『WL 4−2』 <前へ><続く>


 静寂がほの暗い川面に漂っていた。ぽつ、ぽつと上空から水滴が落ちて、川原の石の表面に黒い点を作る。黒点ははみるみるうちに増えていき、同調するように雨音が響きだす。
 それから少しして、視界の全がすっかり濡れそぼってしまってから、黒狼はようやく身じろいだ。下を向いていた目線をのろのろと前に向けると、座り込んだまま動かない兎の背中が、遠く雨のなかかすんで見える。

(……っ)
 狼は風穴を開けられたかのような胸の痛みに耐えて、砕けんばかりに歯をきしらせ、
「……い」
 それでも、どうにか喉から声を絞り出した。
「おい」
「……」
「興がそげた。どこへなりと行け」
 奇妙に平板で乾ききった自分の声を、どこか他人事のように聞く。
「……え?」
 かすかに耳に入った音に、黒狼は背筋か寒くなった。怖いほど力無い声だった。
「逃がしてやると言っているのだ。嬉しくないのか」
「……でも」
 か細い声が、しかしためらう。
(――くそ!)
 狼はかっとなって、無意識に閉じていた目を、大きく見開いて叫んだ。
「行けと言っただろう、聞こえなかったのか!! 目障りだ、さっさとここから出て行け!これ以上余をわずらわせるなっ。次にその腑抜けた顔を見せようものなら、その場で食い殺してくれるぞ!!」
 勢いのまま怒鳴りつけて、最後には息が切れた。意図せず、怒声に凍りついたウサギと目線がぶつかる。見開かれた丸い目には恐れの色以外読み取ない。その結果にさらに追い討ちを受けて、狼は大きく体を傾がせ、
「……っ」
 その勢いのまま一気に向きを変え、一瞥もくれず川原を走り去った。後ろを振り返ることが、ただただ恐ろしかった。




