沢の音が響く、青暗い空間に夜明けが近づいていた。ひんやりと感じる湿気の中、せせらぎでのどを潤してから、まだ細かな星が光る空を見上げて、
(戻るか)
と狼は思う。
腹ごしらえも済ませたし、テリトリーのパトロールは滞りなく何事も無く。あとは、また「餌」を見繕う時間が要るから、夜明けまでまだ間がある段階で帰路についたほうがいいだろうと考える。ねぐらに虜としてとどめている兎のことを連想し、
(今日もまた食ってやるか)
といやらしい笑みを浮かべる。
捕らえてから数日たっているが、当初狼が考えていたよりも、あの獲物には楽しませてもらっていた。
あの夜、狼がひとしきり野山を走り回ってようやく落ち着いたあと、褒美にと草をたらふく取って戻ったら、兎にべったり付けてやったはずの匂いはすっかり薄くなっていた。兎の懸命な毛づくろいは有効だったわけだが、結果的にそれは逆に狼の欲望に火をつける切欠になってしまった。つまり、もう一度舐めまわしたあげくそれで収まらず、狼は無理やり己を擦り付けて無垢な体を汚したのだ。ベタベタに濡れた腹を、子供が半泣きで舐め取る姿がまた哀れを誘って、野獣はさらなる手出しを抑えるのに必死になる程だった。
それからというもの、狼の新たな生活サイクルが決まってきた。
すなわち、日没前に監視つきで兎にひととおり食事をさせ、再度閉じ込める。その後は一度ねぐらを離れて、自分の食料を得るため野鼠などを狩り、ついでに兎の食べそうな草をかき集め、ねぐらに放り込む。それからテリトリーの見回りをして、川が隣との境界のため、沢まで来たら水を飲み休息。帰路の途中で兎の追加分の餌を調達し、ねぐらに戻ったら眠る前の「お楽しみ」だ。
はじめこそ抵抗するが、快感を覚えたての若い身は、ちょっといじめてやればすぐに大人しくなり、簡単に流されてくれる。手の中に堕ちてくるさまがいじらしくて、狼は愉快でたまらなかった。そうして、心ゆくまで快楽をむさぼり。後は済んだ途端、必死で身を清めようとする兎の気配を楽しみつつ眠る。
それは狼にとって、張り合いがある快適な生活だった。心なしか黒毛の艶も増したようだ。
沢に背を向け、鼻歌まじりでステップを踏む。軽く凱旋のつもりでいると、ふいに。
「…ずいぶんとご機嫌ね、兄さん?」
嫌味ったらしい女の声がして、狼の足が止まった。いい気分をくじかれ、面倒そうに対岸を振り向く。目に入ったのは、宵闇の中だというのにきらびやかな毛色。金色の雌狼が森から歩み出てくるところだった。暗闇を切り出したような黒狼の毛並とは対照的な色だった。
女は、黒狼から見ればたしかに血のつながった身内のはずだが、双眸の色以外はさっぱり似たところがなかった。昔から顔を合わせれば口喧嘩ばかりする関係だ。
「何だ、キサマかロザリー。あいかわらず派手な見た目しおって」
「ごあいさつね。ずいぶん久しぶりだってのに、変わらないわホント、とーぜん悪い意味で」
「それはこっちのセリフだ。何をさておきその口が減らんあたりが」
渋面で唸れば、妹は得意げに鼻を鳴らす。
「じゃあこの口に感謝してもらわないとね。なんか気持ち悪い笑いしてたから、止めて差し上げたのよ、おにーさま? どうお、今のご気分は?」
「答えるまでもなかろう、あとやめろその呼び方は。虫唾が走る」
「ふふん、いい気味!」
ポンポンと益体もないやりとりが積み重なっていく。ただ、ここまではこの兄妹の通常営業だった。
「で、何の用だ。さっさと済ませろ、余は忙しいのだ」
