第二話〜出立〜

 

「はわ、はわわぁ」

「急いでレッケル!! あの列車乗り逃がしたら三時間待ちなのよ!!」

 

 傍らの蛇に大声で怒鳴りつけて、体が崩れ落ちそうなぐらいの大荷物を抱えて走っていく。

 周囲の人の目が痛いのは、きっと私の大荷物に対してで、誰一人お喋りしている蛇には違和感は覚えていない。

 だってここはまだ魔法界圏内。大抵の事で驚くような人なんていないってワケ。

 寧ろ、魔法の力も使わないでこーんな大荷物引きずって突っ走っている私の方に多くの視線が集まっているかもね。何見てんのよ、っと睨み効かせてやれ。

 

「アーニャさん〜眼光鋭く睨みを効かせている場合ではないですです〜お早く〜〜はわぁ!!」

 

 いやね、こうでもしないと大荷物で小柄って言う私はバカにされるっていうのよ。って言うかレッケル、あんたちびっこいんだから、ふらふらしていると踏まれるって言うの。

 魔法界圏内の駅とは言えど結構人でにぎわっている駅構内だもの。

 足元をするする這うだけのレッケルは、水を司る精霊とは言っても、周辺から見ればただの蛇。魔法使いの使い魔だ。

 誰も大して気にする節も見せず、ずんずんとレッケルの周囲を行きかっている。

 流石にこのままほおって置いては踏まれてしまって蛇の蒲焼。じゃなかった、蛇の干物になってしまう。

 それもプレス。見るに値せずの世にも奇妙な蛇の轢殺死体の完成ね。

 水を司っているくせに渇いて干物なんておかしな話かもしれないけど、あながち間違えじゃないと言うから恐るべし。

 

「ホラ、ここに入って。潰されても知らないわよ?」

 

 前かがみになり軽く胸元を引っ張ってレッケルの招き入れる。

 レッケルの方も、慣れた手付き、じゃなくて体捌きでするするっと私の腕を伝って胸元へ潜り込む。

 胸元に蛇を入れるって言うのはあんまりゾッとしない事かも知んないけど、まあ聞いてよ。コレが中々きもちいーんだ。

 低体温が体の熱を程よく吸ってくれるって言うのかな。レッケルが体に直接接しているとね。

 それに、別にコレだって今に始まった事じゃない。

 初めてレッケルを拾った日だってこうして胸元に抱えて住居に戻ったし、それからもしょっちゅうレッケルは私の胸元が居住区画なのだ。

 あながちレッケルも満更じゃないみたいで、こうして迎え入れると喜んで飛び込んでくるから、ちょっと困ったものだけどね。

 

「ホラホラ、急がなくちゃ列車が出てしまうですです、アーニャさん」

「んもぅ誰のせいよっ! アンタは私の胸元から顔出しているだけじゃない」

 

 ちょっと視線を下げればくりくりっとした眼差しの白蛇の赤い瞳と私の目が合う。

 こうやって首だけ出して周辺観察するのがこの子の趣味の一つらしいけど、正直こうして周辺観察して何が楽しいものか理解に苦しむ。まっ理解するつもりなんて元々無いしね。

 そもそも人間って言う生き物はどうにも自分の主張を押し付けたがるような気がしてならないのよね。

 犬や猫が顔舐めてくれた程度で喜んでいるーなんて結論付けるんじゃないの。本当は人間臭さに堪らなくなって自分の唾液とかなんやらで殺菌消毒しようとしてるだけかもしれないじゃないの。

 こうやって人語を解して話す事が出来る精霊は兎に角ね、他の自然界で日夜命賭けて生存競争しまくっている狼や虎やライオンに人間の考えが及びつくわけ無いじゃないの。

 はっきり言いますけどね、私は人間と言う生き物は生態系の頂点になんて名目上で立っているだけだと思っている。

 それ以外から見ちゃえば、人間は蜘蛛とか何とか、もぉ想像するだけでもおぞましいといいますか、事実想像なんて言うのはしたくないんだけれど、加えてまっこと不本意な事この上ないのだけれど、間違えなく能力的には劣っているのよね、コレが。

 敏捷性でチーターに人間が勝てって言われて勝てるわけないし、リスと人間が山の中で餌集めで勝てって言われて勝てるわけないし。

 私だって小柄で何処へでも入っていけるような体格してるけど、レッケルと比べれば入っていけるような場所なんて限られる。

 とまぁこう言うわけで人間は偉いわけでも強いわけでもなく、言葉が話せたり未知を想像する事が出来たり知識を学ぶ事が出来る程度だけの能力しかもってないって事ね。

 ソレはそれで良し。

 人間は人間に与えられた能力で他の生き物と拮抗するまで。

 敏捷性でチーターに勝てないのならチーターの敏捷性に勝る乗り物を開発したりするまでって事。

 

「あのぉ〜〜アーニャさん〜〜」

 

 いや、私最近本当に冴えているかもしれないわね。

 良い師に恵まれたのも幸運だったけど、その師から貴重な魔道書、蔵書を分けてもらえたのが良かったわ、コレは本当にお師様有難うもの。

 

「えーと」

 

 そうか、だから今回の出立もこんなに荷物が嵩張ったわけですか。いやはや、より深遠な知識を求めなくちゃいけない立派な魔法使いって言うのは大変なものなのね。

 

「時にアーニャさん?」

 

 …まぁさっきから聞こえてはいたけど、いい加減無視できなくなってきたワケだし。

 

「何よ、レッケル」

「列車、出ちゃいますよ?」

 

 ぷるるるるるー、という良く通った汽笛の音に振り返って、

 

「――――――あ゛ーーーーーーーー!!!」

 

 すっごい乙女っぽくも魔法使いらしくもなく叫んで、駆け出していくのでした、っと。

 

 

 

「あー…危なかったぁ…」

 

