明け方近くに、のっそりとねぐらに戻った狼だったが、
「おい……なんかその穴、深くなってないか」
洞窟へ入り、奥に座る兎が視界に入った瞬間から妙な違和感があった。赤茶の背中のカーブしか覗えない。なんだか低いところで長耳が揺れている。
「へ? ……あっそこ!」
「うおあ!?」
前方に気を取られていたら、足元の大きく盛り上がった土に足をとられて、狼は転びそうになった。
「ごめん、そこ危ないって言おうとした……んだけど」
「な……なんだこれはっ、どんだけ掘ったんだこの短時間でっ」
「ええっ、だ、だって前は隠すためだったから……」
「んで今は野放図になってこれかっ。まともに歩けんではないかっ!」
「……そう?」
「まったく、何でそう穴を掘りたいのだお前は……!」
「だって……習性なんだからしょうがないよ、埋めても多分また掘っちゃうし」
「この……!」
顎を腕に乗せるずいぶんな態度でそっぽを向く少年に、狼は一計を案じた。
兎は土を掘るとき、前脚で土を掘り起こし、後ろ脚で背後に跳ね飛ばす。つまり穴の脇には必ず、先ほど狼がつまづいたような土の山がでるわけだが、彼はそれを鼻先で思い切り突き崩した。それだけで簡単にばさばさと、土くれは穴底の兎の上に落ちかかる。
「って、ちょ! うわ、なにす……!」
「ふん、いい気味だ! 習性にあぐらをかくならやり返してやろうではないか!」
兎が何度も顔を振って、土を払い落とすのが面白くて、さらに大胆に土をぶっかける。
「うわわっ、ちょ、やめてよ! 僕は掘りたいんであって埋まりたいんじゃないのっ」
ダンダンと兎は後ろ脚で地面を叩いた。
「似たようなもんだろうが」
「ちょっと、わぷっ! まじ埋まるっ! な、なんか面白がってない!? 顔笑ってるんですけど!?」
「何のことか知らんな」
……などと平和極まりなくやりあっているうちに、ふと気づけばすっかり朝になっていて、
二匹は土ぼこりにまみれたまま慌ただしく眠りにつくことになった。
「明日こそ埋めろよっ」
「……はあい」
当たり前に、明日の話を兎とする、そんな会話が成り立ってしまうのは、考えてみれば不思議な話だった。
(どうしてこうなった)
狼は苦虫を噛み潰した。とてもじゃないが当初の関係に戻ろうとしたってもうお互いに無理だろう。だがそれで気にならないのが、腹立たしくも空恐ろしかった。
翌日、狼はパトロールも早々に、夜半ごろにねぐらに引き上げた。いやな予感は案の定的中して、
「また増えてるぞ、どうなっとるんだこのもぐらモドキがっ。寝床以外は埋めろと言っといたはずだぞ!?」
またしても怒鳴りつけるはめになった。ぼこぼことあいた穴と土くれの向こうで、兎は寝床用の穴から狼を振り返った、らしい。今や横から見たらもう耳の先しか様子がわからない。赤茶の耳がぴん、と揺れて、へたりと倒れ見えなくなる。
「ええー……せっかく掘ったのにぃ」
狼は仕方なく穴と土をよけてにじり寄り、説教をはじめた。これでは生活がままならないと。
「余の寝床まで侵食する気かっ。今いるところ以外はどうにかしろ! でないと本気で貴様ごと埋めてやるぞ!?」
「……わかったよ。じゃあ、そうだなぁ、この穴は埋めて……」
「オイ待て土をさらに掘って用意しようとするなっ。すでに山ができとるだろう、それを埋め戻すだけだ!」
「えーっ……細かいなあ……」
悪態をつく子供はすっかり狼への恐れが吹き飛んでしまっていた。さすがに頭に来て、
「ぬう、なんぞ調子に乗っとらんか貴様っ」
「ひゃ!?」
どん、と鼻筋で突き倒し、なすすべなく土を崩しながら穴の底に転がった子供の上を、狼は強引にまたいで立った。
「ちょっと優しくしてやればつけあがりおって! いいか、余の気まぐれで飼われている身であることを忘れるなよ!」
下手に抵抗すれば腹を踏まれかねない状況に、さすがに兎は口を閉じる。なんだか目は怒っている気もするが。
「ふん、わかったかっ」
