第四十二話〜死〜(前編)


 月が白い夜であった。彼女は窓の外からその月を見上げていた。
 満月。彼女の力が最大に発揮される時である。
 普段ならば高揚する筈だと言うのに、今の彼女の胸にソレは無かった。
 あるのは虚無感と、深い深い孤独感だけ。
 神楽坂明日菜は行き、今まさに彼女が怨敵と定めた機能得限止とやりあおうとしている時であろう。彼女はそうとだけ推測した

 薄いヴェールだけを身に纏い、少女は月に見入っていた。
 久々に落ち着いて眺める月は美しく。しかし、零れ落ちた涙のように孤独に輝いていた。
 自分も同じようなものかと、少女は笑う。
 最後の笑顔にも似た朗らかで和やかな笑顔。
 普段の自嘲や、嘲笑の笑みではない。純粋に可笑しくて笑む、少女の微笑であった。
 ソレを浮かべ、遠い過去と、近い過去。
 近い未来と、遥か遠い未来。
 二つの思いは叶わなかった。現実は、少女を許さなかっただけの話だった。
 ソレを不幸だとは少女は想わない。
 むしろ、自身はそれだけの重罰を受けるだけの身である事を彼女自身が知っている。故に、この結末を彼女は呪わなかった。

 ヴェールを脱ぎ捨て、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは裸体のままクローゼットの中に入っている服を全て外へと投げ捨てていった。
 黒いボンテージ。黒いゴシックドレス。
 少女の出で立ちを髣髴させる、あの学園祭で着ていた服も外へ放り、唯一着。普段のエヴァンジェリンを知る人間ならば、誰一人想像も付かない様な一着のドレスを彼女はクローゼットの奥の奥から引き出した。
 そして両目を閉じ、愛しそうに頬を擦りよせる。
 かつての何かを感じるように。かつての、本当の意味で幸せだった時を振り返るように。
 ―――――――――得られなかった愛に。母の温もりに、触れるように。

 彼女は豪奢な下着も何も無く、そのドレスを袖に通していく。
 幸せそうに微笑みながら。何かを振り切ったかのように。
 振り返ったものに縋るような仕草を篭めて、ただただ、その白いドレスに袖を通していった。
 そして着終わる。何も変わってなどいなかった。そのドレス。
 中世西欧の技法が取り込まれた縫い目を持つそのドレスは、彼女の両親からの贈り物だった。
 彼女が九歳の誕生日。このドレスは送られてきた。
 おめでとうと言うメッセージカードと共に送られてきたそのドレスに、彼女は真っ先に袖を通した。
 嬉しかったからだ。最早顔も覚えていない両親からの贈り物。大好きだったはずの母と、頼りがいの在るであろう筈の父。
 その二人から送られてきたドレスを、誕生パーティーの最中であるにも拘らず、彼女は一人駆け出し、自室でその服を眺め続けた。
 鏡の前で何度も何度も振り返り、何度も何度も微笑んだ。

 そして今も同じ。
 パニエの入ったふわりと方錐形を描くスカートの裾を抓み上げ、彼女はくるりと回りながらステップを踏む。
 両目を閉ざし、華麗に廻る少女の様相は美しい。
 だが、今その姿を観止めれる者は居なかった。
 唯一人。ベッドの上に腰をかけたかの様子のまま動けないチャチャゼロと言う従者を除いては。

『―――マスター。ソリャ』
「ああ。お前にも見せた事はなかったな。これは私の最後の思い出の欠片だよ」

 エヴァンジェリンはたった一人の観客の為に舞った。
 社交界の令嬢の如くスカートの端を抓み一礼をして。
 観客は勿論、ベッドの上に腰掛けた様子のままの従者。
 賛辞も感想も何もいらなかった。ただ見てほしかっただけであった。
 この時彼女は僅かに後悔した。神楽坂明日菜。かのクラスメイトにも見せてやれば良かったという後悔。

