第三十八話〜宿命〜


「高畑先生!!!」
「おっ。ハハ……元気そうだね。アスナ君」

 酷く白い部屋だった。穢れと言うものの一切が省かれ、逆に目が痛いまでに白い部屋。
 麻帆良最大の病院である此処はそれだけが不評であり、その他はサービス含めて全てが好評の病院であった。
 その個室の一つ。4578号室。部屋の中心にあるベッドの上に半身を起こしていた高畑・T・タカミチは、白い扉を殴りつけるかのようにして開いてきた神楽坂明日菜に、何時もどおりの笑顔をただ笑って送っていた。

 入ってきたと同時に取り乱していたかのようであった神楽坂明日菜であったが、それは既に数分前のこと。
 今は落ち着きを取り戻し、しかし、その両目に涙を大量に湛えながら、ベッドの真横に付けられた椅子の上に腰を下ろして、ただ、高畑・T・タカミチの穏やかな表情を見つめていた。
 高畑・T・タカミチは何も言わずにそれを受け入れていた。
 時折視界の端に入る小柄な金髪。真っ白い四角い部屋の壁に背を凭れかからせた、あの、元同級生であったエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの始めて見る神妙な面持ちに笑顔を浮かべては、その神妙な顔立ちのまま。
 照れもせず、意外なまでに百面相な筈の表情に、一切の表情を浮かべず、視線を自ら外していく様子を見つめていた。

 事の全貌を知る両者に語る言葉はない。神楽坂明日菜とエヴァンジェリン。
 二人がこの事を招いたにも等しかった。少なくとも、両者はそう感じていた。
 何か手が在ったのではないか。何か、一つでも情報を魔法関係者に開け放っていれば、この様な事態は避けられたのではないだろうか。二人の意識は、それだけが占めていた。

「―――楓君や……コタロー君は、無事だったかい?」

 それを読み取ったのか、タカミチ・T・高畑は重い口を開いた。
 どちらかと言えば、白い個室の中の重い空気に耐え切れず放たれた言葉の様でもあった。
 エヴァンジェリンは応答せず、神楽坂明日菜も頷くのみで応答するのみであった。
 高畑・T・タカミチは考える。今ならば。今だからこそ問えるのではないと。
 二人が隠し続けていた事。そして、それが自分が感じたある事とリンクするのではないのかと言う事を。
 高畑・T・タカミチが感じた事。それは、あの白黒の虎からニ撃目を叩き込まれた時に直感した思い。
 誰かが告げたあの言葉を、何故あのタイミングで思い出したのか。
 高畑・T・タカミチはそれに一つの結論を出した。あまりにも突拍子もない結論。しかし、彼ならばと言う実感すらあった。即ち―――

「―――エヴァ。明日菜君。あの、僕を襲った生物は―――キリシ君だね?」

 二人の表情に変化はない。何れこの結論にたどり着くだろうと言う事を知っていた。
 そんな雰囲気に、高畑・T・タカミチはため息を吐く。
 二人に対してではない。それを隠し、懐き続けてきた二人にでは決してない。
 それに気付けなかった自身に対し。それだけ深いモノを懐き続けてきた二人の心情の変化。
 それに気付けなかった自分を恥じたのだ。
 そして、もう一つ。機能得限止。人間を止めてまで、ああなった同僚の姿を反復し。高畑・T・タカミチは自ら目を閉じた。

 そうか、とだけ、彼は呟いた。
 二人の沈黙が答えだった。隠す事は無く、言い訳する事も無く、その無言がただただ純粋な正解である事を感じ取った。
 そして思い出す。ニ撃目を叩き込むといった男の姿を。
 文字通りだった。有言実行とでも言うのか。機能得限止は、人間を放棄しながら人間だった頃を実行した。
 高畑・T・タカミチは彼のその純正さを笑った。人間を止めてまで実施するとは。
 それだけ彼が本気であったという事かと、高畑・T・タカミチは彼の決意の高さを思い窺わせた。

「悲しい事だね」

 本気でそう言った。これほど悲しい事はないと、高畑・T・タカミチは本気でそう言った。

「彼は、もう何も解らないんだろうね。
 悲しいという事も。怒るという感情も。嬉しいと思う事も。楽しいと感じる事も。
 心打つ言葉も。心打つ風景にさえも心動かされる事はないんだね。
 こんなにも悲しい事はない。僕たち人間は、そう思ってしまう。
 彼はそうはもう思わなくても、僕はそう思ってしまうんだ。僕たちが俗っぽい証かもね」

 そこまで聞き届けて、エヴァンジェリンは壁から離れて外に出た。
 一度も振り返る事は無く、白い部屋の中は神楽坂明日菜一人に任せ、エヴァンジェリンは小柄にその金髪を靡かせてその場を後にした。
 残されたのは二人。高畑・T・タカミチは瞳を閉じ、夢を見るかのように。
 しかし、確かに覚醒している脳で機能得限止を思い返す。神楽坂明日菜は、俯いたままで泣いていた。
 嗚咽を上げるでもない。あの、目の前で絡繰茶々丸と機能得限止が変異した夜を思い返すかのように。同じように、涙に暮れていた。
 
 夢の中に居るかのような感覚をエヴァンジェリンは味わっていた。
 夢の中。そう、これは悪い夢なのだとも思いたくなっていた。
 白い白い悪い夢。現に、世界が真っ白に染まっている。エヴァンジェリンにとってはそうであった。
 真っ白の世界。病院の外へ出た筈だった。家へ、帰っているはずだった。だと言うのに視界は白。焦点も何も無い。真っ白い果てまで白い世界を、少女は一人行っていた。
 汚濁を吐き出しそうになって、手を付く。四つんばいになって、口を押さえ、競りあがる吐き気を力づくで押さえ込み。
 喉元まで競りあがった汚濁を飲み干す。刹那。苦く酸っぱく、塩辛いような味わいが口の中いっぱいに広がる。

 エヴァンジェリンは高畑・T・タカミチと、長瀬楓。そして犬上小太郎を見た。
 三者の肉体は徹底的に破壊され尽くされており。
 エヴァンジェリンは身震いしかけた。自分でもあそこまで慈悲も力のセーブもない破壊を振りまく事は出来まいと。
 真祖の吸血鬼などと言う矮小なプライドは粉々に砕かれている。
 エヴァンジェリンは自嘲した。
 吸血鬼が何だというのだ。人外だからなんだと言うのだ。それがどうしたの領域。
 アレは、そう言うものだった。三者の傷口を見て悟った。理解できない事を悟った。
 理解するという領域に至ろうとする事が矮小である事を思い知らされた。それでもこうしている自分が、どれだけ人間と違うと言えるのか。

 吐き気混じりの汚濁を吐きかけた際の涙目のまま、エヴァンジェリンは行く。
 帰巣本能でも在るのか。エヴァンジェリンの足取りは重いが、確実に自らの城へ向けて歩んでいた。
 城とも言えない城。ここで唯一自分が心安らいでいた場所。だが、しかし、既にその場所に。既に。想い人と相棒は帰ってこない。
 何が狂ってこうなったのか。狂ってなどいなかった。ただ、地球がそうしただけであった。
 森羅万象に至るまで。全てが『そう、在れかし』と結論しただけであった。
 ただ、それが『人間』的な視界で見れば狂ったように見えるだけだった。
 自然界。あの広い世界から見れば、世界は今でも正常に廻っている。鋼性種が生まれたときも。
 機能得限止と、絡繰茶々丸が『そうで、なくなってしまった』時も。
 そして今。更に人々が傷つき、倒れていく中でも。世界は正常だった。思い通りの展開になどならない世界だった。

 人間の想像通りにはならない世界がそこに在った。
 正常な世界。正しい形の、世知辛く、何が正しく、何が悪いかかの判断も無い。
 思いや奇跡などでは何も変わらず、全てをなぎ払う様な真似をするようなものも居ない。正常な世界が廻っていた。奇跡の様に。オルゴールのように。あるいは―――観覧車のように。
 白い世界が急激に晴れたことをエヴァンジェリンは感じ取る。
 木目の扉を開き、人形だらけの居間の中心まで歩いて、倒れた。同じように人形だらけのソファに向け、頭からうつ伏せに倒れ込む。
 動けない、しかし口が悪い初代従者の人形の軽口さえも届かない。
 何かが忙しなく聞こえているが、エヴァンジェリンは片腕の人差し指を中空へ掲げ、横一線に振るう。それで終わり。せわしない声は聞こえた。

