『WL 5−2』 <前へ><続く>


 そして、約束の日。夕日に照らされ橙にきらめく川面には、またも硬い沈黙が漂っていた。
「……決心はついたか?」
「……ああ」
 東岸には、銀と金と茶、3匹の狼たち。そして対岸には、山脈に落ちようとする太陽を背負った黒い獣が1匹。
「……ようやくおまえもまともになったか」
 銀色の叔父は、肩の荷が下りた、といわんばかりに首をすくめた。よくよく見るとその頬に白い毛が混じっていることに、黒狼は今更気づく。一瞬眉を上げたが沈黙を保った。
 反発しない様子を見て、少し不審そうな顔をした銀狼だったが、
「では、渡ってこい。早速こちらの現状を説明せねばならんからな」
 と告げた。決定事項をそのまま口にしている平板さだった。
「ふむ。その前に聞きたいことがひとつあるのだがな、叔父貴」
「……? 何だ、手短にしろ」
 紅の瞳が何気なく光るのを見て、
(ああやはり茶番か)
 と黒狼は思った。
(この男がこちらの言葉をそのまま鵜呑みにするなどありえない話だ。一旦信用したふりをしただけなのだろう、そつのないことだ)
 と、負けず劣らず冷静で余裕に満ちた思考に、黒狼は自分でおかしくなった。
 全く、これから大博打をしようというのに。
(あいつらがうつったかな?)
 脳裏に浮かぶのはもうひとりの黒狼と赤狼のいたずらな笑み、老いた鹿のタチのわるい笑み。
「なあ。今いるこのテリトリーはどうするべきだと思う?」
「何を言うかと思えば。そんな獲物に乏しい土地に固執してどうする。放棄しろ」
「それは、おかしいな。このテリトリーは俺の個人所有のはずだぞ? 俺、まがりなりにもひとり立ちしたんだよな? あんたはあの時、それを認めたはずだろう?」
「……何が言いたい?」
 問われ、黒狼はふいに目線を切った。会話の最中としてはあまりにも無礼な態度に、銀狼の眉がぴくりと上がる。
「まあ……ガキ扱いも大概にしろって話だよな。もともとそちらが危機的状況だから助けてくれって話だったろうに、ずいぶんと俺は軽くみられたようだな、なあ、叔父貴よ?」
 つい、と黒狼は鼻先を上げた。黄金の目が西日を取り込み底光りする。内包されるのは、――誇りと威圧。
「まったく、舐めてくれたもんだよ」
「……言わせておけば。感謝してもいいぐらいだろう、出奔したおまえを迎え入れてやろうというのだぞ?」
 銀狼は冷淡に返した。決して揺るがないその態度には、数日前の黒狼ならば簡単にひるんでしまっていただろう。だが今は、不思議と少しも脅威を感じなかった。
「だから、あのな。出奔じゃなくちゃんとした独立だったろうあれは。今更すげ替えるなよ」
 鼻を鳴らして年長者を見下す黒狼に、息を飲んでたたずんでいた妹と弟が目をむく。
「ちょ、馬鹿兄、あんたさっきから何言って……!」
「は、早く謝るっスよ兄貴!!」
「……どういうつもりだ、貴様……この2日で何があった? いや……あの子供か。何を吹き込まれたのだ?」
 さすがに不審と不快を抑え切れなかったか、銀狼が低く頭を下げ、若輩者を睨みあげた。――攻撃態勢だ。
 それに対しても全く動じず、黒狼は開き直ったかのように笑う。
「俺は、俺だ。ここであいつと生きたいと、俺が決めた。それに、いいかげん、鬱屈したまま過ごすにも飽きた」
 その返答に、銀狼は威嚇のつもりか、じり、と一歩踏み出した。本気の色を宿した紅目に対して、だが金目もまた一歩も退かない。
「それをあんたにどうこう言われる筋合いはないな……!」
「……っ!」