 幸い、大荷物姿だったのを駅員さんに観止められて駅員さんにも手伝ってもらっちゃって列車には何とか間に合った。

 魔法使いなのに荷物の多さで慌てふためいているって言うのは正直どうかなとも思うんだけど、まぁ、人の施しは素直に受けておくのが吉ってものなのよね。

 事実それで助かるのは私で、助けになったからには助けになってあげなくちゃいけない。

 ありがとう駅員さん、貴方の活躍は生涯胸の内に留めて、本格的に立派な魔法使いとして活動を始めたら必ず恩返しするからね。

 と、もう姿も見えなくなってしまった駅員さんに心の中でそう告げて、さて、と周辺を見渡す。

 パディントン行きの列車は木造の個室割りになったレトロな列車。

 進行方向側は私達じゃ逆立ちしたって届かないぐらいの、いわばブルジョアジーな方々のおらっしゃる一級個室割り。

 ふっ、いいのよエコノミーでは一級個室で一人でいる時なんかよりももっと充実した人とのふれあいと言う特権があるのだから。ぜんっぜん羨ましくなんて、無いんだから。

 …まっ、正直そう言う立場になりたいなーとか思っている贅沢は敵がモットーの筈の私と相反する私が居て、居たところでこの場ではエコノミークラスにしか進むしかない現実をしっかり踏みしめる私も居て、大人しく大荷物を抱えながら進行方向とは逆の、エコノミーで5,6人の人達が一纏まりになって入る個室が立ち並ぶ車両の方へ移動して行くのでありました。

 

「さってと…どこがいいかなっ」

「アーニャさんは荷物が多いからなるべくまだ人の入ってない個室のほうが良いですです。降りるときも周りの人に迷惑をかけちゃいけないから出入り口側に近い方をチョイスするが吉ですです〜」

 

 顎をちょっと小突く感じで胸元からひっこり飛び出したレッケルの言葉に従って、個室を出入り口についている小さなガラス窓から覗きつつ、奥へ奥へと進んでいく。

 確かに私の荷物は大所帯だから、なるべくなら人が少ない、いや、寧ろ人が入っていない個室を探し、なお奥へ。

 幸い平日の出発地、それも魔法界と言う一般の人じゃ知覚出来ない場所からの出発地だ。乗り込んでいる人はあんまり多くない。

 人通りが多いって言うのは他の魔法界からこっちに来た人で、魔法界から一般社会へ出て行く人は実は意外と少ないの。

 でと、当然私もその一員だから、これから数駅進んだら一般人の乗り込んでくる駅に行くわけだ。

 

「なら、やっぱり出入り口に近い方がいいわよねー……」

 

 選ぶ個室は慎重に。でも人間、って言うか大体殆どの生き物は自己認識領域って言うのを持っている。知ってるかな、自己認識領域。

 生き物に近づき難い生き物とか居るよね。人でもみょーに威圧感のある人も居れば、全然存在感の無い人も居るわけ。

 それが自己認識領域って言って、自分って言う存在を認識、もしくは確認させる為の悪い言い方だけど一種の威圧空間みたいなものなの。

 近づき難い人ってホントに全然近づけないでしょ。擦れ違う時にしても、ちょーっと範囲を開けて擦れ違うってヤツ。

 そう言うわけで、人間は何かと一人きりほど安心できない生き物なのね。

 誰かに頼らなくちゃ生きていけない、本来は団体で行動しなくちゃいけない群れをなす生き物だって言うのに一人きりでなくちゃ安心できない生き物って言うのも大きな矛盾だけど、まぁ、それが人の性質だって言うのなら仕方ないか。

 まぁ、それが誰もいない個室を探すのとどういう関係があるのかって言いますと、要するに誰か一人でも入っている個室には他の人は入りたがらない。

 初めて好きが多いってワケでもないだろうけど、開いている場所があるなら、一人の時は一人でいたいって思うのよね。

 従って、こうしてガラス窓から一つ一つ中を覗いていくと、個室の中は大抵一人だけ。本を読む人、眠っている人、たまに二人入っている個室も見えたけど、それはお友達とか、見知らぬ人同士である場合が殆どみたい。

 つまり、誰も入っていない個室を見つけると言う作業は思いのほか難航するって事で、

 

「あ、アーニャさん、ここの個室は空ですです」

 

 そう思った矢先に見つかるって言うのは、やっぱりなんかの因果ってのが働いているのかなぁ。

 尤も、空であっても、人が増えたら結局は鮨詰め状態で乗らなくちゃいけないんだけどね。

 

「よし、地獄に仏。ここに決めたっ」

 

 腕を伝ったレッケルにドアを開けてもらって、素早くなだれ込む。

 別に誰かから追われてたりしている訳じゃないけど、こんな大荷物を持っている姿を要するにこれ以上誰かに見られたくなかっただけ。

 荷物をどかどかっと進行方向とは逆の、向かい合った席の片側へ纏めて置いとく。

 人が来るまでの間の無礼講。私は乙女だから、重い荷物を上方に位置する荷物置きに持ち上げるなんて体力ごとはしないの。

 漸く腰をかけたのは、レッケルが言っていた出入り口とは真逆の窓際の一席。でもこれにはちゃーんと考えがあっての行動なの。

 

「アーニャさん、降りる時の迷惑にならないように出入り口側近くにするのではなかったですか?」

「よく考えたら私達が降りるのは終点でしょ? なら急ぐ必要なんてないじゃないの。飛行機の時間まで十分だし。

 それにお土産とかも買って言ったほうがいいと思ったから早め早めで出立したのよ。まっ、それでも時間は十分だし、のんびりと行きましょ」

 

 深く腰をかけて、窓ガラスから見える駅構内のちょっとずつ風景が変わっていくのを、心待ちにしながら、暫く気を抜いてみようと大きく息を吐いた―――

 

 

 

 そうして、人が少しずつ増え、とは言うけど私の入っていた個室には私とおばあさんの二人だけなんだけれど、何とか無事に出立する事が出来たってワケ。

 数日前の苦々しさって言うのは何を隠そう慌ただしさの事なの。ホント、前準備って言うのは日ごろから怠っちゃいけないって言うのを直視した数日間だったわね。

 でもまぁ、これで次回からの余談は無いと思ってもらわなくちゃいけないわけよ。

 このアーニャに同じ失敗を二度繰り返すなんて解怠があると思っちゃ困るんだから。

 一度目の失敗は次の失敗を起こさないためにするまさに失敗前の前準備。敵を知るなら己を知れ。注意一瞬怪我一生なワケなの。

 ともあれ、ニッポンまではあと十数時間もある長旅だもの。

 飛行機の中で一泊しなくちゃいけないのは少々億劫だけれども、いや、ケチらずちゃんと空港のホテルで一泊するべきだったのかもしれないけど、ただ眠るぐらいなら寝ている間に運んでもらった方が睡眠時間も有意義な必要時間となる。寝ても転んでもただで起きないのよ、私。

 …とは言え、ちょっとドタバタし過ぎたかもしれない。

 故郷に帰って来て数日、ろくに休めた記憶が無い。思い返してみると、常に誰かと一緒に居た気もするわ。

 思い返すと、本当に常に傍らで誰かとお話している記憶だけしかない。あ、そっか。だから変な疲労感を感じるし、故郷に帰ったって言うのに爽快感とかがないのかもね。

 