 目を閉じれば黒い世界。人の世のようだとエヴァンジェリンは笑う。
 自分も。また、この黒い世界の住人の一人だと直感した。
 この矮小な、と蔑み続けてきた人間と同じ。自分もまた、此処で生きてきたのだ。
 それが人間と何の違いがあろうか。
 何も違わない。彼女はただの人間だった。
 血を吸ったり、苦手なものが多かったり、多少、力が強く使える程度の。ただの人間の少女。
 ソレが、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと言う少女の正体であった。
 最早エヴァンジェリン本人はそれを否定しなかった。間違えがなかったからだ。
 エヴァンジェリンは人間。ただの。普通の人間とは違うが、ただの人間の子供。それが答えだと言うのに、エヴァンジェリンは反論はしなかった。
 自身で出した答えだったからだ。故に、否定などしなかった。
 エヴァンジェリンは考える。何時か。どこかで。あの翼を持ち。似通った雰囲気を覚えた少女との対話。対決と言う名の対話を思い返す。
 
 私はあの時なんと言ったのか。
 桜咲刹那。同じクラスの、同じ人外。その少女へ何と問いかけ続けたのだったか。私はソレを思い出していた。
 剣か、幸せか。どちらかを選べといって、桜咲刹那は両方を選ぶといった。
 馬鹿だと思った。正直に。長生き出来まいと思った。
 痛烈に。しかし、けれども。だったら、何故、あの時。私は、笑ったのだろう。
 多分。そう言うことで私も同じようになれるからだと思ったからだったのではないか。
 桜咲刹那が近衛木乃香を想うのと。私がサウザンドマスターを想う事。それにどれだけの差異があろう。
 何も無い。際などありはしない。その時点で気付くべきだったのだ。
 桜咲刹那に反復し続けた問い。幸せなモノは似通っているが、不幸なものはその様相を異なる。

 笑う。可笑しかったから笑う事にしよう。
 だからどうした。幸せと不幸せ。『それが、どうしたと言うのだ』
 何も変わりはしないだろう。人間の矮小さを笑った私が言ったのは、何も変わらない『人間の幸せと不幸せ』だっただけだ。
 不幸せに差など無い。差が在ってはいけない。そも、不幸な出来事に差など無い。
 不幸は不幸であり、幸せは幸せであり、何より―――そんな事を考えるのは、人間だけであった筈だ。
 それが矛盾しつくしていて、私は笑う。
 私は人間だった。ただの人間。何時も小馬鹿にしていた、あのクラスメイトの女子らと何の変わりもしない。
 ただ世間を斜に見て構えていただけの。もっともっと性質の悪いただの人間の小娘だった。それが、答えだったのだ。

 それが理解できたから笑っているのか。
 それが答えだったにも拘らず、そんな矛盾を来る日も来る日も繰り返していた自身があまりに滑稽だったから笑っているのか、最早解らなかった。
 ただ、狂ったように笑う。もう狂っていた。世界がではない。自分の考えが。
 自分の世界が狂っていただけだった。正常な世界で、私だけが狂っていた。
 それに気付いた。もう私は正常だ。私は人間だ。人外などではない。ただの人間。最早、吸血鬼の真祖だと名乗り威風堂々とする事は出来まい。
 なぜなら人間なのだから。ただの。吸血鬼などではない。血は吸う。だが外見も精神も、全てが人間だ。
 桜咲刹那も同じだった。追い込めば追い込んだだけ今が苦しい。
 お前は人外で、私も人外だ。本当にそうだったのか。それは間違いだった。
 私が人間なら、桜咲刹那もまた、人間だった。ただの、羽が生えた『だけ』の。人間だったのだ。

 真の人外を見ているからいえるのだ。
 人で無いもの。人でなくなったものを始めてみた。同時に、ソレらを捨てたものも見た。
 自らの従者だった。芽生えていたもの。私と居た事で得てきたもの。あのクラスで得てきたものの全てを放棄した。
 そうして至った。あの姿。今思い出しても、膝を抱えてこうして丸くならなければ振るえを押さえ込めない。それほど恐怖しているのだ。アレに。あの、存在に。
 何故止める事などできたのか。もう考えることさえも出来ないというのに。
 何故捨てる事が出来たのか。捨ててしまえば、火にくべたかのように燃え尽き、二度と手に収める事は出来ないというのに。
 それに恐怖する。その決意。その意思に恐怖したのだ。
 人間を止めるという行為への何の躊躇いも無い行為の実施。
 機能得限止はそれをやってのけた。そして今。茶々丸と機能得限止は『そう』なった。
 そうなって、今を生きている。恐らくは全力。全力以外あるまい。常に全力なのだ。生きることに。生き残る事に。

 私は?
 桜咲刹那に言った。剣か幸せか。あの未熟者は二つとも選ぶといった。
 近衛木乃香と剣。二つとも選んでみると告げた。私はそれを笑った。笑っていた。
 過去形なのには意味が在る。ソレより前を思い返したからだ。
 幸せそうにしている桜咲刹那。あの感情は何だったのか。感情を持つ時点で人間そのものだったが。
 嫉妬だったのか。幸せになりたいという事に対する嫉妬。
 人外の分際で幸せになどなれるものかと言う、自分とは別の道を選び、それに突き進んでいっている者への嫉妬だったのか。

 なら、私は?
 私は今全力なのか? 全力で生きていた時が、一瞬でもあったか?
 私は、サウザンドマスターに何を求めていたのだ?
 愛か。恋。それは、人間的過ぎないのではないのか?
 全力で生きるって、どういう事だ?
 私には解らない。全力じゃないからだったのだろう。人間的に生きただけ。
 気に食わないのは打ち倒し。自分の都合だけで生きてきた哀れで醜い『人間』だったから。
 サウザンドマスター。ナギを求め続けたのは、どうして? 私はわかっている筈だった。
 でも違った。本当は違ったんだ。私は。そうだ。つかめなかった幸せが欲しかったんだ。ナギとなら。
 それが出来る。そんな幻想を懐いていて。でも、迎えは来なくて、一人待って。
 仲間に囲まれて、でも待って。同じ境遇の者に共感を覚えて、でもそいつが一人幸せになろうとして。

 だから嫉妬した。嫉妬して、子供のような嫉妬感で詰った。
 それが答え。そう言う事だった。それが答えだった。
 解ってみるとあっけない。涙が出るほどあっけない。
 哀れで醜くて。悲しくて切ない。儚くて。醒めれば消える、夢の様な。そんな、私は人間だった。

 手を握りエヴァンジェリンは立った。泣きながら立ち上がった。
 そうして奥へ向かう。地下へ。『別荘』が在る地下とは逆。
 彼女の弟子でも在る少年も、招いた人間の誰も知らない地下。住んで作った、あるものを封じ込めた地下。

 彼女には約束があった。彼女の思い人と、彼女はある約束を交えた。
 一つは、光に生きて、そうして何時かは迎えに来るという約束。
 それは果たされていない。彼女の想い人が死んだという噂を聞き諦め。しかし、生きていると言う真実を知って尚迎えに来ない想い人を想い。
 今に至る。約束は果たされていない。だが、破られてもいない。その約束はまだ果たされる余地があった。
 ただし、彼女は二つ目と三つ目の約束は果たされないかもしれないとだけ思う。
 悲しい事だった。誓った筈の約束。彼女自身でさえも使うことの少なかったもの。
 方や、覚えた時から使う事は生涯あるまいと誓ったはずのもの。
 その二つのうちの一つ。それが片方の。対極の地下に収められていた。

 紅い地下だった。牢獄にも似ている。
 事実此処は牢獄だった。何のだろうか。ただし、此処の牢獄は生物の為の牢獄ではない。
 彼女が封じたあるもののための牢獄であった。血に染めたかのような紅いレースが垂れ下がる中を進み、紅い染みの滴る地下の赤土を踏みしめ。紅い瘴気が濃くなっていく中を進んだ彼女は。
 一つの牢獄の前に立った。
 ただし、それは他の格子造りの牢獄ではなく。それは、巨大な箱であった。
 黒い箱。つなぎ目の無い、しかし、エヴァンジェリンと言う少女の顔を映すほど澄んで鏡面化した壁面の黒い箱。
 彼女は其処へ手を触れた。それだけで、手の触れた箇所は裡へ沈み、エヴァンジェリンもまた内へともぐっていく。
 箱の中。宇宙空間のように虚空。全てが黒い筈。明かりはなく、電気は引いていない。
 魔力や気も極限まで遮断される鉱物を用いている。だというのに、ソレだけが紅く瞬いていた。

