狼は目覚めて、脇にぬくもりを感じ、そして鼻先すぐそばに薄茶のふわふわがあるのに気づいた。
「……」
ぼんやりとしたまま、くん、と鼻を鳴らす。甘く温かな香りがした。
「……ん……」
緑の瞳が静かに開き、とろりと溶けたまま狼を見返し。結果的に見詰め合ったまま、しばし、沈黙が流れて。
「……おは、よう?」
「……おお」
二匹は、ボソボソと交わした。嵐はすっかり収まり、外から午後の光が差し込んでいる。
「改めて、聞くぞ。……おまえ、まだ余に食われたいか?」
間近でじろりと睨む眼光の鋭さは、すっかり元通りといったところか。
「……ううん。なんか、今は……その方が余計に申し訳ないかな、って……」
迫力に多少腰が引けるのを感じつつも、もはやそれほど相手が怖くもない兎は、寄せられた狼の鼻先に自分のそれをちょん、と合わせる。
「では、答えは一つだな。余は叔父貴と戦って決着を付ける」
「……はい? ちょ、ちょっと待って。あの……あなたがおじさんのところへ、故郷へ戻るっていうのは、ないの? 戻ってほしいって、他の仲間もあんなに言ってたじゃないか……!」
「ないな」
狼は目を閉じて即断する。あまりの迷いのなさに兎は一瞬絶句して、
「どうして!」
と食ってかかるが、
「あちらにいて、人間どもに喧嘩を売らんでいられる自身がない」
ぎらりと憎悪の燃え滾った眼に射抜かれ、ひっと首をすくませた。
「叔父はいいかげん頭が冷えただろうと言いたげだったがな。そう簡単に、大人とやらになってたまるか」
ふん、と傲慢に顎を上げて鼻を鳴らすしぐさを見て、ああそういう性格だよな、と兎はうなずきかけて、
「え、え、でもだからって、いきなり戦うって……そんなの、あなたがつらく、ない?」
と悲しげな表情を見せた。これには狼も、一瞬たじろぎ、観念してぼそぼそと内実を告げる。
「いや……。言いかたこそ淡々としていたが、叔父のあれは最後通告だと思っていい。信じている、という風な言葉は同時に、そうしなければ実力行使も辞さないという恫喝だ。そこがあの男の恐ろしさでな……」
「そ、そう、なんだ……?」
「それに、醜態をさらす不肖の甥を残していくのも、移住を考えているのなら避けたいところなのだろう。北にはまだ大きな群れが残っていると聞く。そこに加入する算段の上、けじめが必要というわけだ。狼は誇り高い者が多いからな」
と付け加えると、
「……え、ええと……あの……狼も、けっこう大変なんだね?」
片耳を折って、気遣わしげに見つめてくる子供に、
「まあ、おまえらも大概な」
と狼は肩をすくめた。
「それに、言ったろう。聞いていなかったのか?」
「は……」
「おまえは、だれにも渡さん。当然手放す気もあるわけがない。一生飼ってやるから覚悟しておけ」
「は、へ、ふぁっ!?」
その一言で、兎は体温が一気に上がったようだった。すっかり乾いた柔らかな毛を逆立てる姿に、
「ふむ、もう心配いらんな?」
と狼はすっとぼけてうそぶく。話の途中から時折兎の耳を甘く噛んだり、しきりに顔を舐めたりするあたり、確信犯といったこところだった。
「ん、んっ、ちょ、でも待って、あのひと、強そうだったよ……?」
そんな場合じゃ、とへどもど言う腕の中の子供を甘やかしながら、狼はふと真剣なまなざしを洞窟の外に向けた。
「実力的には、叔父貴は生前の兄には負けたが……今の余ではな、どうなるか」
「そ、そんな……」
「だが、やるしかない。我々の形を続けるには……」
「……」
「そうしたいと、思うのだ」
静かに言い切った狼に、抱え込まれたまま兎は押し黙って、面映げにうつむいていた。
考えてみたんだが、と狼が切り出したのは、兎に早めの食事を取らせているときだった。
「叔父が沢でおまえに鹿の話をしたのには……意図があってのことだと思えてきてな」