「ふぁ…あ」

 

 大きな欠伸をして、そんで直に改まってしまう。

 だって目の前のおばあさんが初老らしく大人の笑顔で微笑んでくれているのだもの。

 これはちょっと不注意だったかもね。女の子なんだから多少はおしとやかでなくちゃいけない。結構こういった場面を見られるのは堪えるのよね、意外と。

 

「アーニャさん〜…眠いのでしたらお眠りになった方がよろしいですです〜…」

 

 胸元から脳内へ直接響く声に、ますます眠気に誘われてしまう。

 レッケルの声は穏やかって言うか、何だか心を安心にさせてしまう、そんな陰を含んだ穏やかな声なの。

 精霊でだてに私なんかよりも長生きしているわけじゃないって言うのも解るんだけど、どうにもこんな穏やかな声を眠気が襲っている時にかけられちゃったら、正直、反抗できる気力も削がれちゃうって言うのかな。

 

「…そうもいかないのっ…ここで眠ったら見たくも無い夜のフライト風景を見続けて夜を越えることになっちゃうじゃないの…。

 あんな真っ暗な風景を見続けながら空を飛んでいくなんて言うのは、私はお断りなの」

 

 そう、飛行機の中で眠る事にこそ意義がある。

 夜の飛行機から見える光景なんて真っ暗な世界ぐらいだから、そんなものを眺めながら一夜を過ごすって言うのなら舌噛み切って死んでやる。いや、嘘。

 ともかく、眠るのは特にやる事も無いお空の上が一番ってワケ。こ

 うやって穏やかに移動している最中は、大人しく流れ行く私の故郷周辺の風景をしっかりと目に焼き付けておくようにしなくちゃね。実際、いつここへ帰ってこれるかどうかもわからないし。

 

「―――――――」

 

 青い草原と、かすかに過ぎていく幾つかの建物。何もないと言うわけじゃないけど、こうして列車の窓から過ぎていく景色の向こう側には、やっぱり何も無くて、けど。

 

 

 流れていく風景の中に、いつかの私と、ネギの姿を見た気がした。

 

 

 まだ二人とも小さくて、大人になった時とか、未来の事なんて考えも出来ないぐらい小さい頃のお話。あの時私はネギに酷くこっぱずかしい事を告げてしまったんだ。

 

「――私ね、将来は魔法少女になるの――」

 

 今考えると不覚も不覚。

 これ以上ないってぐらいの弱みを握らせるような爆弾発言だったって、今もこうして考えているとあの頃に戻って、告げる一瞬前の私に平手打ちを食らわせてあげたい気分になる。

 魔法使いと魔法少女って言うのがどんなものかの区別もついてなかったのかもしれない。でも聞いてよ。それは一種の喩え。比喩だったわけよ。

 魔法を使う少女だから魔法少女。そう言う意味だったわけで。

 でも正直、魔法少女になりたいって言うのは直球すぎて、でもその言葉を聞いたネギは不思議そうな顔をして、そんな大馬鹿発言をした私に。

 魔法少女になって、どうするの――とか、これまたまともに切り返してきたのだ。

 そんな切り返しを喰らった日には、面倒見たがりの私は最後まで説明しなくちゃ気がすまない。

 けど、説明したのは魔法使いの事だったのが、今では唯一の救いで、その頃にとってはもう判別も付かないぐらい一緒くただった、淡い思い出。

 私があの時ネギに話したのは魔法使いの事だったの。

 魔法少女になりたいと言っていながら、その本質は魔法使いとしての事を語ったなんてお笑い種よね。

 本気で魔法少女って言うのと、魔法使いって言うのは一緒で、人を助け、誰かの為に頑張るヤツだって熱を込めて語ったのが、本当に昨日のことのように思いだせる歳になっちゃったんだなぁ。

 時間の流れって言うのは、本当にあっという間なのかも知れない。

 故郷で過ごした数日間も、ずうっと昔の過去語りも、全てがさっきまでの事のように、昨日の日の事のように思い出されては消えないシャボン玉みたいに儚く、今すぐ消えそうなぐらいに危うく浮かんでる。

 そうして余裕が出来たからなのかもしれないし、実際、良い師に恵まれたからこそ生まれた考えなのかは知らないけど、最近、死ぬのはあまり怖くないと思うようになってきてるの。

 子供の発言として軽く受け流されたり、師からも黙って流された事なんだけど、本当にあんまり死ぬコトは怖くない。

 だって、ねぇ。生き物は何時か皆死んじゃうように出来ている。

 ある日何の事も無くあっけなく死んじゃう事は、当たり前みたいに隣に座り込んでいるものなのよね。

 理不尽で、どうしようもない事かもしれないけど、それが現実。ソレを覆すコトは誰にも出来ないし、知る事ができないからどうにかする手段だってない。

 そう考えると、生きているってコトは割かし凄いことで、死ぬって言うのは割かし、結構あっさりしちゃっているのかもしれないなぁ、と、そう考えては青空を見上げて、また考えをめぐらせるの。

 死ぬのが怖くちゃ生けてはいけない。それは当たり前の事。誰だって、生きてたらいずれは死に至るようになっている。

 不思議と万能って言うかそういう神懸り的な才能を持っている人や生き物も、案外あっさり逝っちゃったりそるんだよね、コレが。

 まぁそれはいいけど、どうして死ぬのが怖くないかって言うと、情けない事に死ぬよりもっと怖い事を考え出してしまったからなの。

 それは、修行先で眠りに着く少し前の話。

 いつもどおりパジャマに着替えて、歯を磨いて、マイ枕に頭を埋めてなーんにも考えずにいたら、ふと、死んだらどうなるんだろうと言う考えを始めちゃった。

 ホントに余計だ。そこで眠っておけば、こうやって頭を動かさなくてもいい時に頭を動かす破目になるのよね。

 で、死んだらどうなるのかなんてその頃の私はもう何度も何度も考えに考えていて、もう決着がついて全戦全分ってぐらいの勢いで答えは得ていたんだけど、その日に限ってまた余計なことを思いついてしまった。

 結論から言うと、死ぬのが怖くなくなったのは、死ぬ時何一つ考えられなくなる方が、何倍も恐ろしくなってしまったから。

 大事だった物も、大切だった人も、優しい思い出も、むかついた記憶も、悲しかった時も、厭な奴と言い争ったもやもやも、――――好きになった人の事も、何一つ考えられなくなるんじゃないのかって考えてからが、ホント拙かった。

