語るなかれ。しゃべっている余裕があるのか?
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ん……?」
高畑・T・タカミチは踵を返して世界樹の下を睨みつけるように見た。
だが、そこには何の影も無い。闇が深深と湛えてあり、次の瞬間、何かが飛び出して襲い掛かってきてもおかしくないかのような夜の闇が広がっているだけであった。
「どないしたん、高畑さん」
「いや……今誰かが居たように思ったんだが……気のせいだろうね。
こんな時間に此処に訪れる人間なんていないだろうしね」
先を行っていた犬上小太郎に軽く返し、二人は世界樹広場の中心に立った。
血の匂いが未だにこびり付いている広場。
高畑も小太郎も、同じように顔を顰めた。
特に犬上小太郎の表情はまさに牙を剥いた犬が如く。羅刹のような表情で、世界樹広場にこびり付いた紅いカーペットを見つめている。
高畑は膝を折って片手をそのカーペットへと付ける。
既に乾ききり、しかし妙に生生しい色合いをした赤。
軽く爪で地面を抉るように動かしただけで、爪の間には紅い土の様な血の塊がこびり付く。
視線を上げる。その赤のカーペットは世界中広場の大半を埋めている。
元に戻るには大量の雨が降るか何かが無ければ復元しないだろう。
匂いもまた、このまま放っておくようなことはあるまい。ただし、それらの作業は全て、今回の事件が解決しなければ順当に行う事も出来まい。
生徒の事を高畑は思う。さぞかしの無念と苦痛を味わった事だろうと。
死者が出ていない事が幸いしているが、何時出てもおかしくは無い。
今まで出た被害者の重症がソレを語っている。首を動脈寸前で食い千切られたもの。脊髄を後数ミリで切断されかけたもの。数え上げればきりは無い。
故にこの件は早急に対処しなければいけない。
そんな事は、高畑以外の魔法教師らも充分に自覚していた。
死者が出ていないなど、そんなものは幸運でしかない。
重体患者もいるのだ。襲った相手は紛れもなく殺害目的で襲撃を繰り返している。それは、どの人間から見ても間違えなかったからだ。
高畑は血のこびり付いた地面を一度撫でながら立ち上がり、世界樹を見る。
あの木に近づいた人間が一番被害を受けて居るのは紛れも無い事実であり、その次に被害が出て居るのが魔法生徒・教師登録されていない魔法関係者。
一般人への被害も勿論ある。男女、老人子供、病人怪我人に差異は無い。
容赦なく襲い掛かって、重症を負わせている。
だが、特化してこの世界樹に近づいた人間に対しては念入り。徹底的とも思えるレベルで攻撃を加えていた。
世界樹。麻帆良学園でも最大の存在であり、謎多き存在。
学園祭の時は魔力を集める存在であり、その地下下部には集結させた魔力を溜める遺跡のようなものもあると報告されている。
それだけならば、ただの魔法使いの関係にも通じるが、果たして『何』が起因でこうなり、如何なる要因をもって『そのように』なったのか。それは、解らなかった。
そこに何が在るのかを知る人間は極めて少ない。
高畑・T・タカミチですら、世界樹とは何で在るのかを判断できない程だ。
だが、襲っている対象は、恐らくは世界樹にある『何か』に反応して襲っている。高畑にはそうとしか考えられなかった。
「高畑さん。世界樹になんかあるんか?」
「いや。なんでもないよ。それより小太郎君、珍しいじゃないか。君がこんな仕事に参加するなんて」
高畑・T・タカミチが思う限り、犬上小太郎と言う少年は強者を欲する根っからの戦闘派であった筈。
そんな彼が強者を求めるような仕事ではないこの件に首を突っ込んだ事に、高畑・T・タカミチは驚いていた。
それを聞いて、犬上小太郎はばつが悪そうに頬を爪で掻く。
やや頬が赤らんでいる所から痛いところを突かれたと言った表情になる。
「相手はあの龍みー姉ちゃんに菲部長を倒した相手なんやろ?
ワイも腕の揮い甲斐があるってもんや……って言うんは建前やな。
本当は、ワイ今の生活壊されたくないん。
千鶴姉ちゃんや夏実姉ちゃん。あやか姉ちゃんもおる、今の生活。でも、なんや壊れてきてしもうたん。
茶々丸ってのが居なくなって頃からや。皆、なんか感じ変わってしまもうたん。
ワイそう言うの慣れとった筈なんに、今はそう言うの厭なん。
姉ちゃん達には笑っていて欲しい。そう思っておんねん。
まぁ、本心言うんなら、戦う力ももっとらへん女子供に襲い掛かっている奴らが許せへん言うんやけどな」
照れ笑いのような少年の笑顔。だいぶ変わったと、高畑もまた笑って応じた。
しかし、直ぐに表情は鋭利なものへと立ち直りその歩みを世界樹の真下へと向かって行く。
階段を昇り、バルコニーを越えた向こう側。世界中の真下も真下へ続く場所。
高畑は、自然とした動きで口元へ煙草を運ぶ。
まったくの自然な動き。本人すら意図しないその動きで、煙草をくわえ、両の手をポケットの中へと収める。まるで、刀を鞘に収めるかのように。戦闘の準備を整えた。
何故そうしたのか。それは高畑・T・タカミチ本人すらも思考できなかった。
ただ、この先にあるもの。世界樹に近づく毎に、脚にかかる異様な重み。傍らの犬上小太郎も感じて居るのか。その額には僅かながら脂汗が滲んでもいた。
それを予測できずも、二人は険しい表情のまま世界樹の真下を目指し、なおも歩みを止めようとはしなかった。
そうして。二人が世界樹の根元を見通せる場所までたどり着いた時の事だった。
両者は目を丸くする。世界樹の根元も根元。その太く険しい根が地面に突き刺さっている場所。
そこに、銀色の雪が降り注いでいるからだ。
だが、それが直ぐに雪ではないとタカミチは結論する。
足元に積もっていく銀色の何か。それは、地面に接触した瞬間、即座に消滅する。雪のように溶けるのではなく、完璧な消失。
それを見通した上で、両者はしかし、雪を見てはいなかった。
両者が目を向けるのはたった一点。銀色の雪が降り注いでいる中。
銀色を更に栄えさせるかのように漆黒に輝いている。否、輝きではなく存在しているものに目を奪われていたからだ。
世界樹の根元。銀色の雪の中。漆黒の結晶体が、雪の中。中空へと浮かんでいた。
「な、なんやぁ…アレ」
