第四十一話〜生〜(後編)


 気が付くのが早かったか。
 それとも、身体が先にソレに反応したか。
 彼女に最早ソレを計る事は叶わなかった。

 ただ血を吐いたまでは彼女は判断しきれた。
 また、自身が今倒れこんでいる場所があの、何時か吸血鬼騒ぎの発生の時騒がれた桜通りである事まで、彼女は判断しきれた。
 ただ、そこまでだった。それ以上の事を彼女は最早しきれるに足らなかった。
 指は動かない。筋の一本一本に足るまでが完全に死んでいることを彼女は認識する。
 同時に、肉体の半分が砕け散りかけている事にも、彼女は戦慄した。
 予測してはいたのだ。この結果を、神楽坂明日菜は結論していた。
 九割に近い十割。あるいは、十割に近い九割の率で自分は即殺されるという事を、彼女は心の裡で少なからず確信していた。
 そして、今。事実として、そうなっているのだった。

 恐怖はなかった。あったかもしれないが、最早ソレも尽き果てていた。
 後は殺されるのみ。殺されないかもしれないが、放って置けば死ぬ可能性は充分といえよう。
 だがその可能性は潰える。神楽坂明日菜は霞む視線の端に、限死を捉えた。
 自らの傍らに座り込み、死にかけの自分を見下ろしている限死。
 あれ程怒涛とも言える勢いで襲撃してきたソレは、穏やかなまでに、彼女の傍らにあった。

 限死が望めば、神楽坂明日菜は死ぬだろう。
 そして、限死は躊躇わないだろう。
 一息。誰が見ているも見ていないも関係ない。
 かの存在は、自らの存在として“敵”を排除する事しか脳内に持っていない。
 脳、と言う定義さえもないかもしれない。
 ただ。ただそうであるだけだった。そのようにするだけ。そうなるようになるまでであった。
 神楽坂明日菜は周辺を確認する。緑葉が色づく僅かな間の桜通りの桜の木。
 その端々に大剣は転がっていた。
 手を伸ばしても、届く事は叶わない距離。
 元々指先一寸すらも動けせないのだ。取れにいけないのは当たり前といえた。

 彼女は自分が死ぬのだという事をあっさり過ぎるまでに受け入れた。
 最早生き残って是非を問う事もない。
 ただ目前まで迫った圧倒的な死。それに順ずるを是とするだけであった。
 彼女は目の前のソレをあるものに当て嵌める。
 目の前の限死。限り在るものに死を加えるもの。
 そう言うものであったモノ。ソレは、彼女が思考するものととても似通っていた。
 それは自然災害。台風。竜巻。地震。津波。そんなものと、限死はとても似ていた。
 人間の定義など関せず、ただ在るがままに破壊を振りまき、それ以外では存在そのものを無い様かに見せ付けるモノら。限死と言うこの獣は、それに余りに似通っていた。

 神楽坂明日菜は若干ながら自嘲した。
 それじゃあ勝てないと。勝てるわけないじゃないのと。
 台風を剣では切れない。
 竜巻を刃では砕けない。
 地震を剣で押しとどめる事は出来ない。
 津波を剣で押さえ込むことは出来ない。
 これは、そう言うものであったと。

 指先一ミリも動かせぬ中、神楽坂明日菜と限死はただお互いにお互いの目を見ていた。
 無機質な眼差しの限死は神楽坂明日菜の異色なる瞳を。
 神楽坂明日菜の異色なる瞳は限死の無機質な眼差しを。
 何も考えることなどなく。ただただ、お互いに見詰め合っているのみであった。
 口が開く。限死の、鋭すぎるまでに鋭利な二本の牙を誇る大口。
 それが開口し、神楽坂明日菜の喉元へと迫った。
 恐怖心は無い。痛みは多分ないだろうと彼女は結論付けた。
 一撃で首を捩じ切られるのだろうから、断頭台にかけられるように死ねるだろう。ソレが彼女の結論であった。
 限死に躊躇いは無い。一撃であろう。
 遠慮はなく躊躇はなく感慨はなく容赦など一ミリもないだろう。
 ただそうするだけ。そうするだけであった。そうであるだけであった―――が。

 神楽坂明日菜の喉元へ剣歯が噛み付こうとした刹那であった。
 限死の身体が爆ぜる。正しくは、限死の足元。神楽坂明日菜のほぼ目の前に何かが飛び込み、それが爆ぜたのだった。
 目を動かす事すら億劫な状況で、神楽坂明日菜は声を聞くだけしかできなかった。
 だが、身体が激痛と共に動かされる。
 殆ど自分の力では動かせない体躯を、別の誰かが動かしている。彼女は、それだけを認識する事が出来た。
 神楽坂明日菜の体躯を持ち上げた者。
 忍装束に身を包み、しかし、その左腕をかばうように苦悶表情を浮かべて居るのは長瀬楓であり、限死の足元へ一撃を打ち込んだのは二名。
 先ほど神楽坂明日菜と別れた筈の、高音・D・グッドマン。そして、佐倉愛衣であった。

 三対一。状況から見ればそうか。だが数の差など限死には関係ない。
 ただ、限死は目前に現れた対象を敵と認識する。攻撃を加えたという事が重要なのだ。
 故に、限死は牙を剥いた。対象は現れた三者。もう、死に掛けの神楽坂明日菜になど構ってなどいなかった。

「―――愛衣。長瀬さん。神楽坂さんを連れてお逃げなさい。ここは私が―――受け持ちましょう」

 高音・D・グッドマンは自らローブを剥ぐ。
 その下。全身を包み込むのは、かのまほら武道会で使われた操影術の奥義。
 背後に現れた一際大きな人型がその編まれた魔力の強大さを物語っている。
 佐倉愛衣と長瀬楓は何も言えなかった。
 何を言えようか。単独で相手をすることは儘ならない相手であることなど、彼女は充分想像出来ている筈だ。
 だというのに、彼女、高音・D・グッドマンは単独で限死の相手を申し出た。

