その晩狼は、兎には触りもせず眠った。青葉と赤い実を口にして、それでもまだぐったりと伏せていた子供に、
「他にしてほしいことはあるか」
と問うたら、
「ちょっと、そっとしといて、休ませて……」
と細い声で懇願され、無下にできなかったのだ。狼自身駆けずり回った疲れが出たかすぐに意識は途絶え、そして翌日。
「その、どうだ? 色々持ってきてみたが」
南の沼地の青草、おなじみの枯れ草、長森で脚にひっかかったツル草。
兎の体調は快方に向かっているようだった。集めてきた草に目を輝かせて噛り付く子供に、
狼はほっとしつつたずねてみる。
「うん、どれもおいしいよ。……あ、でも、根っこから抜いてきちゃうと、すぐに食べつくしちゃうかも。葉っぱだけむしるほうが……」
「そ、そうか。すまん」
「えっ、いや、あやまんなくていいよ、その……アリガト……」
二匹の会話はどうにもぎこちなかった。狼が力で抑え付けていた関係だったのが勝手が違ってしまい、互いにも態度を測りかねている様子だった。
ふと目が合って、どちらともなくそらす。うつむいた子供がツル草をもそもそとかじり出すのに、男はとりあえず思いついた疑問を口にすることにした。
「しかし、固くないのか、それは?」
「ふぇ? んぐ、……固いのは大丈夫なんだよ、むしろ柔らかいものしか食べないと歯が伸びすぎちゃうし」
「歯が……伸びる? ……いったいどういう状況だそれは?」
「えーとね、ぼくたちの歯って、……かうなっへへ」
あーん、と開いた口内を何気なく覗き込んで、狼はぎょっとして二、三歩後じさる。
「何だその鼠みたいな歯はっ!」
外見からは想像もつかない大ぶりの前歯が門のように並び、しかもやたらに長かった。本気で噛み付かれでもしたら、深々とした治りにくいタイプの傷を負いそうだった。
(舐めさせなくてよかった……!)
と、ろくでもないことを真っ先に考えてしまい、文字通り狼の肝は縮みあがった。
「……ん、そうなの? 似たもの食べてるのかなあ? 僕は鼠の歯、見たこと無いけど」
いかがわしい思考に気づくはずもない子供が、ぱくんと口を閉じてしまえば、長大な歯が潜んでいるなど信じられない間抜け面だ。ひくひく動く鼻に気を取られそうになり、狼は顔を軽く振った。
「ま、まあいい……固いのがいいなら小枝もいいか。この時期はよく落ちてるからな」
「うん助かる。青物はのどが渇いてるときは嬉しいんだけど、そればっかりだとお腹壊すんだよね……」
「……バランスが大事か」
(それであちこちの草の株を食べ歩いていたのか。あのちまちま食いにも意味があったのだな……知らなかったこと、ばかりだ)
「そういえばあなたは……その。なにを食べるの?」
「兎も食べたことはあるぞ?」
殊勝な心持ちになったところで、存外に大胆なことを聞かれ、狼は兎をじろりと見下ろしてやった。
「ひっ、まさか、今日も!?」
と、久々に子供が震え上がったのに満足して、
「安心しろ、昔の話だ。今の余のテリトリーには兎が住み着いていないからな」
「あ、そうなんだ……」
「主に狩るのは鼠やうずらだな」
「へぇ、狐とかと似てるような……」
「この土地は、もとは狐の住処だったからな。余が山麓へ追い上げてやったが。あっちはあっちで、鳥やら栗鼠やら山鼠がいる、それほど困るまいよ」
「そう……なんだ。大きい動物はいない、の? 例えば……鹿とか」
「山奥にはいるだろうが……めったに平地には降りて来んな。あの西の山は湧き水が豊富だから、危険を冒して川辺に寄り付く必要は無いのだろう。そも、目の前にいたところで狩れるかどうか。やつらは強い、単独で追うにはリスクがありすぎる」
すらすらと語る狼を兎はじっと見つめていたが、
「ふうん……何だか意外だなあ」
と小さくつぶやいて肩をすくめた。
「何がだ?」
「狼ってさ、もっといろんな動物狩り放題なのかと思ってたよ」
「そんなわけがあるか」
狼は呆れて息をつく。どうやら勝手なイメージが先行しているようだった。
「大物の成功率は、群れで当たったところで1割がせいぜいだ。だから、食えるときにたらふく詰め込んで、あとは腹を保たせるために、のんべんだらりとしてるのが基本だな」
「へええ……、あ、あとね、ここも」
兎の後脚が軽い音を立てて土を踏む。兎がいつも座っている場所だった。軽く掘り返され、足元が少し隠れている。
「ここ?」
「うん、この……洞窟? 思ったよりキレイで驚いた。もっとこう、骨とか肉、とか……ゴロゴロしてるものかと……」
(……言いながら自分で青くなっていれば世話は無い)
どうも、この子供は狼の住処というものに、血みどろの淀んだ雰囲気を思い描いていたらしい。
「……あのな、何の魔窟だそれは。お前たち兎からすればそんなイメージかもしれんがな、考えてもみろ。そんな食い物カスの散らばる中で、ゆっくり落ち着いて寝られると思うか?」
「あ、う……、嫌だ、ね、それ……」
「同じだ、変わらん」
とここまで会話して、ふと狼は渋面を作った。
(なんだ、これは)
何気なく会話をしていたつもりが、すっかり対等な空気になっている。これではまるで普通の友人同士だった。
(しかも狼が兎と「変わらない」とは何だ!? 誇り高き狼だろう、余は!?)
