『WL 2−3』 <前へ><続く>


 飛ぶように木立が視界から切れて、一気に開けた視界に目を細める。
誰もいない暗い草原を疾駆しながら、男はゆうべの自分自身に思い切り噛み付いてやりたくなった。
(まだ、いてくれ!)
 祈りつつ脚が砂礫を蹴立てる。みるみる近づく川面の向こうには、果たして。
「待てブル!!」
 茶色の狼は首をひねりつつ去ろうとするところだった。ギリギリのタイミングだった。黒狼の背筋に冷たいものが走る。
「はえっ!? ど、どうしたんスか兄貴、血相変え」
「兎どもが引っ越したとか言ったなっ、詳しい場所はわかるか!?」
 皆まで言わせず、叫びながら体を横に捻って制動をかけた。勢いあまって砂利の上で滑り、かろうじて踏みとどまる。
「ふぁ、へ!? う、兎がどう」
「答えろっ、今すぐだ!!」
 前脚を広げて踏ん張り、顔を思い切り下げ前方をにらみつける。首周りから背にかけての毛がざわつき逆立った。身内に向けるべきではない、本気の威嚇だった。兄に唐突にあからさまな敵意を向けられた弟は、当然驚愕し目をむいた。が、今の黒狼にはそれを気にしてやる余裕がない。構わず怒鳴りつける。
「早く!」
「え、ええええ、えーっと? う、兎の巣の場所っスよね? こっち岸の森の南、草原と沼地の境あたりっス。底なし沼が多少怖いっスけど、ちゃん避けりゃいいっス……よ?」
「よし分かった、大丈夫だ沼は覚えてるっ」
 声よりも先に体が動いた。派手な音を立てて飛び込んだ川面は、黒狼の火照った体をほどよく冷たく包み込む。。
「って、ちょ、こっち、ウチのテリトリーっスよ!?」
 弟が丸い目をさらにかっぴらいて叫ぶのを、
「知っとるわやかましい!」
 一声で切って捨て、胴をくねらせ重い抵抗をいなし、瞬く間に川を突っ切り対岸に体を引き上げた。がばりと水の膜を跳ね除ける音を、他人事のように聞く。
「まっ、兄貴そりゃまずいっスよ! いくらなんでもおやっさん怒るってぇ!」
 動揺しひきつった茶色い顔が視界のすみに流れていくが、気にもならなかった。

(間に合ってくれ!)  狼の頭の中は焦りの思考でいっぱいだった。
 野生の獣として嫌というほど理解しているのは、この世界では、周囲にはっきりと苦痛を表した者は長くもたない、ということだ。現状では、持ち直せる可能性があるかどうかすら、不調の原因を特定しないと判断できないが、よしんば解決法があるとしても、対処にあたるまでに余力が潰えてしまうことも十分ありえた。まして相手は子供だ。体力が少ないぶん、時間切れまでにはあまり猶予はないだろう。
(こうして走り回っているうちに、冷たくなっていたら)
――苦しげに「生存をあきらめた」と告げた声、ひやりと触れた足先の感覚が脳裏によぎる。
(やめろ……)
 一直線に森を抜ける。南へと進むにつれて湿り気を増し重くなる足元に、全力で抗う。飛ぶように過ぎる景色が過去と重なる。すべてが冷たく遠く、残酷な夢のように感じる程の焦燥感が、蘇る。
『逃げて、弟くん……!』
(もうやめてくれ!)
 脳裏をよぎる『彼女』の声に叫び出したくなる。狼は歯を食いしばり、必死に駆けた。
 そろそろ近い、と思う。兎の匂いをあちこちに感じて、わめいていては目的を達成できない、
と彼は一時的に心に蓋をした。