 だが。と彼女は笑う。
 また見せられるかもしれないのだから性急になる必要も無い。そう踏んだのだ。
 お互いに同じ場所へ送られたのならば、其処でも充分、大笑いさせてやるほど見せてやれる。
 彼女はそう想って笑い、優雅な仕草で、月明かりの二階。一人、遥か遠く昔。かの城で学んだ舞を踊り続けていた。
 一折踊り終えた彼女は先と同じように一礼を加え、本当に朗らかな表情を見せた。
 彼女の心は満ち足りていた。
 不思議な感慨だっただろうか。此処まで心が穏やかに為った事など、恐らくはかのサウザンドマスターに会ってからでさえも無かっただろう。それほど、彼女の心は満ち足りていたのだ。

 踊り終えた彼女は窓へ歩み寄る。
 白い月の光を取り入れていた小さな世界の扉。
 其処を開き、彼女は世界を見た。
 広い世界。あまりにも広かった。
 窓際に立てかけられていた一振りの槍が持たれ、彼女は意識を凍らせた。
 コレを使わないと、彼女はコレを手に入れたときからそう考えていた。正しくは、手に入れた当時は使う必要も無かっただけの話だったのだ。

 彼女の思い人は何であってもこれを使うなとエヴァンジェリンへ訴えかけた。
 彼女も使う気はないと約束した筈だった。今日までは。
 今日、その約束と誓いは違える。彼女は想いの男の言葉を始めて破り、そして、彼女は共に居た少女だったモノへと挑まなければいけなかった。
 それが彼女の今の全て。彼女に与えられた、皮肉な役割であった。
 窓から吹く風は冷たく、しかし、彼女を外へ誘うかのように彼女の体へ纏わりついていく。
 彼女はソレに逆らわない。ただ、槍を片手にふわりと浮かんで、窓際に立つだけであった。

『オイ、マスター? 今ハサウンザンドマスターノ所為デ魔法ガ使エナカッタンジャネェノカ?』
「使えるよ。こいつと―――それともう一つを僅かに発動させてしまった。だから―――使えるんだ」

 悲しげにエヴァンジェリンは槍を見せ、そして腕を見た。
 ビキリと変質した手は彼女が吸血鬼としての力を行使する時の腕だ。鋭く伸びた爪は、紛れも無い。
 ただ、ソレが何故違和感も無く使えて居るのかをチャチャゼロは理解出来なかった。
 従者の知る限り、此処に封じられてからの十五年間、彼女は一度としてここまでの魔力を発揮した事はなかった。
 一斉停電の時や、京都への特例派遣の時とは違う。
 この学園にいまだ結界が作用しているというのに、彼女は違和感なく障害なく魔法と真祖の力を扱っていたのだ。

 だがその理由をどうしてもチャチャゼロは解らない。
 どうして使えているのか。それが、彼女の持つ槍と、もう一つ。発動させてしまったという、何か。
 それが何であるのか。彼女は断固としてそれを語ろうとはしなかった。あるいは、語るつもりが初めから無かったのかもしれない。
 彼女は前に倒れていく。二階から飛び降りるような仕草。自殺する人間の、前倒れに落ちていく様。
 黒いマントはついておらず、彼女が飛行する為の物は今のエヴァンジェリンには何一つ着いてはいない。

『マ、マスター!? カ、帰ッテクルンダヨナ!?』

 エヴァンジェリンは何も言わなかった。
 ただ深紅の槍と白いドレス、そして、落ち際に僅かに見せた涙の後だけを残し、落ちていった。
 だが、エヴァンジェリンの体は直に浮かんだ。
 最早彼女は学園結界で魔力を封じ込まれている半端な吸血鬼ではないのだ。
 マントなど無く、使い魔など居なくても飛行など容易かった。
 少女は白い姿のまま世界樹を目指す。
 一人。相変わらず一人。それでも、一人でも良いと思える孤独。それを懐いて少女は行った。

 従者に彼女は必ず帰るとは言わなかった。
 言ってしまえば、きっと心残りが出来てしまうと思ったからだろう。
 此処での生活。此処での思い出。此処での出会い。全てを嘆きや後悔に変わるより先に切り払って、彼女は向かったのだ。
 目指す先は世界樹の上。少女は、最後の時を静かに迎え入れようとしていた。