 理由は、至極単純でもあった。
 未熟な佐倉愛衣。腕を抉られ、完治せぬままで駆けつけた長瀬楓。そして満身創痍の神楽坂明日菜。
 状況下でまともな戦闘が出来る者など自身以外には居まい。それが高音・D・グッドマンの結論だった。
 だが、理由はもっともっと単純なものであった。
 そう。正直な話、高音・D・グッドマンは自らの犠牲で三人を生かそうとしていた。
 自分が生き残れるなどはや考えてなど居ない。
 四人で同時に逃げようが、高畑・T・タカミチに重症を加え、神楽坂明日菜にここまでの重症を加えた相手から逃げおおせる筈が無い。そう踏んだのだ。
 ゆえに、誰かが足止めならぬ足止めを行わなければいけなかった。そんな単純な理由。
 その役割を未熟な佐倉愛衣に与える事も。重症で駆けつけた長瀬楓に頼る事も。創痍に臥す神楽坂明日菜に頼る事もなかっただけの話。
 そんな、魔法生徒として自己より弱い一般人を守らなければいけないという純粋な思いだけがあった。

「お姉さまっ……」
「―――承知」

 佐倉愛衣は両目いっぱいに涙を溜め、しかし逃げるように駆け出す。
 追うように、長瀬楓もまた一礼だけ加えて立ち去った。
 残ったのは二者。正しくは一人と一匹。
 さらに正しく言うのならば、死ぬものと生きるもの。圧倒的な差の中。両者は向かい合っていた。
 ゆっくりとファイティングポーズを取る高音・D・グッドマンであったが、勝てるなどとは露ほども思っては居ない。
 不思議な事に、今彼女は神楽坂明日菜が考えていたのと同じ思いを懐いていた。
 即死するだろうという予感。だというのに、恐怖の無い心。不気味なまでに穏やかな、その内面。

 それを前にして限死は一切無情。吼えもしなかった。
 尤も、限死は『機能得限止』が『限死』となってから、一度として発声と言う行為を行っていない。
 必要ないからだ。
 限死は単独生命体である。単一性。唯我と呼ばれる、この世界においてただ一体のみの純粋な単独性生命体。それが限死である。

 故に声など、吼えるなど必要なかった。コミュニケーションと呼ばれるものを取る必要性がない。
 それが限死と言う存在の絶対的な唯一性。
 唯一つだけで事足りる限死は、群れを成して助け合いながら生きていく必要が『本当の意味で無い』限死は。それ故に、発声と呼ばれる器官を一切合切必要としなかった。
 高音・D・グッドマンが駆け出す。思い切り良く。
 限死は動かない。ただ一度目を細め、死に向かう少女を感慨無く見つめただけであった。
 桜通りの葉は、刹那の時に、一斉に散っていった―――

 その状況を、佐倉愛衣も長瀬楓も理解できなかった。正しくは理解しようとしなかった。
 彼女たちは高音・D・グッドマンに後方を託し、桜通りを抜けようと駆けていた筈だった。
 それはいい。そこまでは良いのだ。ただ一つだけあってはならない事が、目の前で起きていた。
 限死が居るのだ。後方。高音・D・グッドマンに任せた筈の限死が駆けて来た桜通りの一本の木の陰から現れ、佐倉愛衣と長瀬楓を見ている。
 それはありえない光景。あってはいけない光景。あっては、ならない筈の風景であった。

 佐倉愛衣も長瀬楓も考える真似をしなかった。
 考えればそれが答えになる為に考えなかった。
 限死が目の前に居る理由。僅か数十秒前に高音・D・グッドマンが任せて欲しいと言った筈の相手が、僅か数十秒後に目の前に再び現れた意味合い。
 二人は、それを考えるような真似はしなかった。
 ただ、佐倉愛衣の体は小刻みに震えている。
 解っているのだろうか。否。知っているのだろう。限死が再び眼前に姿を現した理由。
 だからこそ、彼女らは振り返らなかった。
 駆けて来た方向を振り返らなかった。
 風が撒く。彼女たちの背後から、一際強い風が吹いた。
 佐倉愛衣。長瀬楓。背負われている神楽坂明日菜。彼女らの前に、異常に紅い咲いていない筈の花びらが舞った。

「―――長瀬さんっ……こ、ここは……わ、わわ……私がっ……足止めをっ……し、しますから……!!」

 声が震えている。
 そんな彼女を励ますように、深紅に染まった花びらが彼女の顔を撫でた。
 それで。それだけで、少女の心は決まった。
 勇気が沸く。魔法使いの本当の魔法は勇気だと、彼女は自らが姉と慕う女性から教わっていた。それが心に芽生えてくる。
 ただし。目の前のソレには最早ソレさえ関係なかった。
 機能得限止だった時と、限死である時。認知出来るものがあまりにも違いすぎるのだ。
 勇気。それは人間にとって一番大切なものであった。
 大切なものであったが。限死には、それさえ関係なく、通用しなかった。

 それを佐倉愛衣は知っている。充分に承知していた。
 目の前の相手は想いや感情でどうにかできるものではない。力の差すら関係ない。存在として違うのだ。
 生存のみを最優先とする存在と、あまりにも俗っぽい人間と言う存在。その差が、彼女と限死のそのままの差となる。
 恐れたままで、佐倉愛衣は口の中で小さく呪文を紡いでいく。
 行くと同時に、一歩後ろに居る長瀬楓へ視線を流しす、その動き。
 それを、長瀬楓は読んでしまった。ここまで自分のアイコンタクトの才が恨めしいと想った事は無かっただろう。
 だがそれしかなかった。他に、撃つべき手段は皆無でもあった。

「―――つっ!!!」

 一息の元に、佐倉愛衣は箒を突き出す。同時に打ち出されるのは無数の矢。
 風で構成された魔法の射手が、その数実に七柱。限死へ向かっていく。
 それがコンクリート製の地面に接地し、地面が爆ぜたと同時に長瀬楓は林に向けて駆け出した。
 佐倉愛衣の方を振り返るような真似はせず。神楽坂明日菜を安全な場所まで運ぶべく―――自身を犠牲にして行く様にと。瞳だけで、精一杯の勇気を振り絞ってそう告げた少女の思いに応じたのだ。
 長瀬楓は駆ける。振り返りはしなかった。
 彼女は今まで自分が出したこともないような速度で木々の枝を駆け続けていく。