高畑はその犬上小太郎の声には反応しなかった。
ただ、何かが居る。そんな不気味な予感だけを懐き、一歩踏み出しかけた処で。
犬上小太郎は、頬を何かが掠めるのを感じた。
振り返った時にはすでの遅い。タカミチの体は巨大何かに覆われ、しかし、一瞬だけ合ったその目が語った。
――後ろだ、と
振り返った犬上小太郎の前。銀色の雪の中。異様なまでに長い腕を広げた、十字架に掲げられた聖者の様な絡繰茶々丸だった、モノが―――
高畑・T・タカミチはギリギリでその牙を止めていた。
対物理障壁を展開した片腕が、剣牙虎の牙のように鋭いソレを押しとどめる。
周囲の風景が過ぎ去って行くが異常なまでに早い。
無理も無い。高畑・T・タカミチの正面にいる巨体は、尋常ではない速度で地面を疾走し、高畑・T・タカミチの体もろとも押し返して居るのだから。
高畑・T・タカミチは居合い拳を打ち抜く。
零距離射程にも近しい距離。ネギ・スプリングフィールドと言う少年に打ち込んだ時とは違い、初撃である筈のその一撃に魔力と気を乗せる。
合成居合い拳。熟練の技であるソレは、しかし。その巨体の前ではやはり遅すぎた。
巨体が離れる。ポケットから手が引き抜かれ、居合い拳を打ち出すと言う一瞬。
その一瞬で、巨体は高畑・T・タカミチの体からはなれ、距離を置いた木々の向こうを駆け出した。
高畑・T・タカミチは止まらない。動きをあわせなければいけないと判断する。
止まれば、肉眼では捉えられないであろうと結論する。
木々の向こうを疾走するソレは、それ程驚異的な速度であったからだ。
並行するように林の中を進む。木々を避けながら林の中を進む高畑・T・タカミチに対し。
銀色の鬣を持ったそれ。高畑・T・タカミチは知らぬが、かつて機能得限止だったものは、木々の枝から枝。幹から幹へ飛び交う鳥のように機敏な動きで、自然の全てを足がかりにして疾走していた。
高畑・T・タカミチは歯軋りする。相手の動きが想像を絶するほど早いことに。
今まで合った事もないような強敵の気配。それを越えての、狂気的なまでの絶望感を匂わせる、ソレに。
林の奥を睨む。高畑・T・タカミチの数秒前をソレは行く。否、行っていた。
過去形であるのには意味がある。既にソレは、高畑・T・タカミチの眼前に姿を見せていたからだ。
瞬動にも近い高速移動の状態から跳躍。
高畑・T・タカミチは突如眼前に現れたソレの大木じみた薙ぎを回避する。回避は成功したが、高畑・T・タカミチは足を止めない。
今の一撃の恐ろしさを知っていたからだろう。高畑・T・タカミチが疾走していた位置。疾走してきた場所は、既に抉られ木も草も生えてはいなかった。
直撃すれば死ぬ。そう確信した。
今の一撃は回避し切れなければ死んでいた。それほどの一撃。
大木じみた腕が振るわれた場所に木は無い。遥か遠くから轟音。
薙いだ腕が弾き飛ばした木が、それほど遠くまで弾かれ落下した音だった。
そして思う。龍宮真名。古菲。その他、多くの人間を傷つけてきたのは是だと言う確信。
そしてコレは。今までであったきたどの強敵よりも凄まじい『怨敵』であると。
背後からソレが追って来るのを感じ取った。異常な速度。常に瞬動をしている以上の速度を以って、ソレが距離を一ミリ秒で詰めてくる。
それを、高畑・T・タカミチは片足の踵を地面にめり込ませ、その場体を限界まで縮めた状態での一回転で回避しきってみせる。
体を屈めた瞬間。頭のあった位置を何かが通過する。
見る間でもなく、高畑・T・タカミチは跳躍し、木の枝から枝へと走り出す。
それの下を、機能得限止だったものが、やはり衰えぬ異常速度で追い続ける。
隙を見せるどころの騒ぎではなかった。
隙すらない。居合い拳すら打ち出す暇も無い。
ポケットに収められた手を引き出し、拳圧。ないしは魔力と気の合成による拳圧を叩き込む。
それだけだと言うのだ。それだけが、『アレ』に通用しない。
通用しないは御幣がある。届かないのだ。
その動作を終え、居合い拳と言う一撃が発生する一ミリ秒。
その一ミリ秒で、『アレ』は自らが予測できない回数、攻撃する事が出来る。それが答えだと、高畑・T・タカミチは確信した。
一本の木の上に差し掛かったあたりで、高畑・T・タカミチは鈍痛を感じた。
凄まじい質量のある物体がぶつかってきた衝撃。それが前進を貫き、脳に至るまでの一瞬で判断する。
真下から、アレが体当たりを仕掛けたのだ。高畑・T・タカミチの後を追い、地面を驚異的な速度で疾走していたそれが追いついたと同時に跳躍、前かがみに走っていた高畑・T・タカミチの腹部に突き刺さったのだ。
星に迫る高さを飛んでいる。
だが、星には届くまい。その高さに差し掛かって、高畑・T・タカミチは顔を痛みで歪ませつつも、今さっき自らに突っ込んできたそれを漸く視認した。
それはやはり剣牙虎であった。二本の牙を持った、白黒二色の大型の虎に似た、何か。
狼の瞳を持ち、引き締まった筋肉のみで構築された、どう見ても人間以外のソレ。
頭部の両脇を固めるような装甲を纏った虎。それが、高畑・T・タカミチに襲い掛かったものの正体。
しかし彼は知らぬ、かつて、機能得限止であったものであった。
地上から数十メートル。虎が体を思い切り捻る。
筋肉だけで空中に居る体を操作するその膂力に高畑・T・タカミチは戦慄しようとした。
戦慄しようとした所で、高畑・T・タカミチの体は一気に地面へ向かって落下していた。虎が、その尾で弾いたのだ。
落下したと同時に高畑・T・タカミチは体勢を整え、疾走。ある場所を目指して瞬動で移動を始める。
虎は未だに空中。だが、数秒後には落下し、高畑・T・タカミチに瞬時に追いつくだろう。
ソレより先に、高畑・T・タカミチは『其処』へたどり着かなければいけなかった。
林の中ではアレが独壇場。元々虎は林の中での狩人であった。
ソレ相手に人間程度が林の中で相対するなどおこがましい。故に、高畑・T・タカミチは自らに有利な場所へそれを誘導にかかったのだ。
背後から轟音。アレが追ってきたと判断する。
相手は自然界に住む生命体。相手の気配察知などお手の物。
高畑・T・タカミチは直ぐに追いつかれるであろう事を理解していた。
加えて自分の体は万全ではないのだ。追いつかれるのは自明の理であった。