 ―――――――――――――――――――世界樹直上

 そうして、目を開いた。
 木漏れ日に揺れるでもなく、月明かりだけが私を照らし出す夜。
 世界樹。始めてこの学園に来た時、思わずその大きさに感嘆してしまったかの樹木の直上の枝の一本に腰掛、私は一人で居る。
 ドレスの裾を抓んで持ち上げる。
 何もこれから大戦にも匹敵するような戦いをするのだというのにこの格好もないだろうと自分の事ながら想う。
 だが仕方ないではないか。他に着ていく服を見繕うほど心躍るようなことでもないのだから。
 それに、コレは私の決意の表れでもある。だから、女々しいかもしれないが、着ていた方が気は入るのだ。

 気が入ったからどうだというのだろうか。
 今の茶々丸には如何様な事をしようが成そうが意味の無い事を私は知っているはずだ。
 知っていて、こんな格好をしているのだろうが。
 茶々丸。ここに到って、サウザンドマスター以上に。友以上に。弟子以上に共に居たもの。
 その者と織りあった、数え切れないほどの思い出がある。
 全部覚えている。
 そうだ。忘れた事など一日も無かった。
 クラスメイトと共に居た事。全て覚えて、それでも自分は不器用だから、あんな真似でしか他者とは関わってこれなかった。
 そうだ。あのぼーやが此処に来なくば、騒がしくも楽しい日々。クラスメイトや茶々丸、ぼーや達との日々も無かっただろう。

 けれど、その日が来るまで私を支えていてくれた者が居る。
 絡繰茶々丸。この私の分身ともいえる魔力を注いでいたもの。
 お前が居なくなってしまった所為で、すっかり魔力は手持ち無沙汰になってしまったではないか。
 まったく、ただ垂れ流すよりはお前に分け与えていた方が良いと言うのに。

 ああ、いいよ。許すよ。私は許すよ。
 怒るほどの事じゃないさ。毎回毎回突っ込まれるお前のツッコミは嫌いでも無かったよ。
 それすら許した私が、その程度を許さんわけが無かろうに。
 確かに、結末はこうだったかもしれない。
 それも悪くないなんて考えていたりもする。
 運命は容赦が無い。咎人にはやはり罰が下されるようだ。
 私は許されない。神楽坂明日菜。誰にでも幸せになる権利はあると言ったが、やはり無理のようだ。
 だからきっと、この罰は。穏やか過ぎたこの私の今までを焼き払うような炎だと想う。
 奪い続けた多くの命の果てにあるものを潰してきた私に与えられた、最後の最後。これが、私にはふさわしかろう。

 槍を見る。
 ナギ。お前はコレを見た瞬間親身になって私を心配してくれたな。
 なんでもないと突っぱねたが、実はそうでもなかったんだぞ。
 コレは、私でも御しきれない怪物だからな。
 ああ、でも、いいんだ。すまないな。約束、守れなくて。
 私は始めて誰かの為に命がけの全力を尽くさなければいけなくなった。
 ソレが、奪いつくしてきた多くの未来に私が払える最後の代償であり、私の分身である者が、この学園に住むもの達を傷つけてきた罪に対する罰だ。責務は私が背負わなければいけない。
 なぁ、ナギ。此処にお前が居たならば、お前は私に何と言ってくれるだろうか?
 労わってくれるだろうか。許されると励ましてくれるだろうか。

 だがいいんだよ。お前からも、お前の息子からも、そして、お前が縛り付けたこの場所に住む者達からも、数え切れないほど多くの夢を与えてもらった。
 私が奪ってきたもの以上に多くのものを、私は受け取ってしまった。
 それは罪だ。許されてはいけない。私は裁かれなければいけない。
 その裁きを下すのは――――お前でも、息子でもなく、ただ、私が育んでしまった、かの分身だけだろう。

 だからナギ。許して欲しいと想う。
 私はお前に許されたい。それだけで充分だ。
 約束は守れなったかもしれない。だけど、お互い様で良いだろう。
 だから許して欲しい。一足早く、向こうへ行くだろうという事を。
 一足早く、本当に穏やかにお前を待っていられるであろう場所へ向かうかもしれない事を。