 震えが止まらなくなって、暫く、一週間は布団の中へ入るたびに震えが止まらない日が続いたのよ、恥かしいけど。

 でも、恥かしくともやっぱり子供だったのかもね。誰かを頼りたくて、最終的にはロンドンで私の面倒を見てくれた師の下へ助けを求めちゃったのよ。

 泣き付いたりするわけじゃなくて、パジャマに枕抱えて、ホント怖い夢を見た幼子みたいに師が夜の雑務をこなしている処まで言って、暫く一緒に居たいって、思いだすのも恥かしいぐらいの一言をなんともなく言ってしまった。

 自分に素直になったって言うか、その時ぐらいかもしれない、心底本心から誰かに頼ろうなんて考えたのは。

 揺り椅子に枕を抱えたまま座り込んで、ぎしぎし言う事にだけ耳を傾けてた。

 師は、そんな私を気にかけることもなく、ただ、何時ものように、夜の雑務をこなそうとペンを走らせていた。

 いや、まだまだ私も子供だったのよね。それが詰まらなくなって、同時に酷く曖昧なもやもやが胸の中に湧き上がっていた。

 だって弟子、って言うか少なくとも保護者、もしくはお世話している側なんだから、そんな様子を見たら一言声をかけるのがフツーだと思うでしょ。

 ところがどっこい、師は部屋の中に入ってきた私の顔を一回見ただけで、後は目もくれなかった。

 どーして無視するんですかー、って聞いたらそうしている原因が判らない以上、何も言うわけにはいかない。

 だってさ。要するに、師は受身だったワケ。

 自分から積極的に相手の領域へ踏み込むような真似はしない。

 相手が仮令子供であったとしても、師は、決して優しく接するわけでもなく、厳しく接する事でもなく、何時もと変わらない、事務的で魔法使いの代表のような態度で仕事をこなしていたってコト。

 それを知って、なんてまぁ弟子不肖な師なんだろうって一瞬怒って、そんで一瞬で冷めたのは、ちょっと荒療治だったけど師なりの解決方法だったのかもしれない。

 そう考えると私が考えていた事なんて至極どうでも良いことであったような気がして、直に部屋へ戻っていった。

 師は師なりに結論を出させようとしていたに過ぎない。

 よく考えると、師はそれまで私に対して食事の準備や、洗濯物の整理など、本当に雑務としか言いようのない事だけしかこなしていなかった。

 師らしい事と言ったら、魔道書を何冊か取り出して、要点を纏めて提出しろって言うだけだったのよ。

 それが笑っちゃうことに、渡された魔道書のあっちこっちに書きなぐりとかマーキングが成されていて、そこを纏めちゃえばあっさりおしまいって言うモノだったっけ。

 師らしい事なんてそれぐらい。他には何もしてくれなかった不肖の師。

 与えてくれるものだけ与えてくれて、他のは何にも与えてくれなかったって言うのは、実際どういうものなんだろうね。でも、私にはソレぐらいがちょうど良かったかもしれない。

 教えられて習うよか、自ら学んでなれていけというのが、修行が終わってウェールズへ戻る直前に教えられたのが師唯一の言葉。

 それ以外は、本当に魔法使いとしてではなく、一人間として私に接してくれたのが、師だった。

 魔法を教えるのではなく、魔法使いとなった後、ちゃんとした伴侶が見つかるまでの間、世界中を駆け巡っていくから、一人でも大丈夫のように鍛え上げてくれたのが、師だったんだ。

 ソレに気付いたのはそうして見送られた直後。

 見送られて、最後の最後まで私の唯一の師としてだけ接してくれたあの人の顔は、最後まで変わる事の無い魔法使いとしての表情だった。

 魔法使いってああいうものなのかなとも、正直考えていたりもしたわよ、勿論。

 でも、魔法使いと言うのはそう言うものなんだと、知っているのは一番師の間近に居た私が一番知っている。それが魔法使いと言うものなのだと、知らず知らずに教えられていたんだ。

 師としては失格だったかもしれないけれど、師は魔法使いとしては、人間としては誰よりも私を育て上げてくれた。

 僅か半年。一年以上もの修行を要する筈の本格的なマギステルへ昇華する為の修行を、僅か半年で終わらせてくれたあの師にはちゃーんと私も感謝はしてる。

 尊敬は出来ない師ではあったけれど、誰より人間としては信頼できる人で、私の、あの時だけのお父さん。

 

「…くす」

 

 思い出して笑った。最後のお別れのとき、そんな今まであった事を一気に思い返して、初めて私は師に愛され、恵まれたんだって事に気がついたの。

 ホント抜けてる。本当に、もっと早く気付かなくちゃいけない事に最後の瞬間に気付くと言う暴挙は、今までの私の歴史の中でも―――まぁそんな語るほど長生きはしていないんだけどね。それでも、あの時の一瞬は最大級の失敗だと思う。

 基本的に、魔法使いは一度師事を受けた魔法使いとは会ってはいけないと言う取り決めがある。

 不思議な事に、その特例は今の今まで一度として破られたコトはなかった。

 魔法学校で魔法の授業を受けるのとは違って、一対一で魔法を学んだ場合は、決して同じ魔法を使うもの同士として対面は不許可なの。

 おかしな話だとは思っても、それは長年に渡って守られてきた摂理の鍵だ。それを私の代で崩すことは許されない。だから、師とはそこで完全なお別れとなる筈だった。

 今にも出そうな列車に乗り込みかけて、魔法使いの表情で、長いローブ姿の、見た目っから魔法使い丸出しの、少しも隠そうとしない師の一言は今でもちゃんと覚えてる。

 今生の別れの言葉なんて、忘れられる筈無いじゃないの。

 

『―――風邪引くなよ―――』

 

 だってさ。

 今生、もう二度とは魔法使いとして会う事を許されない師が告げた最後の一言が、まるで愛娘に送る言葉のような、風邪を引くななんて言う心配の言葉。

 それが嬉しかったのか、それとも、呆れたからか。乗り込みかけていた列車から飛び出して、師に抱きついたのは、幼い頃から両親へ甘えられなかった、私の最初で最後の甘えだったのかもしれない――――

 

 

 