早く戻らねば「お楽しみの時間」が減ってしまうではないかと内心思いつつ、尊大に顎をしゃくる兄に、妹は顔を思い切りしかめて見せた。
「偉そーに、このバカ兄! 一人身でワビシーだろうと、健気な妹が相手してやってんのに。
ありがたみの分かんないヤツね全く!」
舌をべーッと出す子供じみた仕草に、
「貴様もひとにかまけとらんでさっさと相手でも探したらどうだ、嫁き遅れるのがオチだぞ?」
と意地悪く返してやると、
「キーッうるさいわよ気にしてることを!!」
と面白い程に臍を噛む。黒狼は、まだ幼い頃、これをこうしてからかい倒して遊んでいたものだな、とふと懐かしく思った。
「ふむそうか。その気があるのに相手がおらんと。これはやはりその口の悪さがだな」
「あーもううるさい! ちょっと黙ってなさいよ話進まないじゃないのっ。ええっと、そうだ!こないだの鹿よ、あんたが独り占めした!」
「鹿……、ああ。そういや食ったな。大物だったぞ」
わざとぺろりと舌なめずりをしてやると、
「きぃーっ、やっぱりそうなのね!? ウチが何ヶ月もずーっと狙ってて、大森の真ん中からずーっと追いかけ続けて、もうすぐ追い込めるってトコだったのにぃ!」
「フン、手際が悪いな」
「そんなこと言ったって、何か唐突に姿をくらましたのよあのじーさん鹿!」
「霧が災いしたな、いやこちらには幸いだったが」
「だいたいアンタちょっとはウチに回したっていいんじゃないの!? ひとりで食べたっておいしくないでしょーに!」
「分け前をくすねようとするやつなど知らんな。それに、一匹狼暮らしにも慣れた」
「そんなこと言って……」
眉を下げた表情で妹が口ごもるのを見、
(まずいな)
と黒狼は思う。嬉しくもない話題につながりそうだ。つい、と目をそらして、
「余の勝手だ。くだらん気を起こすな」
と言い捨てた。
「何よ、くだらないって! こっちはねえ……!」
もう何度も聞かされて、うんざりの説教をぶたれる前にと、兄はくるりと妹に背を向け歩き出す。
「用はそれだけか、ならばもう行くぞ」
「あっコラッ話はまだ……!」
何やら背後でぎゃーぎゃー騒いでいるのを黒狼は無視した。駆け出せばすぐ風を切る音にかき消される。空気の壁を貫いて加速していくのは、強さと正しさを証明できるようで快かった。
ねぐらに戻り、声をかけずにそっと暗がりの奥をのぞきこむと、やはり兎がいた。せっせと穴を掘っているようだ。毎度確認してしまうのは何だ、と不可思議な心理に首をかしげつつ、物音を立てないように進入したが、敏感に反応した少年はビクリと耳を震わせて硬直した。土で黒くなった鼻だけがひくひくと動く。
「また掘っていたのか?」
呆れまじりでつぶやく。当初は「逃げるために掘っているのか!?」と気色ばんだ狼だったが、これはどうやら兎の習性であるらしかった。そういえば、川向こうの兎の巣穴はまるで蟻のそれのようだったと思い出し、追い詰めたつもりで別の出口から逃げられたりしていたな、と納得したものだ。もちろん、そんな醜態は幼いころの話だが。
そもそも冷静になって考えれば、地面こそ土が露出しているが、もともとこの洞窟は岩の裂け目を利用したもので、外に脱出口をつなげるのはほぼ無理だろうと推測できる。また、あまり深い穴は掘れないようだった。現に足元がすこし隠れる程度だ。
一度目に持ち込んだ草が見当たらなかったので、「食事はすんだか」とつぶやく。追加は入り口に置いてきていた。いつもはちゃんと奥まで運ぶのだが、今日はいらないことで時間を使ったので、やる気にならなかったのだ。今はそれよりも、「お楽しみ」だと狼は思う。