 わすれようとしていたあやまち。

 ―――いいだろう。お前らが私をバケモノと言うのなら―――

 焼き払った過去。焼き払ってきた、嘗て。
 この手にかけたものは数知れず。多くの未来をひき潰し、一人此処まで歩いてきた。

 閉ざそうとしていた記憶。

 ―――お父様、お母様。大切にしますね―――

 本当に幸せだった時。死ぬべき時を過ぎ去り、それを持ったまま此処まで来た。

 許される筈も無い数多くの罪。

 ―――人間は……バカだな。こんな事を……何度繰り返すと言うのか……何度繰り返せば気が済むのだろうな……―――

 それでも投げ出さず、背負い続けて尚歩く。
 
 そうして辿り着いた場所は孤独に始まり、孤独に終わった。
 だがその狭間を想う。その間、私はどれ程の夢と希望と笑顔を紡いできただろうか。
 掛け替えの無いもの。変え様の無い事。それを負って、自分は生きていた。
 茶々丸、覚えているか。
 お前はソレを捨て去ったんだぞ?
 お前の意思ではなかったかもしれない。それでも、お前はその掛け替えの無いものを捨て、変え様の無い事を変えてしまった。
 それを、私は許せなかった。誰かを傷つけるよりも何よりも、その記憶を一緒に織り上げてきた者たちを傷つけるだけのモノと化した。
 私は、それを許すような事は出来ない。

 私は私にやる事をやるだけだが、これは私の罪なのだろうな。
 私が奪った多くの未来。奪っていった、多くの命。それを支払えと、運命は私に要求しているのだろうな。
 その結果、偶然お前にソレが降りかかってしまった。
 茶々丸。お前をそんなにしてしまったのは誰でもなく、私だった。私、だったんだよ。
 故に。お前は裁断者なのだろうな。
 鋼化とか言ったか。鋼性種とか言うものと同じものとなる現象。
 ならば、裁断者と言うのもあながち間違えではないだろう。私を裁くのは、やはり、私が生んだ分身自らでしかあるまい。

「なぁ―――そうは想わんか?」

 体を起こし、槍を持ち、枝葉入り混じる木の枝を先端へ向けて歩いていく。
 世界樹。世界全土を捜そうとも、ここまで魔力を結集させる自然物は無いであろうと言える。
 その魔力のお陰で、私も充分に動く事が出来たりもしたのだが。
 今はその魔力は無い。学祭の時に全て散ってしまった。故に今は唯の樹木。
 しかし、今の私には関係あるまい。
 羽虫も寄らぬ今の私。身軽とは言えぬ自身の体は枝の細まりきった先端に爪先立ちで立つ。
 白い岩の塊の下。そこに在るは、黒い姿の緑石色の髪を携えた影。

「―――茶々丸」

 そうして、従者だったモノと対峙した―――

 ―――――――――――――――――――

 塵芥程もお互いに言葉はない。
 エヴァンジェリンは会話の通用する頃の茶々丸であったとは認知せず。
 鋼化茶々丸には、もはや言語中枢自体が存在していない。存在している必要性が無いからだ。既に言葉を放つという必要性は、存在していないからだ。
 その鋼化茶々丸はエメラルドグリーンの髪を足元まで携え、鋼化茶々丸はエヴァンジェリンを眼下に納めるように無表情に空に浮かんでいた。
 天使の様にか。否。違う。誤っても今の鋼化茶々丸は天使などではない。
 鋼性種に近い『生命体』なのだ。それが彼女。それこそが、彼女だった。

 エヴァンジェリンは口の中で静かに呪文を紡いでいく。
 言葉にはなっていなかった。心の中で唱えるように、エヴァンジェリンは口の中でだけ呪を紡いでいく。
 誰にも通じないように。見上げていた鋼化茶々丸にさえも聞こえないように。
 本来、エヴァンジェリンは魔法を使えない。
 正しくは使えなくされたのだ。かの想い人の男の呪いと学園を包み込む巨大な結界。それが彼女の魔力を極限まで抑え込んでいるのだ。
 故に、彼女の日常は魔法を使えない。それは彼女の正体を知っている人間ならば既に承知の事実である。

 だがここに例外を彼女は持ち出した。
 彼女が口の中で唱え続ける呪文は紛れもなくギリシャ語の詠唱。
 誰にも聞こえないように唱えていた詠唱であったが、彼女は紛れもなくギリシャ語で、高位の大魔法を発動させようとしていた。
 ゆらりと、彼女の指が揺れた。
 魔法を発動する前動作。学園内に居る限りは幾ら満月であっても使えないはずの魔法。
 彼女はそれを躊躇いも無く使用していようとしている。
 何故ソレが可能なのか。
 理由は二つ。彼女が生涯使うまいと心に誓っていたある二つ。
 彼女はその二つのうちの一つを完璧に解き放ち、もう一つも僅かながらも解き放ったのだ。

