『WL 4−1』 <前へ><続く>


「……お水、おいしかったね」
「うむ」
 二匹は川岸にたたずみ一息ついていた。日はそろそろ山に落ちようとしている。
日光の恩恵を失い、水辺の湿り気を含んだ空気が急にひんやりと感じられて、狼はひとつ震えた。と、兎が前脚をそろえて、せっせと顔を拭いはじめる。
「……? 何をしている?」
「あ、ちょっと顔、濡れちゃって。濡れるの苦手なんだ」
「そうなのか……その割には水に落ちたりしていたが?」
「言わないでよ、もー……あれはまだ足がなまってたからで……」
 どうやら、顔の感覚毛についてしまった水しぶきを落としているようだった。無心に目を閉じて顔をこする仕草を、狼は気づけばじっと見つめていて。
「……? なに?」
 視線に気づいた兎は目をきょとんと開いて、さらにはコテンと首を傾げた。
(ああもう、くそ)
 狼ははぐっ、と言葉につまった。
「……何でもない、さっさと」
 ごまかすようにぶっきらぼうに、帰るぞ、と続けようとし、途端はっと身を強張らせた。
「どうしたの?」
「隠れろ、早く!」
 狼は即座に動いた。子供の柔らかい体を、性急に鼻先で岩陰に押し込む。
「いいか、静かにしてろ、動くなよ……!」
 緊迫感に満ちた声に、兎は空気にのまれ押し黙った。
 途端に、川辺に不自然な静寂が訪れる。鳥の声ひとつなく、聞こえるのは水音のみ。狼は川面に向き直り、前方を睨んだ。すがめた視線の先は対岸の暗い森の中、生い茂る低木の集まりの、その奥を射る。
「叔父貴か?」
 低く呼んだ。
 す、と。枝葉を割って現れたのは、太く強靭な脚、力強く光る銀のたてがみ。血のように紅い双眸が不吉に光る。
「……珍しいな、あんたがこんな時間にここに来るとは。狩りの途中か?」
「……そのようなものだ。久しいな、わが甥よ」
 銀狼は悠然と首肯した。黒狼よりも一回り大きい堂々たる体躯は、ただ何気なく森を背後に立つだけで威圧感を感じさせる。
(なぜ今ここへ!?)
 黒狼は動揺を隠し、何でもない顔を保つのに必死だ。
 彼がかつて所属していた、そして今はこの銀狼が筆頭を務める群れは、対岸の大森の深部にねぐらを持つ。この川までは移動に時間がかかるため、これまで夜中や明け方に出くわすことはあっても、夕刻に姿を見かけたことはなかった。だから、兎を連れてくるときは必ず、
日没前には川辺を離れるようにしていたというのに。
「……さて、用件は分かっておろう? 先日の件だ。今まで一度も境界を犯したことのなかったおまえが、一体どうしたことだ」
 ゆっくりとした調子で銀狼は語った。一見穏やかそうにも見えるが、紅い双眸が時折鋭く光る。
 対して黒狼はなるべくしおらしげに見えるように、うつむいて答える。
「ああ、詫びを入れるつもりはあったが……何かと立て込んでいてな。そちらから出向いて来るとは思わなかった。すまん、面倒をかけたな、叔父貴」
「ほう、いやに素直だな。……わけを聞こうか」
「いや……里心がついたか、この季節になってみて、例の実のことを思い出してな」
「……あれか。それで見張りを――弟の制止を振り切って突入した、というわけか?」
「鳥どもに食われてしまう前に、と思い立って焦ってしまった。重ねて詫びよう、すまなかった」
「ふむ……」
 これで、納得してくれるといいのだが。ここで一度仕切りなおしにできれば何とでもなる、と黒狼は祈るように考えた。とにかく、背後を気にしているこの状況ではどうにも落ち着かなかった。
「……だそうだ。どう思うね、おまえたち?」
(くそっ)
 狼は内心舌を打つ。肩越しに振り返った叔父の背後から、金色と茶色の獣が顔を出したのだ。
(どうする!? 3対1だ、叔父だけでもやっかいなのに……!)