 流れていく景色と、思い出したのは半年間の師との楽しくも無いような。けれど、過ごしがいのあった半年間の記憶。

 どうでもいい事を思い出していたようで、実際はあまり無意味と言うわけでもなかったみたい。

 感傷と言う名の思い出に浸っていたのが良かったのかもね。

 風景はいつの間にか大きく移り変わって、建物とかが目立つようになってきている。どうやら、ロンドンに近づきつつあるみたい。

 楽しい事と言うか、神経を集中させてると、時間の経過が早いって言う友達の言葉は本当だったのね。

 ありがとう友人。楽しくも無いけど、面白くなくも無かった時間が過ごせたわ。

 いつの間にか私のいた個室の中も五人ほどになっていて弱冠は騒がしく、もなっていないわね。

 こういった所では大人しく自分の世界に入り込んでいるって言うのが暗黙の了解だもの。根暗とか言うんじゃないわよ。こう言うのは情緒ある大人の節度って言うものなの。

 言ってしまえば長旅における序盤。

 ここではあまり多くは語らず、けれど、次に乗り込む列車や乗り物に乗り込んだとき、同室や途中まで一緒だったときには会話を弾ませるって言うのが丁度良い。

 とは言え、ちゃんと対応する時は対応するって言うのも節度ある態度って言うもの。

 だから目の前に座っているおばあさんからの貰い物もちゃーんと受け取りましたし、本心からの笑顔とかも向けられる。

 計算ばっかりじゃ世の中渡っていけない。時折の偶然とかも取り組んでいくのが、生きていくってことなのかもね。

 列車の汽笛が甲高く鳴る。

 窓に寄りかかって進行方向を見つめれば、遠くには魔法界から見れば十分に近代的な、でも他の街並から見ればまだまだレトロな街並の中にあるパディントン駅が見える。

 結局、私は数日で半年間過ごしたあの師との思い出の地に帰ってきたわけだけど、そっか、だから思い出さなくても良い事を思い出したり、師との感慨に浸ってたりしていたわけね。

 

「わっ、わわっ、アーニャさん〜ロンドンですです〜」

「解ってるわよっ、もう、そんなにはしゃがないの」

 

 胸元からひょっこり飛び出したレッケルの頭を押し戻しつつ、もう一度あの懐かしの修行の地を顧みた。

 以前は我が家から始まり、あそこで終わりだった。故郷から旅立ち、ロンドンと言う街で魔法使いになるべくの修行を積んだんだ。

 でも、今度は違う。今度はあそこは通過地点に過ぎない。あそこを足掛かりにして、私はもっと遠くへ飛んでいかなくちゃいけないんだもの。

 向かう先は日本。出来の悪い弟分の居る、あの極東の地へ。

 

 ――――――

 

「さぁってと…一気に空港へ向っちゃうか。それともちょっとはロンドンをぶらぶらするかな…」

 

 大荷物を担ぎ出して、大勢の、それこそ私が出立したウェールズ発ロンドン行きの駅構内とは比べものにならないレベルの大きさパディントン駅を見渡す。

 端から端まで人人人。コレはほんとに人酔いしやすい人が来たら噴出すぐらいの人の多さだわね。

 

「私は真っ直ぐに空港へ向うべきだと思いますですです…」

 

 胸元から顔を覗かせるレッケルの意見は、とりあえず無視。

 発言権限は私にあり、私の体は私のものよ。行動基準は全て私に取り決める権利があるんだから。と言うわけで。

 

「んじゃ駅で買い物でもして、その後空港へ向いますか」

「無視するなんて酷いですです〜」

 

 一先ずレッケルの使い魔発言は無視して、馬鹿でかい鞄を背負い、持ち上げ駅構内を走り出す。

 こう見えても結構敏捷性には自信があるから、大荷物でも人と衝突しない、と言うかする気なんて無いのだ。

 そうして買い物しようとポケットからお財布を取り出そうとした刹那、

 

「――――――――!!」

 

 背後から、一際大きな悲鳴と、叫び声を聞く。

 振り返って、即座にその状況を把握する。

 突き飛ばされたかのように四肢を付いているあの、列車の中で果実を分けてくれたおばあさんと、その視線の先に、おばあさんの持っていた荷物を持った若い男が一人。

 この状況下で思考できる事と言ったら一つぐらいしかない。

 

「レッケル! 追って!!」

「はいですです!!」

 

 胸元から蛇が飛び出す。

 純白の閃光とも捕らえられないぐらいの速度は傍から見て居てもレッケルが普通の生き物だとは認識させ、いえ、そもそもその純白の閃光が真っ白い蛇だと気付く人も居ない筈。

 逃げていった男のほうはレッケルに任せて、私は倒れているおばあさんの元へと一息に詰め寄っていく。

 

「大丈夫!?」

 

 突き飛ばされただけみたいだけれど、膝は赤く染まっている。相当強く突き飛ばされちゃったのは、誰が見ても解る傷痕。

 抱えていた荷物から包帯を一纏め取り出して、おばあさんの傷痕へと充てて巻いていく。だけど、勿論それだけじゃない。

 ここはもう魔法界圏内じゃない。魔法を人前で使用する行為はご法度中のご法度だ。

 周囲には人が一杯居し、この場で治癒魔法を使う事は難しい。けれど、そんなんじゃマギステルとしての技量が怪しまれる。

 この様な状況だからこそ、いかに魔法を隠して魔法の力を引き出せるかが、マギステルとして図られる状況判断力なのよ。

 

「あいたた……」

 

 苦悶に顔をゆがめているおばあさんの傷口に手際よく包帯を巻きつけていく。でも、気付く人間はきっといないでしょうね。

 よく見なくちゃ気付けない発光。包帯を巻きつけていく手に宿った、癒しの波動。

 無詠唱の治癒魔法は高度中の高度って言われてる技術の一つ。

 治癒魔法、特に自分じゃなくて他者への治癒魔法って言うのは極めて調節が難しい。そもそも、治癒魔法自体が魔法界では上級ランクに位置する魔法だからね。

 ネギも回復魔法を使えるけど、あれは回復と言うよりは麻痺に近い。

 患部の神経網に魔力と言う異物流を発生させて、その場の痛みとかを軽減するわけ。実際は治しているわけじゃなくて、本当にその痛みそのものを弱めているにすぎないの。

 本当の治癒魔法と言うのはそんなレベルじゃない。魔力と言う実在しないモノで実体を本当に埋めるのが、治癒魔法。

 怪我や疲労って言うのは言わば欠損、体力の欠損や肉を構成している分子の欠損だ。それを魔力で補うと言うのが治癒魔法の本質なの。

 だから、使用する相手によってその治癒力は常に調節をしなくちゃいけない。

 同じ体質・性質を持った生き物は一人として存在はしていない。一人として同じ大系を持っていない対象に治癒魔法をかける際は、その対象に最も適応した魔力の流れ出の治癒を執り行わなくちゃいけない。