しかし、それでも、高畑・T・タカミチは疾走をやめなかった。
音が大きくなっていく。林の奥。巨大な削岩機が追ってくるかのような錯覚。
その速度は尋常ではない事が削岩機との違いであった。
それが服一枚通して背後まで接近したのを感知して、高畑・T・タカミチは振り向きざまに跳躍し、林を抜けた。
林を抜けた先は空であった。崖。人工の崖が作られており、真下には道路が奔り、車が走っていた。
林の暗がりの下から引きずり出された白と黒の虎。
高畑・T・タカミチの首から上を食い千切らんとしてその顎を開き、二本の牙を光らせるソレと共に落ちていく。
道路の上に。だが、そのまま落ちていくのが高畑・T・タカミチではない。
限界ギリギリまで接近していた『ソレ』を利用する。
『ソレ』の腹部を蹴り、距離を開く。お互い相反するかのように、逆方向へと斜めに落下していく中。
高畑・T・タカミチは道路の上を走っていたトラックの荷台へ。虎は、道路の真中へと叩き落された。
トラックの上。鉄製の屋根をへこましつつ、高畑・T・タカミチは体勢を整える。
天井を転げ、運転手席の真上にあたる位置で落下を免れて顔を上げた所で。
同じトラックの端。運転手席真上の高畑・T・タカミチと相反するかのように。白黒の虎は、トラックの最後尾に座していた。
高畑・T・タカミチは視線を細めて直立不動の体勢となる。
両の腕はポケットの中。また、その全身から立ち上る闘気は、紛れも無く魔力と気の合成によるものであった。だが、その顔は険しい。
理由は幾つかが在る。
先ず一つ。
相手には居合い拳が蚊ほども掠りもしないと言う事。
相手の動きは高畑・T・タカミチが想像をする以上の運動能力を秘めていた。それを上回り一撃を加える事など不可能に近しい。
二つ。
相手の耐久力が異常まで高いという事実を高畑・T・タカミチは知ってしまった。
空中で距離を開く際に蹴り込んだ一撃。その蹴り当てを打ち込んだ右足が痺れているのだ。
まるで、金剛石の板を踏みしだいたかのような痺れ。相手は、それほどの耐久力を持っているのだと言う事実。
三つ。
魔力の吸収が思うように行っていないのだ。
気を抜けば、ただの“気”を込めただけの一撃となってしまう。
魔力と気の合成は、二つが平等な均衡を保って合成してこそ意味のあるもの。
片方でも均衡が崩れれば相克。あるいは、片方のみの単調な一撃になってしまう。
したがって、高畑・T・タカミチは今現在。想像以上の集中力で魔力と気の合成を完遂させていた。
その理由を高畑・T・タカミチは知らない。
魔力が思うように吸収できない理由。魔力とは自然界が持つ力である。高畑・T・タカミチも、勿論ソレは自覚している。
魔法使いの常識なのだ。自然のエネルギーを“精神”と“力”と“術法”で従えるのが魔力である。
高畑・T・タカミチも同様、ソレを行い魔力と気の合成を執り行っている。
だが、此処に例外が生じる。何か。魔法使いは自然の力を借りなければ何もできないと言う事だ。
その自然は何か。機能得限止は言う。第零世代が全ての生命体のうちには確実に存在していると。
第零世代は目指す。より進化した世代へ。
即ち、第二世代。それを目指すことが。全生命体の潜在に埋め込まれた“第零世代”の純朴な願望。
だとすればどう言う事か。高畑・T・タカミチの前に立つ『機能得限止』だったもの。
白黒の虎は何か。それは、鋼性種と言うどの生命体よりも『“第二世代”に近い“第一世代”』の形質を継いだ“新世代の第一世代”に他ならない。
言った筈だ。『第零世代は、よりよく第二世代を目指す』と。
機能得限止だったものが、第零世代の目指す“第二世代”に『より』近いものであったら何か。
答えが此処にある。第零世代は不完全な第一世代を認めない。
理解出来るだろうか。『第零世代は、不完全な“人間”などと言う第一世代などどうでも良いのだ』
それ故に、自然界は第二世代を賛歌する。より第二世代に近いもの。
自然を破壊し続けるものではない。自然と共に生き、自然を是とする生命体。
自然界は、人間などと言う生物より、第二世代への道をヒトを捨ててまで開いた機能得限止を賛美する。
その自然界が。不完全な第一世代。『人間』如きに、力を貸す筈が無い―――
高畑・T・タカミチは全力に近い集中力で『ソレ』を睨みつける。
言葉は無い。言の葉を語っている余裕など無い。
口を開けば殺される。言葉を考えている余裕が無い。
全意識。全ての思考回路をソレに向ける。言葉への思考をカットし。生徒らを思う感情をカットし。戦闘への余裕をカットして―――
この“生存競争”そのものに。命全てを賭ける事を誓った。
白黒の虎の口が開く。神話にあるフェンリル狼の実体化のようだと、高畑・T・タカミチは瞬間思う。
それほど、ソレの口は大きく開き、二本の牙が光る。
儀礼の良い犬のように座っていた『ソレ』の体躯が跳ね起き、前傾姿勢となった。
頭部がトラックの荷台すれすれになり、下半身を上に突き上げ、上半身を前かがみに縮めるその体勢は、紛れも無く、肉食性のソレが獲物に食いかかる寸前の予備動作。
高畑・T・タカミチは右半身をソレへと向けた。両腕での合成居合い拳では相手にはならないと結論したのだ。
右腕一本に、全魔力と気を流し込む。
光がポケットから溢れた。強烈な閃光。ネギ・スプリングフィールドと言う少年と試合でやりあった時の比ではない。
それだけのモノを携えながら、高畑・T・タカミチは冷や汗が背中を伝うのを感じた。
トラックがトンネルに入る。麻帆良唯一のトンネル。
長さ1,3キロメートルの長さのトンネルに、トラックは時速68キロ程度で進入したと同時に、生存競争は再開された。
見開かれた高畑・T・タカミチの視界から一瞬。本当に一瞬。目視も不可能。映画のコマ落としの様。時を止められた間に移動されたかのように、白黒のソレが消失した。
ただ判って居るのは。今の『ソレ』の行動だけで。飛び出す反動だけで。トラックの荷台が完全に潰れたと言う事だけだった。
梃子の原理のようなものだった。運転手席真上の高畑・T・タカミチの身体が浮く。
白黒の虎は、その相克に位置する場所。トラックの荷台最後尾に居た。
