『WL 2−2』 <前へ><続く>


生ぬるい暗夜だった。どんよりと垂れ込める雲に閉じ込められ、じっとりとして空気の熱が逃げない。風を切って全力で進んでいはずなのに、脚に草の根元が引っかかる不快感ばかり感じて、慣れ親しんだ長森がなかなか近づいてこない。
 体の熱も毛皮の中にこもるばかりで不快だった。熱い。頭が煮えている。悪夢の中のような、空回りする焦燥感で埋め尽くされる。グルグルと喉の奥で怒声が鳴った。



 狼がこうなったきっかけは、何の因果かまたあの沢でのことだった。いつものパトロールを終え一息入れていると、
「おー、兄貴ー! ひさしぶりっス! やーっと会えたっスよー!」
 耳に馴染みのある、けたたましいダミ声に足を止められた。すぐに、川向こうの森から、力強くも太ましいボディが弾みながら駆け出てくる。
「ブルではないか、久しいな! ……しかし相変わらず無駄に暑苦しいなおまえは」
 末の弟であるブルは、生まれつきがっちりした体型と長めの茶毛を持っていて、
今夜のような湿った空気の中では見ている方がしんどいと、黒狼は舌を出して体を冷やしたくなった。
「はははっ、いやーそんなに褒めちゃ照れるっスよ!」
 兄の減らず口を、こうして明るく笑い飛ばせるのは彼の美点だった。
「そういや兄貴、例の鹿食ったってまじっスか!? ロザ姉に聞いたっスよ!」
「うむ、大物だったな。狩るのは苦労したが、その甲斐はあったというものだ」
「はー、うらやましいっス。ウチは鹿肉なんてずーっとありついてないっスからねえ…」
 大兄貴がいたころなら違ったけど、と弟は笑いながら罪無く口をすべらせて、はっと兄の顔をうかがい、黙りこむ。
(……そんなに顔に出ていたか?)
 黒狼は急いで、苦笑いへと自分の表情を意識した。
「いや、気にするな、今さらだ」
「へえ…すいやせん兄貴。……ああっそうだ、聞いてくれっス! 最近おやっさんがいっつも寝言いうんスよ、それがおっかしくって!」
「ほう、あの堅物がか?」
 その後、厳格な叔父の寝言エピソードや、年頃の姉ロザリーの「美容のため」と称した奇行をブルは語った。愛嬌のある顔での物真似を加えて、面白おかしく語られるエピソードに、黒狼は声をたてて笑った。急に馬鹿話をふってくるあたり、弟なりに気遣っているのだろうと、それなりにありがたさを覚えつつ、黒狼は気兼ねの無い会話をしばらく楽しんだ。ここまでは穏やかな夜だった。
「そういや、そっち側にも兎、いるんスね! こないだ、岸で水飲んでるヤツ見たんスよ。
2回くらいっスかね、だからまあそんなに数はいないんだろうけどー」
(!?)
 黒狼は、尻尾がぶわりと膨れ上がるのを感じた。が、茶毛の弟は話に夢中らしく、兄の動揺に気づいた様子は無い。
 (このテリトリー内には、あの子供以外の兎はいない――はずだ)
 はっきりと断定できるのにはわけがあった。そもそも兎は狼にとって狩りやすい、『便利な』獲物だ。鼠よりは大きくて食いでがあるし、巣穴を見つけて追い込めば、一匹くらいはどうにかできることが多い。なので、兎が巣穴を設けやすい場所は、隠れ住んでいやしないかと、黒狼はこれまで何度も調べてきた。だからこそ、対岸から進出してきた兎の痕跡や、新たな巣穴を見落とすはずがない。
「なんか、ちっこかったんで子供かなーと、そうなると根付いたんかと! あいつら、いっぱい増えるから助かるっスよねー、狩ってもまたすぐ補充されるし」
「……そう、だな」
「ウチも『お世話に』なってるっス、今じゃメインなぐらいで。
まあちょっとやりすぎたか、兄貴が出てってすぐに、沼地のほうにひっこんじまったんスけどねー」
「う…む」
「? どうかしたっスか?」
「なあ、そいつ……いつ見た? 体色は分かるか?」
「はぃ? 色っス、か? なんでまた?」
ブルは金目を丸くして首をかしげた。たしかに、捕食者としておかしなことを聞いていると黒狼は思った。体色が何であろうと獲物に変わりはないのだから。だが、しかし。
(どういうことだ……?)
「教えろ、ブル」
「は、はあ……」
 強くうながすと、弟は記憶をたどってか、とつとつと語りはじめた。



