『WL 5−3』(完結) <前へ>


 日差しを失い夕闇に包まれた川原は、妹弟狼の姿も既になく、ひどく静かだった。かすかに鳥の声と水の音だけが響いている。
 駆けどおしだった銀狼は、大きく息をついてしばし呼吸を整え、おもむろに耳を立てた。
 と、からん、と唐突に石が鳴った。あまりにも不自然な音が、明敏な聴覚の中で響く。
「……そこか」
 銀狼は機械的につぶやき、川原の岩陰に脚を進めた。
「ずいぶんと手こずらせてくれたものだ。『祖父』ともども賞賛に値する……だが」
 ゆっくりと近づいても、そこには何の動きもなかった。諦めたか、と銀狼は思い、
「我らにとっては毒だ。排除させてもらう……!!」
 低く叫んで突進する、そこへ。
 ばらばらと硬いものが砂利にぶつかる音が響く。
「なにっ」
 銀狼が反射的に振り仰ぐと、岩山からの落石が目に飛び込んできて。
「ぐう!?」
 とっさに横っ飛びに回避する銀狼だったが、完全には避けられず後脚に直撃を食らう。
「なぜ今、……っ!!」
 銀狼は信じられない、と目を見張った。岩山の斜面に兎の姿があったのだ。
泥でもかぶったのか毛並みは黒く染め替えられていたが、それは間違いなく銀狼が始末しようとしていた兎だった。
「……なぜ匂いがっ、……そうか!」
 これほど近くにいながら匂いに気づきもせず、音がする方に引き寄せられてしまった理由に、銀狼はすぐに行き着いた。
「時間とは……日没か!」
鼻を高く上げて感じるのは、川下からの水の匂い。先ほど甥と会話した時とは匂いが変化している、すなわち風向きが変化したと理解した銀狼は、ついに感嘆の唸りをあげた。
「なるほど、な……! 不肖の甥がここまでこだわる理由がわかった気がするぞ、子供よ。
いいだろう、見くびっていたことは認めよう。だが、だからこそ貴様は危険だ。何としてで
も排除する!」
 細めた紅目にはじめて正面から睨みすえられ、子兎は目を緊張で見開き、毛を逆立て身構えた。と、そこへ、
「逃げろ、兎っ!」
「なにっ」
 岩山の陰、すなわち風下から黒狼が飛び出し、銀狼へと肉迫する。もつれあう二匹の足元にばたばたと血が落ちた。
「貴様、その脚でっ」
「この程度で諦められるか!」
「ええい、うっとおしい!」
「させん…!」
 どうにか相手を振り切り岩山を駆け上がろうとする銀狼と、意地でも食らいつく黒狼。二匹が激しくぶつかり合う場所を避け、回り込みながら兎は急勾配を駆け下りる。
「狼さんっ……!」
 少年は不安げに後ろを気にしつつ崖を降りきろうとした、が。
「あっ」
 ここまで奇跡的に失敗なく動けていた体が、とうとう兎を裏切った。最後の崖で足をとられ、転落し、勢いあまってその身が川原へと放り出される。
「んあ……っ!」
 衝撃に目を白黒させながら、それでも必死にもがき走り出そうとする兎の前に、
「鬼ごっこは終わりだ!」
「やめろーっ!」
 食い下がる黒狼を強引に振り払った銀狼が、背を牙にひっかけられ鮮血を振りまきつつ、段差の上から飛び降りた。
「ぐう……!」
 四肢に走った衝撃をどうにかねじ伏せ、銀狼はゆらりと立ち上がる。紅い目は血走り、より強く殺戮の気配を感じさせた。
「……あ……!」
 すぐ目の前に立ち塞がられ、兎はじりじりと下がるしかない。迫力に圧倒され、口はぱくぱくと動くものの、もはや逃げられそうにもなかった。いっそ時が止まったかと思えるほどの重苦しさの中、一瞬で兎を絶命させる牙が、迫る、その時。
 こん、と兎の後脚に何か枝状のものが当たった。
「死ね!」
 兎は目をつぶって、とっさにそれをくわえて振り回した。
「!?」
 鼻筋に痛みの線が走り、ひるむ銀狼。その目前には鋭い先端がつきつけられていた。
「これは……!」
 それは、主を失ってなお強靭さを失わない、あの老鹿の大角だった。
「……!」
 がくがくと震える体を奮い立たせて、必死で武器をかまえる兎に、銀狼は一瞬、だが確かに、手を出しあぐねた。その隙に、
「うおおおおおっ」
 脚を引きずりながら岩山を駆け下りた黒狼が、最後の段差で跳躍し、そのまま突っ込んできて。疾走と落下と跳躍、三つの勢いをまとった渾身の体当たりが、銀狼の腹に決まり。
「ぐ、ああああっ!! ……うぐぁっ!」
 大きくはじき飛ばされた銀狼の体は、その先にあった大岩に背中から激しく叩きつけられ、そしてずるずると滑り落ちた。