 つまり、治癒魔法は常に相手に合わせて詠唱をチェンジしなくちゃいけないわけだけど――――

 

「― ―― ―」

 

 口の中で一節を紡ぎ、それをおばあさんの患部へ当てる。コレで十分の筈。流石は私、と言いたいところだけど、実はコレ、大半はレッケルのおかげだったりもするのよね。

 伊達にレッケルを普段胸元に忍ばせているのはあながち無意味な行為なんかじゃないの。

 胸元って言うのは精神・魔力回路が一番強く作用している部分。そこに水の精霊、治癒魔法において、最も契約すると良いと言われている精霊の化身、蛇を長く宿し続ける事によって魔力回路そのものに水の魔力判定を取り付けておいたってワケ。

 だから、おばあさんを治癒したのは私の魔法でも、その大半はレッケルの力添えがあったって事なんだけど、ね。

 

「あらあら…すまないねぇ…」

 

 おばあさんの顔色を見る限りじゃ、もう大丈夫ね。おばあさんや他の人は気付いていないだろうけど、無詠唱治癒魔法でおばあさんの疲労感も痛覚も大分埋められた。

 あとはおばあさん自身の治癒能力に期待するしかない。怪我をさせた奴は許せないけれど、怪我自体は怪我を追った人が自らで埋めていかなくちゃいけないのが節理って言うもの。私達魔法使いはちょっと後押ししてあげるだけのぐらいが丁度いいのよね。

 それで、これから私がするのも魔法使いとしての、立派なお仕事――――

 

「それじゃ、ちょっと取り返してくるからね」

 

 何でもないように、いや、実際なんでもない事なんだけどちゃーんと宣言しなくちゃ薄情者だと思われるのも厭だから、おばあさんの荷物奪還をさりげなく告げて、その場から離れていく。

 勿論あのおもっ苦しい荷物は抱えたままなんだけど。

 

「あ、ちょっとお待ちなさ――――」

 

 おばあさんの引き止める声は残念だけど無視していく。

 そう、ここからは魔法使いとしての役目なの。なら、人間的な思考の半分は切り捨て代入、別の思考回路へと加算していく。

 

「Benachrichtigung!《 通 達 》」

 

 短く一節を紡ぐ。

 テレパティアの準備を整えて、頭の中でレッケルとの会話を開始。

 まっ、尤もその間も人にぶつからないようにしっかり前を見据えて、一番いい“場所”を目指さなくちゃいけないワケなんだけどね。

 

「レッケル」

『あ〜アーニャさんですです〜』

 

 レッケルの口調は相変わらず軽い、と言うか穏やかな口調。この調子ならちゃーんと相手にはくっついて行っているみたいね。

 まぁ、レッケルの速度や体型を考えると、引き離せる相手って言うのが先ず想像付かない。だって相手は蛇で、しかも水の操作に長けた精霊なんだもの。

 

「挨拶はいいのっ、で今何処?」

『現在犯人は十五番ホームを抜けて南南西へ逃亡中ですです〜警察の人も三人くらい追っかけているけど私の方は離されず悟られずで着いていけているですです〜』

「上等っ! で、位置的に最適なのは?」

『はい〜アーニャさんの位置から十数メートル付近から高台に上がれる階段があるですです〜。その高台からならが一番ですです〜狙いは後頭部付近が一番ですです〜』

 

 そこでテレパティアを切る。

 状況はレッケルの方が良く把握できているのなら、私はしっかり狙い澄ますまでの話よ。

 荷物を抱えたまま、“関係者以外立ち入り禁止”と書かれた扉を押し開き、階段を駆け上がっていく。

 小柄で体力不足に見えて息が全然上がっていないのも、やっぱりレッケルのお蔭。

 水の精霊を長い間身に付けている事で、体内の水分量が調節されている。だから、汗なんてかかないし、息も全然上がらない。

 有難うレッケル。ホント、レッケル様々よ。ええ、レッケル様々ですともさ。

 扉を開いて、頬に風を受けながら荷物を投げ捨てる。

 いや、乱暴な行為だし、中には壊れないようにってしっっっっかり固定してあるんだけれど、一応レディなんだから投げ捨てるなんて真似はせず、ちゃんとぴしっと整えてから準備に入りたかった、と、時間的には凡そ無茶なことを思って見たり。

 兎に角、荷物のコトは後回しにして、今はおばあさんから荷物を奪って逃げ回っているヤツの足止めが先決ってモン。

 高台から南南西の方角へ向けて魔力を行き渡らせていく。

 南南西に逃げたのが幸いだった。

 南南西、特に南は私の魔力が一番強く働く方角なのよね。

 知らない人も多いかもしれないけど、魔法使いは魔法使い毎に得意不得意な魔法ってものがある。

 それに加えて属性判定って言うのもあるんだけど、この属性判定が結構厄介。

 なにしろ方角に操作されるわ、状況に応じては本来以上の力を出せたり、以下の力も出せなかったりと極めて不安定な魔力判定なのよ。普段使う魔法にはあんまり関係ないように思えて、自分の属性魔法にあっては流石に影響は出る。

 まぁ、それでも、この属性判定って言うのは無視するコトは絶対出来ない。

 誰だって、それこそ魔法使いじゃない人にだって、この属性判定って言うのは存在しているのだから。

 逃げた方向は南南西。私の属性が最も働く方角へ逃げてくれたのだからミスは許されない。

 

「さてっと、それじゃあ一発決めますか」

 

 ローブを翻し、俯瞰に広がるロンドン駅をしっかりと捉える。脳内ではレッケルが追う悪党の位置を常に把握し、私の詠唱発動キーを大気の下に震わせる―――

 

「Ali・lis Ma・lilis Amalilis《アリ・リス マ・リリス アマリリス》」

 

 コレが私の魔法発動キー。

 もう私はちゃんとした魔法使いなんだから、いつまでも初歩者の詠唱形態を取っているわけにはいかなかったからね。それにアマリリスの華って可憐でいいじゃないの。

 自己に、世界に、自然界に訴えかける詠唱と言うものは、言ってしまえば命令ではなくお願いなの。

 なら、その形態は自然よりの方が魔力は極めて高まるって言うのが意外と知られていない魔法大系なワケ。

 説明はココまで。盗人には速やかに制裁を加えなくちゃいけません。頭の中でレッケルとの通信を再開しつつ、呪文を組み立てていく。

 

「―――レッケル! 準備はいい?」

『いつでもどうぞですです〜警察の人も程よく離れているですです〜』

「行くからねっ!!