 最初、それは兎たちにとってみれば突然の、だが『ままある』出来事だった。巣穴の周囲に三々五々に散らばった集団の中、草を食んでた一体が、ふと耳をそばだてる。それにならって他の個体も食事を中断し、耳を立て身を起こす。と、藪を割って黒い影が群れの中央に飛び出した。最初の一匹が即座に巣穴に飛び込み、後続がわらわらと続く。その動きに出遅れた灰長毛の個体は、
「!!」
 次の瞬間には暴風のような勢いに巻き込まれ突き倒され、反射的に身構えた。しかし、彼の予測に反して降ってきたのは、
「聞け、食わん! 代わりに教えろっ。おまえたちが腹を痛めたとき、どうやって治す!?」
 動揺を隠しきれていない男の詰問で。
「!?」
 突然訪れた『天敵に質問される』というありえない事態に、しばし絶句した兎だったが、
「早くしろっ時間がないのだ!」
 地団駄でも踏みかねない勢いの狼を警戒し、じりじりと下がりつつも声を発した。
「……君のようなものが、なぜ我々の内情を気にするのか知らんが。言えば見逃してくれるというのかな?」
「約束するっ。だから、頼む!」
「……ふむ」
 『餌』に頭を下げる姿は、狼としてはあまりにも異常で、灰色兎は興味を持ったようだった。
小さめの黒目をしきりにまたたき、そして、うなずく。
「狼がそこまでするとはね、うん、びっくりだ。……今、君のもとには、我々の同胞がいるのかい?」
「……そうだ」
「……フウ。なら、しかたないか。その者のために答えよう。具体的にはどういった症状なのかな?」
 ――その後、ひと通り情報をやり取りして、
「すまん、助かった!」
 と飛び出していく、最後まで狼らしくない男に、
「やれやれ……何だったのかね、あれは」
 灰色兎は呆れて後ろ脚で耳を掻いた。そして、不安そうに巣穴から顔をのぞかせる仲間たちに笑ってみせたのだった。

 瑞々しい青草を株ごと引きずりながら、狼は帰り道を急いでいた。
 兎から聞き出した情報の一つ目は「水気の多い草を与えろ」というものだった。沼地には柔らかい葉の草が多く茂っていて、本来はこれらが彼らの主な食べ物だったのだろう。思えば、自分が兎の子供に与えていたのは、草原に生える乾燥したものばかりだった。『川に水を飲みに行っていた』のも、それなら納得がいく。しかもブルの情報では「2度見ただけ」だ。狼の監視の目をかいくぐっての行動だったため、思うようにいかず、体調悪化に拍車がかかったのかもしれない。事情も聞かず逆上したのが、兎にとってはいかに理不尽だったのか、と狼は歯噛みした。

「っ!?」
 そこは狼の生まれ育った森近く、藪が点在する場所だった。甘い匂いが鼻をかすめ、なんだか懐かしい感じがして、狼は脚を止める。
 そしてすぐに、ああっと呻いた。それは子兎を捕らえたときに感じた、弱すぎてよく分からなかったあの『匂い』そっくりだったのだ。
 灰色兎から、情報を聞かされた時から、妙に引っかかっていたのはこれだった、と狼は思い当たる。『薬になる実が自生する』として教えられた場所を、知っている気がしていたのだった。『匂い』は藪の中から漂ってくる。
(出所は分かっている――下だ)
 腹を地面につけて思い切り伏せてみれば、低木の地面に近い枝、葉の裏に隠れるような赤い実がちらほらと見えた。懐かしいはずだ、と狼は思った。あれは、今とちょうど同じくらいの季節だった。


――西日の中、夏の名残の羽虫がきらめき舞い、赤茶の耳がそれをぴんぴんと払う。
 それが、鼻先よりもひどく低い、足元近くにあって、その違和感に少年は顔をひそめた。呆れ顔で座り、下方を覗き込む。
『……何やってんだよ、あんた』
 脳内で再生される、まだ声変わりしていない声に、
『えー、だって好きなんだもの、これ』
 彼女がのんびりと答える。べったりと這いつくばって、実のついた枝をくわえて引っ張りながらの発言で、あまり明瞭でない。脚が投げ出されて胴は長く伸び、狼らしからぬ何とも情けない姿だった。
『あのなあ、義姉ちゃん。すげえ格好だぞ今』
『おいしいもののためなら妥協しちゃいけないのよ、弟くんっ』
『はあ……酸っぱいだろ、それ。何がいいんだ?』
『ふうん、食べたことはあるのね?』
『見た目は面白いからなー』
『ちゃんと甘いのもあるのよ? ほらこれ、ちょっと暗い色でしょう。貴重なのよー、すぐ鳥に取られちゃうんだから』
 ずるずると採ったばかり枝をくわえて後じさり、実の赤を示す緑の瞳は、少女のように頑是無く、少年のように勝ち誇って、大人の余裕をふくんで、という風にくるくると表情が変わった。
 それがなんだかまぶしくて、少年はふいと顔をそらす。
『……もの好きだよな、あんた』
『ほっといて』
 ころころと笑う女の声が、すぐ隣でした気がした――


 ばきり。引いていた枝がいきなり根元から折れて、
「っ!」
 かけていた力の反動で、狼は思い切りたたらを踏み、しりもちをつく。
「……痛ぇ」
 暗い中に小さく、聞く相手もいない悪態がもれる。断ち切れた記憶に、甘い懐かしさと、どうしようもなく苦いものが同時にこみ上げ、狼はへたりこんだまま、うつむいて何度か目をしばたたいた。
 そのまま、どのくらい、そうしていたのか。周囲の空間が青みを増したのに気づき、狼はようやく我に返る。焦って振り向けば、東の空が白み始めていた。
(いかん、急がねば……!)
 狼は、頭を振って起き上がりつつ、苦心して得た枝と青草を深くくわえなおし、ねぐらへ向かって走り出した。