「は、はぁっ、はぁ……っ、や、やったか!?」
 息を乱しながら黒狼はその場にへたりこんだ。余裕のない目つきでくずおれた叔父をうかがう。
「……!!」
 兎はといえば声も出ないようだ。体躯に見合わない巨大な角をくわえたまま震えている。
「く、そ……っ、こんな……」
 と、小さな声が前方から聞こえた。
「っ!」
 黒狼は流血したままの前脚を踏ん張り、即座に身構える。よろよろと起き上がろうとする銀狼に、
「っ! まだやるか……!」
 と威嚇をぶつけ、尾をぴんと上げて背後に兎をかばった。
「……!」
 兎は今にも取り落としそうだった大角をどうにかくわえ直し、狼の傷ついた脚を守るように張り付く。二匹は並び立っていた。互いをかばうように、死角を埋めるように。同じ黒の二匹は一対に見えた。
「……」
 銀狼はそれを苦々しい顔つきで眺めた。そして慎重に動こうとして、とたんずきりとうずく背に、小さくうめく。どうやら、大岩にぶつかったときに、傷をさらに痛めつけてしまったようだった。
「っ……くだらん、なぜそこまでする? おまえたちは異種だろう。狩人と獲物の関係のはずだろう?」
「……違わないさ。同じだ」
 低く糾弾をはじめる叔父に、攻撃態勢をとっていた頭を少し上げ直し、甥は静かに応じた。
「一度でもそう思った者をただの獲物あつかいにすることは、俺にはできない。それがどうしても許せぬなら、俺の命で贖おう。ただしその場合、こいつは自由の身にすると約束してもらうがな……」
「だ、だめ……!」
 ちらりと飛ばされた視線に、兎が飛び上がって反論した。大きく開けた口元から、枝角がからんと落ちる。
「ぼくが、ぼくがいなくなればいいんでしょ!?」
「それは許さんと言ったはずだぞ!?」
「ぼくだってだよ!」
「……よく、分からんよ、わたしには」
 空気を読まず、うっかり阿吽の呼吸で口論をはじめてしまった二匹に、銀狼は呆れたようだった。ため息を深々とつき、陰鬱な口調で続ける。
「おまえたちの末路に希望があるなど思えん。いずれ食い食われる結末が待っているだけではないか。遅いか早いかの違いだけだ。なぜそこまで抗う……?」
 銀狼は、げほりと咳き込んだ。そうしていると彼は、急に老け込んで見えた。
「……そうしたいと、心から、思った。それだけだ」
 かつて。兄夫婦にべったりの、年相応の甘えん坊にすぎなかった子供が。そして憧れを失ってからというもの、自暴自棄に荒んだ目つきしか見せなかった少年が。今はまっすぐな瞳で、背を伸ばして宣言するのを、老狼はただ黙って見つめていた。
「他の群れに対するあんたの立場も分かっている。何ならこのテリトリーを譲渡し、我らは出て行ってもかまわない。ただし……」
「……」
「その場合我らの命だけは保障してもらいたい――頼む、叔父貴」
 黒狼は明確な意思をもって告げ、そして、頭を下げた。それは言い訳や攻撃のためではなく、正しく年長者を敬っての仕草だった。
「は――そこだけ、叔父と呼ぶか……。まったく現金な男になったものだ、な……」
 と、一瞬、銀狼の口元が、わずかにゆがんだ。左右いびつに、だが明確に吊り上ったそれは、一応苦笑と呼べるもので、黒狼ははっとする。
「……まったく、面倒がすぎる。これ以上わずらわされてはかなわん。時間の無駄だ」
 が、次の瞬間には、どこまでも温度のない口調が戻ってきていた。銀狼は冷めた顔つきで二匹の黒い獣を一瞥し、
「何度も言ったが、こんな貧弱なテリトリーなぞ欲しくもない。勝手にするがいいさ。わたしはもうあずかり知らぬことだ」
 あっさりと踵を返した。黒狼は、川の方角へと去ろうとするその傷ついた背を、ただ黙って見送った。
 ざぶざぶと水を蹴立てる音がしてはじめて、
「あ、あの……!」
 兎がはっと我に帰り反射的に声を上げる。
 銀狼は流れの中で振り向いたようだった。闇に包まれゆく世界の中で、紅の瞳のみが静かに光る。
「……子供よ。おまえは狼だ。その男と並び立ち、牙を持つ狼だ。……そういうことにしておこう」
 とぼそりと低い声が聞こえ。それを最後に、水音は少しずつ小さくなっていった。