 それは槍であった。エヴァンジェリンと言う少女の身長を大きく上回る深紅の槍。
 布を絞ったかの様に無骨。その穂先は刃ではなく、柄と同じように布を絞ったかのように無骨であったが、その穂先は丁度槍を真上から。即ち、差し込まれる側から見れば十字に見えるように組まれた槍であった。
 紅い瘴気はコレが発しているものだった。
 サウザンドマスターでさえもコレを見た瞬間身を奮わせた。
 エヴァンジェリンも同じだった。蒐集したものの中で、コレだけは逸脱していると。
 だからこそそう結論し、如何なる時も使わず、しかし、こうして持ち続けた。

 何の為に持っていたのかを考える。サウザンドマスターは使うなといい、彼女もまたそれを約束した筈だった。
 にも関わらず。叩き折りもせず。持ち続けた意味。
 きっと、この日の為だろうと結論した。この時この日この瞬間が来るまで、これは解き放たれるのを待っていたのだ。
 エヴァンジェリンは宿命を感じる。断ち切れない宿命。抗う事の出来ない現実。それを目の当たりにした時に似ていた。

 握り、抜く。驚くほどスムーズに。
 そして目つき鋭く、地下であるにも拘らず、その黒い箱の中であるにも拘らず。その槍の突き立てられてあった場所から見上げた。
 白い夢の世界が見える。終わりはしない世界。人間の都合どおりには動かない世界。今も廻り続ける。ずっとずっと廻り続ける。
 新しい世界など無い。新世界などないのだ。現実に磨り潰されながら生きていくしかない。
 彼女たちは、この現実だけが支配する。自然の全てが是となりえる世界だけで、生きていくしかなかった。

 ――――――――――――――――――――病院 高畑・T・タカミチ病室

 夢の中に居た。神楽坂明日菜はそんな錯覚を懐いた。
 それ程白い世界だった。現実なのは傍らに眠るように横たわり、しかし、彼女が一番好きな煙草を吸う横顔のままでいる男性だけだった。
 だけれど、と彼女は思う。本当の現実。それを見たのだからと。
 機能得限止。そして、絡繰茶々丸。それを思い返す。あれこそが現実。
 今は。この安らぎのような世界は、きっと夢なのだと。彼女は涙ながらに、そう考えていた。

 神楽坂明日菜は考えた。
本当に悲しい事を。それは、こんな夢のような安らぎと隣りあわせなのだという事を。
 夢を見たわけではなかった。理想を得たかったわけではなかった。神楽坂明日菜は何をしたいのか解らずに生きてきた。ネギ・スプリングフィールドと言う少年が来てからも相変わらず。神楽坂明日菜は何をしたいのかも解らず此処に居る。
 此処で、生き続けて来ていた。その果てに何が見えるのか。神楽坂明日菜はそれ解らない。
 正しくは、彼女と同年齢の人間は全てそうだ。
 世界は彼女らなどどうでも良いのだ。生きているだけ。
 機能得限止の言った言葉。それは正しかった。
 今のままでは何も残せない。それも正しかった。機能得限止と言う男は、心底に教師だったのだから。

 泣き腫らした紅い目。色の違う筈の二つの瞳を深紅に迫るまで染め、彼女は窓から外を見た。
 窓は開いている。風を取り入れる為に。風は彼女の泣き腫らした赤い瞳を優しく撫でると共に、彼女の上着の内側のポケットに入っているものを動かした。
 神楽坂明日菜ははっとする。上着のポケットに入っているもの。それが何を意味するのか。
 拳銃型の注射器が納まっている内ポケット。其処を強く。神楽坂明日菜は、其処を強く握り締める。
 使わないと誓っているからだ。こんなもの、どうあっても使うかと言う誓い。
 あんなものにはなりたくない。成る訳にはいかない。人間として生きていく。神楽坂明日菜はそう誓っていた。
 
「アスナ君。ネギ君に、襲っているのはキリシ君だと言う事は黙っていてくれないか?」

 俯き気味であった顔を挙げ、ベッドの上に横たわっていた元担任教師を見つめる。
 何故。と言う表情ではない。神楽坂明日菜も知っているのだ。
 この事実をネギ・スプリングフィールドと言う少年に告げればどういうことになるのか。
 それを理解し、その理解している可能性を現実にしてはいけないと、彼女は硬く口をつぐむ。少年には、決して伝えないと。
 神楽坂明日菜はその少年の事を良く知っている。
 冷静そうに見えて猪突猛進。何かを考えているように見えて、何も考えていない。
 それが少年の本質。正しい事に怒れて、それ以外には目も行かなくなってしまうぐらい愚直なその性質を。
 だが、機能得限止だったもの相手にはその愚直さが命取りになる。
 神楽坂明日菜は確信していた。そうなると。確実に、殺されるだろうと。

 生徒を襲う機能得限止だったもの。
 ネギ・スプリングフィールドがその事実を知れば、間違えなく動く事を神楽坂明日菜。そして、タカミチ・T・高畑も知っている。
 生徒を思う心はネギ・スプリングフィールドと言う少年の心の奥底に深く深く根付いているのだ。
 強い責任感と、強い意志。
 だが。鋼性種を初め、機能得限止だったものを相手にするには『そんなものは余計なだけ』だった。
 最悪の未来予想図を予測できた。
 神楽坂明日菜も、タカミチ・T・高畑もその未来を幻視してしまった。まるで、クリスタル硝子製のコップを思い切り地面へ叩きつけるかのような無残さ。
 そのようになる少年の姿。
 慈悲はないのだ。容赦もないのだ。呪文を唱えている暇。そんなものはない。
 敵対した瞬間に殺される。それが機能得限止だったものの本質だ。そうなる。確実にそうなる。それだけが予測できていた。

 だからタカミチ・T・高畑は伝えてはいけないと忠告したのだろう。
 そうなる事を防ぐべく、高畑・T・タカミチはそれを一番少年と共に居る神楽坂明日菜にそれを伝えた。
 そして、神楽坂明日菜もまた。それを受け取った。
 教えるような真似はしないと。友人を二人同時に傷つけられて広くなった部屋。そこに今居るのは少年と彼女だけ。
 あの楽しかった声はない。少年の帰りは遅く、彼女の朝は早い。
 擦れ違いの日々が続いていた。心ではなく、体の擦れ違い。心は同じままだ。ただ、友人を傷つけられた事に対する憤慨の差が違う。
 ネギ・スプリングフィールドは強い憤慨を。しかし、神楽坂明日菜は憤慨にもならぬ憤りを。そんな微妙な心の差異を、二人は懐いて生活し続けていた。

 ネギ・スプリングフィールドと言う少年が強くなったとはいえ、高畑・T・タカミチから見て機能得限止だったものは最早人知を遥かに超えた存在となっていた。
 ソレと少年が戦えば。否、生存競争をすればどうなるのか。最早予測するまでもない。
 少年は死ぬ。確実に殺される。アレはそう言うものなのだから。高畑・T・タカミチはそう確信している。そして、それだけは決して許してはならないと―――

「高畑先生……キノウエ先生は、どうしてあんな風になれたんですか?
 人間。どうしてあんなに簡単に止められるんですか? 私には解らないです。私には、絶対」

 肩を震わせて言う少女の心をタカミチ・T・高畑は良く解っていた。
 少女は感受性が強い人間だからだ。強気で、高等部の生徒からは目を付けられる程の前へ出て行く性格。
 リーダーシップに溢れ、皆を率い。そして皆を笑顔にして上げられる頼りになる少女。
 それが高畑・T・タカミチの目から見ての神楽坂明日菜と言う少女であり、しかし。その内側は時に脆く。だがそれでも誰かの事を考えてあげられる、心優しい少女なのだと言う事を。

 だからこそ、神楽坂明日菜には理解できなかった。
 簡単に。余りに呆気なく人間そのものを放棄できた機能得限止を。
 大切な人が居なかったのか。待っている人が居なかったのか。未来に想い馳せていなかったのか。
 機能得限止は何一つ語らず人間である事を放棄した。
 神楽坂明日菜とエヴァンジェリンの前で。それを神楽坂明日菜はずっと理解出来なかった。だからこそ、今もこうして涙しながらも思い思い続けていた。