『なあに、それー!?』
と、唐突に。大爆笑する彼女の声が脳裏にひらめき、狼は動揺した。
(なにっ!? なぜ今これが蘇る!?)
『るっさいなっ、と、イヤ、やかま、しいっ!? 今日から「オレ」は「余」だ! 由緒正しい強者の使う言葉なの、である!!』
『あーっははは! そんな無理しなくてもー!』
『うんうん、おまえもそゆこと言う年頃になったか! 兄ちゃんにはわかるぞっ、男のロマンってやつだよな……!』
転げ回る義姉の隣で、自分と似た黒毛の兄はなぜか感慨に浸っていて。
『お前らちょっとはまじめに聞けよ! オ、っ余はっ、森の王者、誇り高き狼なのだぞっ!?』 さらに笑いのボルテージを上げた義姉と、なぜか涙目で「成長したなあ」とのたまう兄の記憶に狼は、(黙ってろ!)と叫びたくなるのを必死で抑え込む。
すると狼の渋面をなにやら誤解したらしい子供が、
「え、ええとごめん、ぼく、言いたい放題言っちゃって、その、すみませんごめんなさいっ」
と真っ青になって謝り始めたので、
「いや……まあいい、気にするな……。もう寝るぞ」
狼は鼻先を壁に向けて伏せ、さっさと目を閉じた。
そして、さらに翌日。
秋らしく晴れ上がった夕空だった。ほどよい風の吹くさわやかな空気の中、兎の子供は細い青草のしげみにいた。首を傾け、株の脇の葉をかじりながら徐々に下へと顔を降ろしていく。そのどことなく間抜けで無心な様子に、狼がほっと息をつき、うんうん、とうなずきつつ見守っていると。
「?」
くりっとした目線が来て、あわててそっぽを向き。
(そういえば久々に外に出してやったな)
と思い、今更な警告をとりあえず発しておくことにした。すなわち、
「あー、一応言っておくが。逃げるなよ? 逃げたらコロ」
「えっ、殺さないって約束、したじゃん……」
とたん、目を輝かせていた子供がうなだれるのに、うっと言葉につまった狼は苦し紛れに口走る。
「う、うむ、そうだな、だから……コロがすぞ余の気が済むまで!」
いきなり気まずい沈黙が場に満ちた。ねぐらに帰るのだろう、かしましく鳴き交わす鳥の群れが上空から降り注ぐ。何か間違ったことを言った気がした狼は眉を寄せたが、ふと考え直す。
(いや……悪くない、か?)
