまざってくる少年の声に、どんどん男の興奮が高まっていく。さらに荒々しく責めたてて、上ずっていく悲鳴を心地よく聞いた。
「もっとだ、」
「やだっイヤあっ! うゃ、い、っうああっ」
「もっと声を出せ!」
「あぅ、んぁっ、やあああー!」
煽る言葉を柔らかい体にぶつけながら、熱く硬くはりつめてゆくそこを思い切り吸い上げる。再び、兎の体は宙に跳ね上がった。
「ひ、いいいいっ」
長く尾を引く悲鳴。どっと狼の口内にあふれた苦味。長く硬直した後ぴくぴくぴく、と痙攣して、そして脱力する小さな体。二匹分の上ずった呼吸が響き、空間で反響しからみあう。
――しばらくして、震える兎の体から、狼はようやく顔を起こした。ごくりと唾を飲んだつもりが苦いものも飲み下してしまい、顔をしかめる。見下ろした体は、解放されたにもかかわらず逃げるそぶりもなく震え続けている。
(余のものだ)
反射的にそう思った。
(これは、余のものだ…!!)
誇らしさと、えもいわれぬ充足感が湧き上がって、狼の心をかつてないほどに満たした。
「……、どうだ。思い知ったか……」
にやりと笑む。でも多分毒が足らない。ゆうべの刺々しさが足らない。どうしたらあの笑い方ができるのか、狼にはもう思い出せない。組み敷いた小さな体から、自分の唾液のにおいがすることの目がくらむような幸福感に浸り、男は深く息をついた。
まるで殺されたように硬直して呆然としていた子供は、その呼吸音を耳にして、解放されたことにようやく気づいたらしい。
「っ!」
慌てふためいてうつぶせに戻るが、脚に力が入らなかったかガクリと姿勢が崩れる。それでさらに焦ったらしく、後脚をつっぱって無理に走り出そうとし、派手に転んだ。脇腹が地面を擦る。
「おい」
兎のあまりの慌てように、狼はつい声をかけてしまう。とたんびゃっと毛を逆立て、体をねじり顔だけを天敵に向けて、動かない脚を引きずりつつにじり下がる子供。耳は天井を突きそうにまっすぐ上がり、見開かれた目は目許が裂けないか心配になるほどで、はじっこに白目が伺える。体は見て分かるぐらいがくがくと震えていた。これまで見た中で最大級の恐慌状態で、声も出ないらしい。
さすがに今これ以上刺激するのはまずそうだ、と判断して、狼は目線を切って出口に向かう。背後で明らかに気配が和らいだ、その瞬間を狙って、
「今日のところはこれで勘弁してやる。だが、もはやキサマは逃げられぬ、余の匂いをつけてやったからな。どこへ行こうとも無駄だ。わかったら、そこでおとなしくしていろ!」
横目で睨み、子供の絶望しきった表情に満足し。兎が猛然と毛づくろいをはじめた音を背で聞きながら、こぼれそうな悪い笑いをこらえ狼は外へと向かった。
脚が早まる。勝手に駆け出す。森の木立をつっきり、晴れた夜空の下、月のまばゆく照る原に飛び出て、そこでついにおさえていた叫びが狼の喉をついて出た。る、の音で始まる遠吠えが響く。普段は岩山で座ってすることで、全力疾走しながらすることではなかった。息が切れる。だがそれさえもどうしようもない愉悦で、その愉快さがとどまることを知らずふくれあがってゆき、止めることができそうにもなかった。
興奮しきった獣に恐れをなしたか、草むらでにぎやかだった虫の合奏がぴたりと止まる。
狼は大きく跳躍し、踊るように暗闇を切り、月を背に跳んだ。こんな爽快な心持ちは久しくなかったことだった。