その地点から行動を開始しただけで、トラックは『ソレ』の居た位置を『力点』『支点』とし、高畑・T・タカミチの居た位置を『作用点』としたと言うのだ。
僅か行動と言うモノを取った。それだけで、トラック丸々一台を跳ね上げるようにしたというのだ。
全てがスローになる。高畑・T・タカミチの目にはそう写った。
ただ、高畑・T・タカミチは宙に浮かび、トンネルの天井ギリギリに在るということだった。
トラックの前輪が持ち上がりバウンドしたかのようになっている状況を、高畑・T・タカミチは俯瞰情景で見る。
その視界の端。トンネルの天井を逆さになって抉るように迫るソレを目認した瞬間は既に遅い。
高畑・T・タカミチの身体が『く』の字に折れ曲がる。同時に、高畑・T・タカミチの内臓を守る肋骨の全てが砕けた。
大砲のような一撃。否、大砲と言うレベルだろうか。
ソレは爆砲であった。常識を逸した巨体が、想像を絶する速度でトンネル天井を疾走し、其処に居た高畑・T・タカミチの胴体に向けて大木じみた前足を叩き込んだのだ。
骨が砕ける。肺が潰れる。胃の中に在るもの、全てを吐き戻したくなる衝動を感じるよりも前。
胴体に突き刺さった前足の軌道が変わった。真横から突き刺された前足。そのまま放置しておけば、高畑・T・タカミチの体はトンネルの外へとはじき出されただろう。
その軌道を無理矢理変え、真下への軌道を取る。
高畑・T・タカミチは考えている余裕は無い。肉体の損傷。ソレによる戦闘能力の低下。それを算段する。
正しくは、算段しようとした。
過去形なのには意味がある。起案が得ようとしたときに、高畑・T・タカミチの体は、既に―――バウンドした前輪がまだ最高到達点にも達していないトラックの真上に叩きつけられる羽目になったからだ。
高畑・T・タカミチの身体が鋼鉄に沈む。おかしな表現であった。
硬質である筈のそれに、人間の身体がめり込むというよりは沈んだのだ。
高畑・T・タカミチの思考が一瞬だけ消える。
絶命のような意識の切断。それは胴体を貫かれた衝撃で発生したものだと判断したのは、トラックの荷台に叩きつけられ、背骨が軋む音が脳に直接響いた事によって覚醒した直後の事であった。
続いて、高畑・T・タカミチの沈むトラックが歪んだ。
空間が歪むように。鋼鉄のソレは、ありえない形状へと変化していく。
圧倒的なスロー。全ての視界はスローモーションになっている。
それ故、トラックの荷台の異常な変化にも目が廻っているのだ。
タイヤが破裂する刹那。運転手席のガラス窓が砕ける刹那。
そして、トラックのエンジンに火が入り、トラックそのものが爆ぜる刹那まで。全てが、スローモーションで展開された。
トンネルの中を火が駆けて行く。だが、ある両者の動きはその火が廻る速度を追い抜いて俊敏。
否、片方はもはや俊敏と言う領域は既に超えていた。
人間の理解を超えた速度。光速。否、違う。光の速度さえ人間の範疇だ。
ソレを越えている。故に理解出来ない。理解する事の出来ない物事に、反応する事は不可能。ソレは、高畑・T・タカミチも例外ではなかった―――
高畑・T・タカミチは片手にトラックの運転手であろう人物を抱えて火が廻りきるより早くトンネルの出口から外へと弾き出た。
あの一瞬でそれを成し遂げた事をどれだけ賛歌できるだろうか。
だがその賛歌は贈られない。トンネルの外へと出た高畑・T・タカミチは上下左右東西南北全ての方角を知覚する。
知覚した。そのときには遅い。
彼の背後。白黒のソレは、まるで、弾き出た高畑・T・タカミチと平行になるかのように同時にトンネルから飛び出ていたのだから―――
背後を確認する暇もなく、高畑・T・タカミチは運転手を草むらへと投げ捨てた。
それが限界。白黒の体は、独楽の様に高畑・T・タカミチの背後で一回転する。
その一回転すら認知不可の動きである。高畑・T・タカミチは、再び『未だ』火の撒いていないトンネルへとその強靭な尾撃でと戻された。
爆ぜているトラック。爆ぜて何秒経っているのか。
何秒。それは正しくない。正確には、一秒しか経っていない。
故に、炎は上がっている最中だ。トンネルの天井にも届いていない。
まだ一瞬しか経っていない。その中で、高畑・T・タカミチはその爆炎渦巻く中へと叩き戻された。
炎の中に体を打ち付けられる。正しく述べるとなれば、炎を発して間もない辛うじて原型を留めているトラックの荷台に身体がめり込んだのだ。
血を吐く暇も無かった。掠れる意識の中で、高畑・T・タカミチは妙な事を思い出しながら視線を上げる。
視線の向こうには、火の輪をくぐったかのようにその大木じみた片腕を振り上げる白黒のソレが―――
アレは。誰が、何時言った事か。
その一撃に慈悲は無かった。容赦もなかった。
遠慮と言う言葉とは無縁の一撃であった。それが、もう一撃。
高畑・T・タカミチの胴体。まったく先刻と同じ場所目掛けて打ち抜かれる。
慈悲も、容赦も、遠慮もない、まったく同じ箇所への、ニ撃目。
高畑・T・タカミチは妙な事を思い出しながらその一撃がめり込んでいくのをスローで見ていた。
白黒の虎。似ても似つかない筈のソレ。似ている似ていないの問題ではない。
まったく別の生物。まったく以って、別の存在である筈のソレを、高畑・T・タカミチは。機能得限止と重ねてみていた。
トンネルが炎に包まれた。爆炎がトンネルの全てを舐める。
天井を焼き、空気を焼き、トンネルの出入り口付近の車全てを吹き飛ばして、そこは灼熱地獄と化した―――
火が燻っている。大気中の酸素全てを焼き払う業火は瞬間でトンネルを包み込んだのだ。
不幸中の幸いと言う言葉がある。この状況はまさにソレ。
被害は立った一台のトラックのみ。何がどう重なりあえば、この様な偶然が発生するのか。
これは必然ですらない。必然など、所詮は人間の生みだした先が見える事を立証しようとする“言葉”に過ぎない。
ソレは、それらはすでに人間の人知など凌駕している。
したがって、この状況は偶然でしかなかった。偶然、被害が一台のトラックのみだったと言う事だけだ。
それでも被害は大きかった。トンネルから出ようとしていた車。
入ろうとしていた車は、悉くトンネルの中ほどから発生した炎と爆風に当てられて横転している。
叫び声。阿鼻叫喚と言う状況が似つかわしい。