想像してみたのだ。横たわる子供を鼻先でどこまでもゴロゴロと転がして悲鳴を上げさせることを。
(……楽しいかもしれない)
「遠慮しますっ」
妄想を断ち切るようにきっぱり言い切られ、
「そ、そうか」
狼は我に帰る。その姿をどう見ていたのか、兎は完全に及び腰だ。
「だいたい、あなたを振り切れるほどには、まだ走れないと思うし……」
「なんだ、おまえまた何か隠してるのかっ!?」
途端、どこか痛むのか!? と色めき立つ男に、
「え、ええと? そ……そうじゃなくて。じっとしてばかりだったから、脚がなまっちゃったみたいで……」
と兎が大慌てで首を振る。
(そういえば監禁してたわけだしな……)
と少し後ろめたく思った狼は、
「……そうか。では、体がきつくなければ、これから沢に出てみるか?」
と、口にしていた。一瞬、実を採りに行ったときの隣地の侵犯問題が頭を掠めたが、これまでの経験から、この夕刻に妹弟が現れる可能性は低いだろうと思い直し、一つうなずく。
「えっ、いいの?」
「監視付だが。……それに、そうだな。お前が自分で水分補給ができれば、余もいちいち南まで赴いて青菜を取ってこなくてもすむしな! いいか面倒だからだぞ、決してお前を喜ばせようなどと」
と言い訳を続けるが、
「わあっ、ホントにいいの!? 嬉しい!!」
兎のただでさえ大きな目の輝きが一気に増して、うっと詰まる。
「う……む」
勢いに押されつつうなずくと、子供はやったやったあと、その場でぴょこぴょこ飛び跳ねた。
(こんな仕草もするのだな)
狼は少し嬉しくなった。思えば恐怖に凍りついた様子ばかりしか見てこなかった、そんなことを考えているうちに、兎はさらにくるくると狼の周りをまわりはじめたので、とりあえず「落ち着け」と言っておいた。
虫の鳴く声が草原を満たしていた。長森を抜け西空を仰ぐと、森の奥に位置する縦断山脈に、傾いた月がほの白く浮かび。紅葉をはじめた木々が、西日の中であざやかさを増す。
「あっちの山中は、夕べ話した狐のテリトリーだ。間違っても入るなよ、お前はターゲットだからな」
「うん、分かった」
草原に生い茂る草の丈は、再び歩き出した狼の背を覆ってなお余るほど高い。それが夕映えで金色に照る中を、日々のパトロールで作られた獣道を行く。草が程よく倒れていて、振り返り確認すると兎も支障なく歩けているようだ。
「行けるな。ではこのまま、まっすぐ東に向かうぞ。南周りのルートなら邪魔な草は少ないが、今度は沼がある。あまり近づくと脚を取られるからな」
「はあい」
いつもよりゆったりとしたスピードで、背後にポテポテと気の抜ける足音を聞きながら、
狼は目的地を目指した。
「……この草原には鼠どもがわんさといてな――」
沈黙したまま進むのに飽きて、ふと独り言のようにつぶやいた声に、
『ほら、もっとちゃんと見ろよ!』
年若い声がまざまざと蘇り重なった。遠い、月の夜のことだった。背後に安心できる気配を連れているのも同じだった。
『はいはい、見てるよー。いいね、ススキがきれい』
『だろ!? ここ、俺が見つけたんだぜ! まだ誰にも言ってないんだ!』
『ふぅん? ……ああ、それでか! 叔父様に叱られた後とか、いつもどこ行ってるのかなって思ってたのよね。弟くんの隠れ場所だったんだ?』
『だあっ、言うなよそういうこと!』
『ふふふ……』
「そうなんだ? ……このふさふさした草、キレイだねえ」
「――うむ、そうだな。夜はもっと美しいぞ。月に映える」
過去とまぜこぜになりそうな会話をしているうちに、気がつくと道程の大半が過ぎていて。
丈の長い草はまばらになっていき、今度は足元に砂利が割合を増していく。
そして草がついに途絶え、視界が開ける。眼前には対岸の森。眼下からは水音が聞こえてきて、
「お水だ!」
背後からのはしゃいだ声に苦笑して振り返る。
「久しぶりか」
「うん!」
「前はどうやって、ここまで来た?」
「えっとね、今みたいに、あなたが通った後、こっそりついていったんだ。距離をあけていれば、気づかれないんじゃないかと思って……」
「まあ、確かにな」
逆ならともかく、兎が狼をつけるなどとは普通思わない。だが裏をかかれたのは間違いなくて、悔しくてつい言い募る。
「ふん、そのときに逃げればよかったものを」
「いや……たぶん無理だったよ。いろいろ余裕なかったし……」
「そうなのか?」
「うん、あの。お水、飲んできていい?」
「ああ」
水際に下りていく背中を眺めて、地形について詳しく説明しすぎたか、と狼は今更ながらに思った。兎は狼のテリトリー全域を把握したかと思っていたが、誤解だったようだし。余計な情報を与えれば逃げられるリスクは上がるのに、なぜかついつい気分良くしゃべってしまった。
(こんなに話したがりだっただろうか……?)