 ごうごうと雨風が鳴り、その摂理に逆らおうとするちっぽけな獣を際限なく殴りつけ続けていた。
 ふと我に返ればどこをどう通ってきたものか、狼はいつもの岩山の頂上に尻を落として座り込んでいた。肩でぜえぜえと息をつく自分に、かけらも現実感がない。ぼたぼたと、うつむいた顎先から水滴が落ちる。ぎくしゃくと天へと鼻先を向けると、吼え猛る風の中でぶ厚い雷雲が渦巻いていた。横殴りの雨に容赦の無い一撃を食らって、男はたたらを踏む。
 星など見えない。何一つ。それは天すらも、「祈りも懺悔も届きはしない」と彼に告げているようで。
(兄さん、義姉さん――)
 口だけが、空しく動いた。声が前に出ていかない。
(俺、ひとりだ)
――どうしてこうなってしまうのだろう?
(また、ひとりぼっちだ――)
 獣が、誰かといたいと思うのは間違ったことなのか? 永遠にかなわない幻想なのか? 記憶の中、仲間とともに日々笑い転げていた頃の自分が、はるかに遠く、狼の脳裏に浮かんだ。
「……っ!」
 けして届かぬそれに牙をたて、噛み付くように。その喉から声が滑り出した。それは、遠吠えの体裁を借りた、ただの泣き声だった。かつて大切なものを喪った日から、長い間堪え続けてきた慟哭だった。吹き付ける風に息継ぎを阻害され、あえぐようにしながら、何度も、何度も、叫び続ける。
 そうして、どのくらい壊れたように答えなき空に吼え続けていたのか、わからなくなるほどの後に。
「――さんっ」
(なんだ?)
 幻聴だろうか、と狼はぼんやりと思う。だとすればなんて都合の良い妄想だろう。事ここに至ってまでも、利己的な自分に心底嫌気がさす。
「狼さん……っ!」
 こんな天候の下ならば、岩陰にでも隠れて雨をやり過ごすのが野生動物として正常な行動だ。いくらあの子供とはいえ、この嵐の中、吹きさらしの山の頂上を目指すほど馬鹿ではないだろう。ましてや、あの兎にとって狼は「仇」のはず。そのくせさんざんに弄び、振り回した挙句に、あれだけひどい言葉を投げつけた上、「勝手にしろ」と身柄を放り出したのだ。
(こんな奴をかえりみるなど、あるわけが――)
「い、た……! 狼さん……!」
「……な」
 それは、濡れ鼠になった薄茶のかたまり。滝のように流れる雨水で、滑りやすい岩にどうにか爪をつき立て、小さな体で這うようにして上ってきた姿は、狼の目にはあまりにも異常なものに映った。
「な、ぜ……?」
 わななく声が狼の喉からもれる。それに対し、
「来たかったから」
 兎は即座に切り返した。いつものおどおどした態度が嘘のような、はっきりとした声だった。
「……殺されに来たのか?」
「どうだと、思う?」
 少年は小首をかしげ、かすれた声で告げ、口をつぐんだ。そのままじっと真正面から狼を見つめる。兎がはじめて見せた、挑むような目つきだった。一瞬ひらめいた雷光に照らされた瞳は、きらきらと緑が美しい。
 狼はまず、なじられるのかと思った。叔父の話と状況を鑑みるに、兎にとって、あの老鹿は大切な存在だったのだろう。それを奪われ、さぞや憎かろう、恨んでいるのだろうと。だが、沈黙が。二匹の間に横たわり、聞こえるのはただ風の唸る音のみ。
(どういう、ことだ……? こちらの出方を待っている、のか……?)
――ならば、果たせということだろうか。捕食者として「正しい役割」を?
この岩山のふもとで兎と出会ったとき、狼が正しくなすべきだったことを――
 そう考えついて、そのせいでより深い虚無感に飲まれ、だがそれ以外の思考が浮かばず。仕方なく、狼はきちんと前脚をそろえて座った兎に、のろのろと近づく。そうして、兎の肩を前脚で勢いもなく突き、その身を濡れそぼった岩の上に倒した。ぐっしょりと濡れた白い腹を見下ろして暗澹たる気持ちになる。しかし、他にどうしたらいいのかもう分からない。
 ゆるゆると口を開く。そのままくわえるようにして、あらわにした牙を兎の喉にあてた。あとは口を思い切り閉じるだけだ。それだけで終わる。なのに。
(……っ)
 鋭い牙の下で、兎の喉がゆっくりと動いていた。呼吸のための自然な動き。
 生きている。まだ、これは生きている。
(――くそ……!)
 狼は耐えられなくなって、目をかたくつぶった。すると視界が遮られた分、匂いだけが際立ってしまう。
 冷たい雨の匂い、岩の濡れるほこりじみた匂い、そして、……兎の匂い、草と日の香り。
脳裏に浮かぶのは、子供の疲れたような冷めた目、困ったような笑み。そして傍らで笑い転げる無邪気な姿。その全てが――