 ――――――――――――――――場所不明 林の中

 大きく視界の晴れる場所に長瀬楓はたどり着く。
 そこで、彼女は始めて振り返った。
 立ち上るのは白い閃光のみ。何故か音は無く、恐らく、あの光だけ見てあそこで何が発生しているのかなど判断できる人間など居まい。

「―――楓、ちゃん―――」

 背中からしたか細い声。それは、何時もは明るく、曇天を晴らすかのような太陽の様な声の神楽坂明日菜とは思えないほどにくぐもった声であった。
 喉は枯れ果て、肺は潰れているのだろうか。
 あの声はもう聞こえないのかと思わせるほど、神楽坂明日菜の声は暗く、重く、しかしはっきりと聞こえた。

「―――明日菜殿。大丈夫でござるか?」

 一先ず背中から彼女を下ろし、長柄楓は彼女の体の状況を確認する。
 否、しようとして、胸元の鎧を剥ぎ取った時点で気付いた。
 放って置いて良い怪我ではないと。
 ぐしゃぐしゃに拉げていた胸元のプレートの下。どす黒く変色した肌が見えるボロボロのインナー。それが甲冑の下にはあった。
 どれだけの一撃を浴びたというのか。
 長瀬楓には理解できなかった。神楽坂明日菜が魔力も気の補助も無くアレを相手にしていた事を長瀬楓は信じられず、しかし、この状況を見て信じらざる得なくなった。
 魔力と気の補助があったのならば、ここまでの被害は出なかっただろう。
 だが、神楽坂明日菜はそれを是とはしなかった。
 何故と思考する。だが答えが出ない。
 どうしてと考える。だが理解出来ない。
 そう。何故補助も何も受けずに限死と相対したのかの理由を知るのは、神楽坂明日菜唯一人だった。

「―――何故。どうしてで、ござるか」

 神楽坂明日菜はボロボロの顔で笑った。
 それを問う意味が解らないと言った呆けた笑顔。
 心安らげる笑顔であるというのに、長瀬楓は顔色を暗くした。
 何故笑えるのか。その意味さえも、理解できなかったからだ。

「―――どうしてって? ―――決まってるじゃん」

 全力で挑むって、決めたから。
 それが、血を吐くように神楽坂明日菜が吐いた言葉だった。
 それにどれだけの思いが込められているのか。長瀬楓には解らなかった。
 否。誰にも、誰一人としても神楽坂明日菜が何一つ補助も助けも使わず限死へ挑んだ理由など解るまい。
 神楽坂明日菜と限死。この二者の関係に介入できるものなどいなかった。

 ただ、一つだけ解ってもらいたいことがあった。
 神楽坂明日菜は心持でそれを想う。
 喩え誰にも理解されなくても良かった。
 自分でもなんて愚作だろうという事など、彼女には解っていたのだ。
 だがそれを死って尚、彼女は一人で挑み、剣と鎧以外の助けを使わずに限死に相挑んだ。
 そこに篭められたただ一つの想いを、誰かには理解して欲しかった。

 知って欲しかった相手は、多分。多分ではあるが、限死――――否、限止であった。
 人間の放棄。人間である事を辞め、本当の意味で何一つ理解出来なくなった存在への昇華。
 それを行った意味を、神楽坂明日菜は理解出来ていない。
 人間を簡単に、溝に捨てるように放棄した機能得限止。
 歓喜を。憤怒を。悲壮を想う感情を捨て。
 懐かしさを。ほろ苦さを。故郷を想う思い出を捨て。
 努力の上に。生きてきた上に。数多くの苦難の上に手に入れた知識を捨て。
 そして―――幼心から育て続けてきた精神(こころ)を、完全に投げ捨てた。

 だからこそ知って欲しかったのだ。
 人間と言うものを、もう一度見つめて欲しかった。
 全力で生きる人間を。己の命を全力で費やし、全力過ぎるまでに駆け抜けていく姿。
 醜く足掻き。無様にもがき。それでも生きようとする意志。
 どの生物もが持つ純粋な生き残ろうとすることに対する全力さ。
 限りなく人間が持つにはあまりに希薄なソレ。
 ソレをもう一度見つめて―――しかし、それでどうしてほしかったのかを、彼女は考えられなかった。

 けじめだったのかもしれない。
 生徒の不始末は教師の不始末と言うのならば。
 教師の不始末は生徒の不始末であるとすれば。
 神楽坂明日菜が、機能得限止に引導を渡すのは至極当然であり。

 長瀬楓はそれだけを知った。
 何時か機能得限止がいった言葉を思い出したのだ。
 そして解った。アレは、機能得限止だったモノなのだと。
 あそこまで変わってしまうのか。ああまでして生きたいというのかを長瀬楓は疑問には想うも、否定できなかった。

 誰一人、機能得限止なる男の心底を理解など出来ない。
 生んだ親にさえも理解させなかった。その思いを、一体何処の誰が理解出来るだろうか。

 ただ長瀬楓は一つだけ理解した。
 神楽坂明日菜と機能得限止に含まれているものが、酷く似通っている事に。
 全力であるという事。
 手を抜く事は無く、何時如何なる事であっても全力で成し遂げようとするその全て。
 全てが、神楽坂明日菜と機能得限止は似通っているのだという事を。
 肌蹴させた胸元に長瀬楓は包帯だけを巻いていく。
 間違えなく重度の内出血を引き起こしている怪我であったが、簡易の治療しか出来ない以上、それ以上の治療は出来なかった。
 少しだけ呼吸を楽にした神楽坂明日菜の頬を撫でると、長瀬楓はその手に握っていたカードを二枚、彼女へと手渡した。傷ついた女戦士の名が関された契約カード二枚。