どうにか溜飲を下げ、兎に背を向けると、いきなり、ぐいっと何かが狼の尻を押し上げた。
「ぬおっ!?」
たたらを踏む狼に、
「そんなのわかってるよっ! だけど、だから、せっかく作ったのにっ。僕の寝床壊さないでよ!」
と兎が金切り声を上げる。おとなしげな子供の思わぬ反撃に狼は動揺したが、いらだちもまた隠しきれない。
(わがままもいい加減にしろっ)
「なにい、キサマ間借りしている身のくせに!」
「そうせざるを得なくしてるのは誰だよっ」
「ぐぬぬ、生意気な! キサマがそういう態度なら容赦はせんぞ、こっちへ来いっ」
「うわあ、何っ……!!」
どたばたともみ合ったあと久々の体勢になる。すなわち、兎は白い腹をむき出しに、狼はその上にのしかかる形に。
「ひっ、あ……、まさかっ」
「そうだ、そのまさかだ」
べろりと舌なめずりして、
「体調が悪かろうと、余が遠慮してやっていたというのになんとも恩知らずな子供よ。ならばまた楽しませてもらおうではないか、存分にな!」
「ひいいっ」
(よしよしこれで正しい、ちょっと力関係が元に戻ったか)
と大概な思考をめぐらせつつ、さて味わうかと思い鼻先を寄せる、その瞬間に。何をどう間違ったか、
『かっこいい男になるには、第一条! 女の子に無理矢理はダメ絶対っ!』
と脳裏で義姉の記憶が叫び、
『なんだそりゃあっ!?』
「女の子じゃないだろうっ!?」
「はええ!?」
昔の自分と同じ呼吸で反射的に怒鳴り返したのに、兎がびくつき。狼はやる気が一気に失せた。のそり、と体を引く。
「……やめだ、気がそれた」
「フゥーっ……」
安堵したのか深々と息をつく子供に、
(そんなに嫌か!?)
と叫びそうになって、すんでのところで思いとどまる。
よく考えれば、雌の代わりに組み敷かれて、嫌がらない男がいるはずもない。
(この子供は力づくで脅されたから屈した、だけだ。――今もまた、そうなるところだった)
『……だいたいさあ、弟くん。女の子を無理矢理捕まえて、ホントに嬉しい? そんなことしてると、好きな子が、自分のこと好きって、思ってくれなくなっちゃうかもしれないんだよ? それってすっごくさあ。……もったいない、ことだよ?』
気づけば兎は掘った穴に立てこもっていた。耳がまっすぐに立ち狼に向けられている。警戒中らしい。ちっ、と舌打ちをして、狼は穴の手前で様子をうかがった。無理やり引きずり出せばいいのかもしれないが、今はなんだかそうしたくなかった。
「出て来い」
「……」
「嫌か」
「……」
「……、悪かった」
「……ううん」
伏せた目線の高さにぴんと立っていた耳が、少し傾く。
「……こっちこそ、怒鳴っちゃってごめん。あなたの言うことも、わかってるんだけど……こうやって穴、堀って隠れてるとさ、なんだか安心できるんだ。だから、つい」
「……そう、なのか」
「うん。ここが居場所だって、思える」
「……そうか」
思わぬ答えに息が詰まって、狼はそれ以上何も言えなくなった。ごまかすように咳払いをひとつして、足元をならして体を丸く伏せた。心地よい疲れが全身を包んでいる。
「……寝ろ」
同じ言葉を兎に告げた夜を思い出した。何とも言えない、だが決して不快ではない感覚が、胸に満ちてゆく。
「うん。おやすみ」
「ああ」
と交わし目を閉じた。
そのまましばらく時が過ぎて、さすがにもう兎は眠っただろうかと片目を開けると、穴底から身じろぐ音がする。狼はぱちりと両目を開いた。体は疲れているはずなのに、なぜかそれが眠気につながらない。
「……眠れないのか?」
「あ、……うん、なんだか頭、冴えちゃって」
「そうか、お前もか」
「うん……あのね。ちょっと、聞いてもいい?」
「……かまわんが。何だ?」
「うん……」
「……言ってみろ」
「……」
促されてもまだ言いよどむ相手に、狼は、よほど言いにくいことだなと思い、ある程度内容を推測した。子供は、ひとつ息を吸い、確認のように間をおいて。ついに口火を切る。