「………僕にも解らない…けれどね、アスナ君。僕はこう思っているんだよ。
 間違えかもしれない。もう本心を知っている人間は誰も居ない。
 知っている人間はキリシ君だけだったけれど、その本人も最早答えることは出来ない。でも、僕はこう思いたいんだ。
 キリシ君は本当は優しい人間だったんじゃないかってね。
 優しすぎて、それで人間の醜さを見ていられなかった。
 彼は僕に言ったよ。戦い続けたいのなら戦場へ行けと。とても深い憤怒が秘められていたような気がしたんだ。
 全力で生きていこうとする彼にとって僕たちのように理由もなく戦う人間は見るに耐えない存在だったんだろう。
 生きていこうと思っても生きていけない者達が居る。
 そうとも言ったかな。何時だったかは覚えていないけれどね。
 僕たちの行為はひょっとしたらソレを侮辱する行為だったのかもしれない。
 余裕がありすぎて、その所為で“誰か”を守る為に身につけた筈の力を何でもないことに使ってしまったんだ。ソレが、彼には我慢ならなかったのかもしれない。
 でも、きっと本質は違うんだ。彼は人間嫌いではなかった。
 人間嫌いではなかったけれど、全力ではないものを憎んだ。
 よほど激しい憎悪だったんだろう。それこそ、一歩間違えれば人殺しに至るほど。
 だけれど彼は一人も殺しはしなかった。彼が何時か言った言葉を思い出すよ。
 人間などやめてしまえ、か。そうなんだろうね。
 彼は、自分で自分を人間ではなくす事で何もかも解らなく『した』のかもしれない。
 人間の愚考も。傷つけあう人間の姿も言葉も。不幸と言う定義も。死んでいくと言う現実も。そ
 れら全ての否定を以って、彼はそれを証明したのかもしれない。
 人間を自ら止める事で、他者を殺す事よりも単純な遠ざけ方をしたのかもしれないね。
 でも、全ては謎だよ。僕がこう思うだけだからね。
 本当はまったく違うかもしれない。でもそうであって欲しい。僕はそう思うよ。切実に、そう」
 
 神楽坂明日菜もまたそうではないかと思う。
 最後の機能得限止。その姿を反復する。
 そこに感情は見当たらなかった。高畑・T・タカミチが思うような感情もなかった。
 神楽坂明日菜はそう見ている。本当にそのような感情があったのか。
 最早、あの蒼白の顔を見ることが出来ない以上、何を考えても仕方のない事であった。

「ただ――――だからそれで許されていいわけじゃない。彼はこの結果を見通していただろう。そうならば――――やってはならない事をやった。
 裁きは受けなければいけない筈だ。彼は自身の意思であの道を選んだ。人として、あの道を選択した。
 ならば、その結果がこれならば、僕達が、人間が嘗ての彼に引導を渡さなければいけない。
 尤も、僕はこんな状態だ。流石に僕には、無理かもね。ぐっ、ごふっ、ごふっ」

 高畑・T・タカミチは咳き込んだ。長く喋りすぎた所為だろう。
 それを察知し、神楽坂明日菜は作り物の笑顔を向けて高畑・T・タカミチを安心させた。気になった。
 本当は自分でも笑えるぐらいの哀れな顔であったのを神楽坂明日菜は鏡を見ずとも解っていた。
 勿論、高畑・T・タカミチもソレはわかっていた。解っていて、あえて受け入れた。不器用な二人の受け止め方だった。
 横になった高畑・T・タカミチの体へシーツをかけ、神楽坂明日菜は退室していく。
 その背には、あの豪胆で気持ちの良い少女の面影は最早ない。
 あるのはただのか弱い少女の肩だけ。重く。あまりに重い現実に押し潰されかけた背中だった。

「アスナ君。君も絶対に彼と戦ってはいけない。
 彼は敵意あるものに何より反応する。それを忘れてはいけない」

 神楽坂明日菜は何も言わずお大事にしてくださいとだけ告げて出て行った。
 高畑・T・タカミチは厭な不安を覚える。だが何も出来なかった。
 そう、彼には何も出来ない。顔の前まで持ってきた右手の平を開き、握る。
 その程度の行為がままならない。体は壊れている。ほぼ完全に。今の彼は―――ただのガラクタだった。

 浅い海に一人立つような気持ちを神楽坂明日菜は味わう。
 とても浅い海。足元に感触はあるというのに、あまりに曖昧な感触。水なのかオイルなのか血なのかの判断も付かないほど生ぬるくも粘ついた液体。
 それが自分の足元を完全に浸している。神楽坂明日菜はそれを夢心地に感じていた。

 足元は白い靄。故に脚を満たしている液体が何であるのかの判断はなかった。
 まるで夢の中に居るようだと、神楽坂明日菜は笑う。優雅に。そして、狂ったように。
 事実狂ったのかもしれないと、また笑う。
 ソレの繰り返し。悪い白い夢の中で、神楽坂明日菜は泣きながら笑った。
 誰かに見られても最早関係なかった。笑って。諦めたかった。
 諦めるなと言う言葉も、最早意味がない。
 相手は人知を超えている。人間と言う存在では想定できない。
 それが彼女が相向かった相手だったのだ。よくもまぁ生きているものねと笑う。笑うしかなかった。

 そうして笑いながら泣いていた。
 悲しかったからであり悔しかったからでも在る。
 そして何より、高畑・T・タカミチと言う人物が言うとおり。あのような状態になっても尚、機能得限止は機能得限止で、人間だったのだという事を。
 それを思う。悔しく。哀れで。悲しくて。虚しかった。
 神楽坂明日菜は何処へ向かっているのかの判断がなかった。
 足元がおぼつかないのは浅い海に居る所為であると思い。だが、足元は一歩も動いていない事に笑った。結局。自分は此処から動けないで居ると。

 全てがリアルだった。神楽坂明日菜にとってはそのリアルが狂っていた。
 だがリアルは現実のままだ。現実を受け入れる事が出来ない生物は人間だけ。
 何時も都合の良い世界と人間を鋳造する。
 獣には。森羅にはソレがなかった。何時だってリアルを生きていき続けている彼らにとって。幻想も狂想も仮想も意味がないものであった。
 彼らに意思はない。風に意思はない。土に意思はない。獣に意思はなかった。
 意思があるのは人間だけで、それ以外の全ては意思を以って現実に立ち向かい生きていた。
 神楽坂明日菜それを漸く実感する。
 何のことはない事であったと笑った。笑って、漸く涙ながらに伏せられていた目を開く。
 声を出して笑う笑いではなく、声を押し殺しクチに手を当て、笑って居るのを―――泣いて居るのを、悟られないような泣き方で泣いていた。
 神楽坂明日菜は漸く。さっきからの笑いは笑いではなく、嗚咽が漏れるのを押さえ込んでいた所為で笑うようになってしまった悲壮であったと結論付けた。

 開いた目の先は白い病院の中であった。
 高畑・T・タカミチの病室の前。白い引き戸の扉に背を預け、行きかう人を眺めている。
 それが現実の神楽坂明日菜の状態であった。白い女性が焦ったように行く。白い少女が涙ながらに行く。
 多くの悲哀と喜悦。そして死が渦巻く世界に立っていると、神楽坂明日菜は思う。
 そして実感する。これが現実なのだと理解する。
 何時死ぬのか、何時泣くのか、何時喜ぶのかも解らない。
 それだけが現実だった。その世界に、自分も立って居るのだ。
 自分一人が消えようが変わらない。誰か一人が消えようが世界は変わりはしない。
 相変わらずの世界で廻り続けていくのだ。歴史の様に。時計のように。あるいは―――メリーゴーラウンドの様に。

 廻り続けている世界が視界から消えていく。端から崩れて、白い世界に置き去りになった。
 その世界の端から、誰かが来る。神楽坂明日菜は幻視した。
 かつての自分を。今も見ても似合わないしかめっ面で無愛想に、白い世界の端から白い世界の端へ。かつての。幼少の頃の神楽坂明日菜が行っていた。
 今も一人なのかと神楽坂明日菜は思う。一人ではない。
 一人ではないが、今は一人で考えていた。何をすべきなのか。
 どうするべきなのか。一人でやらなければならない。神楽坂明日菜にはその宿命が在る。
 機能得限止との最後の言葉を交えたものとして。最後の、勤めが。


 あの時。キノウエ先生はなんと言ったのか。
 人間などやめてしまえ。あるいは、汝獣在れかし。
 または、妙見の菩薩と。数多くの事を言われ、その全てを私は理解できなかった。
 でも、本当は違うのかもね。私は理解したくなかっただけなのかもしれない。
 だって、昔の私みたいだったから。キノウエ先生は、ずうっと前の私みたいにしかめっ面で、無愛想で、でも誰かと一緒に居る事が多い、そんな矛盾していた頃の私と同じだったから。
 ソレが厭で、私は必死になってキノウエ先生の言う事から逃れようとしていたのかもしれない。