「――う……」
 気づけば狼の喉からはしゃがれ声がころげおちていて、しまったと思ういとまもなく反射的に見開いた視界がゆがみ、鼻腔の奥がきつく痛んだ。肺腑がひきつれ、勝手に子供のようなしゃくりあげが始まってしまう。大粒の雨に、目許からボタボタとこぼれたものがまぎれたのはせめてもの幸いだった。
 ムキになって、目を見開いたまま激しい発作に耐える。胸の苦しさに一杯一杯になっていたら、ふいに、それは来た。ゆがんだ視界の端で薄茶が動く。
(え、……)
 何かが狼の鼻筋に触れていた。あたたかい息がかかったのを感じたと思ったら、今度は柔らかな感触が鼻先をくすぐる。そして、温かく湿ったものに、何度も、何度も冷えた頬をなぞられて。
 その控えめで優しい動きに、何をされているのかようやく理解が追いついて、声をあげるより先に、狼の中でこらえていたものが決壊した。
 前が、見えない。塩辛いもので鼻も口も埋め尽くされていく。思考を凍りつかせたまま、がくがくと身をふるわせるしかない、名ばかりの捕食者に。被捕食者の静かな声がかけられる。
「……ね、ぇ。なかない、で……?」
「……っく、ふ……! ……ふ、ふざける、な、貴様……! っ俺、いや余はないてなど、ないっ」
(馬鹿にするな。そしてお前は何なのだ。おまえこそ馬鹿の中の馬鹿ではないか。そんな貴様に馬鹿にされるいわれはないぞこの馬鹿め)
 ひっきりなしにこみ上げる嗚咽に邪魔され、内心の毒づきをほとんど吐きだせずに、脳内のみで相手を罵っていると、その馬鹿はまさに馬鹿らしいというか、いっそ狂っているというべきか、まさかの、柔らかな笑みを声に乗せた。
「……ふ、ふ、ほんとだ、ね……びしょぬれで、わかんない、ね? じゃあ、同じ、でしょう?
ぼくが、なめてあげたい、んだ。……あなたが、泣いてても、違っても、同じ、だよ……?」
(本当になんだ、おまえは。何なのだ、余の)
 わけがわからなくなって、たまらない気持ちで、狼は叫ぶように告げる。苦く、罪悪感のざらつく、だがそれでも、どうしようなく甘さをふくんだ胸のままで。
「愚かな子供だ……!」
「うん、そうだね……」
「あのジジイに申し訳ないと思わんのかっ……!」
「思う、よ。すごく……。でもだめなんだ。とめられない」
「どうしてっ」
「ぼく、もう、あなたに捕まってしまった、から。――こころが。だから、ねえ、なかないで。あなたがなくとぼくまでなきたくなっちゃう、んだよ? だって同じ、だから」
 そのささやきは小さい音のはずなのに、ふきすさぶ風雨に消されることなく、狼の全身に響き渡ってゆき。ついに抵抗できなくなって顔を伏せ、小さく愚かな少年の肩口に、手加減なくぐりぐりと口吻を押し付けた。なのに、痛いよ、と笑う子供に、男の肺腑はぐう、とつぶれる。衝動的に脚を折り、腹と腹を密着させた。べちゃり、と水分が毛を抜けて四肢に染み渡り、冷たい。何をしているのかと狼自身ですら思うのに、馬鹿な兎は嫌がるそぶりすらない。むしろすりすりと顎を、狼の喉元に押し付けるのだから、
(ああもう、全く――)
 互いの胸の、熱くて爆発しそうな塊が落ち着くまで。二匹はそのまましばらく、吹きさらしの中で動けずにいた。

「……」
 すこし気持ちが落ち着いた頃、ふと気まずくなった男はそそくさと起き上がり、少年の上から退いた。と、同時に解放された兎の身がぶるりと大きく震えるのが目に入る。
「……なっ、どうし……!」
 狼は驚いて兎の顔を見た。ようやくはっきりと見えたその顔は、困ったように笑っている。しかし体の震えはとまらない。むしろみるみる大きくなるさまを目にして、混乱しつつもふと、その理由に思い当たった狼は、
「……濡れるのは苦手だと言っていたな」
 呆然とつぶやく。
 そして次の瞬間大きく息を飲み、まなじりをきつくして、
「……体温が維持できんからか!」
 叱る口調で叫んだ。
「う、ん、……ごめん、ね……」
 声すら震わせながら、まだ笑っている子供に、
「……っ、だ、だからっ! そういうことは早く言えといったはずだこの大馬鹿者がああぁ!!」
 狼はいつかのように裏返った声で叫んだ。だがすぐに気を取り直し、すばやく兎の首筋をくわえこむ。
「じっとしてろっ」
「ふぁ、い……」
 嵐もなんのその、黒い獣は生まれ変わったような迅速な動きで岩山を駆け下ってゆく。
目指すは安心できる乾いた場所、そう、あのねぐらへ。
(連れて、―――帰るのだ)
 狼はどこか誇らしく、そう思った。





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