 それが彼女に何を及ぼすのか。それを彼女本人が知らないはずはない。
 知って彼女はそれを使おうとしていた。承知の事実で、彼女はその大魔法を行使しようとしていたのだ。
 エヴァンジェリンが右手に握られていた深紅の槍を回す。
 それは魔法使いが魔杖を振り回すかのような仕草にも見えた。
 彼女が魔法を使える理由の一つ。この深紅の槍がその一つである事は最早疑いようも無い。ではこの槍は何なのか。
 彼女は長年伊達で生きているわけではない。
 この槍はそんな生の端で見つけた禁術の結晶体だった。
 どこぞの誰とも知れぬモノが生み出した禁術の結晶。
 それがこの深紅の槍。
 彼女曰くは、“真祖の幻槍”。
 彼女が回収したその槍に手を加えて今のような真の禁術の塊と化させた武装であった。

 エヴァンジェリンは瞳を閉じる。
 最後を静かに迎えようとしていた。
 解き放てば始まる。後戻りの効かぬ死闘となるなど、彼女は初めから予感できていた。
 目を閉じた暗黒の中で浮かんだ思い出に、彼女は笑った。
 不死者でありながら走馬灯などと言うのを見る羽目になるとは、と。
 そしてそれは心底貴重な体験で、自分がどれだけ恵まれていたのかと言う事を理解させた。
 そして、これが死と言うものなのだと判断した。
 不死の魔法使いは此処に来て初めて、他者ではなく己の死を確信したのだった。
 まだ死ぬわけでもないというのに、彼女はそう想っている自分を笑う。彼女の最後の冷笑は誰でもなく、彼女自らに宛てられるものとなった。

 閉ざしていた魔眼を見開き、無表情で己を見下ろし続けているかつての従者へ、その指を振るった――

 大気が揺れる。鋼化茶々丸の周辺の空気。否、空間が軋んでいく。
 氷結の呪文。大気中の水分すら瞬時に凝結させるほどの超低温空間が鋼化茶々丸の周辺に成されていき、それが全て、一気にかの存在へと襲い掛かった。
 鋼化茶々丸は凍てつく。文字通りに凍てついた。
 彼女のギリシャ語代魔法。αιωνιε κρυσταλλε.
 極低温空間を生み出し、其処へ対称を封じ込めた上で、彼女はこの後の呪文に続けるべく指で空間上に呪文を紡いでいく。
 今の彼女に容赦などない。最大火力。それも極限まで凝縮して一空間限定にまで定めた大魔法で、眼前の対象を粉砕するのみであった。

 だが次の呪文。極低温空間に封じ込められた相手をそのまま砕き散らす完全粉砕呪文。
 それに続けようとした所で、彼女はその指と内心の詠唱を中断してしまった。
 鋼化茶々丸を閉ざした筈の氷塊。それの左右から、亀裂が走ったのだ。
 定規にも似た直角長方形の黒い翼。それが氷塊のほぼ中心から突き出し、彼女の形成した氷の棺を砕こうとしている。
 ソレも遅いと彼女は詠唱を続けた。
 だが、本当に遅いのは鋼化茶々丸ではなく―――詠唱と言う時間をかけなければいけなかったエヴァンジェリンの方であった。

 そのリングは唐突に生まれた。
 鋼化茶々丸を閉ざした氷塊。ソレを包むように、天使の輪の様な物体が氷塊の外周から1メートルほど離れた位置に出現したのだ。
 エヴァンジェリンがそれを何なのか考えているような余裕など無かった。
 次の瞬間。音は無くとも、氷塊は爆ぜた。
 爆ぜたなどと言う表現は生ぬるい。氷塊の欠片も周囲には散っていない。
 簡単な話だ。コレは昇華現象であった。超低温で固定された氷塊を、鋼化茶々丸は否なる理由でか、一瞬で蒸発、個体から液体へ行くプロセスなど無視して、固体から気体へと一瞬で変異させたのだった。