 言葉の意味にどれだけの思いが込められていたのかは解らないまま。
 これからもきっと解らないままで生きていく。
 ひょっとしたら、解らなくなるかもしれない。ポケットの内に入っている、コレ。
 拳銃型の注射器。打ち込めばどうなるのか。キノウエ先生と同じになってしまうって言うの。
 なら絶対使わない。絶対に絶対。だってコレ使っちゃったら、私もあんなものになっちゃうんでしょ。
 なら使わない。使いたくない。使うわけには行かない。それが、今までの私だった。
 でも、最早絶対とはいえない処まで事は来てしまっている。そして、どうにかできるのは多分。

 キノウエ先生は、幾ら全てがわからなくなったとはいえ、相変わらずキノウエ先生だったのよね。
 私、解っているつもり。今みたいになってもキノウエ先生は相変わらずだって。
 私達の副担任を務め続けてきてくれたあのキノウエ先生なんだって。
 だからアキラちゃんを襲っても。亜子ちゃんを襲っても。クーフェを襲っても、龍宮さんを襲っても。
 そして、高畑先生を襲っても殺すまではいかなかった。殺せる筈なのにあくまでも殺すまでは行かなかった。

 本当はどうか解んない。
 本当に殺す気がなかったなんて言えない。もうキノウエ先生はその領域には居ない。私がそう思いたいだけ。
 そして、そうでありたいと信じたいだけ。
 でも傷つけた事実は相変わらず。キノウエ先生は相変わらずで私たちを傷つけている。
 だから、どうにかしなくちゃいけない。そのどうにかできるのは、きっとだけど。多分。

 握った手にはあの注射器。使わないとは、もう言う事は出来ない。
 本当に? 本当に私は、コレを使わずに相手を出来ると言うの?
 キノウエ先生だったものを相手に、生身で相手できるというの?
 使えばどうなるかなんて、想像もつかない。
 キノウエ先生の様になってしまうのか。そんな事すらも解らない。
 解らない事が怖い。怖いに決まってるじゃん。どうなるのか解んないんだよ。
 そんなの怖いに決まっているじゃん。でも、それであっても使わないとはいえない。使わなければ、殺されるかもしれない。

 でも解ってるよ。私がやるんだから。私がやらなくちゃいけないから。
 高畑先生と同じように、キノウエ先生との付き合いは長いからじゃない。
 ただ、最後の言葉を交えた者同士として、やらなくちゃいけない。
 キノウエ先生。貴方は、余りに多くを傷つけた。
 ソレを、やっぱり私は許しちゃいけないんだと思う。だからこれを持ち続けたんだと思う。そうじゃなければ、どうして。
 人間として挑みたい。そう思っている気持ちは相変わらず。
 人間でいたい。その気持ちもまだ淀んでなんていない。
 でも、いざ対峙したらその気持ちは消えるかもしれない。
 生き残りたいと言う気持ちは純粋な想いなんて容易くかき消してしまうから。
 きっとそうなる。そんな気がする。私は弱いから、きっと頼りたくなってしまうものを持っていたら必ず頼ってしまうと思う。


 それが神楽坂明日菜の結論だった。握り締めて見つめていた注射器に一滴の涙滴が落ちる。
 純粋なまでの涙滴。心からの一滴だった。最早先延ばしは出来ない。
 彼女はそう結論する。やらなければいけなかった。他にやれる人間は居なかった。彼女がやらなければいけない。それが世界の結論だった。
 握り締めた注射器を使わないとは断言しなかった。
 多分使うであろうという結論。使う事がどう言う事なのか神楽坂明日菜は知っている。使った人間が居たからだ。
 その人間は、既に人間ではない。彼女もまたそうなるであろう。神楽坂明日菜はそれを覚悟していた。
 だが覚悟しただけであった事に彼女は気付けない。覚悟はしても、本当に使う場面になった時に使えるのか。
 その時はまだ来ていないのだ。故に使えるか否か本当の覚悟が解るのは、その時が来るまでは解らなかった。

 伏せていた顔を上げ、神楽坂明日菜は病院の外へと向かった。
 病院の外は風が吹いていた。風に意思はなかった。風は風のままであり、木が木のままであった。
 そんな事、神楽坂明日菜は機能得限止が変異した時から知っていた。
 奇跡はないだろうという事。もはや人の意思ではどうしようもない所まで事が進んでしまったこと。
 台風のようなものであった。機能得限止も絡繰茶々丸もまた、嵐のようなものであった。
 進むだけ進み、進んだ分だけ荒廃を残すもの。
 嵐の様な。竜巻の様な。そんなもの。それが鋼性種と言うものであったのかもしれない。

 眼差しは付したまま。神楽坂明日菜は自らの自室へ向かった。
 少年の使い魔だけが待つ場所。今帰っても、学園中で起きている事件の解決の為に動いている少年には夜遅くならなければ帰ってこない。
 神楽坂明日菜は既に準備を終えている。挑もうと思えば、彼女は直ぐにでも機能得限止だったものに挑める準備を整えていたのだ。
 ならば何故自室へ向かうのか。理由は簡単だ。最後の仕上げを行うのだった。
 左右のポケットに手を入れ、神楽坂明日菜はカードを取り出した。それを右だけに収めて、行く。
 最後の仕上げを行う為に。やらなければいけない事をなす為に。それを成す前に。
 後悔も何もない。やるべき事をやるだけで良かった。


 死ぬまで生きていこう。そんな事を風の中。去りながら神楽坂明日菜は思った。


 ――――――――――――――――――――――――――嶺峰邸


 夕暮れ。日は遠く、風は冷たい。
 窓から流れ込んでくる風は家の中を突き切り、ドアの向こう側へ。それを二人浴びて思う。これからのこと。今までのこと。そして、今のこと。
 部屋の中には三人。いやいや、正確には二人と一匹なんだけど、その一匹はちゃんとした家族だから三人。
 白い肌を夕日でつやつやさせながら嶺峰さんの胸元で静かに眠るレッケルに、それを優しく眺めて微笑む嶺峰さん。そして、水晶に手を翳していた私。
 部屋の中にはその三人だけ。嶺峰さんのお家なんだからそれも当然なんだけどね。
 訪れる人のいない家。私とレッケル。そして嶺峰さんだけの家。
 三人だけの檻。その中で変わらない空気だけが渦巻いている。
 始めてきた時と同じような空気。初めてと同じ空気だけが、この世界を満たしている。

 それは、いいと思う。嶺峰さんは綺麗なまま。
 変わったのは私とレッケル。私は前ほど魔法使いらしくなくなっているし、レッケルももっともっと笑顔が多くなった。
 それは、良い事とは思う。でも魔法使い的にはちょっと拙いかもしれないけれども。
 でも、それももう直ぐ終わる。報告書が全て整ってしまった。
 後はコレを魔法界に提出し、ネギに今回のいきさつを話せば全て終わる。
 私は世界へ飛んでマギステルの一人に。ネギはどうするのか知らないけれどどちらにしても魔法界からマギステル認定通知書は来ると思う。
 今回製作した報告書にネギが大量の人間に対し魔法使いである事をばらしたと言う事は書いていない。
 私情を挟まないのが魔法使いの鉄則なんだけど、今回はそうすべきではないと私が決定しただけ。本当は、ちゃんとしなくちゃいけないんだけどね。

 私がここでやらなくちゃいけない事の半分は終わった。
 正しく言うと、元々やらなくっちゃいけなかった事が終わった。
 コレで私の役目は終わりなんだけど、後はもう一つをどうするかよね。
 第一、ネギに今回私が報告者になっていたのを言おうにも、今の学園内の状況からじゃとてもじゃないけどそんな事は出来ない。
 鋼性種にキノウエって人だったものの反骨に。それに、金髪の従者の鋼化。
 状況は最悪って言うのかな。いえ、最悪とは違うわよね、こんなんじゃ最悪とはいえない。
 単純な理由で鋼性種化したのは動いている。本当に単純な理由だ。生き残ろうとする意思。それだけだった。