 Der Wind des Feuers, um zu tanzen  Himmelsgewolbe, das Es erleuchten kann.  Ball des Feuers FREISCHUETZ.《―――踊る火の風  天照らせ火の珠  火砲の射手―――》」

 

 一節で紡いだ発音と共に、南南西の方角へ右手の指先を送る。

 コレが私の詠唱。

 ドイツ語発音が私には一番相性が良かったらしくて、ロンドンに修行に行ったって言うのに日長一日、ドイツ語のお勉強だなんて、ホント、何の為にロンドンへ来たんだか始めはワケがわからなかったわ。

 でもこれが中々どーして。

 本当に私は師匠に恵まれていたみたいで、師の言いつけどおりドイツ語による詠唱変換ばっかりやっていたら、半月経たない内に魔力回路があっさりとドイツ語向きに変換されちゃったのよね。

 師は、ひょっとしたら知っていたのかもしれない。

 私がラテン語とかの詠唱で呪文を唱えるより、ドイツ語と言う洋式美の発声現体で示した方が、世界へ訴えかける力は大きくなるって言う事を。

 ドイツ語で紡がれた焔の射手はまだ私の指先に宿ったままで、射出はされていない。

 距離が距離だから、結構狙い済まさなくちゃ、いかに『魔弾の射手』の名を継いでいたって、射手自身がヘボかったら銃が良くても当たらないのは魔法も同じ。

 だから、レッケルとの通信接続は常に切らず、脳の中へ幾つかの容量を残しつつ、完成した呪文の停滞、通信の連続接続を永続させる。

 南南西に向けられている指先が熱い。まるで、神経の通っていない爪から少しずつ熱せられて、気付いた時には大火傷、って言う気分だわね、コレ。

 いつもならここまで射手に熱が籠ることはない。まだまだ駆け出しの魔法使いの私の射手は、せいぜい成人男性が脳内のリミッターを解除してぶん殴った時と同じぐらい、まぁ簡単に言うと、鋼鉄製のハンマーで板越しに強打された程度の威力かな。

 それが、今ではハンマーどころか弩級砲にも似た熱と重さが腕先から伝わってくる。それは、南南西と言う方角に意味合いがあるの。

 そう、私、アーニャが一番得意とする、と言うか『アーニャ』と言う魔法使いが生まれながらに宿している属性判定は、“火”。

 四大元素の中でも、最も攻撃・破壊に属した属性が私の属性判定なワケ。

 そりゃ始め聞いたときはなんだそりゃーって感じよ。

 私みたいなおしとやかで大人びた雰囲気のお嬢さんが、どの首そろえて『人間ナパーム』ですってさ。

 そりゃ一度こうと決めたコトは絶対に譲らないし、悪いことしたヤツにはしっっかり後始末は取ってもらいますけどね、それでも火って言うのはあんまりじゃないかなって思うわけよ私は。

 

「――――っと」

 

 愚痴を言っていても仕方ない。今私がやるべきコトは、生まれながらに身についていたこの属性判定を呪う事じゃなくて、おばあさんの荷物を奪ったヤツにしかるべき制裁を加えてやる事の方が重要だ。

 そう、今あの犯人の動きを捉える事が出来るのは、使い魔を追わせて、こうして魔法発射の準備を整えている私でしかできない事だ。

 意識を細める。

 神経を一本に纏め上げる。

 紡いだ一節は、確かに世界と私とを繋ぎとめる一本の糸になる。

 だから、必ず上手くいく。

 そう、この感触は、師の下で修行していた頃、何度も何度も感じ取ったあの感触だもの―――

 

『アーニャさんっ!!』

「!! 見えた!!

 Nach Der Schiessen!!《解放、射出!!》」

 

 脳内から伝わってきていたレッケルのイメージと、俯瞰から見下ろす風景の位置情報を把握し、中空へ掲げていた右手の人差し指と中指を並べ、まるで子供が遊ぶ時のように手で拳銃の形を形どる。

 射程は十分。威力は、南南西へ逃げたと言うからはっきり言って保証できない。でも――――足止めには、それで十二分――――

 構えた二本の指先が爆ぜる。爆炎が走り、ドン、と言う轟音が鳴る。

 正確には、二本指先から飛び出した紅い閃光が指先を弾いただけで、実際に指が爆ぜたら、そりゃ怖いわよね。

 ソレぐらいの衝撃が伴っているって言うのは、誰の目から見ても明らかの筈。

 

「レッケル! 行ったわよ!!」

『はいですです〜Das Wasser Schuetzen〜〜《水膜》』

 

 紅い閃光が舞う。

 一条の、まるで灯台から放たれた誘導灯の役割を果たさんとばかりに、私の指先から飛び出した炎の矢はわき目も振らず、いや、振ったら怖いんだけど。

 兎も角、一直線に、けれど、確かに逃げていった犯人の方へと、目視も不可なほどの速度で一目散に一点を目指していく。

 魔力を十分に通した『魔法の射手』。

 攻撃魔法としては初歩中の初歩なんだけど、だからこそ魔力の通しが上手くいけばあらゆる使い方に適応した万能の魔法にだってなるの。

 こうして一本だけ射出したのには意味がある。

 勿論一撃抹殺って言うのも大事だけど、あ、一撃抹殺って言うのは私の座右の銘。

 一々ぐだぐだやってる暇なんて無いもんだから、コトはなるべく一瞬でこなすって言うのが私の心情なのよね。効かない連撃よか、効く一発の方が何倍も効果があるってワケ。

 私が放った魔法の射手に籠めた魔力は破壊力系重視の魔力大系じゃない。どちらかと言えば、操作大系。

 魔法の射手の中に込めた魔力を定期的に散らせて、その反動で魔法の射手の進行方向を変化させていくって言う、言わば追尾型魔法の射手の手動追尾型と言う、またなんと言いますか、自分でも呆れるぐらい後手後手の魔法の射手なわけなの。

 でも自動追尾よりも私は手動追尾のほうが好きなの。

 自動って言うのはどーにも当てにならない、と言うか不安。ちゃんと当たってくれるのか、外れた時はどーして外れたのか考えなくちゃいけないとか。

 もぉそう言うのは懲り懲りだから、手動追尾、自分の出来る事なんだから自分でやりましょうって事。

 それに、手動ならいざ外れてもそれは自分の未熟だって言う事で説明できる。

 私は説明付けられない事象はあんまり好きじゃないから、魔力制御の自動追尾より、自制御の手動追尾の方が、何かと便利、と言うか好きなのですよ。

 射手が行く。

 風を切る。

 人込みを縫う。

 十二分に籠めた魔力は方向転換や姿勢制御の為に定期的に吐き出されるけれど、それでもまだまだ十分に籠められている。

 寧ろ、このまま定期的に魔力を放出しながら行けば、犯人の後頭部に命中する時には程好く威力が緩和されているかもしれないしね。

 