 黒狼はいつ走り出したか覚えていない。兄の態度の急変をいぶかしむ弟になんと返したのかも。ありえないことが起きた、と思う。
(あれは、脅して、閉じ込めたはずだ――気まぐれで生かされていると分かっていようものなのに、どうして……!)
 狼は走りながらそこまで考えて、あっと叫び、思わず立ち止まりそうになった。気を取り直して、歯を食いしばりながら再び駆け出す。
(あれはもう、いつでも逃げ出せるのか!)
 無事に――狐や山猫などの他の捕食者に狩られることもなく――この空間を、黒狼のテリトリーを動き回って、のんきに沢で遊んでいられるということは、あの兎はもはや地の利を得ているということだ。それは、どこをどう逃げれば狼を撒くことができるか、算段がついている可能性が高いことを意味する。
(ではなぜ、すぐ逃げなかった? 泣くほど嫌がっていたというのに)
 だが、じっとこちらを見ていた緑の瞳を思い出し、狼はふと真っ黒な思考に行き着いた。
(ああして機会をうかがって、余が隙を見せるのを待っていたとしたら――)
 冷たいものが腑に落ちた。反対に、体表には炎が点る。
(たいした度胸だ、そして、舐められたものだ)
 喉の奥の唸りが大きくなる。
「――ふざけるなっ、許さんぞ……思い知らせてくれる!」
 息が上がるのも無視してさらに加速した。ぎらりと黄金の虹彩が光を帯び、暗闇に尾を引いた。
 ようやくねぐらが見えてきたころには、体温上昇の限界を感じて少し休まなければならなかった。目の前に岩の隙間が見えているのに、しばらく放熱のために舌を放り出して荒い息をつき、夜気に冷えた地面に伏せていなければならず、狼はことさらに焦れる。
 ようやく体温が落ち着いて、ゆらりと影のような動きで忍び寄ると、ざっ…、ざっ…と、
ゆっくりしたリズムを伴って土を掘り起こす音を聞いた。
(まだいた)
 ほっとする気持ちを抱き、なにを悠長な、と自分で自分に切れそうになる。兎はまだ狼に気づいていないようだ。無防備に丸い尾と尻を向けて、時折息を切らしつつも、一心に穴を掘っている。
 後脚が掻いた土くれが狼の足元にかかったが、声を殺して忍び寄るのに集中した。そして、どうあがいても逃がしようのないところまで近寄って。
「キサマ、何をしている」
 ひどく、ねじくれた声が出た。
「!? あ、え、なんで……っ!?」
 兎は思い切り跳ねたかと思ったらあわただしく向き直り、すぐ近くで睨みつけている狼に気づいてまた跳ねる。そして、尻で何かの塊を押し、じりじりと後ずさった。無論、狼はずいとその距離をつめる。もはや、息がかかりそうな近さだった。
「何を隠している」
「あ、う、な、なにも……っ」
 その目前でだんっと前脚を地面に叩きつけた。兎がまた震えあがり硬直する。
「そうやって全て隠し通せるつもりか?甘く見られたものだな」
 子供の毛が逆立ってゆく、また目のはじに白目が見える、だが今夜の狼の内に憐憫の思いは起こらない。ただ苛立ちと、憤激にかられて、低く断罪をはじめた。
「ここから一歩でも出れば命はない、と言ったはずだな。よもや冗談だとでも思っていたか?
余の目を盗んで、川で遊びまわるのは楽しかったか?」
 ひゅうっと息を飲む子供に、やはりそうかと狼は気持ちがさらに落ち込むのを感じた。この期に及んでまだ信じたくないなどと、いじましいものが根底にあったらしい。別の兎であってくれればと。自分の甘さに臍を噛む。
「キサマにはどうやら自覚が足らんようだな!」
「きゃうっ」
 荒々しく転がして、前脚で胸郭をきつく圧迫し逃げられなくした。おびえた目を射抜きながら、視界のはじに伸びた後足に舌を這わせる。
「玩具として気に入っていたからな、手控えておったが。もっと痛め付けねば立場が分からんか?」
 後脚を銜え込んで軽く歯を立てれば、子供は今にも泡を吹きそうだ。おかしくて、哀れで、地を這うような笑いが止まらない。
(このまま傷つけてやれば走れなくなるかもな?)
 とも真っ黒な心中で思う。