「え……?」
「ああ、食いながらでいい、聞いてろ。ただ流れで話したにしては、内実を詳しく語りすぎだと思ってな。おまえの中の余に対する恨みや恐怖心を煽りたかったのではないか、と。その結果、おまえが余に手向かったり、狩りの障害になったり、自ら生きようとしなければ余はどうしようもなくなる。――始末するしか」
「……うん……」
狼の苦々しげな表情に、兎はうつむく。
「……だが、逆に考えてみれば、叔父の意図ははっきりする。こういう搦め手で来たということは、余と正面からぶつかるリスクを回避したいのではないか、とな。そうなれば戦いの結果怪我を負うのも避けたいに違いない。――そこにつけこむ隙はある」
「と、いうと?」
「完全にやつを圧倒する必要はない、ということだ。戦った結果、思ったよりも厄介で妥協したほうがメリットがある、と思わせれば交渉の余地も出てくるだろう。それならば戦いようはある」
「うーん……それって嫌だな、とか、めんどくさいなあ、とか思わせればいいってこと?」
「そんなものだな。……まあ、そもそもこちらがここまで腹を割って話し合っているとは考えていないだろうよ。そこは一つ出し抜けたというべきかもな」
くくっと笑う狼の表情はなかなかに意地が悪かった。
「さて、地形を確認すれば何かと有利だろう、今から下見に行くぞ。まだ明るいが、早めに行動したい。道々に食いながらでかまわんから」
「あ、うん、大丈夫!」
二匹は、傾く日ざしに包まれたススキ原を進んでいた。以前沢へ向かったのと同じ道程だった。
「叔父と再びまみえるのが、例の沢だ。そこから西側にこの草原があるから、まずここでぶつかることになるだろうな。草で視界が悪いのは有利でもあり不利でもあるが……」
狼の言葉に、兎は改めて周囲を見渡した。確かに丈の高い草は身を覆い隠してくれるが、
同時に敵の姿も見えにくくなりそうだった。
「この道を知っていることで多少有利にはなるだろう、まあ、あまり心配するな」
「……うん」
「で、地形の話だがな。北にはゆうべの岩山、南下すれば青草のある沼地がある。おまえ、南には行ったことはなかったな?」
「うん。そっか、あの草、そこまで取りに行っててくれたんだね?」
「うむ、あのあたりは沼にさえ気をつければ土は柔らかい、穴を掘って隠れるには最適だろう。
もし何かあれば、逃げ込むといい」
「……何か、って……」
「……あの搦め手を見るに、おまえが余の弱点であることは見抜かれているだろう。いざとなれば、叔父がおまえを狙ってくる可能性もあるからな……」
「……狼さん……? あなた、もしかして……」
「ん……?」
「最悪ぼくさえ生き残ればいいと思って、ない?」
「……」
発言の意図に気づき表情をこわばらせる兎に、狼は曖昧に目をそらした。
「ダメだよ、そんなのっ。ゆうべあなたがだめだって言ったばかりじゃないか!」
「しかし……」
言いよどむ男に、少年はきっと顔を上げた。そこには強い意思が浮かんでいて、
「そんな後ろ向きなこと言うくらいなら、ぼくだって黙ってないからね。協力させて、狼さん!」
「きょ、協力って何だ、まさかおまえも戦いに参加するつもりなのか!?」
突拍子もないことを言い出した子供に、狼はぎょっとして叫ぶ。
「いけない?」
「だめだだめだ、危険すぎる! おまえを排除されてしまっては戦う意味がない!」
「そんなのぼくだって同じだよっ」
「ぐ、ぬ……!」
二匹は鼻息荒くにらみあう。互いを思うゆえの対話が、傍から見ればまるで痴話喧嘩なのは、本人たちにはあずかり知らぬことだった。
「……ねえ、狼さん。ぼくにだって、できることはさせてほしい。自分で、決めたんだ。危ないかもしれないけど、初めてそうしたいって思えたんだよ……?」