 焦りに頭に熱がこもる。この場を切り抜ける算段を必死で考えていると、
「ベリーを採った理由はわかったわ。でも、じゃあどうして兎穴なんかに行ったのよ!」
 妹の声に、はっと冷や水を浴びせられた。憤慨に、彼女の目はらんらんと光っている。
「あたし、じゃない、みんな元仲間として色々心配してんのよっ。なのに何やってんのよ、バカ兄貴!」
「あ、あのう、兄貴……すまねっス……」
 その妹の横で、反対にしょぼくれた表情の弟がうなだれる。
「ブル!」
「いや、ロザ姉がね……あの時、たまたま狙ってたんすよ例の兎穴を。オイラ、おやっさんとロザ姉に、テリトリーの大事だから何があったか言え! ってどやされて、もー、隠しとけなかったっスよ……」
「責めるな。弟は義務を全うしただけだろう」
 しょんぼりと尾を下げる弟をかばうように、叔父が前に出る。
「ぐっ……」
「……まあ、その件は一旦後回しだ。今日はおまえにどうしても話しておかねばならぬことがあってな。わたし自ら赴いたのだよ。……聞いて、くれるな?」
(だめだ)
 有無を言わさない様子の叔父に黒狼はたじろぐ。聞きたくない話だと、直感した。どうにかならないかと周囲を見回すが、事態を打開できる要素が見つからない。いっそ全てを放り出して逃げ出したいくらいなのに、岩陰が気になって逃げるにも逃げられない。結局なすすべなく沈黙する甥を見て、叔父はひとつうなずき、重々しく語りだした。
「……さて、おまえが出て行ってから、もう半年になるが……あの時とは少し状況が変わった。……人間どもが我らの領域に進出してきていてな、獲物の確保が難しくなっている」
 黒狼の耳がはじかれたように跳ねて、一瞬で全身の毛が逆立った。

「やつらが……っ!」
 肩を怒らせ、歯噛みして唸り声を上げる。が、落ち着け、と冷たいほどに平静な声が返ってきた。
「まずは最後まで聞け。この状況が続けば、妹も弟も配偶者を迎えようが無いし、そうして子に恵まれなければ、いずれこの群れは離散するほかない。……群れの、消滅だ」
 黒狼は息をのむ。思ったよりも深刻な話だった。それに対し叔父は厳しい表情で続ける。
「むろん、消滅回避のための努力は続けておるが、いい加減年でな……先が見えてきておる。そこで、お前が戻ってくれば、少し足しになるやもしれんと思ってな。聞けば伴侶を探すわけでもなく、日々をただやりすごしているそうではないか?」
「……それは」
 黒狼は返す言葉もなくうつむいた。そこに、
「兄貴! オイラ、オイラ、戻ってきてほしいっス!」
 懸命な弟の声がして、はっと顔を上げる。
「このまま、色々どうしてもしんどくなったら、大森を捨てて北に移る話が出てるっス……。
オイラこのまま、兄貴にまで、会えなくなるのは嫌っスよ!」
「ブル……」
 返事ができないでいるうちに、先ほどとは違い憤ってはいないものの、切実な妹の声が追い討ちをかけた。
「あのね、兄さん。あの時のこと、そりゃ辛いのわかるわよ。だけど、ひとりでいつまでも抱え込んでてどうするのよっ。あたしたちだって辛いけど、みんなで協力して乗り越えてきたのよ? こんな狭いテリトリーでさ、閉じこもってても、楽になんかならないわよっ」
「……ロザリー」
 返す声がだんだん小さくなる、息が苦しくなっていく。
(……そんなこと、言われなくともっ)
 毒づく声は外へ出て行かない。全て、彼らなりに黒狼のことを思いやっての言葉ということは、理解はできた。だが、いっそ身内だからこそ、この葛藤は分からないのだろう、とも思う。その無遠慮さが苦々しかった。彼らが述べたことが、正論であればこそ、黒狼にはそれが自身を包囲する刃の群れのように思えた。
「どうした。なぜ、黙っている?」
 低い声と共にじり、と一歩踏み出す気配がした。
「それは……そこに隠している兎の『せい』か?」