「……それでネギ坊主へ連絡するでござるよ。
拙者は、愛衣殿を助けてくるで御座る。……っと、その前に。明日菜殿。失敬」

 ぺこりと頭を下げた長瀬楓は、神楽坂明日菜の体の上に赤い液体を撒き散らした。
 生臭い赤い液体は血液。しかし、人間の血液ではなく、獣の匂いが濃い自然界の匂いの濃い液体であった。
 そしてその手に添えられる二枚のカード。
 何時の間に戻っていたのだろうか。神楽坂明日菜の大剣は二枚のカードに戻っていたのだ。それがその手に添えられる。

「……彼奴は鼻が効くでござろうから……熊などの血を混ぜ合わせたものでござるよ。
 ……拙者らが帰ってこれなかった時は、じっとして朝を待つでござるよ。恐らくは、平気でござろう。然らば」

 長瀬楓は姿を消したかのように白い閃光の上がる方へと目掛け、再び木々の枝の上を駆けて行った。
 神楽坂明日菜は、それを見上げて見送る事しか出来なかった。そして長瀬楓の言葉の奥を読む。
 帰ってこられなかった時。彼女は、もし、も。万が一、も言わなかった。
 長瀬楓は知っているのだ。おおよその予想。自らは帰れないと言う事。
 限死を知る者ならば誰もが想おう。
 生きて帰れないという不吉な予想。現実となる、厭な予感。
 長瀬楓もまた、それを懐いたに過ぎなかった。

 血を吐く。神楽坂明日菜は自分の体を見下ろした。
 鎧は既にボロボロであった。特に腹部と胸元。上半身を多い尽くしていたプレートは完全に砕かれ、自身の柔肌を見せていた。
 下着も何もつけていなかった胸元を覆い隠すようにして巻かれているのは包帯。
 その下の肌。お世辞にも大きいとはいえない胸の辺りが、どす黒く染まっているからである。

 幸いにも具足と小手は無事であった。
 身体が損傷している以上、無事とはいえないのだが再戦するには充分すぎる装備だと彼女は思い、立ち上がろうとした。
 だがそこまでだ。神楽坂明日菜は立てない。両足を奮い立たせようとして、そのまま豪快に腹這に倒れ込む。治療したばかりの胸元を思い切り地面へと叩きつけつつ。
 涙ながらに、神楽坂明日菜は唇を噛んだ。
 悔しかったからではない。犠牲を出してしまう事に腹がたったのだ。
 己一人で相手をし、己一人が死ぬべきだったと彼女は本気で思い、そうなる予定でいた。

 だが、彼女は今一人だけ助かろうとしていた。
 自分の勝手で挑んだというのに、それに関係ない人間まで巻き込んでしまった。
 神楽坂明日菜は、ただただそれが悔しくて堪らなかった。
 腹這になり泣き喚く一歩手前の神楽坂明日菜の視界に、入ってはいけないものが入った。
 彼女が持ち続けていたもの。この日この時この瞬間が来るまで待っていたかのように、ソレは、神楽坂明日菜の倒れた目の前にあった。
 拳銃型注射器。黄金の液体が含まれたシリンダーが装填されている物。
 それが、恐らくは倒れた拍子であろう。神楽坂明日菜のポケットから飛び出し、今この時。彼女の目の前に現れたのだ。
 迷いは無かった。限りなく迷いは無かったといって過言ではない。
 そも彼女は想う。想ってはいけない事を。人間の尊厳として考えてはいけない事を。
 しかし、生きとし生ける者が持つ純粋なまでの思いを懐いた。

 そして思考する。これを持ち続けていた意味を。何故この時まで持ち続けたのか。
 手渡された時に、機能得限止と言う男を限死と言う存在へ昇華させてしまったのとまったく同じものであると知っていながら、そして、人間である事を放棄し、今の状態になるような真似を嫌悪したにも拘らず、それを呼び起こさせるコレをなおも持ち続けた意味。
 持っていたからには理由があった。
 持ち続けていたからには意味があった。
 破壊せず、見つめるたびに使わない。使うもんかと思い続けてきた事には―――可能性があったから。
 本気で持つ気などなければ、貰った瞬間に放棄した筈。
 使わないと本気で想っていたのならば、当の昔に粉々に砕いていた筈。
 それを成さずに持ち続けた意味。
 それを成さずに、今日、この時まで可能性を捨てきらなかったその訳。

 片手でそれを彼女は握る。腹這の状態で上体を上げ、声にならない声を出す。
 苦悶の声。絶望に満ちた声ではなく、壮絶な叫びだった。
 そして幻視する。真白の世界で神楽坂明日菜は眼前に立つ姿を幻視していた。
 機能得限止が、神楽坂明日菜を見下している。
 相変わらずの無表情。口を開く事も無ければ、感情を込めたような表情をする事もない。
 ただ、ただ片手にそれを握り締めた神楽坂明日菜を見下し続けている。
 神楽坂明日菜は漸く機能得限止と話した時の意味を完全に理解しきった。
 そして、自分がどの様なものなのかを理解しつくした。
 神楽坂明日菜と言う少女。何故カードに書かれた名が『傷だらけの女戦士』なのか。
 機能得限止が告げた妙見の菩薩の意味。それを、知ってしまった。

 そう。神楽坂明日菜は自分が傷つくのを是とはするくせに、他者が傷つくのを是とはしなかった。
 誰かの為に本気で怒る事はあっても、自分の事で本気で怒った事など無かった。
 だから傷だらけの女戦士。自分の為に傷つくのではなく、誰かの為に傷つく戦士だった。
 そして、妙見の菩薩。その意味も、漸く理解に至れた。
 綾瀬夕映から聞いたのではなかったか。妙見の菩薩とは、慈悲と憤怒の混ざった仏だと。
 悲しみと怒り。神楽坂明日菜は常にそれで力を発揮してきた。そして、それではダメだといった機能得限止の全て。
 神楽坂明日菜は初めて機能得限止の事を尊敬した。
 そこまで見ていたというのか。自分の事を。機能得限止と言う何事にも無感情の副担任は、だがしかし、確かに教師として、生徒の事を見つめていたと言うのか。