それでも、被害にあったのはトラック一台のみだった。足が折れるのも、腕が引き千切れかけているのも、それはソレらにとっては被害ですらなかった。
ソレらにとっての被害とは、死ぬほどの状況で初めて“被害”であり“損傷”であり、“怪しい我”足りうる“怪我”のになるのだから。
阿鼻叫喚渦巻く中、白黒の虎は勇壮と業火渦巻くトンネルの中より現れた。
周辺の人間はソレにも気付いていない。それほどの地獄絵図なのだ。
だが、それがどうしたと言う態度でソレは行く。
本当に知覚していない。人間の定義に当て嵌めるからこそ、それがどうしたと言う表現が一番近いだけの話である。
実際は、それがどうしたと言う表現さえも希薄、否、皆無であった。
ソレらに感情など無い。
知能など無い。想いなど無い。絆など無い。言葉など無い。物語など無い。表情など無い。
あるのは本能のみ。生き残ろうとする本能。それ以外は。ソレらにとって、全てが無意味。どうでもよいモノに過ぎなかった。
足音一つ響かせず、白黒の虎に似た生物はトンネルの外から天を見上げた。
星が瞬いている空。幾星霜経とうとも、障害変わることの無い不変の空。
どれだけの悲劇が見舞われようとも。否、訂正。悲劇など人間が定義するものだ。
地球規模から見れば寸劇に過ぎない。ただの喜劇ですらない。無意味なもの。
そんなモノなど、地球から見れば0,1秒にも満たない“出来事”として処理される。
故に、変わらないのは空に星が輝き続けると言う事実のみであった。
僅かに一度ソレは天を見上げ、消えた。
文字通り消えたのだ。正確には移動であるが、何処へどの様な方法を以ってどれ程の速度で移動したのか知覚出来ない以上、最早ソレは消失としかいえなかった。
その消失を以って、白黒の虎は姿を消した。後に残ったのは灼熱地獄。そして、トラック一台だけの被害。
――――――――――――――――――――世界樹均衡
弾かれる。どれ程弾かれたのか、少年は理解できなかった。
ただ目が丸くなっている。ソレの突如とした出現。そして、手も足も出ないと言う事実。
その前に、腕っ節だけが取り柄であった少年の心は砕け散りかける。
それを否と頭を振り絞って思考することすら出来ない。
天地を逆転した体勢で大木の一本に背中から叩きつけられたのだ。
その鈍痛が全身系を巡り、脳内の痛覚作用部に到達するより早く。犬上小太郎の体は、壮絶な勢いで引き戻されていった。
少年の身体が凄まじい反動で揺れる。針のように鋭利な指を五本携えた、骨組みじみた異常な細さの腕。
それが一気に戻った所為で、犬上小太郎の体は鷲掴みにされている頭部を基点として揺れるしかなかったのだ。
それを。ソレは無機質な瞳で眺めてすらいなかった。ただ腕を伸ばし、片腕だけが別の生物のように暴れ狂い、鷲掴みにしている少年の体を玩具のように四方八方へ叩きつけるだけの行為を繰り返すのみ。
強さも何も無い。遊びですらないだろう。ただそうやっているだけ。
暇つぶしですらない。『そう』することだけが目的の行為。
めきり、と針のような指に力が篭った。
その指が容赦なく犬上小太郎のこめかみから頭部へと突き刺さって行く。あまりにスムーズ。あまりにも生々しく。
ソレの上半身が捻られる。梟の首のように捻られた『ソレ』の上半身と共に犬上小太郎の体は270度回転した。
それが269度付近に来たと同時に、ソレは再び腕を伸ばす。鎖が内蔵されているでもない。
本当に、腕の中に腕の節。その腕の節の中にまた節。そんな冗談じみた連結。
それが連なり、犬上小太郎の体を再び林の中へと叩き込む。そして、270度捻られていた身体が、再び―――
犬上小太郎の体は再び一本の木に叩きつけられた。
血を吐く。背中から伝わる鈍痛。それが全身に伝わり、内臓並びに骨筋肉。全ての重要器官を根こそぎに侵食してゆく。
だが、今回は違った。鈍痛が脳に伝わり、痛みと認識した瞬間の事であった。
犬上小太郎は凄まじい風圧を全身に感じると同時に。全身を砕かれかけたかのような衝撃を立て続けに味わった。
ソレが事もあろうに、犬上小太郎の頭を鷲掴みにしたままで、なおかつ腕を林の中に叩き込んだ状況でその体を元の位置にまで戻そうと捻りを加えたのだ。
結果。鷲掴みにされていた犬上小太郎は、林の中を横一文字に切り裂かれるかのように振り回される。
犬上小太郎が全身に感じていた激痛と風圧はソレであった。
やがて、林が途切れ、鷲掴みの頭部が開放される。
投げ捨てられるかのような状態だ。コンクリートの地面を数回バウンドし、犬上小太郎は『ソレ』の距離78メートル付近で停止。動かなくなる。
だが、動かなかったのは一瞬だけ。犬上小太郎は血を吐くように両肘と両膝を着いた。
まだ生きている。『ソレ』はそれを確認したかったのか。
異様な翼が開いた。定規のような翼。直線のみで構成された、漆黒の羽。
それが実に横幅6メートル大まで展開され、一気に倒れ付していた犬上小太郎の目の前まで移動したのだ。
したがって、這い蹲り、必死に立ち上がろうとしていた少年の目にはさぞかし異様なものが映っただろう。
糸をたらした操り人形の様に、ソレが目の前に細すぎる腕。細すぎる脚。細すぎる首に繋がった頭部を振り乱しながら現れた姿を。
糸の切れた傀儡。その表現が似合う、だらしなく両腕を下げ、九十度角まで曲がった首。その内が伽藍洞の様な姿。
血を吐くより先に少年は行動を開始する。
鈍痛に耐え、歯を食いしばりながら地面とすれすれになりながらの横っ飛び。
それが発動した刹那、少年の居た位置は薙がれた。
ソレの腕。ブラブラと揺れていた手が、一気に鋭い刃のようになり、その位置を切り裂いたのだ。
その証拠に、見ると良い。少年が血を吐き出した位置は見事なまでの断層が縦2メートル大程に開いていた。
クレヴァス。その表現が一番近いか。
何処まで抉れたのか、底も見えぬ漆黒の虚。だがしかし、犬上小太郎がその地点に視線を向けた時。
切り裂かれた位置に、『ソレ』の姿は既に、なかった。
視線を戻す。そうして思った事は一つ。
両腕と両足の関節がおかしい。自身では無い。犬上小太郎の目に映った光景であった。
自分の関節ではないのだ。横っ飛びになって回避した一撃を繰り出した対象もまた、少年と平行になって横っ飛びし追っていたのだ。