『あ、アーニャさん〜炎の射手を視認ですです〜〜後十秒で直撃コースですです〜〜』

「水膜準備OKね? 後七秒四三」

 

 両の目を閉じる。

 今目の前に広がっていた俯瞰風景を視覚から切り離して、レッケルが送り込んでくれる伝達風景に視覚を接続する。

 見えた。逃げる犯人。追う警察官の脇を抜けて、紅い閃光が奔る。距離は七〇~八〇メートル大。『射手』なら後五秒経たず突破する距離。

 中空へ突き出した右手を開いて、何も無い虚空を掴むように構えた。

 ミスは許されない。意外と犯人の足が遅いって言う不幸が重なって、魔法の射手の威力がまだ十分に籠ったまま到達しちゃった。

 だから、水膜をレッケルが張っていても、恐らく完全には相殺しきれないでしょうね。後三秒五五。

 このまま命中すれば昏倒では済まされないかもしれない。一歩間違えれば頭蓋骨陥没の植物人間状態になる。

 まぁソレぐらいはしてやっても構わないかもしれないけど、ソレは私がする事じゃない。私がする事は、私の狙いは別のトコだもの。後一秒九八。

 

「おばあさんから物を取るような奴は」

 

 犯人の後頭部。薄い、水の膜がふわりと広がって炎の射手を包み込む。直撃まで距離数センチ。後、零秒五五。

 

「Schnell ist die Vergeltung von Himmel . Die Aufloesung!!《天罰覿面 分散・崩壊!!》」

 

 風船が割れるような音が鳴る。

 一瞬静寂して、周辺の人たちの顔が困惑に染まる瞬間だけ見届けて、見事犯人の後頭部で魔法の射手を拡散させた事に満足しつつ、私はゆっくりと眼を開く―――

 勿論殺してなんてない。確認はしたけど、後頭部ギリギリで魔力拡散させた衝撃で卒倒させ目を回しているだけ。

 まぁ、南南西とは言えど火精分の少ない場所で此処まで出来れば師匠も及第点くれるかな。

 身体を思い切り伸ばす。

 風が気持ち良い。きちんとやり遂げられたコトの満足感と、ほんの少しの焦燥感だけを抱いて、ロンドン駅の俯瞰の一角から上がる叫声にだけ、耳を傾けてみた。

 

『お見事ですです〜〜あ、犯人さん取り押さえられたですよ〜〜荷物もちゃんと確保されたですです〜』

「よっし。レッケル戻ってきて。お買い物は国際空港でしましょ」

『ほひ? おばあさんには会わないのですか〜〜〜??』

「いいのっ。早く戻ってきなさい」

 

 振り返る。もぉロンドン駅には用事はないわけだし、ちゃんとやるべき事は成し遂げた。ちょっと計画とはずれたかもしれないけど、私としては及第点だ。

 

『お礼ぐらいは欲しいですです〜〜』

「何言ってるのよ。魔法使いはね、これぐらいが丁度良いの。でしゃばって良い事なんて、ないんだから」

 

 風に吹かれて、着込んでいた魔法使いとしての外套が舞う。

 ロンドンへ来たばかりの頃、師が与えてくれた、とても良く魔力を外へつなげる事が出来る一品。

 さっきまでの芸当も、偏にコレがあったから出来たようなものかもしれないわね。ありがと、お師様。

 

「アーニャさん〜〜」

 

 しゅるしゅると言う地擦れ音を響かせて、何処からともなくとレッケルが私の足元から胸元まで這い上がってくる。

 一体どうやってあそこからここまで来たんだろうって言うのは最早暗黙の了解。この子は私や人間なんかじゃ考えもつかない方法で此処に戻って来たに決まってるんだから。

 胸元に入り込んだレッケルを軽く指で撫でて、ほっぽりだした荷物のほこりを払いつつ身につけていく。

 結構乱暴に扱っちゃったけど、まさか中の荷物ぐっちゃぐちゃになってたりしないわよね、コレ。

 妙な不安は後回しにして、荷物を背負いつつ、一回だけさっきまで立っていた高台の端に目を向ける。

 別に対した事じゃない。別に私は感謝が欲しくて誰かを助けたりするわけじゃない。それは魔法使いとして当然の事だもの。

 魔法使いは一般の人よりも優れた力を持っている。優れた技術と優れた力量は、常に『誰か』を優先順位にして考えなくちゃいけないんだ。

 差別も差分も全てをひっくるめる。人間的な思考じゃ、人間以上の現象から人間を救えない。

 言わば、魔法使いって言うのは世界を斜から構えた視線で見つめる捻くれ者に過ぎない。

 だから、魔法使いって言うのは誰よりも人の感情から遠いところに居なくちゃいけない生き物なのだと、私は結論付けている。

 それを苦しいとか、悲しいとは感じた事がない。

 自分で選んだ道だもの。後悔も憐憫もある筈がない。

 魔法使いになるように生きて、今こうして立派な魔法使いとしての一歩を踏み出したに過ぎない。

 歩め出せば顧みる事の許されない茨の道。その道を知って、知っていてこうして歩んできた。

 

「…アーニャさん…やっぱりお礼を貰いに行くですでぅふみゅ」

「いいのっ。言ったでしょう、でしゃばる必要が何処にあるのって」

 

 胸元をしっかり閉めて、もう穏やかな声が聞こえないように自分の心に硬く硬く蓋をする。

 欲しいものなど何もないし、得たい事なんて何もない。

 欲しいものは生まれた時点で全部持っているし、得たいモノもまた、生きて行く内で、全て手に入っていくのだから。

 だから今は真っ直ぐに行こう。

 帰れなくなるまでには十分すぎるぐらいに時間は有る。

 いつの日か此処に戻ってくる事が出来ないと確信していても、それを選んだのが自分なら後悔はない筈。

 

「さぁ、行きましょう。人の時間は砂時計みたいなもんなんだから」

 

 見据えるは正面。扉を閉める一瞬に感じた風は、潮風みたいに目に沁みた。

 

第一話〜帰郷〜 / 第三話〜祭場〜 


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