 黒狼がはっとして顔を上げると、殺気を帯びた紅い目線が正面からぶつけられる。それは黒狼の体を射抜き、貫通し、その背後に向けられて――
「ちがうっ、……!」
 とっさにかばうように立ちはだかってしまい、黒狼はすぐ気づき激しく舌打ちする。
「……、そこか」
 叔父が殺気を霧散させたのを見て、
「だましたなっ」
 黒狼は気色ばむが、
「これは乗るほうが甘いレベルだな」
 と苦笑まじりに返される。宵闇に紅い目光がすうっと細くなった。
(まずい――)
 黒狼はいよいよ進退窮まった。足元で砂利が滑る。追い詰められ、きつく睨みあげる甥と、冷たく見下ろす叔父。威嚇を含んだ目線が激しくぶつかりあう最中に。
「え? ええ? 何、どういうこと?」
「ふへ? は? 兎っすか?」
 黒狼の妹弟は話に置いてきぼりを食った形だった。突然不穏さを増した空気にうろたえる妹の隣で、ぱちぱちとまばたきを繰り返していた弟は、
「……あ、そういや兄貴、あの時兎について、いやに詳しく聞いてたっすね?それに話の途中ですっとんでっちまったし」
 と何の気なしに口を滑らせ、
「ブル!!」
「ひええっ」
 兄の大喝についにその場に伏せてしまった。
「ふむ、確定だな。おまえは今、そこの兎の子供を飼っている……のだな? 件の実はそれに与えたのだろう?」
「くっ……」
「はあっ!?」
 こちらもようやく事態が飲み込めたらしく、裏返った妹の声が川原に響き渡る。
「は、え、何それ!? あのベリーを、兎なんかに!?」
 目を白黒させている妹に、深くうなずく叔父。
「やはり独り身は侘しかったとみえる。だが、異種をもて遊ぶのに走るとは……。嘆かわしいな。狼ならともかく、種が違えば子も成せまいに。そんなことをして何の意味があるのだ」
「なんだと」
 憂う口調に反射的に噛み付いた後、黒狼はふとその感情を不思議に思った。
――なぜこんなにも腹立たしいのだろう?
 そんなこと、自分だって分かっていたはずなのに。あれは獲物で、異種で、しかも雄だ。叔父の言うとおり、何一つ側に留め置く理由などないはずなのに、どうして。
 と、短い物思いにふけっていた狼は、叔父の嘆息まじりの声に我に返る。
「……わたしはこれでもおまえのことを気にかけているつもりだ、甥よ。現実を受け入れがたいのは、しかたのないことだと思っている。……だが、ずっと逃避しつづけて、何になる?」
「……っ」
 淡々と続けられた言葉にとっさに言い返せない黒狼は、自問する。
(俺は、まだ……過去に囚われている、のか?)
 兄と義姉の顔が脳裏をよぎった。だが、それはどこか遠く色あせている気がした。
――長く続いた沈黙を了解と受け取ったのか、対岸の叔父はしばらく待ってひとつうなずくと、
「……分かったか? ならば、兎の子供は住処に帰してやるがいい。本来は食らうべきだろうが、おまえのことだ。今更それはできまい? ……復帰の件は急がん、よく考えてみろ」
 と締めくくった。そして、ふと声のトーンを変える。
「そうだ、忘れるところであった。これがこちらの岸に流れ着いていてな」
 からん、と乾いた音がした。叔父が枝のようなものを、背後からくわえて引きずり出したのだ。そのまま首を振る動きで、ぶん、と高く放る。それは川の上空を風切り音を立てて飛び、がしゃんと、派手な音を立てて此岸の砂利に落ちた。反動でからり、と鳴るそれは、節が多く大きくて特徴的な、
「角か……?」
 兎と出会う直前に戦った、あの老鹿の角の片方がそこにあった。流された拍子にどこかで引っかかって頭蓋から折れたのだろう、根元が大きく欠けていた。
「これを見ていると鹿が食いたくなる、目の毒だから持って帰れとおまえの妹が」
「おじいちゃん!」
 と、突然の悲鳴が重苦しい空気を切り裂いた。
(なに!?)