 と、爛々と光る瞳に何を見たか。じわじわと川に接近する銀狼の足取りに、一瞬だけためらいが生まれる。その瞬間、黒狼は身を翻した。はっと見上げた元仲間たちを、飛び乗った川原の大岩から肩越しに見下しつつ、
「文句があるなら、ここまで来い。相手になってやる!」
「ちょ、ま、待ちなさいよ!」
「兄貴!」
 とっさに動き出そうとする妹と弟の動きに対し、黒狼のあざけりが飛ぶ。
「は、3体がかりか? この程度の挑発で、ずいぶんとみっともないな、叔父貴!」
「な、なんてことをっ……!!」
 わなわなと震える金狼をたしなめるように、銀狼は背後の彼女に、振り返りもせず低く告げた。
「構わん、何を粋がっているのか知らんが、一時的な妄動だろう。あやつなどわたし一人で十分だ」
「でも、おやっさんっ!?」
「おまえたちにはそちらのパトロールを。この隙に余所者に入り込まれでもしたらかなわん。頼むぞ」
 弟狼の声にも動じず全く揺るがずに続け、銀狼は迷いなく岸を蹴った。飛び石を軽々と飛び渡り、西日の中へと突っ込んでいく。対して後光のように陽を背負った黒狼は、くくっ、と笑って一気に駆け出した。自らのテリトリーの奥へと『獲物』を誘い込む。
「来いよ叔父貴! あんたとの決着をつけてやる!」
 朗々と響いた黒狼の叫びは、紛うことなき開戦の合図であった。



 乾いた草がはじけて飛んだ。黒と銀の色が二本の矢のように、夕景に広がる草原を貫いてゆく。滑らかに、だがすさまじい勢いで流れる景色の只中、銀狼の攻撃はまず舌から始まった。
「先ほどは感心したぞ、おまえがわたしを挑発するとはな! めったに頭を使わないことで知られたおまえがっ」
「ふんっ、まんまと乗せられておいて今さらだなっ、負け惜しみか!?」
「一度は自立を期待した甥へのせめてもの情けだ、後で不利だ何だと言い訳できぬ状況で戦ってやろうと思って、な!」
「せいぜい今のうちに言いたいことを言っておくがいい、その余裕こいた態度必ず後悔させてやる!」
「それができると思うならやはりおまえは愚かなままだよ! まったく、それほど、あの子供が大事か!?」
「答える必要は、な……っ!?」
 怒鳴り合いながらも全力で先行していたはずの鼻先に、銀狼のそれが並んで黒狼はぎょっとした。
「ふん、このような狭苦しい領域で暮らしているうちに、足がなまっているのではないか!?」
 横目でその様子を見た銀狼はせせら笑って、
「広大な森を全て自らの狩場とし、常にその支配を崩さず来た我らを見くびってもらっては困るな!」
 駆けながらもその進路を大きく横に振り、優れた体躯とスピードを生かした体当たりを相手にぶつけようとする。
「このっ」
 それを黒狼はとっさに飛びよける。それをきっかけに、直進だった二匹の軌道が一気に蛇行しはじめた。激しい体当たりと回避の応酬、さらに合間に互いに障害となる薮や低木を避けつつの疾走だ。
「愚かな甥よ、もう一度よく考えろ!」
「はん、何をだ!? その格下扱いを改めれば考えんでもないぞ!?」
 今度は黒狼から仕掛けた。銀狼を足元の悪い場所に追い込もうとするが、読まれて大きくかわされる。
「おまえはあの子供の扱いやすさに酔っているだけではないのか!? あれほどおまえに都合のよい者はおるまいっ、弱く、決して逆らいようのない相手だ! それに耳に優しい言葉を言わせておけばさぞ気分が良かろうっ、だがそんな欺瞞は空しいと思わんのか!?」
――ああ、この男の何がずっと気に食わなかったか分かった、と駆けながら黒狼は思った。
 この男は自分だけが全てを分かっていると思っているのだろう。誰よりも正しい答えが出せるつもりなのだ。
――だが、それは勘違いだ。