 金髪。従者を元に戻せる算段立てられたのかしらね。
 神楽坂さん。キノウエって人、元に戻せる準備整ったのかしらね。
 尤も。ロクに鋼性種の情報も持っていない二人が鋼性種化したの相手にどうにか出来るなんて思っていない。
 私も人が良いから手を貸しちゃおうとか思っていたんだけど、残念ながらその鋼性種がロクに姿も見せない。
 鋼性種の体質調査も出来なくちゃ鋼化した人を戻す方法も解りゃしないっていうのにね。
 何で鋼性種が出てこないのかを考える。そも、あの白黒の鋼性種が最後に姿を見せて以来、私達の前には鋼性種は姿を見せていない。
 その理由はなんなのかな。私達が鋼性種を倒しちゃったから危険視された。ありえる。
 鋼性種は鋼性種で相変わらず理解出来ない存在だから私たちになんて興味なくなった。ありえる。
 どれにしたって、私たちじゃあもうどうにかできる領域は逸脱してしまっている。
 鋼性種が出ないのも。鋼性種化してしまったのも。もう人間がどうにかできるレベルじゃないかと思ってる。

 でも諦めたくはないなんて思ってんよね。
 意外と諦め悪い方だから。だから今でも必死に思考をめぐらせている。
 鋼性種はどうして急に出なくなったのか。どうして鋼性種が急に姿を見せなくなったのか。そも、鋼性種ってなんなのか。
 鋼性種がなんなのかなんて考えていたら限が無いなんて知ってる。
 その問答は何度も繰り返してきたから、とりあえずソレはもういい。大事なのかこれからどうするのか。鋼性種って言う存在がどうなってしまったのかを考えなくちゃいけない。
 そうでなくちゃ、私はここから飛び出していけないから。
 彼女を縛る何かを解き放たなくちゃ、私はいけないと思うから―――

「みゅー……アーニャさん……難だか変な気配がするですですー…」

 何時の間にやら私の足元まで張ってきていたレッケルがそんな事を言う。
 確かに、レッケルの水膜結界は、いまだあの巨木の根元あたりに展開されている。
 だからレッケルが何かを探知してもおかしくは無いんだけれど。
 
「どんな気配? 鋼性種??」

 ふるふると首を振り小首を傾げてしまうレッケル。つまりは、特には解らないと言うこと。
 これは珍しい。レッケルは上位の水性精霊だからその水膜結界が上手く作用しないなんて事は無いんだけど、その水膜結界内の気配を上手く読めないって言うのは。
 ふと、思った事がある。
 鋼性種が出ない。出ないのは、私達がどうにかしてしまったからだとずっと思っていた。
 けど、そうではなかったとしたらと考える。
 そうではない。鋼性種が現れなくなったんじゃなくて、現れているけれど、私達の近くに、知覚出来る範囲に姿を見せていないと言うのなら。それはどう言う事なのだろう。

 確信じゃない。キノウエって人同様に推定でしかない。
 でも、鋼性種と言う存在に常識が当て嵌まらないと言うのなら、私が今考えていることも推定ではなくなる可能性がある。鋼性種は私たち常識を打ち砕いてしまう存在だもの。
 アレだけの質量を持っているような存在に見えて、空気のような軽さで行動するかのように、足音一つ立てない鋼性種。
 でも、それは意外と単純な理由で足音も何も立てていないのかもしれない。

 思い出す。鋼性種との戦いの時を。あの白黒の鋼性種とやりあった時を。
 最後の一撃。鶺鴒さんがあのチェーンソー鎌で一薙ぎにして叩き切ったにも関わらず、あの時。周辺はまるで反応を示さなかった。
 アレだけの発光。アレだけの炸裂音であるにも関わらず。世界は相変わらずだった事を思い出す。
 そして、それが意味する事を考える。
 何故。アレだけの大音量であるにも拘らず、誰一人、あの場に居た私たち以外は一切反応しなかった。
 それが何を意味しているのかを考えなくちゃいけない。

 尤も。考えるまでも無いなんて事なんて知っている。
 鋼性種が何で在るのかを、セキレイと言う人から厭と言うほどに聞いている。
 鋼性種は理解していないもの。認識していないものを干渉せず干渉しない。
 そう言うものだということを散々教えられた。
 なら答えは簡単だろう。鋼性種は“音”さえも干渉せず干渉しないんだ。
 私が白黒の鋼性種が炸裂した時に聞いた炸裂音は、音じゃなかった。
 強烈な閃光による感覚の麻痺。ソレの所為で、私はその時に聞いた炸裂音を音としてしまった。
 音としてしまい―――耳が。鼓膜が潰れたなんて、思ってしまったんだ。

 もし、それが正しいと言うのならどう言う事か解る筈。
 鋼性種は音を消し去るんだ。戦闘音も何もかも。
 だと言うのなら答えは一つだけ。鋼性種は姿を見せている。見せてはいるけど、それをレッケルが探知するより早く、どうにかして水膜結界の外へいってしまっているんだ。
 だから感知が出来ない。その方法は知らない。鋼性種は進化を繰り返してきた生命体の中でも極限の粋に在る。
 もし、鋼性種が結界と言うものを認識しつつも判断しないとしたら、限りなく自然界に近い筈の水膜結界すら受け付けなくなる。
 水膜結界を受け付けないと言う事は水分を受け付けないと言う事だから、多分完全じゃない。
 ひょっとしたら、レッケルが感じている僅かな気配って言うのは、ひょっとしてだけれど―――

「レッケルっ。嶺峰さんっ。世界樹広場に行きましょ。なんか―――変な感じがする」

 確信を持った。確信があった。
 ソレを信じて、窓の外から巨木を見据える。強い光が、一瞬見えた。

 ――――――――――――――――――――世界樹裏ステージ前

 魔法少女姿で突貫楯を携えた嶺峰さん。
 同じように、何時ものローブに紅いインナー姿で走り続ける私。
 そして、頭上のレッケルはみゅーみゅー叫ぶ。
 解っている。何かが近い。強い光を放っている何かが、巨木の真下に在る。
 それだけは私も、多分、嶺峰さんも解っていると思う。
 ふっと、頬の間近を銀色の雪が通り過ぎた気がした。
 でも振り返る必要は無かった。進んでいく先が銀色の雪で包まれていくから。
 冷たくは無い銀色の雪。地面や、肌に付いた先からふっと消えていくだけの雪。
 深紅の光を浴びて、それでも銀色に輝いていく雪。
 それが、視界の全てを覆っていく。その先を見た。
 更に先。その雪が吹いてくる、巨木。世界樹広場の裏側。
 私が住み続けていた、あの巨木の裏側に位置する場所を見通せる場所に立って。ああ、漸く解った。

 一面は銀世界。雪じゃない銀色で多い尽くされている。
 巨木、世界樹の根元は淡く緑色に発光。
 視界の全てを多い尽くす銀色の破片が降り注ぐ中で、一際異彩を放つ、巨大な鎌を背負った、不恰好としか言いようの無い格好の女性が、薄く冷笑しながら、世界樹の下に立っていた。

「――――鶺鴒様?」
「――――ハロー。ネミネ。ああ、それにサポートちゃんも一緒か。うん。
 と言う事は事を突き止めたのはサポートちゃんね。うーんやっぱり見つかっちゃったか。
 ちょーっとサポートちゃんにヒントを与えすぎたかもしれないわねー。
 まぁでも此処を突き止められたっていうことは魔法少女の才能あるわよね。
 どぉ? やっぱりアタシの後継がない? もう直ぐ終わりだし」

 軽口を聴く姿は態度は変わらない。
 けれど、最早眼下に立つ女性を認める事は出来ない。何も告げずに何をやっているのか。
 魔法少女である事を人一倍嫌って居た筈の女性が、何ゆえの理由で此処に居るのか。
 その意味。それが理解できないから。
 見下ろすような状態になっていた状況から降りて行く。
 背後からは嶺峰さんが神妙な面持ちで。レッケルは叫び声一つ挙げず、私の頭の上でおとなしい。
 理由は解ってる。レッケルも知っているんだ。彼女が何を考えているのかを解らないと言うことを。
 だから、私たちは誰一人。何も言えないで居る。

 目前も目前まで迫る。大鎌の射程ギリギリ。其処に立つ。
 視線は相変わらずのままに。何時も。何時だって、掌心引香鶺鴒と言う女性を見つめていた時の眼差しのままに、私は彼女を見つめている。
 同様。こっちに顔を返した彼女の表情にも変化は無い。何時もどおり。
 普段どおりの不敵な。やる気も無いような態度でこっちに接しているだけだった。
 一度周辺を見渡す。銀色の雪が降り注ぐ中。
 夏の終わり。秋の始まり。春と冬は関係しない季節の間近。
 その風景は幻想的でもあり、しかし、あってはならない光景でもあった。
 雪が降ってはいけない。喩え降っているのが雪ではなく、まったく別の『何か』であったとしても。
 今この時この場所に。この銀色の雪は、降っていてはいけない筈。