その横っ飛びした漆黒の骨組みの関節がおかしい。
犬上小太郎の視線に写っているのは、漆黒の骨組みの展開した肋骨じみた胸元。
その腕は海草のように空間に揺れ、だが、確かに体躯が此方を向いていると言うのに、それの頭部は見当たらない。
無理も無いだろう。ソレは、首を背中に付くほどに折り曲げていたのだ。まさに、糸の切れた操り人形の様。それが、犬上小太郎以上の速度を以って横っ飛びしている。
首が廻る。無表情の首はガクンと言う音が聞こえそうなまでの勢いで犬上小太郎その無機質な目で捉えるべく、定位置へ戻った。
今まで、ソレの首は背中につかんばかりで反り返っていたのだ。その首が元の状態に戻り、犬上小太郎の顔面を捉えた。
目前に在ったソレの身体が急激に廻る。高速回転。その状態で、犬上小太郎は横っ飛びしていた進行方向『から』頬に凄まじい衝撃を受けた。
鉄板で横殴りされたかのような衝撃。隠す事など無い。彼の目前で高速回転した『ソレ』が彼の頬目掛けて平手打ちをかましたまでだ。
ただし、ただの平手打ちではない。鋼鉄の板のような腕での横殴り。それは、最早凶器による殴打に他ならなかった。
横っ飛びした意味が消える。
犬上小太郎は、それこそ襤褸切れの如く弾き飛ばされ横っ飛びした位置まで弾き返された。
それを瞬時に少年は理解する。彼の背中に空洞を感じたからだ。その空洞は何を隠そう、先ほどソレが切り開いた地面の穴だった。
思考している暇は無かった。犬上小太郎は瞬時に体を捻る。そうでなければ死んでいたからだ。
一瞬、仰向けになって空を見上げていた少年の目に、ソレは黒い渦巻き。あるいは竜巻としてしか写らなかった。
だがそうではない。それは『アレ』であった。高速回転するソレ。それが瞬時にあの細すぎる体躯が確認できるような状況に戻ったと同時に。
犬上小太郎は、鼻先にソレの指先が触れたのを感じる間際であった。
故に体を捻ったのだ。捻らねば、遠心力を伴って凄まじい勢いで振り下ろされた打突が少年の顔を貫き、そのコンクリートの地面に貼り付けにしていただろう。
体を捻り、うつ伏せの状況になるより早く少年は片手で自身の体を飛ばす。
原理は瞬動と同じではあった。ただし、正規の瞬動が脚に気を込めての俊足移動であるのに対し。今犬上小太郎が取った行為はただのその場しのぎである。
手に気を込め、自分の体を一刻も早くそれから遠ざけようとした行為から出た一時しのぎ。
犬上小太郎の身体が右へ飛ぶ。片手で跳んだとは思えないほどの速度ではあったが、しかし。
尚遅い。否、早かった筈だった。よほどの人間であっても、その状態からの反応は予想だにしない機転の一手であった筈だ。
事実。犬上小太郎を襲った『ソレ』の腕は今だ深く地面に突き刺さっている。
正しくは、突き刺さっていなければいけない『筈』であった。
事もあろうか『ソレ』は、突き刺した腕をそのままにし体を大きく捻った。人間では信じられない動き。
地面に向いていた身体が、突き刺さっていた右腕そのままに右方向へ跳んだ犬上小太郎の方を向いたのだ。
腕はそのまま。しかし、その体勢は、まるで突き刺した片腕を支え棒にするかのように地面に背中を向けている―――
それが彼の捉えた光景だった。だが次の瞬間に至るまでに少年の光景は瞬く間に変化した。
突き刺されていた片腕が動く。だがただ動くのではない。あってはならないオプションがついている。
異様なまでの大きさの岩塊。突き刺された腕が、引き抜かれるのではなく、そのまま地面を抉り、巨大な岩石を丸ごと切り出したというのだ。
知覚作用を越え、意識が跳んだ。それが、片手で窮地を脱した筈の犬上小太郎が味わったものであった。
だが伊達に戦いに参加している者ではない。
直ぐに意識を奮い立たせ、引き裂かれそうな激痛に耐え状態を確認する。
半身が折れかけていた。何故か。なお、この状況では犬上小太郎が片手による横っ飛びをしてからまだ二秒経過していない。
その二秒の間に何が起きているというのか。簡単な話だ。『ソレ』は、切り出した岩盤を直接犬上小太郎の半身へと叩き落としたのだ―――
犬上小太郎は吹き飛びかけ、次の瞬間即死する筈の一撃の中で思考した。
家族の事ではない。生き残る事を思考するのだ。
このまま岩盤ごと地面に叩きつけられればあっけなくミンチが完成する。
それは事実だ。後一秒もない。あと一秒もない状況で、犬上小太郎は半身に叩きつけられた岩盤とコンクリの地面によりプレスされペースト化する。
少年はソレを良しとしない。叩きつけられて岩盤を見る。その岩の塊に、少年は片腕をねじ込んだ。
あと何秒すらない。コンマ一秒。その暇もない。その中で、犬上小太郎は躊躇しなかった。
岩盤に打ち込んだ片腕。其処へ、自分が発生しうる全気力を注ぎ込む。
爆ぜた。遠目から見れば、犬上小太郎の体が爆ぜたようにも見えるだろう。
だが事実はそうではない。彼の『腕』が爆ぜたのだ。
簡単な理由だ。凄まじい勢いを以って叩き落された岩の塊。それをまともに受けての反応など不可能。
最早岩と地面との間に挟まれるのを回避する方法はソレしかなかった。
片腕を岩塊に打ち込み、気を注ぎ込むことによる暴発。自身でそれを誘発したのだ。
何故か。これも簡単な理由である。単純に少年は、自身を反応速度より自然による自己の弾き飛ばしを期待したのだ。
痛みでロクに身体が動きもしないのならばと、少年は自分の片腕を爆ぜさせる事による爆風での脱出を行ったに過ぎない。
もくろみは成功した。少年の体は大きく跳び、コンクリートの地面へと落ちる。
まさしく襤褸切れの様に。ソレと同時だったか、ソレの片腕が打ち下ろした岩塊が地面と接し、周辺に凄まじい気流の変化が起こる。
そして爆音。耳を、鼓膜を劈く爆音が響いた。
犬上小太郎は辛うじて体を上げた。片足は折れている。
正しく言えば、折れているといえば全身が折れていた。ただ、片足。岩塊を叩き当てられた方の脚が複雑骨折ならぬ、粉砕骨折している為に体を起こすと言っても、精々、折れた片膝で膝立ちする程度の事しか出来なかった。
爆風と砂煙。その向こうを少年は見ていた。
黒い影が動いている。直線の翼を開いた漆黒のソレが砂煙を割いて現れた。