 エヴァンジェリンはソレを驚かない。
 今の鋼化茶々丸には何があってもおかしくないと踏んでいたからだ。
 従って、彼女が用いる最大火力の大魔法が打ち破られたとしても彼女は慌てなかった。
 元より生半端な術で倒せる相手ではない。コレが通じないのであれば、残された手段など唯一つ。
 エヴァンジェリンは枝先から跳んだ。無表情かつ無傷の鋼化茶々丸に向かい、槍を左手で携え、右手の指の爪を極限まで伸ばし、かの怨敵へと襲い掛かる。
 その様子と形相。如何様に喩えるか。
 日本ならば般若。印度方面であればラクシャサ。ギリシア方面ならば―――さしずめ、ヘカテか。

 だが、次の瞬間にはエヴァンジェリンは世界樹の更に直上へと叩き上げられていた。
 顎に感じる鈍痛。安定しない体勢で彼女はなんとか下に居る筈の鋼化茶々丸を見ようとしたが―――もう遅い。体勢を下に向けた瞬間、彼女の顔面は黒い針のような指の手に捉われたからだ。
 上昇する。なお上昇する。
 雲をつきぬけ、星に近づくほどに上昇していく。
 エヴァンジェリンの意識は半分薄れかかっていた。
 急激な気圧の変化。如何に吸血鬼であっても、一気に高度数万メートル以上の上昇には耐えられないのだ。そして、ソレに伴う体調の変化にも。

 薄れかかった意識で、彼女は自らの槍を上空目指して投げ上げる。
 上昇中で投げ上げるというのもおかしいが、彼女は慣性の法則も無視して投げ上げた。
 数秒、否、数秒では遅い。既に十数秒で彼女らは成層圏に到達しようとしていた。故に秒では遅い。したがって、それはコンマミリの秒数で来た。
 エヴァンジェリンの腹部から異様なオブジェが生え、喉下を捕らえていた鋼化茶々丸の二の腕辺りを弾いている。
 先端が銛の様に十字に組まれた深紅の槍。ソレが、事もあろうかエヴァンジェリン本人の体を貫通して、鋼化茶々丸の手から主を解き放ったのだ。

 高速上昇での上空への投擲。無論、慣性の法則が働くのは承知だ。投げ上げる速度と、上昇していく速度。その二つは、あまりに差がありすぎる。
 だが、途中から投げ上げた槍の速度が上昇したらどうか。
 上昇し、投げ上げ、上に力の志向が働いている物体が、上昇の加速を上回って、一気に駆け上がったとすれば――――

 顔面を捉えていた指が外れ、彼女は落ちていく。
 だがこのまま鋼化茶々丸がソレを許すだろうか。
 エヴァンジェリンは考える。だがその余裕など無い事を悟り、彼女は腹部を貫いたままの槍を引き抜き、内臓の半分を空中へ投げ捨てる。
 元より、槍に貫かれた時点でソレらは使い物にはならない。
 それ以前に、内臓の半分を放棄した時点で、彼女の内部では再構築が始まっていたのだ。
 彼女は単に、再生より、再構築の方が効率が良いと悟って自らそうしたまでだ。

 槍を落下中の地面へ向け、エヴァンジェリンは深紅の槍に力を込める。
 それだけで良かった、それだけで、彼女の体は流星のように地面へ一気に引かれて行った。
 だがそれでも遅いとエヴァンジェリンはなおも槍に力を注ぎこんでいく。
 まだ遅いのだ。なぜならば、彼女の背後には既に―――鋼化茶々丸が迫っていたからである。
 故に、彼女は想像を絶する速度で落下していた。

 そして彼女の腹部が完全に治りかける頃、雲をつきぬけ、二者は麻帆良の空へと戻ってきた。
 そこでエヴァンジェリンは槍の軌道を変える。平行。宙を駆ける魔法使いの箒のように、しかし、箒の場合は座るというのに、深紅に染まってしまったドレスの裾を翻して、その槍の上に立ったのだ。
 舞台は空。白い少女と黒い鋼。
 両者はにらみ合い、見詰め合う。
 片や白い少女は眉を吊り上げ、凄まじいまでの憤怒と憎悪の形相で。
 片や黒い鋼は無機質なまでに冷酷な無表情さで。
 お互いは、お互いを見遣っていた。