「――ああ」

 ソレは解らない。もう、ソレは解りはしない。だが。
 幻視した機能得限止を見上げて、神楽坂明日菜は嬉しそうに笑う。
 そして想う。挑んだ意味を。限死に挑み、一人を選んだその意味を。
 汝、獣在れかし。その言葉の意味を理解出来る。
 だが、彼女はけれどと思考した。
 自身は変わりはしないと。喩え獣であっても、神楽坂明日菜は神楽坂明日菜なのだと。
 機能得限止。その男はそれを告げていたのだった。
 獣であっても、何であっても神楽坂明日菜は神楽坂明日菜であり、他の何人でもない。ただ一人の、神楽坂明日菜なのだと。

 膝立ちになり、少女は幻視した機能得限止をもう一度見上げる。
 見上げた時に機能得限止の姿はなかった。在ったのは、高らかに掲げられた拳銃型注射器を構える己が両腕。
 変わらないまま、神楽坂明日菜は変わっていくだろう。
 機能得限止と同じではないが、深い意味では同一のもの。
 唯一性を誇る、たった一つの神楽坂明日菜であったものへ。第一世代を超え、より第二世代へと。

 私は私で、私は、私の為に解放さなくちゃいけない。

 その決意を以って―――神楽坂明日菜は、己が胸元へソレを叩き込んだ。

 ――――――――――――――――――――――――――

「あ―――はぁ―――」

 今まで、佐倉愛衣とて魔法使いの社会がどういうものかなど知らなかったわけではない。
 魔法使いと言うのは常に不可解に挑むものである。
 故に、何時如何なる所でどの様な事が起きても何人を責める事は出来ない。
 佐倉愛衣はそれを知らなかったわけではない。
 覚悟もあった。魔法使いと言う役割に降りかかる不幸と齟齬。それを理解していなかったわけではない。
 ただし。一つだけ理解できていなかったというのならば―――それは、何時如何なる時即死しても文句は言えないと言う事に他ならなかった。

 ボロボロの制服。
 髪留めの外れ、ボサボサになった髪。アーティファクトの箒は圧し折れ、体で傷のついていない所は無かった。
 それでも持たせた事を誉めて欲しい。
 彼女は実に1分限死相手に時間を稼いだのだ。その1分がどれほど壮絶なのかを語るまでも無かろう。
 魔法の効かない相手に1分。動きを捉えきれない相手に1分。
 そも、存在として間違えている領域に手をかけている相手に、1分である。
 佐倉愛衣は大きく呼吸を乱す。喉元を割かれかけたのだ。
 だくだくと流れいく血液は全身へ酸素を供給する量を超えつつある。
 それ故、どれだけ呼吸を正そうと息を荒げても、呼吸はまったく整はなかった。
 限死は圧し折った箒の柄の部分を食い砕く。
 眼前に立つ少女は見ておらず、その奥を見つめている。
 限死は知っていたのだ。自己の前に立つものは排除の意味は無いと。そして、真に排除すべき対象は今から来るものだと。
 そうして、限死が排除しなければいけないものが現れた。
 長瀬楓。片手を庇いつつ現れた彼女は、満身創痍の佐倉愛衣の真横に立つ。

「あ―――ながせ、さん。神楽坂さんは―――ご無事で?」
「―――無事でござるよ。愛衣殿は?」

 にこりと笑む少女の笑顔に血色は無い。
 極限まで体力と血液を失いつつある状況。
 とても戦い続けられる状態ではない。長瀬楓でなくとも、それぐらいは理解出来る状況であった。
 長瀬楓もまた、限死が警戒している以上にこの状況下では役に立たなかった。
 片腕は機能せず、あの巨大手裏剣も使えない。ましてや相手は本能的に行動する存在。よって分身の術も通用はしないだろう。
 加えて壮絶なまでの動きの素早さを長瀬楓は知っている。
 犬上小太郎と高畑・T・タカミチを助けた時に見た限死の異常加速。それには、縮地も通用はしないだろうという事を。
 限死の口が一際大きく開く。
 神話に聞くフェンリル狼と言う狼は、曰く、口を開けば天と地ほどあったという。
 それほどではないが、一撃で両者の首を引き千切る程度は容易かろう大口。

 長瀬楓は酷くスルーな世界を垣間見た。
 限死の身体が動くのだが、どういう事か、彼女と佐倉愛衣の身体が動かないのだ。
 普段ならば即座に反応して行動を始めるというのに、その行動が起こせない。
 その理由を、長瀬楓はあっさりと見極めた。
何のことも無い。限死の動きが早すぎて、視覚だけがついていけている状況であるだけの話であった。
故に自己と傍らの少女の動きは遅く、限死の動きだけが尋常ではなく早かっただけの話だ。
 恐らくは一撃。かの高音・グッドマンと同様だろう。
彼女がどうなったかを二人は見ていない。だが少なくとも無事ではない事は確かであった。
それと同様か。それ以上を以って、二人は即死する。それが現状況での決定稿であった。

 傍らにまで限死が迫る。
 剣牙虎の様な牙を二本光らせて迫る姿に、両者は反応できていない。
 ただ呆然としているだけであり、ただただあっさりと、このまま自分たちは殺されるのだという事を受け入れた。
 確実に殺された。限死は動き出してから一歩しか跳躍していない。
 一歩で、凡そ数十メートル間をまったくないものにしたのだ。
 縮地でも可能ではあるが、その速度が桁を外れていた。
 長瀬楓も、長距離瞬動は出来るが――――限死のソレは、瞬動特有の事前動作もない。
 自然な動きで、限死は瞬動を上回る加速で、動けるというのが答え。
 人間では判断できない速度。それで限死は移動して見せたのだ。