「何やってるの?」

 やや見上げるようにそんな事を聞いてみた。
 知っている。鋼性種とやりあっていたなんて知っている。
 さっき空を見上げた視界の端。そこに銀色の何かが見えた。多分鋼性種。
 で、今私達の視界全てを満たしているのは紛れも無く、かの鋼性種の体の破片そのもの。
 知っているくせに。彼女はそんな風に笑った。
 相変わらずの冷笑。目は笑っていない。口端だけで笑む、気味の悪い、でも、彼女にとって診れば一番似合う笑顔。
 嶺峰さんとはまったく逆。ふわっと微笑んで心が柔らかくなる嶺峰さんとは違う。
 神経を鋭敏化させるような笑み。華道なんてやっているからできる笑顔。
 部員を縛り付ける為だけじゃなくて、その世界を凍てつかせる為の冷笑。

「いやね。あのでっかい木。根元からぶった切ってやろうかなーなんちゃって」

 あっさり言ってのけた。思わず息を呑みそうになるのも忘れる。
 頭の上のレッケルに至っては口を開いてぽかんとしている。
 ただ一人。背後に居る嶺峰さんからの反応だけが察しれない。
 それほど驚いているのか。それとも、そんな事すら彼女は反応も出来ないのか。

「何で? って顔しているわね?
 いいわよぉー教えてあげちゃう。どうせ鋼ちゃんの相手するのももう直ぐ終わりだしね。
 あ、ネミネもお疲れ様ぁ。魔法少女のお仕事終わればやっと長いお休みもらえるよ?
 ああ、でもまぁその前にお話お話と。で、どーしてアタシがこの木をたたっ切ろうなんて考えたかと思いますと。
 なんでもないわけよね。この木。何でこんなに馬鹿でかいかって言いますと。
 この木の根元に、鋼性種の親玉ちゃんがいるわけよ。この木、そんな理由で此処まででかいワケ。
 ちょっと前に魔法の話題とか上がったじゃん。あれ全然関係ないのよね。
 単純な理由なのよ。鋼性種の親玉ちゃんがずーっと此処の根元に滞在し続けていた所為でこの木はこんな風に以上成長しちゃったってワケ。
 鋼ちゃんって自然界よりの生命体でしょ? だから自然界に与える影響っていうのはかなり大きいのよね。で、その結果がコレ。すごくない?」

 驚いてはいない。鋼性種って言うのがそう言うモノだっていうのは知っていたし、そんなに驚くような事じゃない。
 鋼性種ならありえるかな。そんな感じだ。
 それに、この木の下にいた奴なら私も知っていた。あの漆黒の結晶体。それ以外にはありえない。
 アレが鋼性種の親玉と言うのだろう。ソレにも驚かない。初めてアレを見たときの不可解さは、鋼性種と初めて接した時に感じた感触と似ていた。
 だから、アレも鋼性種も似たようなもの。そんな事は解っていた。だから此処で問題になるのは―――

「鶺鴒さん。貴女―――何時からソレを知っていたの?」

 そう言うことだ。私はおろか、誰一人その事を話した人間は居ない。
 ましてや魔法少女をやるのに乗り気じゃなかった鶺鴒さんが何故そんな事を知っているのか。
 重要なのはその辺りの事。その他の事は全部知っているといっても過言じゃない。
 だから、何時から知っていて。どうして、私たちには何一つ知らすような真似はしなかったのか。
 冷笑。彼女は笑って私の鼻先へその大鎌を向けてくる。
 殺意は無い。どちらかと言えば指摘のような動きでその鎌が私の鼻先一寸まで近づけられて、また冷笑。
 こんなにあの人が笑う所は見た頃が無い。それだけ楽しいんだと思う。この状況が。
 いいえ、きっともう直ぐあの巨木と引き換えに、魔法少女である事をやめてしまえる事が。

「ずっとずっとずぅっと前。それこそネミネが魔法少女に拝命されて、私が彼女の後見人に任命されてからもずうっと前。
 そぉねぇ。極論でモノ言っていい? 結論すれば。私が魔法少女になれって言われた日。その日から知っていたって事で、いい?」

 あっけなく言いのけた。あっさりとした口調。
 相変わらずのマシンガントークの口ぶりであっさり言ってのけたのだ。
 それがどれぐらい昔なんて私には解らない。彼女は嶺峰さんと同い年の18歳の筈。
 でも、彼女が魔法少女に拝命されたのが何時からなんて知らない。ただ。嶺峰さんは中等部入学後三年間休学していた頃には既に魔法少女であった。
 嶺峰さんが何時から魔法少女だったのかも知らない。けれど、少なくとも鶺鴒さんは。初等部時代の時点で既に魔法少女であったという事―――
 それはいい。その際そんなものはどうでも良いとする。どうでも良くないことだけど今はいい。あとで問い詰めればいいだけの話だもの。
 今聞きたいのはそうじゃない。今聞きたいことはただ一つ。
 この人はそれを知っていながら、何故に私たちにソレを一度たりとも教えもしなかったのか。

「それで。鶺鴒さん。この木をぶった切って、どうするの?」

 あえてソレを問わなかったのはどうしてなのかな。
 多分、鼻先に突きつけられた大鎌の所為だ。
 私は外見とは裏腹に怖がっている。目の前の彼女の動きを把握できない。
 何をしても彼女は不思議じゃないんだ。
 狂っているのとは違う。彼女はあくまでも冷静で普通。彼女はソレを望んでいるんだもの。
 普通と言うものを望んでいる。特別なものなどいらない。ただに普通、と。

「さぁ? とにかくぶった切ってとっとと終わらせたいだけ。
 魔法少女やるのも、もーいや。アタシ普通の生活が一番だわねって思うわけなのよ。
 魔法少女拝命された日からずっと思っていたわ。鋼ちゃんこっちから手を出さない限りはこっちの事は無視するのよ? 無視してくれるならいいじゃんねぇ別に手ぇ出さなくても。
 人間って本当に俗っぽい生物よねー。ちょっでも優れていたら直ぐに相手の足元を取ることしか考えない。
 ちょっとでも劣っていたら侮蔑する事しか考えない。
 そう言うのホントアタシ嫌い。アタシ特別なのっていっちばん嫌い。
 特に自分がそーゆーのって一番耐えられない。
 知ってる? アタシね、RPGとか漫画とか小説って死ぬほど嫌いなの。
 主人公が活躍して世界は自分を中心だーって言うのが最悪。
 現実そんなにあまくないっていうの。現実見て生きていないやつらはダメよねー。
 あ、サポートちゃんとかアタシ好きよ? その目。現実見ている目よねー。
 ネミネも嫌いじゃないわよー、気配は嫌いだけど。
 でも自分の世界で生きているじゃないの? いいわよね、それ。私も特別じゃなくていいからそういうのほしかったわ。
 ねぇ普通って最高だと思わない? 危ない目に合わない。争いごとも無い。
 毎日笑って泣いて過ごして。毎日毎日同じ平穏が続く日々。それって最高だと思わない?
 アタシは思うな。フツーサイコーなんちゃって。
 でもホントよ? 普通って。特別なものなんて要らないのよね。
 不幸や幸福なんて考えなくていいの。だって同じだもん。
 普通って。他には何も無いじゃない。ないも無いなら無いも要らない。そう言うこと。
 正直皆アタシと同じなら良いと思うわよ。
 何でも普通ならいいなーって思うやつらばっかりならきっとこの星すごい平和になると思うなー。
 普通を望むんなら高望みなんていらないしー権力はいらないしー夢もいらないしー目標もあんまり必要ないかー。
 そんなもんよねー。そう言うのが一番か。うんうん。やっぱり欲の持ちすぎは良くないわよね。
 何事も腹八分目。ううん、腹五分目程度が一番一番。
 大変な事あったら諦めるのも悪くない。挑戦するのも悪くないけど諦めるのも悪くない。
 そうよね。諦めたってそれってその人が選んだ道だもん。間違えじゃないわよね。
 誰かが何かを言えた義理じゃないって事よね。ま、アタシみたいに普通に生きようとする意思があれば誰も誰かを傷つけないし、誰も誰かに何も言わない。
 それってステキよねー憧れちゃうなぁー。結構人でなし的な考え方に思うでしょ? これが意外とそーでもないのよねー。
 例えば誰かをけなしたりする奴居るでしょ? そう言う奴も普通だったらどうなのかなってね。
 普通だったらそう言うのも無いのよね。だって差無いもん。差が無いってサイコー。
 平等って言うのがつまんないとかいう奴居るけどシンジラレナーイ、って感じよ。
 アタシ要らないわ。そんなの。楽しいだけで喜んでいるのなんて要らないの。
 刺激なんて要らないの。現実的に生きているアタシ達にそんな余分なものは必要ナッシング。
 生きていければいいんだもん。普通普通。普通普通。コレが一番。
 『ありもしない事に心躍らせているような余裕があるんだったら現実見ろ』って話。
 現実はアタシみたいな魔法少女なんか居ない。ちょっと前に流行った魔法使いの話だって、今の状態で噂話している奴いる? いないっしょ? だから魔法なんて言うのもなーっし。
 アタシが今居る『ココ』は夢現。
 アタシが生きて生きたい場所は『ココ』じゃない。
 普通の生活。朝早く目を覚まして、お風呂入って、朝ごはん食べて、お弁当持って学校行って、友達とバカ話して、大笑いしたり喧嘩したり、それで日永一日過ごして放課後の部活出て、終わったら帰って晩御飯食べたらお風呂入ってお布団の中でスヤスヤ朝まで一休み。それでいいじゃないのよ。
 『それ以上何を求めると言うのよ?』
 その程度で充分。いえいえ、それだけで充分。
 自分に無いものは無いでいいじゃない。自分だけが持っているならそれでいいじゃない。
 普通なら、それでいいじゃないのよ。他には何も要らない。そう言うことよ。
 と言うわけでバッサリ伐採しちゃいましょうかー。オッケー?」