「子供と思って手加減していたのが間違いだったな」
 ギリギリと押さえ込む前脚に力をこめると、兎は大きくあえいだ。
「く、苦し……」
「それともいっそ、ここを食い破られて楽になりたいか……?」
 訴える声に聞く耳をもたず、力をこめたまま脚を腹へと動かした、そのときだった。
「ぐ、うううっ! 痛あっ……!」」
 思いがけない激しい叫びが耳をつんざく。びっくりして前脚から力が抜けた。
「……っ?」
 動揺するままに狼が反射的に一歩下がると、兎は腹をかばうようにして横向きに転がった。
そのまま苦しげに目をきつくつぶり、肩で息をする。狼の足先に触れた足先は、ひどくひんやりとしていた。
「な……なんだ……?」
 狼の喉から、先ほどの悪者ぶりが嘘のようなうろたえた声が出た。
(……そこまで、痛めつけるほど力を入れては、いなかったはずだが……?)
 混乱した頭で考える。胸はただ苦しがっていただけだ。では腹、だろうか、おかしな反応をしたのは。狼は鼻先で、相手のそこをそっと撫でた。確かめるように白い毛並みをなぞる。
(なんだか、張っている…? 硬い、ような……)
「い……っ」
「なんだ、どうして、こんな……?」
 顔を歪めて呻く子供を見ていられず、目線がさまよって、兎の頭の上あたりに隠された塊を、今更のように見出す。
「!!」
 それはよく見れば枯れてしなびきった草の山で、掘り返された土に埋まりかけの、中途半端な状態で。
(食べていない!? 一体いつからっ)
『――ぼくら、食べてないと死ぬんだよ』
 かつて疲れきった様子で答えたのを思い出し、全身から血の気が引いた。と、凍りついたように動けない狼に、追い討ちのように細い声が届く。
「……ころして」
「は!?」
 耳から入った音をとっさに脳が拒絶した。取り繕うのも忘れて素の反応を返してしまう、狼の声は完全に裏返っていた。
「……、ぼく、ちょっと前からお腹、おかしくて……もう、あなたの相手、できない、から」
「……」
「役に立た、ない、から。……だから、殺して」
 と、消え入りそうにつぶやく。
「……っ!」
 確かに狼は、兎に『性欲処理用に生かす』と告げた。だから、それが出来なくなったとしたら。言い訳は消えてなくなる。自分にも、相手にも。
(そんなこと)
 空気をまともに吸えない。男はあえいだ。
(そんなこと、本気で――)
 数度口をパクパクさせた後、狼はもがくようにして強引に息を吸った。言葉を、放つために。
「……具合が、悪いのだな?」
 小さく確認すると、うなずく兎。もはや覚悟を決めたのか、震えることもしない。
「それを隠していた、のだな?」
 子供は目をつぶったまま、こっくりとうなずく。当たり前だった。この世界で、捕食者に弱みを見せる非捕食者がどこにいるというのだろう。
 ああ、狼は呻いた。
(……そうか。ふざけていたのは余のほうか)
 その瞬間、彼の呼吸を戒めていた重圧は、はじけて消し飛んだ。

 今度こそ思い切り息を吸う。そして腹の底から叫んだ。半ば裏返った、ひどくみっともない声だった。
「……っ、そういうことは、早く言えぇっ!!」
「ヒィっごめんなさ、って、……え?」
 反射的に首をすくめた兎が、違和感におそるおそる顔を上げると、悲鳴の主はすでに風のように消えていた。
あとは、真っ暗な夜が洞窟の外に続いているだけだった。







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