 風が巻いたのは、完全に限死が長瀬楓、佐倉愛衣の傍らに到達した後からであった。
 風よりも早かったというのだ。
 光か。否、光ではない。光に近いのではない。光と言う定義ですらない。
 ただ単純な加速を行って、それが、人間の概念には当て嵌まらないだけの話。その程度の、話だった。
 急激に世界の速度が上昇する。爆風じみた風圧が両者を襲った時には既に遅い。
 限死は真横。その牙と両目を光らせて―――しかし、その牙と爪が両者にかかる事は、なかった。
 火花。二人は頭上、特に長瀬楓は、異常に近い場所で火花が散った事を認識する。
 だが見上げているような暇など無かった。ただ、限死の爪と何かが勝ち合っている。そんな予測だけが立ち尽くしながら頭の中を循環していた。

 長瀬楓の予想は正しかった。
 彼女らの頭上でかち合っているのは紛れもなく限死の単一性元素肥大式で構築された爪と、かの『ハマノツルギ』と呼ばれるアーティファクトであった。
 大剣が爪を弾く。弾いたと同時に、長瀬楓らの鼻先一寸を断頭台が凪いだ。
 壮絶な“振り”である。その鍛えられあげられた肉眼で長瀬楓が数えられたのは二回のみ。
 だが、正確には六回、その大剣は二人の正面で振り下ろしと切払いが繰り返されたのだ。
 限死はそれを高く飛んで交わし。桜通りの脇に均等になって設置されている街灯の上からその場所を見下した。

 腰を抜かす佐倉愛衣とそれを労わるかのように腰をかがめた長瀬楓の横を、ガチャリと言う音が通り過ぎた。
 一歩進むたびにカチャリカチャリと鳴るソレを長瀬楓は知っている。先ほどまで一緒に居たクラスメイトが着込んでいた甲冑の音。
 足元から見上げていく長瀬楓。
 重々しく進められる両足。二本の巨大な剣を引きずるようにする両腕。
 しかし、彼女の目が完全に背後を捉えた瞬間に、その異変は起きた。
 結論から言おう。その姿は紛れもなく神楽坂明日菜であった。
 彼女が想う想い人から貰った鈴の髪留め。それで見事な臙脂の髪を結った後姿は、紛れも無く神楽坂明日菜に間違えない。
 何時もどおりの神楽坂明日菜の背後。だが、その異変は残酷なまでに起きた。

 鈴が爆ぜた。髪を結っていた左右の鈴が撥ね、二つ一組になっている一個が長瀬楓らの足元まで転がってきたのだ。
 だが、彼女たちはそれを確認しなかった。目は神楽坂明日菜の頭部に注がれているからだ。
 在ってはならないものが、神楽坂明日菜の頭部から『生えて』いた。
 耳。猫か、何でも良い。兎に角人間には在ってはならない生物の耳。
 それが、皮膚を突き破ったのか。不気味な音をたてて、頭部から左右へ向けて生えていたのだ。そして、それが鈴を爆ぜさせたのだった。
 神楽坂明日菜は俯いていたかのような顔を挙げる。
 目前には限死。彼女はソレだけを認識した。開かれた両目には異色の違いはもう無い。
 ただ、人間的な光の奥に縦の黒目が僅かに入っている程度だ。
 そしてその胸元。辛うじて包帯が胸元を隠している程度にバラバラになった包帯の下は、すでに黒ずみなど無かった。
 低い唸り声はどちらのものか。向かい合った二匹の獣の間に、僅かな唸りが響いた―――

 
 ビキリと言う音は神楽坂明日菜―――でありかける者が発した音である。
 何処からしたのか。口。口の中。そうであったものが口を開く。その歯が伸びているのだ。
 獣の牙に紛れなく。神楽坂明日菜と言う人間のカタチを辛うじてとどめている『ソレ』の牙は、少しずつ少しずつ伸びていた。
 限死の口も大きく開口する。二本牙を光らせ、前傾姿勢となるその体勢。
 何時相手の飛び掛ってもおかしくは無い、その状況。同様、神楽坂明日菜の形をした何かは似た体制をとった。
 上体を前へ突き出すような体勢。二本の剣を引きずりの逆手から順手へと戻し、限死とにらみ合うのが早いか。

 瞬間。ふわりと数ミリ小石が舞う。

 決着は、瞬間でつく。

 両者の足元が爆ぜた。
 尤も、見ている人間には爆ぜた瞬間など目にも映らなかっただろうが。
 最早加速と言う定義すら生ぬるい。
 表現方法の存在しない非常識な移動。
 神楽坂明日菜の形をしたソレと、機能得限止であったモノ。
 両者が佇んでいた位置が爆ぜ、両者は互いに相手へ向けて驀進を始めた。

 振り上げられる二本の大剣。
 振り絞られる右の豪腕。
 その状況で、両者は跳んだ。
 数センチの跳躍。ほぼ同格の速度で飛び出し、跳び上がる。
 交差点は空中。桜通りの真中で、巨大な剣と巨大な豪腕がぶつかり合うと同時に―――両者の姿が、消えた。

 二人が激突した位置より学園の端と端へ向かって砂煙が上がる。
 否。まだ砂煙は上がっても居ない。砂煙が上がるより早い。二人の行動は、そんな行動だったのだから。
 二人は互いに学園の橋と橋へと吹き飛んでいる。
 ある一点の焦点より延びた延長線。神楽坂明日菜の形のソレは以前エヴァンジェリンとやりあった橋の上に叩きつけられ、橋は大きく軋んだ。
 崩れ落ちる一歩手前まで、小さな体躯の人間が飛んできただけでそうなってしまったというのだ。

 片や機能得限止であったモノはその対角線上に居た。
 正しくは、其処まで弾かれたのだが。爪で地面を大きく抉り、その飛ばされた衝撃を緩和して機能得限止であったモノは橋の方を睨みつけた。
 同様、橋の上に転がった神楽坂明日菜のカタチのモノも、橋の対角線上を睨みつける。
 お互いに姿など見えはしない。
 だというのに見ていた。お互いに学園の端も端に飛ばされておりながら、お互いはお互いの跳ばされた位置を完璧に把握していたというのだ。