 と、沈黙の降りた川原に、狼の忌々しげな唸りが響いた。しゃがみこむ黒狼に。
「あ、あの! 怪我、大丈夫!?」
 兎が飛んで駆け寄るが、じろりと険しい金目に出迎えられて、ひっとすくみ上がる。
「ああ、歩けないほどではない、が……違う! そうではなくてだな! 全く……肝を冷やしたぞ……!!」
「へっ、ちょ、なに、怒ってるの!?」
 面食らう兎に黒狼は食ってかかった。地団太でも踏みそうな勢いだった。
「当たり前だ! いざとなれば岩山に隠れていろと事前に言い置いてあったろう!? なぜ叔父貴に石をぶつけたりしたのだ!!」
「あ、あああああの、ぼく……うっかり石、一つ落としちゃって。だからすぐ、見つかっちゃうと思って、それで……!」
「なにい!? あれはいつものうっかりだったのか!?」
 てっきり逸った少年の暴走かと思っていた黒狼は、仰天して叫ぶ。きっかけがまさかの『事故』だったとは!
「い、いつもって言うなよぉ!」
「はぁ!? あーんな大事なときにやらかしておいて何を言う! それに、だからと言ってあそこで叔父を刺激してどうするのだ! 風下から回り込んでいた間、余は気が気ではなかったのだぞ!? 焦って近づいて存在がばれたら不意打ちにならんし、手を出すに出せんで……!」
「う、ううう、ごめ、ごめんなさ……っ、ぼく、やっぱり、足ひっぱって……!」
 安堵の反動か容赦なくまくしたてる狼に、兎はいきなりぼろぼろと泣き始めた。こちらも安心したのか、感情のタガが外れ気味のようだった。
「あ、わ、こ、こら泣くな!」
「む、むりぃ、なんか、こう、がまんしてたのが……っ、ふええええ」
 ひぐひぐと盛大にしゃくりあげたのを見て、狼は慌てて少年をなだめ始めた。黒い尻尾が内側にくるんと巻く。
「い、いや、わかった、そうだな……、最後はよく踏ん張ったぞ! まさかあそこまでおまえがやるとはな!」
「う、……ぐす、っ……、ほんとう?」
「ああ。よくあそこで角のところに行ったな!」
「なんか、よんでた、きがしてっ。おじいちゃん、おじいちゃんが……!!」
 形見で戦った記憶が涙腺をさらに刺激したらしい。うわあああんと号泣しながらすがりつかれ、狼はよしよしと、兎の頭を顎で擦る。
「……ああ、そうだな。やつのおかげで勝てたようなものだな……」
 つぶやき、そっと尾で囲い込むと、兎の泣き声はいっそう高くなった。
(この頼りない『孫』は俺が守ってやる。これからも、ずっと……おまえには業腹かもしれんがな、ジジイ)
 どこかから、からからと笑う声が聞こえた気がした。そして、そこに重なって兄夫婦の笑い声も聞こえた気がして。
(勝手に笑ってろ)
 と狼は宵闇につぶやく。深い青に包まれた空には、早くも一番星がまたたきはじめていた。


「……帰るぞ」
「うん……」
 しばらくして、泣きすぎて逆に静かになってしまった兎がこくりとうなずいた。疲れたように目をしょぼつかせているので、苦笑した狼は長い耳をカプリと甘噛みし、「んひゃ!」と奇声を上げさせた。
「な、なにするんだよぉっ」
 子供の情けない目つきに、腹の底から笑いがこみ上げてきて、狼は思い切り破顔した。
「なんだ、その声!」
「いきなり変なことするのが悪いんだろ!?」
「ほほう、変なこととはこういうことか?」
「ぎにゃ!? うひ! あ、ちょ、それだめ、ひいいいい!」
「ははははっ」
 兎の悲鳴に、狼の屈託のない笑いが被さる。罪のない悪戯をされまくってむくれた兎も、途中で「へへっ」とつられたように笑った。

――そうして、狼と兎、不思議な取り合わせで並んだ足跡が、どこまでも、どこまでも草原へと続いていくのだった。





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