自分をいぶかしみつつ、
(というか今こそチャンスだろうがおまえは)
呆れた目で見つめる先には、子供が水際ではしゃいでいる。
こんなことでは、例え狼が逃がしてやったところで、数歩先で梟にでもかっさらわれそうだった。
(だったら余が飼ったって……いやいや)
とぐるぐる考えこんでいたら、いきなり大きな水音が響いた。ざわりと狼の黒いたてがみが逆立つ。
「おいっ!?」
叫んですっ飛んでいくと、
「つ、つめた……!」
「……は? ……何やっとるか、マジでトロいなおまえはぁ!」
水際で脚でも滑らせたか前半身をびしょぬれにして、情けない表情で振り返る子供に、狼の全身にみなぎった力が一気に抜ける。
「貴様、今度は風邪でもひいてまた伏せる気かっ。まったく世話の焼ける!」
うんざり顔で説教しつつ舌を伸ばす。子供の鼻先を思いっきりベロンと舐めてやれば悲鳴が上がった。
「うひゃ、だ、大丈夫、自分でやるってば!」
「山の水だ、油断してると体温持っていかれるぞ!? 四の五いわず大人しくしてろっ」
「ひいいい」
子供の小さい舌より、狼の広い舌で舐め取った方が話が早い。さっさとしないと秋風に体温を奪われるのは確実で、さらに、完全に日が落ちきってしまう前に乾かさねば、体温を一気に奪われる恐れがあった。だから大雑把に舐めまくっていると、勢いが強すぎるのか兎の体はガクガクと揺れた。
それから、危なっかしい子供をねぐらまで護送し、集めた『餌』とともにねぐらに押し込むと、日はとっぷりと暮れていた。その後いつものパトロールをすませ、
「……やれやれ」
渓谷が渓流に切り替わる場所、そびえるひときわ高い岩山。狼はその頂上で一息ついていた。見上げた空にはもう月は無く、星のみがさやけき光を暗闇に撒いていた。
子供の引率にだいぶ時間を食ったが、前日に『餌』を集めがてら狩を成功させていたのが功を奏し、どうにか夜明けまでに戻れそうだった。
この岩山で遠吠えするという習慣を、最近のゴタゴタですっかり忘れていたのだが、これ以上怠けて西の狐どもが増長でもしたらやっかいだ、と狼は思う。
久しぶりに高みから自分のテリトリーを見渡すと、満足感とともに小さく寂寥感がわく。
大して広くも無い領域だ。東岸の故郷、『大森』を含む広大なエリアと比較すると、空しささえ覚える。それでもここを離れられないのだから、どれだけいじましくも過去に囚われているのだろうか。
「……」
息を深くつく。あの赤い実を採った日からというもの、これまで奥底に押し込めてきた記憶が、時折堰を切ったようにあふれ出てくることに狼は困惑していた。
(ええい、全部、あのやっかいな子供のせいだ!)
「全く、あんなにおびえていたくせにこの変わりようは何だ、獲物のくせに……!」
毒づいてみても、どうにも本気になりようがなく途中でやめた。一度こほんと咳払い、しっかりと座りなおす。息を思い切り吸い込みながら、高く高く鼻先を天に伸べた。もはや視界には遠くきらめく星屑しか入らない。喉をそらし、う、ではじまり、る、へと伸びていく音を、高く高く上空へと響かせてゆく。感情にのまれ、喉のふるえが止まってしまわないように集中した。
『練習? ずいぶん熱心ねぇ』
『おう。余はいずれ一人前になって、自分のテリトリーを持って、その主になるのだっ!
そのためには努力を惜しまんぞ!』
『そっかそっか。うーん、がんばってほしいけど……。そうなると、義姉さんちょっと寂しいかも』
『……? どういうことだ』
『群れから出るってことはさ。そこで、お別れだなあって』
『!――そ、そうか。そうなるのか……』
『あれ、なあに、しょげちゃったの? あはは、大丈夫だってば弟くん。そんなのまだまだずーっと、先のことだよ』
(――そう、笑っていたのに。たとえひとり立ちしても、あんたは故郷にいて、笑っていると信じていたのに)
気づけば吼え声が途切れていた。空を睨んだまま、
「……嘘つきめ」
苦く、小さくつぶやく。しばし、狼は独り、岩山に吹く風の冷たさに耐えた。