 橋の端が崩れ落ちる。つり橋と言う頑強さなど微塵も感じさせない。
 橋の端。麻帆良の入り口に当たる箇所は、あっさりと崩れ落ちていく。
 神楽坂明日菜のカタチのソレの跳躍。橋と平行になって、ソレは空を駆けるかのように跳ぶ。
 同様、対角線上の機能得限止であったモノも跳ぶ。
 抉ってきた地面の上を水平に。一歩を以って、飛行のように跳躍していくのだ。

 学園を見渡せる所からその様相を見れば、学園の端と端でガス爆発でも起きたかのような爆煙が挙がっただろうか。
 再び激突した位置に戻るかのように。二匹は、やはり行動によって発生する空気の移動。
 立ち上る筈の砂煙。なる筈の轟音。それらが全て発動するよりも早い、光にも近い加速で行動していた。
 二歩目を神楽坂明日菜のカタチのソレが踏み出す。
 その時点で彼女は学園の半分近くまで到達していた。だが、その二歩目を踏み出し、睨みつけていた視界が閉ざされた。巨大な物体。ソレが彼女の形のソレの視界を塞いだのだ。

 それは建物。人間から見れば尋常ではない巨大さの建物。
 麻帆良特有西洋建築の美意識を残した巨大なレンガ造りの建物が、一棟丸々『投げられたというのだ』。
 それを成したのが誰かなど、言うまでもない。機能得限止だったモノがそれを成した。
 神楽坂明日菜のカタチのソレと同様に飛び出していた機能得限止であったモノ。
 同じように地面ギリギリを跳んでいたモノは、その加速のまま建物の根元に腕を叩き込み、その建物を基礎部から丸々一棟抉り取り、神楽坂明日菜のカタチのソレへ投げつけたのだ。
 ソレを鼻先数寸控えておいて、神楽坂明日菜のカタチのソレは回避する仕草も何も見せなかった。
 ただ、両手に握られていた大剣の右の一振りをみねうちの様に刃を返す。
 そして、神楽坂明日菜のカタチのソレは信じられない事を成して見せた。
 剣を一つにしたのだ。元々片刃であるその大剣。
 マスターカードとコピーカードの二枚を使って想像した二本の『ハマノツルギ』。その“みね”と“みね”をお互いに合わせ、両刃の大剣へと形態を変化させたのだ。

 それは本能的なものであった。
 そして、二本の大剣もソレに応じた。二つの柄は一つになり、マスターとコピー。二枚のカードより生み出された大剣は一振りの剣となる。
 彼女の身長を大きく上回る巨大剣。鉄の塊と呼んでも過言ないような巨大な両刃の大剣。彼女は、ソレを両手で構えると――― 一息もつかず、叩き落した。
 建物は、髪を断ち切るようにあっさりと両断された。
 瓦礫は左右へとび。神楽坂明日菜のカタチのソレは凄まじい勢い。大剣を叩き落した勢いに任せるまま、凄まじい勢いで縦回転していた。
 彼女はその勢いを緩めない、緩めずに、瓦礫を一つ一つ弾き――― 一際鋭い豪腕の爪で漸くその勢いをとどめた。

 瓦礫飛び散る中。否、寧ろ瓦礫そのものの中で両者は無機質な眼差しのままににらみ合う。
 右の豪腕の爪と、両手持ちで振り下ろされた一本と為った大剣の一撃。
 それがかち合ったのはほんの一瞬。両者は同時に離れ、砕けた瓦礫を次々移って跳んでいく。
 端と端から跳んだときの勢い緩める事無く、あの、白い岩の塊浮かぶ空目指して。
 麻帆良の空に異様の影二つ。一匹は白黒の虎か狼か獅子か猫か。
 何れにも該当しない、しかし何れの全てが該当する生物の特性を持った装甲持ちの巨大な獣。
 片やもう一匹。頭から大きな獣耳を生やし、両目には獣特有の縦の虹彩が入った馬鹿でかいとしか言いようの無い大剣を従えた少女の形をした獣。
 空中でお互いの爪と剣がぶつかり合う。目にも留まらぬ速さと言えば良いのか。
 尤も見えている人間などいまい。よって、目にも止まらぬ速さと言う定義には語弊がある。
 正しくは、人間の定義には当て嵌まらない速度である。ソレを以って両者は大剣と爪を叩き合わせていたのだ

 両者の体は大きく捻られる。お互いに繰り出された一撃を弾きあい、その衝撃を利用した空中での反転。
 神楽坂明日菜のカタチのソレはその勢いのまま両刃の大剣を振り上げ、機能得限止であったモノはその勢いのまま左の豪腕の爪を振り下ろす。
 結果、神楽坂明日菜のカタチのソレは壮絶な速度で落下していく。
 機能得限止であったモノは更なる高みへ目指して上昇していく。先の激突同様。お互いはお互いの最高速度を以って相手の武器にお互いの一撃を叩き込んだ。
 その衝撃で、両者の体は弾かれたのだ。先と同じだ。学園の端と端に弾かれたと同じ。
 落下中の神楽坂明日菜のカタチのソレは空中で体制を整え、頭部を上空へ。脚部を地面へ向けて接地した。
 クレーター。まさに隕石か、重量のある物体が高速で地面へ落ちた時に発生するそれが完成する。
 そのクレーターが完成しつつある中で、神楽坂明日菜のカタチのソレは上空を見上げる。
 同様。機能得限止だったモノも地上を見下ろしており―――完全にクレーターが出来上がるよりも先に神楽坂明日菜のカタチのソレは再び上空目指して跳んだ。
 落下のときの速度を上回る加速で、再び空中へ向かったのだ。

 瞬間でソレは機能得限止だったモノに並び、剣を振り下ろす。
 空へ跳んだ時の勢いを空中で回転する事で剣に載せた一撃は、たった一体の獣へ打ち下ろしと言うカタチで費やされ―――機能得限止だったモノは地上へ向けて落下し始めた。
 神楽坂明日菜はソレを追う。
 どの様に追うのか。落下しているモノを追うには足がかりが必要である。その足がかりは何処に在るのか。
 簡単である。神楽坂明日菜は持っていた大剣を空中へ放り出し、その柄に取り付けられていた符状の物を掴み、大剣を足がかりにして、地上へ向けて跳んだ。