 両者の身体が揺れる。
 高速の移動。槍から飛び降り、自らの力で前へ飛ぶエヴァンジェリンは再び槍を構え。
 定規の様な長方四角形の翼を広げた鋼化茶々丸はその片腕の肘から手の辺りにかけてまでを刃のように鋭利化させながら。
 エヴァンジェリンは悟った。あれが近衛木乃香の背中を断った刃なのだと。
 女の髪を切り裂いた刃。それが再び少女の、近衛木乃香以上に柔肌の少女に叩き落されようとしていた。
 だが、彼女とてその刃を態々浴びてやる必要などないと踏んでいる。
 彼女がかち合わせようとしているのはその手にある長槍。自分の体を切らせてやるなどと言う思考は、片隅にも無かった。

 極限の距離。エヴァンジェリンは右手に槍を構えたままで左反転をする。
 加速の勢いを載せた回転。彼女の体はそれだけで独楽の様に一回転する。
 一方、かの鋼化茶々丸は小手先の力添えなどしない。ソレは無表情に片腕を振りかざし、エヴァンジェリンの頭頂目掛けてその腕を叩き落そうとし―――降りぬかれた長槍とかち合う羽目となった。
 だが鍔迫り合いなど無い。両者の体は即座に離れる。
 即座に離れはするが、だが必殺の一歩。空中でありながらその場に一歩だけ後退し、再び、お互いにお互いの刃を振るう。

 咲くは火花。
 満月の夜に、麻帆良上空では赤と黒の火花が散り、花火じみた様相をかもし出している。
 だが打ち合っている者らにとっては全てが必死。相手の首を互いに飛ばし、絶命させる勢いで繰り出している。
 その拮抗は三秒も続かなかった。エヴァンジェリンの身体が僅かながらに揺れたのだ。
 2メートル近い体格となっている鋼化茶々丸と、130台そこそこのエヴァンジェリンでは振り抜いた時の衝撃が余りに違いすぎる。
 純粋な腕力不足。それがエヴァンジェリンの鍔迫り合いの敗北の兆しであった。
 槍が弾かれた。同時に、彼女の小さな手からも血が吹き出る。
 岩のように無骨な、ゴツゴツとした槍の表面を必至になって持ち続けていたのだろう。
 皮が剥け、肉が裂けるほどで握られていたその槍であったがしかし、鋼化したソレの腕の振りには及ばなかった―――

 武器を失った白い少女は左の前膊で顔の横をガードするような体勢に入った。
 ちょうど、叱られた子供が怯えるような愛らしい仕草にも見えるが、今の鋼化茶々丸に、それは通じない。
 容赦なく右腕の斬撃が降りぬかれる。エヴァンジェリンの体はその一撃で落下し始めた。
 完璧に圧し折れた右腕。それを彼女は一度だけ撫でると、見下す鋼化茶々丸を見上げる。
 その目には涙。痛みの涙ではなかろう。心の涙を流しながら、彼女は眼下の森に落ちていく。

 そうして木の枝に引っかかってしまうよりも早く、エヴァンジェリンは森の奥底で息を潜めた。
 樹の影になり、その呼吸を整える。小さく紡がれる韻。
 その韻が終わると同時に握られた彼女の右手に、どこぞへ落ちた筈の長槍が握られた。
 だがそれを終えて息をついている余裕など無い。
 エヴァンジェリンは妙な体温の高まりを感じる。
 外傷などはない。傷は全て癒し、不死の魔法使い宜しくその体は外傷など負わない。
 しかし暑いのだ。否。最早彼女の感じる温度。それは暑いというよりは熱い。
 大気温度が凄まじい勢いで上昇していく様を感じた時には、既に遅い。

 エヴァンジェリンは見た。自分の足元。そこがオレンジ色に発光していたのを。
 そしてソレを目視に収めた時には既に、彼女の体はオレンジ色の発光に包まれていった。
 学園の一区画。
 住人は居らず、朽ちた林が在るだけの区域がオレンジの光で包み込まれた。
 だが、科学者が見ればソレは発光ではない。
 それは、炎。高温も高温。炎は温度が高まれば高まるほど透明に近づくという。
 だがオレンジ。ならばその発光は高いとは言えない。だが違うのだ。
 人間も生物もその発光色を日ごろ“そう想って見ている筈”だ。その発行色。即ち―――太陽。
 エヴァンジェリンの足元より放たれた発光。
 数千度に至る爆炎。ソレが、麻帆良の一区画を丸ごと包み込んだのだ。