「……っ」
改めて、真剣な緑色に覗きこまれて、狼は反論の糸口を失う。そうしてしぶしぶと、口を開いた。
「……何か、考えがある、のか……?」
「例えば……ぼくがあなたと一緒に行動してるってバレなきゃいいんじゃないかな。まさかぼくが出てくるなんて、あの人、きっと思ってもみないんでしょう?」
「それは、そうだが……、いや、だがどうやって叔父を誤魔化す気だ。我らの鼻と耳が鋭いのはおまえも知っていよう」
「うん、それ聞きたい。いつもどうやって使ってるの? どっちがどんな時に便利とか、ある?」
「あん? どういう意味だ?」
「……おじいちゃんがね、言ってた。相手を出し抜くにはそういうのを知りなさいって。例えばぼくら兎は、危険察知には聴覚が主体で、音で敵を探知したら全速力で逃げる。だから逆に言えば、耳が誤魔化されてしまうようなところは不利なんだ。そういう隙が、相手にも必ずあるからって」
「む……そういうことか。では……我らは遠距離探知は音、近距離なら匂いで判断する」
「じゃあさ、ぼくの匂いで偽者を作るとか、どうかな」
「……囮というわけか? しかし何で作るというのだ? 草木では大掛かりになりすぎるし、そもそも素材自体の匂いで判別されそうだぞ」
「んー……」
兎はうつむいて考えこんだ。狼も頭をひねる。うんうんとまじめに悩んでいると、ふとざく、ざく、と土を掘り返す音が狼の耳に届いた。まさかと思って傍らを見ると、また例の悪癖を発動している子供と目が合う。
「おまえはー! ひとが真剣に考えてるというのに何を遊んでっ……ん!?」
「いや、これでどうかなと思って」
入り組んだ草の根を根元から掘り返し、こんもりと盛り上がった土山を兎が脚で整えると、遠目だと獣のようにも見える塊ができあがった。得心のいった狼はぱしりと尾で草を打つ。
「おお、それだ! 兎と土の匂いは混ざってても違和感がない!」
「んー、でも色でばれるかなあ? ぼくも黒い毛だったらよかったんだけど」
「いや、それでも悪くない案だ。そのあいた穴も罠として使えそうだしな!」
それから、移動しつつ兎は、狼の指示通りに数個、囮と穴をこしらえた。そのたびに狼は、にやにやしつつ何度も兎に確認するのを忘れなかった。
「マーキングも忘れるなよ、しっかり匂いをつけんとな!」
「い、いいけど、その……」
「うん? 何だ?」
「……恥ずかしいから、見ないでよ!!」
しつこくからかいすぎたか、渾身の後脚蹴りを食らわされて狼はよろめいた。
あちこちに水面と茂みが点在するその場所は、草原の藪の中よりは視界が開けていた。
「あー、疲れた……」
後脚で耳を掻きながら兎がぼやく。移動と穴掘りとの繰り返しはさすがにこたえたようだった。
「おお、ご苦労だったな。ここが沼地だ、例の草もあるし、しばらく食ってていいぞ」
「え、いいの?」
「ただし水が光ってる所は沼だからな、脚をつっこまないよう気をつけるのだぞ?」
「うん、わかったー、あっ!?」
「ってコラ!!」
びちゃっと、黒いしぶきが暮れ行く空に飛びちり、巻き添えを食った狼は、毛並みに転々と泥を付けられ憮然とする。
「ごごっごめんやっちゃった……」
勢いよく草に突っ込もうとして行き過ぎた粗忽兎は、顔と前脚を見事に泥で汚している。
「おまえな、言ったそばから! ……ん?」
「……?」
沼の危険性も含めて叱りつけようとした狼だったが、真っ黒に汚れた子供を見てふとひらめいたことがあった。先ほど兎が顔を突っ込んだ沼に目を移し、近づいて足先で少しつついてみれば、そこには黒くきめの細かい泥土が存在していて。狼はしばし考え、それをたっぷりと前足ですくった。
「……ちょっとじっとしてろよ?」
と、おもむろにべたべたと兎に塗りたくりはじめる。当然兎は、