無機質な顔。だが変わっていない、と少年は笑った。
何故笑ったのか。死ぬと確信したからだ。
故に笑うしかなかった。砂煙から顔を上げたソレ。ソレは、絡繰茶々丸にとてもよく似た、けれど、まったく別のモノ。
キリキリと鳴る。砂煙を割いて現れたソレの片腕が足の方を向き、背中を方を向き、天を向き、一回転して犬上小太郎の方へと向けられた。
一直線。肩から、指の先までが一直線に伸ばされ。同時に、異常な変化が起きた。
ソレの手の、人間に相当すれば中指と薬指の間。それから腕が二分に開く。
上下に。肩口まで、その直線に伸ばされた漆黒の腕が、上下に二分して開口したのだ。
その二分の間。そこに青白い雷光が奔ったのを、犬上小太郎は視認出来ただろうか。
だが、その余裕は無かっただろう。次の瞬間に、犬上小太郎の姿は消えた。白黒のソレが消えるのとは違う。本当に掻き消える。消しゴムをかけたかのようにか。
否、違う。消しゴムをかけたでは生ぬるい。どちらかと言えば、それは抉れたに近かった。
長方形の抉れ方。伸ばされ二分になっている腕の指先一寸から先。それの空間が、長方形状に抉られているのだ。
コンクリの地面。宙を待っていた小石。葉。その伸ばされていた手からの先にあった物質が、凡そ数メートル単位で消失している。
縦に2メートル。横幅に1メートル。奥行きにすれば、6メートルほどか。その範囲内が、長方形に抉られた。
バギリと言う音。それは地面からした。長方形に抉られた先の空間にあったコンクリに別のコンクリが乗り上げている。
同様、空中に浮いていた小石が落ちると同時に、遠く、その内角に九十度角に抉られた小石から数えて2メートル先に、小石が落ちた。
だがただの小石ではない。その小石もまた九十度角に抉れているのだ。
ただし、外角に九十度。そしておそらく。その九十度角に抉れた小石二つを組み合わせれば、恐らくだが完璧に断面が一致した小石が完成するだろう。
絡繰茶々丸だったものが犬上小太郎の居た位置まで歩む。
正しくは、低くとも浮いている以上、それは飛行だろうか。
犬上小太郎の居た位置。長方形に抉られた場所の、ほぼ真中。
何も無い。塵も芥も、何も無い。直撃ならば死体も残らないのだろうか。それ程そこは綺麗に切り取られ、そこには何も無かった。
ただ、ソレを足元には紅い染みが大げさすぎるほどに広がっていた―――
――――――――――――――――――――場所不明
犬上小太郎は闇の中にいたが、直ぐに目を覚まさざる得なかった。
何しろ頬をひっきりなしに何かが打ち付けるのだ。目を覚まさざる得まい。
同時に、額に何か水滴も感じていた。酷く生ぬるい水滴で、女性ならば性的嫌悪感を催さざる得ないものであるとまで認識し、少年は瞳を開く。
風の中に居た。どうじに、木々を飛んでいた。
高速で。だがアレから比べれば遅いとしか言いようの無い速度で。
けれども、今の自分からすれば上等すぎるほどに素早い速度で、ソレに抱えられて、空を駆けていた。
「―――起きたでござるか?」
顔を上げて笑った。乾いた笑いではない。
安堵の笑みであった。勿論、犬上小太郎はそうだと判断しないだろう。
だが心安らいだ『日常』の表情で。犬上小太郎は、長瀬楓に微笑を送った。
「―――楓ねえちゃんかぁ…助かったわぁ…」
「喋る事はないでござるよ。直ぐに―――病院へ向かうでござる。
が、その前にもう一人置いてきたのを助けねばならぬでござるな」
隼のような速度で木々の間を、枝から枝へと移動する長瀬楓。
だがおかしいと犬上小太郎は感じた。此処まで遅かっただろうかと。少年は彼女の修行に付き合っていた。
客観的視点から見て、自らを抱えている少女は自分とは比べ物にならないほどの強さを持っている筈であったのに、こうして自身を抱えて行く少女は、自分と同じ。
それでも全盛期の自分と比べてだが。ソレと同等の速度しか出ていなかった。
少年は自身を抱えているだろうからと考え、一滴の水が自身を額を打った事に気付く。
それはゆっくりと。嘗め回すかのような、なんともいえぬ不快感で額から瞼。
瞼を避け、頬。
頬から顎へと伝い、落ちる。落ちる寸前に。紅い雫である事を認知させて。
目を見開いただけでも激痛が走る中で少年は顔を挙げ、蒼白になった。
長瀬楓は少年を右腕だけで抱えている。
理由は簡単だ。長瀬楓の左腕に白い百合が見える。それは犬上小太郎の幻覚であった。
ただ、百合にも迫るほど白い『物体』が、左腕の肩口から二の腕。そして肘にかけてまで、深紅の液体を滴らせながら、見え隠れしていた。
そう。長瀬楓の左腕は、肩から肘にかけてまで―――完璧な直線を以って、抉られていた。
「ハッ―――油断ではないでござるよ。はっ―――ただ。はっ―――単純に。ハッ―――アレの一撃が効いただけの話で。ハッ―――ござるよ」
助けた時に抉られたのか。ソレしかあるまい。
二度と同じ形にはなりはしない左腕。赤い液体を滝のように降らせながら、長瀬楓は往く。
顔色は既に蒼白。血の気は無い。血が抜けているのだ。
人体は三リットル血液を失えば死ぬ。長瀬楓は、秒単位でそうなりかけていた。それだけだった。
「―――楓、ねえちゃん――あほぉ…ワイより、自分の方が優先やろぉ…」
長瀬楓はその発言を無視した。正しくは答える余裕など無かっただけだが、あえて口端でだけ微笑を作る事により、その発言を流したのだ。
本当に余裕は無かった。長瀬楓は一撃で此処まで意識が朦朧としたのを感じた事は無かった。
今まで、あれほどまでに速やかにコレだけの重症を加えられる存在を見たことが無かった。
心底の恐怖を感じている暇も無かった。ただ、アレにあった時、全力で無ければ死ぬとだけ感じた。それだけだった。
結果。少女は全力で犬上小太郎を救出した。
本人が驚くほどの速度だった。だが、その速度で明らかに『アレ』が動き出すよりも早く、なお先に行為を行ったというのに。
いざ攻撃が発動した瞬間には、彼女の片腕の半分は見事と言うほどにまで抉り取られていたのだ。
笑うしかなかった。悔しさも恐怖も無い。ただ、自分がどれだけ無力化と言うのを味わい。その程度の事がどれだけどうでもいい事かを思い知らされただけの事だった。