「……さて、今日も付き合ってもらうとしようか」
声色が変わったのを察知したか、兎は無駄と知っているだろうに壁際まで後じさり、縮こまってガタガタ震えている。狼はその首元に食らいつき、引きずり倒し、あおむけにひっくり返した。
「ひゃ、やだ、やめて…!」
「キサマの言うことを聞いてやる義理はないな?」
白い胸を前脚で押さえてしまえばもうどこにも逃げられない。
「そんなっ、あ、ひ…!」
ぴちゃ、ぴちゃと水音を上げて、なぶりはじめる。舐めまわすうち、硬くなるそこに反して、
子供の体はだんだん硬直が解けていく。くたりと脱力する体、あきらめきって閉じられる目。
「ん、んんっ、あうっ、あ、ああ…」
声もまた快楽にとけてゆく。それにうまみを感じながら、
「忘れるな、キサマを生かすのは性欲処理のためだ。殺されたくなければ、せいぜい余を楽しませることだな」
ぴくぴくと揺れる耳朶に低くささやき息を吹きかけると、嬌声がひいっと裏返った。
全てをぶちまけたが、体がまだ熱い、と思った。だがこれ以上は痛めつけないですませる自信がないため、狼はぐっと己を抑え込む。たしかに満足であるはずなのに、なぜだろうと思った。終わったあとの胸の屈託が日に日に増してきている気がする。快楽も増してはいるのだが。
「っ、う、う…」
(?)
一歩退いたとき、狼はその声に気付いた。いつもなら慌てて腹を清めようとする兎が、動かない。不自然なあおむけのままもれ出るのはすすり泣きの声で、よく見れば、子供は目を伏せたまま涙をこぼしていた。頬の薄茶の毛が湿っていき、耳もとまで広がる。
「どうした」
狼はなんだかふやけた声が出たと思った。しかし子供は答えない。起き上がりもせず、
ふるふると弱々しくかぶりを振るだけ。
(……)
何とはなしに、鼻を兎に近づけた。そういえば、あの正体のわからない甘い匂いはなんだったのだろう、と狼は思う。さらって来てすぐに消えてしまった。今、感じるのは塩辛い水分の匂いだけ。
――ふと、それが気に入らないと思った。
「んやっ!?」
「……、じっとしてろ」
突然、舌を顔に這わされ子供が大きく震えたので、一度離す。しかし、無性にどうにかしたい衝動を止められず、頬のカーブに沿うようにぺろぺろと舐めていく。似たような行動のはずなのに、先ほどまでとは何かが違っていた。静かに、煽らず、ただ涙を舐めとってやるだけの動きを繰り返す。どれだけの間、そうしていたのか分からなかった。
いつしか、上がっていた子供の呼吸も静かになっていた。
(なぜ、こんなことを)
狼の胸にもやもやと、正体のはっきりしない疑問がうずまく。兎はされるがままに動かず、驚きに開かれた瞳だけが、問うようにじっと狼を見つめていた。雨のあとの新緑のような美しい色だった。
(――っ)
その目に、耐えられなくなって舌をやめた。
少年の手足がつっぱって上を向いているのに気づき、何だかかわいそうな気がして、鼻先で薄茶の身を転がしてやる。視線を、感じた。この子供がこんなにまじまじと、恐れ気のない目線を狼に向けるのは初めてで、
(耳が熱い)
いたたまれない気持ちがじりじりと増して、狼を追い詰めていった。
「……、寝ろ」
何を言おうとしたかわからぬままに口ごもり、結局短く命じて狼は伏せた。そのまま顔をそっぽに向けて、顎を交差した前脚にのせ、眠りの姿勢をとる。目を閉じてあらゆる情報を追い出した。
――それでも、背に子供の視線をしばらくの間感じていた。それを、
「見るな!」
と一言で断ち切ることが、なぜか、できなかった。