「なに!? ちょ、これなんか気持ち悪っ、ひいいい!?」
と悲鳴を上げたが、
「まあまあ」
と軽くいなされ抑え込まれ。気づけば真っ黒に染め替えられた涙目の兎がそこにいて、
「ふむ、これは使えるかも知れんな」
狼は満足げに尾を揺らした。
「な、なにこれっ」
「褒めてやろう、おまえが自分でこの泥を見つけたのだぞ? これであの囮の中に潜んでいれば、なかなかに気づくまい」
「……! そっか、それで……」
ようやく狼のいたずらではないと気づいた様子の兎がうんうんとうなずくのに、
「しかし……くくっ」
狼は笑いを押し殺した。塗り忘れた兎の丸い尾だけが、元の色のままでひょこひょこ揺れていたので。
「……なに笑ってるの?」
「……いや」
「なんか怪しいなあ……」
「まあそう言わず食っておけ、少し休憩したら、ここから川原まで斜めにつっきるルートを教える」
狼の言葉どおり、その後二匹は沼地から北東へと進み、岩山近くの川原へ出た。移動している間に日は落ち、辺りには夕闇が迫りつつあった。
「これでわかったな? では、そろそろ戻るぞ」
「あ、ちょっと待ってくれる?」
案内を終え、ねぐらへと引き返そうとする狼を呼び止めて、兎は小走りになった。男が見守る先、川原の岩陰に少年は入り込んでいき、ほっと息をついた。
「よかった、きのうの雨でも大丈夫だったみたい……」
「! それは……」
そこには前日、狼の心を激しく揺らした、老鹿の大角が鎮座していた。
「また、流されたら嫌だなって思って、隠しておいたんだ……」
「……そうか」
ささやくような声が、夕闇の中に溶けてゆく。さわりと風が、二匹の毛並みを揺らした。
うつむいていた兎が、ふと、くん、と鼻先を空にのべる。
「なんか……風のにおい、変わったね」
「山風が、川下からの風になったのだろうな。……あのときと同じだ」
「え?」
感慨深げな声に兎は振り向く。そこに、砂利を踏んで近づきながら、狼は静かに告げた。
「……あのジジイ、これも計算に入れていたのだろう。余が通りがかったとき、おまえのいた岩山は風下になっていた。だから落ちてくるあの瞬間まで、おまえの匂いに余は気づきもしなかったよ」
「……そっか。おじいちゃん、やっぱりすごかったんだな……」
「そして……これも利用させてもらうぞ。勝つために。……いいな?」
「……、うん」
片耳を折って、それでも小さく微笑む兎を見ながら、狼は思う。使えるものはなんでも使ってやる、と。ここまで貪欲に何かを勝ち取ろうとするのは、生まれて初めてかもしれなかった。
(だから、見ていろ)
そうして狼は、あの日運命をかけて戦った、そして再び死闘の起点となるであろう川原をにらみつけた。
なじみのねぐらは落ち着く匂いがした。もはやすっかり慣れた、狼と兎の混ざり合った匂いだ。
「……帰ってきたな」
「うん、あの……」
もじもじ、と兎が身をよじった。何かと思って狼が目線を向けると、
「あのね、……ただいま」
はにかんだ微笑みが返ってきて、狼の胸はきゅうと苦しくなる。
「明日も、あなたとぼくで、ここに帰ってきたいな……」
「……そうだな」
ひどく静かな気持ちだった。体が惹かれあい近づいていくのが当たり前のような気持ちで、二匹は身を寄せ合う。ふふ、と小さく笑う兎の声が、直接触れたところから狼に伝わるようだった。
「なんか今ぼくら、同じ色だね?」
先ほど塗りつけた泥はすっかり乾いていたが、兎の毛並みに入り込むほど粒子がこまかく、
その体躯を黒っぽく染めたままだった。
「……そうだな?」
ささやきで返しながら、肩に、頬に、顎に、互いの身をこすり付けあう、無心なしぐさを繰り返す。
そうして、二匹は同じ匂い、同じ色になっていった。微笑みあう瞳だけが違う色をしていた。