まるでキノウエと言う教師が言ったのと同じ事のようだ、とだけ長瀬楓は感じた。
だから笑っていた。人間の力などでは推し量れないものを前に、よくも生き残れたと天に感謝したくもなった。
どれだけ進んだのか。どれだけ血を流したのか。どれだけの重症なのか。
枝から枝を進む長瀬楓も、抱えられている犬上小太郎も自覚は無かった。
ただ、死ぬ寸前なのだということだけが自覚できた。
理由は至極簡潔なもので。犬上小太郎は身体が一ミリも動かない事から。長瀬楓は、酷く身体が冷えていく事から、それを判断した。判断する事が出来た。
長瀬楓は唐突にその動きを止め、木の葉のように木の枝の上から地面へと降りた。
だが、それは降りると言うよりは落ちたと言う方が正しい。
高速で動いていた動きは見当たらず。長瀬楓は、息を荒げながら、地面を歩くしかなかった。
無理もあるまい。既に抉られた片腕の出血は停止間近だ。
だが、それは単純に止血が進んでいるからと言うわけではない。
結果として、流すだけの量の血液が残っていないと言う事でしかないのだから。
それゆえ、息は荒く、酸素を多く取り込んでも長瀬楓の体調は悪化の一途を辿るのみであった。酸素が供給されていないのだから。それも無理はあるまい。
歩いているだけだと言うのに、長瀬楓の視界はかすんだ。
ただ、持ち前の意志の強さを支えとして自身を奮い立たせているだけに過ぎない。
違う思考を意識した瞬間に、長瀬楓は卒倒するだろう。それほど彼女の疲弊は激しく、意識は朦朧としていた。
それでも歩けた事に長瀬楓は感謝したくなった。何にだろうか。
いわば足元。小石一つ無く、妙に歩きやすい林の中の道にであり、伊達に鍛え上げていなかった自らの肉体と意思に。
それでなければ、自らなど等に倒れている。それが長瀬楓の思考だった。
どれだけ進んだだろうか。最早距離感も時間の感覚すらも無い。
ただ白い、星と同じ高さに位置する白い岩が頂点に到達した頃の時間であった。
長瀬楓は、一際開けた林の一広場に在った。その脇に、抱えられていた犬上小太郎が眠るように、事実として眠って木に寄りかかっている。
その広場の一本に、もう一人、見知った人間の姿がある。
出血は無いが、それは外見上の外傷が無いだけの話。
彼は、外傷ではなく、内傷が重大であったのだ。
内臓は全てが破裂に近しく、骨は全て砕けている。
同時に外傷として見当たるのは火傷。頬を。腕を。全身の大半を焼いた火傷が目立った。
高畑・T・タカミチ。林の中の一広場。その木の一本に寄りかかれていたのは、紛れもなく彼であった。
両目を閉じ、限りなく希薄な意識の中。彼は呼吸していた。生きていたのだ。
常人ならば即死級の一撃を二度にわたって受けていながら、まだ生きている。
長瀬楓はそれに驚嘆したと同時に、彼のタカミチ・T・高畑と言う人物を此処まで追い詰めた怪物に畏怖する。冗談じみた怪物であった事を、今更になってだが恐怖した。
高畑・T・タカミチが助かった理由は簡単だ。
長瀬楓も正式ではないが魔法生徒の一員。ただし、独自で動く単独行動派であった。
数多く居る魔法生徒の中でも、長瀬楓の実力は最上位にも位置するものだ。そんな彼女もまた、夜の学園都市内で起きていた事件の解決に向け、動いていた。
その折に高畑・T・タカミチと犬上小太郎を発見したのだ。
正確には、トンネル内へ突入したタカミチ・T・高畑と白黒の虎を見送り、その後を追ったのであったのだが、僅か数秒で高畑・T・タカミチは敗北。爆発したトラックの炎に撒かれた。筈であった。
ソレを救出し、ここへ運んだのは他ならぬ長瀬楓であった。
間一髪としか言いようは無かった。一秒遅れていれば二人とも死んでいたのだから。
そして此処に彼を置き、すぐさま窮地を感じた犬上小太郎の下へと急いだのだったのだが―――
抉れた片腕の傷ともいえぬ重傷を見た。口端だけで、長瀬楓は笑った。
笑うしかなかった。犬上小太郎と同じだ。何かの感情を持つ方がおかしかった。
相手は、今まで自分が相手をしてきたどの領域の相手も話にならないほどの怪物、否、怪物を越えたモノであった、と。
長瀬楓は思考した。そして、残念ながら、人間的に見ればだが、それは事実だった。
人の形をしていないもの。人の想像力を淘汰した領域に在るものを、長瀬楓は始めて味わった。
どれだけ人間と言う生物が思考できる程度の範囲が矮小であり、意味の無いものであるかを現実として味わった。真っ向から。完全な常識を叩き壊されたのだった。
故に笑ったのかもしれない。笑うしかなかった。
今までの自分を。人間の想像力程度を。在りがちと言うレベルではなかった。そんなモノではなかった。
アレは、違うものであると。アレは、人間が触れられるレベルにはないと。
どれだけの能力も、アレには効かない。意味がないのだから。
アレは人の意味を壊すものであった。長瀬楓はそうとだけ認知し、後は全て理解不能として扱う。正しくは、理解したくなかったのだ。
三者は重症。長瀬楓は懐、胸の間から携帯電話を取り出し。
片腕の指だけで器用に操作していく。
抉れた方の片腕には、タカミチ・T・高畑を治療した際に置いたままだった簡易の医療キットを用いて包帯を口で巻いていく。
「―――麻帆良学園中等部三年A組長瀬楓と言うものでござる。
魔法教員である高畑・T・タカミチ殿。犬上小太郎殿を回収。至急緊急医療班を送られたし。場所は―――」
全魔法関係者の中でも一番の発言権を持つ近衛近右衛門への連絡と言う一仕事を終え、長瀬楓は初めてその場に腰を下ろした。
と、同時に横になった。抉れていない方の手を地面に接し、薄れゆく意識の中で、白い。ただ白く冷たいだけの岩の塊だけを見つめて、その両目と、意識を閉じた。
ただ、貧乏くじを引いたとは彼女は思って居なかった。
寧ろ幸運。そう思っていた。
無理もあるまい。アレは、あれらは確実に長瀬楓を見ていた。
人間が想定できる範囲以上の速度で動けるものが、人間の想定範囲内でしか動けないものに気づかない筈がない。知覚していない筈はない。
つまりはそう言うことであった。長瀬楓はうまく逃げられたのではなく、ただ、何の興味も懐かれなくなったから逃げ切れたと言うだけの事だったのだと。
夜が明けるまでは後数時間。今日も、昨日同様に被害者が出た。