 今はっきりとそう結論できる自分が愉快になって、
「ふ、くくっ、はははは!! 何を言うかと思えばそんなことか!」
 黒狼は上がる呼気と揺れる視界をものともせず、笑い飛ばした。
「……なにがおかしい?」
 銀狼は黒狼が笑った理由すら分からないようだ。狂ったかとでも言いたげに眉根を寄せ、鋭い視線を向ける。
「存外に同じ事を考えるものだと思ってな、それは俺だって疑ったさ!」
「では……!」
「だが今は違うと言い切れる、あれは俺に必要だ、あれも俺を必要としている! 迷う時間はとっくに過ぎたのだよ!」
「世迷いごとだっ」
「どうかなっ」
 言葉を重ねるほど、語調に明るさを増して行く黒狼に、ますます銀狼の眉根が寄る。
「確かめてみるといい!」
 と、にやりと笑みの残像を残し、黒狼が唐突に、先ほどまでかわしていたはずの濃密な藪に飛び込んだ。
「!?」
 壁のように視界をふさぐ草と低木を銀狼はとっさに回避し、速度をゆるめて様子をうかがう。
 そして、おかしい、と思った。勢いよく藪に突っ込んだにしては、黒狼がそれほど衝撃を受けていなかったように見えたのだ。おそらくは黒狼のみが知りうる抜け道が内部にあるのだろう。
「……鬼ごっこの次は隠れんぼか?」
 十中八九罠だろうと予想しつつも、多少のそれなら食い破るまでと、銀狼は藪に足を踏み入れた。


 内部は薄暗く、丈の長い草が風に鳴り、見通しと前進を阻む。そして、妙に土の匂いが濃い。
その奥から複数、兎の匂いが漂ってきて、銀狼は鼻を鳴らした。
「……下らんな。こんなものでわたしが混乱するとでも?」
 つぶやいて、銀狼はおもむろに匂いのもとの一つに突っ込んだ。とたんごそりと崩れる土山をうんざりした態で踏みつけると、
「囮か。おまえの嫌う人間どもの使いそうな手だな。こんな姑息な方法しか取れないとは、底が知れたものだな?」
 と嫌味たっぷりに告げる。
(……やはりな。囮だけでは乗ってこないか……)
 予想通りの反応に、黒狼は全身に力をためた。銀狼が悠然と近づいて来、そして横を通り過ぎようとした瞬間を狙って、
(だが、これでどうかな!?)
 潜んでいた『地中』から飛び出し、飛び散る土くれと共に銀狼に躍りかかった。
「なにっ!?」
 とっさに半身で振り向くしかできない銀狼に肩から突っ込む。
「ぐっ!」
 そしてそのまま脇を駆け抜け、黒い影は藪の中に飛び込んだ。
「なっ……貴様!」
「どこを見ているっ」
 銀狼がふらついた体幹を立て直すいとまもなく、黒狼の攻撃はたて続いた。
「くっ……正気か!?」
 銀狼の動作は明らかに鈍かった。黒い影に完全に翻弄され、いらだたしげに目線をあちこちに向ける。
「なんだ、その匂いは! まるで……兎ではないか!」
「そうだな! 計算どおりだ!」
 せせら笑う男に老狼は歯噛みする。蔓延する兎と土の匂いに黒狼が同化して判別がつかない、それだけのことが、銀狼の明敏な感覚を確実に狂わせていた。
「我らにとって匂いは自己を証明する大事なもの……それをっ。狼の誇りはどうした!」
「くれてやるさ、そんなものっ」
「信じられん……!」
 理解不能だ、とうめくことしかできない叔父に、
「その賢さが仇になったな!」
 黒い一撃がまた入る。今度は頭突きを併用した体当たりが決まって、銀狼は大きくたたらを踏んだ。
「ぐっ……この、っ!?」
 と、反撃を試みた銀狼の足元が、ずぼりと沈む。黒狼を狙った顎が、がちりと空を噛んだ。
「くそっ……! 囮用の土を掘り出した穴か!? あの子供の仕業だな!」
「共同作戦というやつだな!」
「小細工に頼りおって!」
「そう思うならなんとかしてみろよ!」