 とっさのことに黒狼は、薄茶の塊が背後から突進し、視界の隅を抜けていくのを制止しそびれた。角の前で、つんのめるように兎の体は止まり、次の瞬間ひゅっと息を飲み。涙声が小さく叫ぶ。
「おじいちゃん、やっぱり……!」
「なぜ、出……っ?」
 そのままくずおれる兎に、黒狼の声はしりすぼんた。子供はもはや、誰の声も耳に入らない様子で、深くうなだれている。
 黒狼は咄嗟に後を追おうとして、しかしたじろぎ止まる。何か、猛烈に嫌な予感がした。致命的な失敗に気づいてしまったような、嫌な感覚だった。
(何だ、これは、何だ……っ)
 困惑する黒狼の毛並みを、湿った風が吹きつけ大きくかきまぜた。いつしか重く垂れ込めた雲が夕方の空を覆いつくしていて、橙色の光は厚い雲の暗灰色と混ざり合い、全天を不気味な色合いへと塗り変えていた。
「……そうか、なるほど。君だな? あの老鹿の行動を変えたのは……」
――そして、銀狼の平静な声が沈黙を破った。
 兎の耳がゆるりと立つ。黒狼も、内心穏やかでないながら、とりあえず耳をそばだてた。
「子供よ、そのままでいい、聞きなさい。その鹿は我らが領域内の大森より来た。我らはずっと彼を追い続け、襲撃のチャンスを伺っていたが、途中で見失ったのだよ。
 鹿の動きには疲れが見えていたから、捕捉は時間の問題と思っておったのに、なぜ取り逃がしたのか。わたしは不思議に思い調べることにした。足跡をたどってな。すると、彼の歩みは、途中からむしろ早まったと読み取れた。ますますもって不可解だったが、今理解したよ。その要因は、……君だな?」
 兎はうつむいたまま震え、顔も上げようともしなかった。ただ食い入るように、足元の片角を見つめる。
「かの実の付近に、兎の足跡が残っていたのだよ。今の今まで偶然だろうと気にもとめていなかったがな。君の与えた実によって、わずかなりとも体力を回復したのだろう、君の――『おじいちゃん』は」
 深く、力なくうなだれながら、それでもはっきりとひとつ、うなずいた子供を見た瞬間。
黒狼の脳裏に稲妻のように走る記憶があった。
(あれは、まさか――!?)
 鹿と戦う直前、そして兎を捕らえてしばらく。どちらも覚えのある甘い香りを感じた。あれは、たしかに。あのなつかしい実の匂いと同じものだった!


――頭ががんがんと痛む。空気がきなくさい。周囲の世界は急によそよそしくなり、あらゆる感覚が遠い。黒狼はどうしようもなく動揺し、必死に口を開いて空気をとりこもうとあえぐ。
 だがその混乱の中に、はっきりと蘇る声を聞いた。
『逃げて、弟くん!』
 義姉が苦痛の中で無理矢理笑みを作った顔に、
『おまえには、行かせんよ』
 青ざめたすさまじい笑みが重なる。そして今、老鹿の残骸でしかない、乾き折れた角が目前に厳然としてある。
(俺が……、俺が奪った……!)
  頭から思い切り地面に叩きつけられたような衝撃だった。息が止まり、目がくらむ。
何も考えられないでいるうちに、ひたひたとおそろしい痛みが近づいてくる――


 湿気が増して、不快な生ぬるさが空間を満たしていった。絶句したままぴくりとも動けない黒狼にも、時間は無慈悲に流れる。湿った突風に、ざわざわと森の木々が大きく揺れる。雨はすぐそこまで来ているようだった。
 重苦しく凍りついた時を断ち切るように、銀狼がひとつ嘆息し、口火を切る。
「……何とも、奇妙なめぐり合わせよな……。しかし、やはり、その子供は帰してやるべきだ。
互いに正しい距離を置き、本来の居場所に立ち返れ」
 黒狼は、できれば思い切り反論してやりたかった。人の未来を勝手に決め付けるなとわめき散らしてやりたかった。だが、できなかった。心も体も他人のもののように実感がなかった。
「……では、2日後にまた様子を見に来よう。そのときまでに答えを出しておけ。いつまでも血迷うようであれば、おまえ自身では解決不可能と判断する。――よく考えて決めろ」
 言葉尻にはすでに黒狼に背を向け、歩み去る銀狼に、金と茶の狼は慌てて後を追う。砂利を踏む音が、土くれや葉の柔らかい音に変わっていった。





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