 洞窟の入り口がほの青い光を帯び始めた。もうすぐ、夜明けのようだった。
「……おじいちゃん」
 細い、今にも絶えそうな声が、奥の暗がりに響く。
「……ぼく、ひどいやつ、だよね……」
 闇の中で、投げ出した腕の上に顎を乗せ、兎は目を伏せたまま、切れ切れの言葉をつぶやく。
 それは、受け取る相手もなく、空間に解けて消えゆくはずだった。
 と、いきなり、がさがさどたばたと騒々しい音がして、兎は何事かと身を縮めた、そこに。ただよう甘い匂い。
「え、これ……?」
 思わず目を見開いた兎に答えるように、
「生きてるかっ」
 騒々しく走りこんできたのは狼だった。彼が声を出した瞬間、口元からばらばらと、草や枝のもろもろが落ちる。そして兎は目の前に転がった、水気をたっぷりとふくんだ青葉に吸い寄せられた。
「あ、……!」
 少年はふらふらと近づき、無心に口をつけた。途端、しゃくしゃくと良い音が響き、みるみるうちに葉は小さい口の中に消えていく。
「よしっ、食えるな!?」
 勢いこむ狼に、少年は答える余裕もないようだった。目の色を変えて、必死に口を動かすさまがよけい幼く見える。狼はそれを熱心に見守り続けた。

 青葉が根ごと兎の口に消えて、ようやく一息ついた様子のところに、狼はもはやそれ以上待ちきれず、赤い実のついた枝を突きつけた。
「……へっ? やっぱりこれ、え、でもなんで?」
「薬なのだろう、早く食え!」
「は、え、あの、でも。どうして、知って?」
「兎どもに聞いた、だから早くっ」
「へっ!? え、えええっ?聞いたってどう」
「んなもんどうでもいい、早くしろ!」
「いやでもだってっ、……あ」
 どうでもいいところでウダウダともめていると、ふと、子供の表情が変わる。
「あの、おなか……土が」
「っ!?」
 狼はそのことをすっかり忘れていたが、実を取ろうと這いつくばって苦闘していたのだから、腹が汚れるのも当然だった。艶光る黒毛は土ぼこりをかえって目立たせてしまっていて、その汚れは夜目のきく兎には一目瞭然で。
「いやそのこれは、ええい、どうでもいいからさっさと食えよそれっ」
 狼はまくしたてつつ、後ろ脚でどうにか土を掻き落とそうとしたが、そもそも脚自体が沼地の土でドロドロだったので、よけいに汚れをなすりつける結果になってしまい。渋い顔で沈黙せざるを得なくなっていると。
「……どう、して」
 小さな声が、闇に響いた。
「こんな、してくれるの? 僕、役に、立てないよ……?」
「おい待て、なんで泣くんだっ」
 か細い声が湿っぽく歪んでいくのに、狼はおろおろと目線をあちこちにさ迷わせ、尾を内側に丸めた。
「教えて、どうして……?」
 なぜか追い詰められて慌てふためく男を、容赦なくひたりと見つめる潤んだ緑目。
(い、意外と厄介だなコイツは!)
 狼は口元を引きつらせつつ子供を見やる。これはわけを聞くまで納得しそうにない、と思う。だが、そんな理由は男自身だって知りたいくらいだった。それでも逃げるに逃げられず、狼は唸りながら、どうにかひん曲がる口から言葉を押し出した。
「食って、早く治せ。……ここまで生かしておいて、そう簡単に、死なれても困る」
(獲物相手に何を口走っているんだか……)
 思わず舌打ちして、そっぽを向きつつも、相手の反応が気になってちらりと横目を飛ばすが、兎はまだ狼を真っ直ぐ見据えていた。
(何だこの状況は!!)
 内心悲鳴を上げつつも、他にどうともしようがない。男は諦めてさらに言葉を続ける。
口がよじれて二度と開かなくなるかもと思いつつも、
「お前を殺す気はもう、無い。……これで満足か? なら、早く食え」
 どうにか止まりそうになるのをこらえて、致命的な一言を、小さく告げた。
「……」
 兎は身を起こして、前足をそろえてきっちりと座りなおした。再び目線を落とし、足元の赤い実を見下ろす。そして、狼にとっては実に居心地の悪い、長い長い沈黙の後に。
「……ありが、と」
 つぶやきに似た、涙の粒が、実にはじけて、深い赤色を彩った。







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