 鎌が下げられる。で、結論した。ああ、そう言うことと結論する。
 つまりは目の前。銀色の雪が降り注ぐ中、巨木へ向かって大鎌を振り回しながら行く彼女はそういうことだったんだ。
 彼女は、典型的な『人でなし』なんかじゃなくて、ちゃんと自分の考えと自分の将来を見つめていたが故に、それを魔法少女なんてもので埋められた事に対し憤っていたんだ。
 それが彼女の正体。普通に過ごす普通の一般人。
 なんだ、何も変わらないじゃないの。掌引心香鶺鴒と言う女性の正体。理解出来ると意外とあっけなかった。

 そうよね。それが普通の人間の思考回路だもの。
 不幸な生い立ちの主人公に彼女は同情しない。そも、彼女には不幸な人間と言う定義が存在していない。
 そんなものはいないのではなく。自分には関係ない。そんな感じ。それが彼女。鶺鴒と言う女性の本質。
 それを、怒ったりはしない。そうなんだから仕方がない。
 彼女がそう決めている以上、彼女に何を言っても通用はしない。開き直りとは違う。彼女は普通の思考回路を持っているだけ。
 普通に生きたいと思っているだけの普通の一般人。魔法使いである私や、そっちの関係者が理解出来ないのは至極当然だった。
 彼女は根っからのこっち側の人で、私たち魔法界に関係するあっち側の人間とは根本的に異なった存在だったから。
 だから私には理解出来ない。掌引心香鶺鴒と言う女性を理解する事は出来ない。
 彼女は、こっちに属する心底の『普通の人』なんだから。

「ネミネもオッケーよねー? 魔法少女、よーやくお仕舞だよ? 魔法少女じゃなくなったら生きていけないとかは無いでしょ? サポートちゃんと一緒に行ったら? 超オススメ。仲良さそーだし。サポートちゃんもそれが望みなんじゃないの?」

 私は何もいえない。魔法使いである私が一般人である彼女に何を言おうが、彼女には通じない。
 特殊と普通の差異がココで最大限に生かされてしまう。
 魔法使い<私>では一般人<鶺鴒さん>を言い負かせない。
 住んでいる場所が違うから。存在している場所が異なっているから。だから、もし止めるとすればそれは、私ではなくて―――
 ふわりと、頬の風が揺れた。
 静々と歩み寄るのは魔法少女姿の嶺峰さん。その片手には引きずるように携えられた巨大な楯一つ。
 両の瞳を閉じたままで、嶺峰さんは私を追い越し、銀色の雪降る中、鶺鴒さんも追い越して、巨木の前に立つ。まるで―――木を守るかのように。

「ネミネ」
「鶺鴒様。お許し下さいませ。わたくしはそれを許容することが出来ません。どうか、何卒お考えの改めを」

 酷く悲しそうな顔。それで以って、嶺峰さんは鶺鴒さんの前に立ちふさがる。
 けれど、突貫楯は利き手には携えられていない。寧ろ逆手に逆側の手に持たれていた。
 それは、嶺峰さんが鶺鴒さんと敵対する気は無いと言う事を示しているようにも。

「ネミネー。アンタだって好き好んで魔法少女やってるわけじゃなかったでしょ?
 アンタも普通の生活出来る様になるよ? いいじゃないのよー」
「いいえ。鶺鴒様。何卒お考えを改めてくださいませ。
 この木を断ち切ることが鋼性種の方々を如何様にするのかはわたくしにも解りかねます。
 ですが、鋼性種の方々がわたくし達に何一つ興味を示さないと言うのならば、わたくし達があえて進み出る事は無い筈ですわ。
 それに、何より。この木を断ち切る事が本当にわたくし達を魔法少女と言う役割から解き放つ事になるのでしょうか。わたくしは、そうは思えないのです。いえ、思いたく。ないのです。
 鶺鴒様。どうか。どうか何卒、お考え直し下さい。
 鶺鴒様一人には致しませんから。わたくしも……一緒ですから。だから。お願いです。どうか、どうかっ……」

 それは、何時かの以前。私が言ってあげたことを彼女が精一杯の意思で告げたようにも見えた。
 拒絶の意思を見せたら、背中を叩いてあははと笑う。
 そんな、私が言った風ではなかったけれど、彼女の。嶺峰湖華と言う少女が見せた、精一杯の意思。
 一緒に頑張りたいと言う思い。彼女の、初めて自分から相手へと伝えてあげた、自分の気持ち。真っ直ぐな、自分の意思。
 鶺鴒さんの顔は冷笑になる。悲しげな冷笑。
 それが何を意味しているのかは解らない。ただ彼女は、あのマシンガントークを打ちかましていた時とは裏腹ら静かな面持ちで嶺峰さんの元へと歩み寄っていく。
 鎌は下段に。いつの間にか、その大きさを変形前の外状へと戻して。

「ネミネぇ。貴女、見かけ以上に強くなったのねぇ」

 肩が並ぶ。銀色の雪の中に、魔法少女が二人居る。
 神秘的な、でもどこか愛らしい姿の二人。
 並んだ肩が離れていく。鶺鴒さんは巨木を見上げ、背後の嶺峰さんには何も言わない。
 同様。嶺峰さんは顔を俯けたまま、背後の鶺鴒さんには何も言わない。
 すごく時間が流れていくのが早い気がする。銀色の雪が、どんどんと消えていく中で。

「でもねぇネミネ」

 遠い声がした。相変わらず、やる気の無い。

「以前の貴女の方が――――聞き分けは良かった、わっ!!」

 機械音。鎌が携帯用の形状から一瞬で大鎌の状態へと戻る。
 両肩のブースターが起動して、鶺鴒と言う女性の身体がねじ切られんばかりに勢いで反転したと同時に―――
 衝突音が響く。突貫楯と伐採鎌の激突。嶺峰さんの身体が跳ぶ。
 五メートル。十メートル。冗談みたいに、一瞬で私の後方まで彼女の体は吹き飛ばされた。
 体勢を整える必要は無かったみたい。
 嶺峰さんはつらそうな顔立ちのまま、巨木の前に大鎌を携えて冷笑したままの鶺鴒さんを見つめている。

「鶺鴒様っ!!」
「ネミネ。言葉は不要よ。
 止めてみたいならこの伐採魔法少女と言われた掌引心香鶺鴒、留めて御覧なさいな。
 まっ、月並みの台詞だけど―――ねっ!!!」

 鎌が廻る。頭上で数百回を一瞬で回転させ、その遠心力を込めた大鎌を鶺鴒さんは地面へと向けて叩き込む。
 叩き込むと同時に、彼女の身体が跳ねる。
 鎌による梃子の原理。鎌の刃を突き刺した部位を力点。鎌そのものをシーソーの様にして、鶺鴒さんが跳ぶ。
 狙うは一点。私の後方。階段の辺りまで弾かれていた、嶺峰さん。
  

第三十七話 / 第三十九話


【書架へ戻る】