 罵りながら穴から足を引きずりあげたところに、影が差した。はっと仰ぎ見ると大きく牙をむき出した黒狼が間近に迫っており、
「く!」
 銀狼はとっさに飛び下がって、そのまま一気に藪から飛び出した。
「ほほう、逃げるのか!?」
 すかさず掛かる底意地の悪い声に、
「ぬかせ! 仕掛けがあるのはせいぜいこの一帯であろう、そちらの思い通りになってやる義理はない。それに、こんな小細工に頼るということは、まともにぶつかれば負けると思ってのことだろう!?」
 銀狼は低く恫喝する。これ以上挑発に乗っていては収まるものも収まりそうになかった。
「ふん、諦めの悪いやつだな。いいのか、放っておいたら俺はまた逃げまわるぞ? 北への移住の可能性を残すなら、体面上俺を放置していくことはできまい!」
 それを見透かしたように腹を探ってくる甥に、叔父は忌々しげに舌打ちをしたが、瞬間ふとまばたき、そして大きくうなずき、すっと赤目を細めた。
「……そうか、そういうことか。いい気になるなよ、小僧……貴様がそのつもりなら、もはや容赦はせん!」
「……なに?」
 声の一瞬の動揺を見逃さず、銀狼は即座に藪に響き渡る大音声を放っていた。
「兎の子よ、聞こえるか!? この中に隠れているのは分かっている! 先日渡した角は大事なものなのだろう!? あれを破壊されたくなくば投降しろ!」
 と、がさりと藪の一部が鳴り、
「そこか!」
 それを頼りに銀狼は殺到する。
「あっ……!」
 動揺を誘う言葉にまんまと引っかかったのを悟ったのだろう、少年の短い悲鳴は悔恨にまみれていた。
「遅いっ」
「やめろ!!」
 突っ込む銀狼の前に、黒狼がとっさに飛び出し進路をふさぐ、だが、しかし。
「ふふ、これでおまえは丸見えだな。ずいぶんと脆いものだ、共同作業とやらの結果は」
「く……!」
 策を一瞬で崩され、今度は黒狼が歯噛みする番だ。
(しかたないっ、賭けだが……!!)
 しかし黒狼は即座に思考を切り替える。この叔父相手では一瞬の隙も命取りになりかねなかった。
「兎っ、聞こえるか! 全力で例の場所へ走れ! 時間が来る、今すぐだ、行け!」
「……!」
 ざざざと音を立てて、藪の中を黒い稲妻が走った。そのままそれは隠れ場所を飛び出し、
茂みや潅木を急角度ですりぬけ弾けるように走る。急な転進も速度を落とさず走りきる、
兎の走りの真骨頂といったところだった。
「逃がすか!」
「待て!」
 すかさず飛び出す銀狼に、黒狼は身を張って追いすがる。
「弱いものを真っ先に狙うとはな! そちらこそ誇りはどこに捨ててきた!?」
「おまえがしむけたことだ! こうなればその分かりやすい急所、突かせてもらう!」
 叔父と甥は、ついに真っ向から牙をむき出しにした。ぐるぐると雷鳴のような唸りと共に凶器が走り、双方顔にかすり傷を負って、駆ける背景の中に血潮が散る。さらに胴ごと激しくぶつかりあった、その瞬間。
 がっと首を曲げた銀狼が、黒狼のそれを狙い。鋭い歯の並んだ口が大きく開かれて――
「ぐうっ……!」
 暮れる空に、血が大きくしぶいた。疾走の最中の前脚に、正確無比な一撃を加えられ、黒狼はどうと横転する。対し、肩で息をしながら甥の前で立ち止まった銀狼は、
「その、脚では追いつけまい……。おまえを惑わすものを始末してやる。待っていろ」
 と重々しく宣言した後、すぐに身を翻す。みるみる見えなくなるその背中を、
「く、待て……!」
 黒狼は足を引きずりながらも懸命に追った。





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