「あのね。……あなたは、ここで、ひとりぼっち、なの?」
(――来たか)
確かに本来、狼は群れで生きる動物だ。黒狼の現状の歪さは、この子供の目にも明らかだったようだ。
「……最初はね、怖かった。この洞窟に住む狼の仲間が他にいて、いつかそいつが現れて、
ぼくなんかあっという間に食べられてしまうんじゃないかって。故郷で、狼が襲ってきたこと、あったから。なんとなく、どういう動きなのかは、予想がついて……」
口ごもったのは、その場合の悲惨な末路を思ってのことか。
「でも、昨日今日と一緒に歩いて、わかった。どこへ行ってもあなたのにおいしか、しなくて。
なんだか、ひとりぼっち、みたいで……」
いずれ、聞かれると思っていたことだった。しかし、やはりどう答えたものか狼には分からなかった。
「……」
結果、押し黙るしかない狼の耳に、
「……ごめん、やっぱり聞いちゃ、いけないことだった……?」
沈黙を誤解したか萎縮した声が入る。赤茶の耳はすっかりしおれていて、すこし薄い色をした先端しか見えなかった。
「……いや、そうだな……色々あってな」
ようやく出たはずの声はちっとも苦くなく、さらに、
「……変な義姉がいてな、そいつのせいで群れを出た」
するりと自然に、『彼女』について口にしていた。
「お姉さん?」
「兄嫁だ。お前に薬として与えた実、覚えてるか? 赤いやつだ。あれが大好物という変わり者でな。わざわざ這いつくばって採るのは当然として、群れを巻き込んでいろいろやらかしおってな……」
狼は、そのままスラスラと義姉の「悪行三昧」を語りはじめた。
――すなわち、乗せやすい性格の大兄や弟と、競って実のなる木を探し回って泥だらけになったり、妹に「美容にいい!」とたきつけて、二匹そろって顔に塗ったくって大変な形相になったり、這いつくばるのを叔父に注意されたらされたで、実を落として採ろうと節くれた棒を振り回したはいいが、勢いあまって自分のすねにぶつけたり、実の盛りにすぐ鳥に食べられてしまうのをどうにかしようと、落ち葉で隠したはいいが自分も隠し場所を忘れたり、いっそ群がる鳥も捕まえようとして、実を餌に待ち伏せしてまんまと食い逃げされたり――
(こんな風に、笑い話として話せる日が来るとはな……)
義姉の記憶を改めて他人に話すのは、実のところ狼は初めての経験だった。最初こそまじめに聞いていた子供も、気づけば耳を震わせ、く、くくっ、と無理に押し殺した笑いをもらしている。
「お……おもしろいお義姉さんだねっ? べつに嫌わなくてもよさそうなのにっ」
「いやそんなことはない。まったく狼にあるまじき奴だった」
「厳しいなあ!」
いかにも大げさにまじめくさった口ぶりに、兎はついに噴き出した。笑い転げる子供を見ながら、狼はふと思う。
(思い出すだけであれほど辛かったのに、な)
むき出しの傷の生々しさが薄れ、代わりにありありと、懐かしさが満ちていく。どうしてだろう、と思った。それが寂しくも、ショックでもないのが不思議だった。
――その後しばらく待ってもなお、子供は無防備に笑いつ続けていて、狼はため息をついた。
(いつまで笑っている?)
「あのな、笑っとるところ悪いが、お前もあれに負けず劣らずの間抜けだぞ。またなんで岩山なぞに一人でいた、道にでも迷ったのか?」
軽い気持ちで切り返す。狼の目の前で気絶する兎も大概だ、と当てこすったつもりだった。 と、ぴたりと子供の笑いが止まった。兎の耳が素早くぴんっと立ちあがり、警戒の態勢に戻ってしまう。
「……おい?」
狼は怪訝に思った。何か、そんなに『まずいこと』を聞いただろうか。
「え、えっと……それは、言わなきゃいけないこと……かな」
返事は硬く、張り詰めた声で。何やら意図せず痛いところを突いたようだと狼は思う。
(――そういえば。これを捕えたあのとき、何かおかしくはなかったか……?)