 一足早く地上へ到達する筈だった機能得限止だったモノ。
 それは時計台の壁面にしがみつく事で地上への落着を回避する。回避するが、機能得限止だったモノは其処で動きを止めはしない。
 直に動く。即座に反応し、時計台から空中へと跳んだ。
 何故か。理由は容易い。既に神楽坂明日菜のカタチをしたソレが大剣を振り上げて、落下していたからだ。そして、そのままに突っ込んで来ていたからに他ならない。
 機能得限止だったモノが離れたと同時に、神楽坂明日菜のカタチをしたそれが両刃の剣を横薙ぎに振るう。
 限界まで振り絞った弓の弦を解き放つかのような筋の動き。そこから横薙ぎ一閃に振りぬかれた一撃は時計台を切り払った。
 真中から上下に両断。落下の加速のままに振るわれた一撃は、その程度充分だった。

 両者はそのまま上下二段に断ち切られた時計台の設置している方を駆け下っていく。
 なお、神楽坂明日菜のカタチのソレが切り払った上段は今だ空中にある。
 落下すらしていない。その中で両者は壁を駆け、地面へと向かっていたのだ。
 両者が同時に地面に接地したと同時にかの者らの間に火花が散る。
 降りぬかれる剣戟の嵐。襲い掛かる爪牙の渦。それが鬩ぎあっているのだ。
 爪と剣。お互いにお互いが存在し得ないもの同士で構築されている二つのぶつかり合い。
 そのまま両者は町並みに入る。西洋建築物の立ち並ぶ住宅街。
 だが両者にそんなものは関係ない。路地から路地を駆け回り、壁を足がかりにして屋根の上を行くという隠蔽さも無い。あるのはただ一つだけだ。

 両者に感情があるとする定義でこれから先は行う。
 ただし、感情といっても両者の間にある感情は憎悪ですらないし、怒りですらない。
 いわばソレは敵意。人間として当て嵌めてだが、両者の間には敵意と言うものだけがある。
 無論。それは神楽坂明日菜のカタチをしたソレと、機能得限止だったモノに理解は無い。
 ただ、一番近い、辛うじて一番近いと想われる感情が敵意と言う純粋なものであるだけの話だ。
 実際には両者は敵意と言う感情は無い。本能的に相手を相手として定めているのみ。そんな所だ。

 したがって。両者には慈悲は無かった。
 容赦もなかった。感慨も無い。躊躇など以ての外。そう、この両者には―――例外など存在しない。
 住宅街に突入した両者が過ぎ去った位置から爆煙が上がっていく。言ったではないか。例外などない。戦う場所に例外などない。
 そも、人間には両者の動きなど捉えられない。人間と言う存在である以上。機能得限止言うならば、人格。精神。知識。記憶。何れ一つにでも該当する存在はこの動作を観止められない。
 真の人外。そういったものを持たないもの。人間では想定する事が出来ないもの。そういったものでしか、コレは最早追いつくことの出来ない動作のぶつかり合いであった。

 一軒の家屋を叩き壊して現れた機能得限止だったモノ。
 その真横から巨大な刃物が横切ろうとしていた。だがソレを甘んじて受けるほどソレは甘くは無い。
 軽い跳躍。その巨大な体躯でありながらあまりにも身軽な動きであった。
 両刃の大剣が跳んだ機能得限止だったモノの毛先一本も掠らずに通り抜け、降りぬかれる。
 それでその家屋は上下に二分された。その家屋だけでない。剣を振り抜いた場所が悪かった。そこは、路地。あまりにも巨大な大剣を振り抜くには狭すぎたのだ。
 結果。神楽坂明日菜のカタチをしたソレが剣を振り切り、体全体を独楽のように回転させた時には、周辺の家屋は二分されていた。
 見事なまでの二分。上下に割かれるというのはこう言うことだと認知させるには十二分な一撃。

 その振り抜かれた剣の上を一度跳躍し、機能得限止だったものは家屋の上を行く。
 崩れ落ちる刹那の間の家屋の上を行くのだ。無論、神楽坂明日菜のカタチのソレも追う。最早障害物にしかなりえない、自らが切り裂いた所為で崩れ落ちようとしている家屋を真直ぐに突っ切り、崩れ行く家屋の屋根を行く機能得限止だったモノを追う。
 そしてかち合う。爪と剣。魔力で編まれた物質剣と、単一性の元素から構築された物体爪。
 ある意味ではまったく以って同じ存在である二つがぶつかり合い、そのまま屋根を降りてもかち合い続ける。
 二つがかち合ったまま、両者は速度そのままに―――かの桜通りまで戻ってきて、初めて距離を開いた。
 初め激突する以前のように。
 長瀬楓と佐倉愛衣。神楽坂明日菜に似たものは両者の前に、機能得限止だったモノは、誰も待たない孤独の場所に。互いに離れあって。

 コツンと。小石が落ちた。

 二人が居る。長瀬楓と佐倉愛衣。両者の目に今の攻防は見えなかった。見える方がおかしい攻防だった以上、見えない彼女たちは正常である。
 単純に彼女たちは、神楽坂明日菜であろう者の足元からふわりと数ミリ浮かんだ小石が刹那の間に落ちるまでの間に自分たちが通うこの学園であってはいけない事があってしまった事を認知するだけで精一杯だった。
 だが、長瀬楓は辛うじて見てしまった。
 もっともソレもコマ落としに近かったが。彼女は小石が数ミリ浮かんだと同時に神楽坂明日菜と限死の姿が消え、瞬時に現れるところまでは確認できていた。
 ただ、神楽坂明日菜と思わしき人物の持つ剣が片刃の二本から両刃の一本に変わっている事。
 そして、両者の身体が消えたとほぼ同時に学園のあちこちで上がった爆煙、砂煙、轟音爆音の正体が何なのかまでは―――掴み切れなった。
 目前には二体。大剣を構えた神楽坂明日菜に似た何かと、機能得限止であったモノが見合っている。
 両者は動かず、ただ―――学園中を薙ぐ様な強風が二人を扇いだ。

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