兎が落ちてきた岩山のある場所は、山系に続く渓谷だ。岩と石、粗い砂利で構成され、土の露出はほとんど無い。穴を掘って隠れるのは難しい環境だ。つまり、この子供が単身いた場所は、彼らの隠密能力を生かせない、危険な場所だったということになる。水を求めて、群れごと生息域から移動してくる可能性も無いわけではなかったが、狼の覚えている限り、他に仲間がいそうな状況ではなかった。そうであれば気づきそうなものだ、何せ『便利な』獲物のことだ。
(では、この子供は、本当にあの場所で、何をしていた?)
考えてみればどこまでも不可解だった。
「その、あのねっ」
だが、泣き出しそうに必死な声に、
「……いや、わかった。無理をするな、何も全てを明かせとは言っておらん」
と、狼は気づけばなだめるように返していた。一度頭に生まれた不穏のさざめきは消えはしなかったが、今はことさらそれを大きくしたくない気持ちが上回った。
「え? え、だって、その……いいの?」
子供は拍子抜けしたようで、逆に困惑を深めた声を上げるが、
「おまえも、色々あったのだろう。余も言えんことぐらいある、お互い様だ」
告げると、兎は押し黙る。
「……」
張り詰めていた耳がゆるゆると下がっていった。
「さて、いい加減寝るぞ」
「う、ん……」
曖昧な返事を聞きながら、あくびをかみ殺した。ぼんやりと青い黎明の光がねぐらの入り口から差し込む。
(そろそろ、本当に眠らなくては――)
そうして、うとうとと狼が船をこぎはじめた、長い長い静寂のあとに。
「……あのね。ぼくね、群れにいたとき、ひとりじゃないのにひとりぼっちだった」
小さな声がした。
「む、……んん?……まだ寝てないのか……」
狼が半分寝ぼけて唸ると、恐縮した様子で、
「ごめん、うるさい、よね。でも、ちょっとでいいから、聞いてくれる?」
「んむ……かま、わん」
「ありがとう」
ひどく真摯さが耳に残る声だった。
「ぼく、のろくて、危なっかしいでしょ? みんなみたいに動けなくて、さ。固まっちゃうの分かってるのに、直せなくて。だから、だからね、ほんとは最近、嬉しかった。あなたと話すの、なんでかな。……楽しくて。ひとりぼっちじゃ、なくなった気がして。……ありえない、よね、そんなの。ごめんなさい……」
狼はぼんやりと兎の言葉に耳を傾け、何を言ってるかよく分からんな、と思った。支離滅裂で、くだくだしくて。はっきりしろ!と怒鳴りつけてしまいそうな内容なのに。切れ切れに、途切れそうに紡がれる必死な声に、何か、答えたくなって。
「……、おれ、……余も、な。つまらなくは、ない」
だが眠さで色々面倒になって、その場で思いついたことをとりあえず口走った。
「……えっ? えええっ!?」
声のボリュームが一気に上がる。
「……うる、さい。二度は、言わん。だいたい、おまえは、なぁ……」
(俺が、いるのに)
なのに『ひとりぼっちだ』などと言いだす子供はもしかしたら穴底で冷えているのかもしれない、と狼は思う。全く手間をかけさせおって、と言っているつもりが、実際には眠気で不明瞭なつぶやきになりつつ。狼はずるずると、兎の体温の感じられるところまで穴を這い降り、顎と尻尾で、強引にふわふわの体を捕らえ、抱え込んだ。
「ひえ!?」
「どーだ。これでひとりじゃないだろ…」
「……あの、」
そこまでやってついに意識があいまいになり、狼は深く息をつき、眠りの懐へと潜り込んだ。
眠るときに隣に体温が存在するのが、本当に久しぶりで、心地よかった。
そのまま、しばし動きと音が途絶えて。後には狼の深い寝息以外、ほの明るい空洞には沈黙が満ち満ちていた。
「……おじいちゃん」
少年のかすかな声が、その空間にぽつりと波紋を生む。
「ぼく、どうしたらいいのかな……」
緑の瞳が、明けゆく光をじっと見つめたが、それはただきらきらと埃を舞わせるだけだった。兎の子供は目を伏せ大きく息を吐く。そして自分を捕らえる黒い獣の温かな懐に、静かに身を寄せた。