 その外周。その一区画を包み込む外周。そこには輪がある。
 天使の輪のような白光の円環。一区画を丸ごと包み込むほどに広いその円環が外周に在った。
 そしてソレの内。爆炎はその内側にだけ発生しているのだ。
 理論など無い。法則なども関係ない。鋼化茶々丸は既に人間の定義、生命体としての定義から外れている。
 故に、事を成そうとすれば如何様な事でも可能だ。そう。その気になれば――――太陽表面上の『転送』など―――

 天まで届くような爆炎。その内より氷塊の結界を身に纏った少女が飛び出る。
 だが無傷などではない。
 無傷などでいられようか。炎は天まで届いて居るのだ。
 人が見て希望に想う星を焼き殺すような業火。それの中心核付近に居た少女が、全てを防ぎきれる筈など無い。
 白いドレスの端々に焦げ目を。その体からは無数の火傷を引き連れて飛び出た少女であったが、既に火傷は修復を始めている。
 その再生力。その勢いは最盛期以上の再生を誇っている。
 何故か。理由など簡単だろう。かつての彼女になく、今現在の、この状況下に置かれている彼女にあるものなど、それは一つの違いでしかない。

 砕け散るほど歯をかみ締めてエヴァンジェリンは飛び出た空を睨む。
 後方には相変わらずのオレンジの発光。
 飛び出たばかりの近距離では、その熱で肌さえ焦がそうとするほどの熱量のはず。
 だがそれがない。天使の輪のような外周から外には、一切の熱も炎も漏れてはいない。
 それは、外周の一ミリ真横の優雅な花が物語っている。

 花に見惚れる暇もなく、エヴァンジェリンは振り下ろされた黒い二の腕を深紅の槍で押しとどめる。
 鍔競り合う刃のような鋭さの腕と、赤々しい溶岩を丸ごと槍に打ち据えたかのような不気味な手触りであろう槍。
 それを間に、かつての両者は睨み合う。
 歯が砕ける寸前までかみ締め、子供の様に涙を流しながら睨みつけるエヴァンジェリンと。
 それがどうしたという感慨すらも残っていない、完全かつ完璧な無表情にして無感情を体現した、かつて彼女の従者であり。今現在、かの『第二世代』に近づいた者と化した絡繰茶々丸だったもの。

 槍で黒い刃の腕とかち合っていたエヴァンジェリンの身体が僅かに揺れる。
 両手持ちであった槍を僅かに揺らし、その黒い刃の二の腕を下段へ向けて受け流したのだ。
 そうして振りかぶる。槍を持っている手ではない。
 左手。鋭い爪となっている、吸血鬼特有の赤い爪を伸ばした左手。それに握られている。
 いわば握り拳。赤い液体が舞う。爪が肉に食い込むほど強く、彼女は小柄な少女の体で花を摘む事しか知らない様な小さな手の平で、己が満身を篭めた握りこぶしを形成し―――前のめりになった鋼化茶々丸の顔面を穿ち抜いた。
 べぎりと言う鈍い音は少女の手からだ。
 一撃で折れたのだ。振り抜いた彼女の左拳。肉は割け、白い骨は砕け、赤い血液は飛び散る。
 それどころか、少女の左腕は前膊から、二の腕、肩にに至るまでもが鮮血を滴らせている。
 腕が、全て圧し折れた証拠であった。
 小柄なまでの少女の体で穿ち抜いた一発。それは、少女の左腕を完全に破壊しつくすには充分すぎる一撃であった。

 その折れた腕など最早気にかけず、少女は振り抜いた体勢から鋼化茶々丸の首を握る、握ったままで高速の降下を開始したのだ。
 鋼化茶々丸は動かない。機械としての性質が残っているのだろうか。
 それとも、浴びせられた一撃で脳内の情報が定まらないのか。
 兎も角、鋼化茶々丸はあまんじてその降下を受け入れ、次の瞬間には、廃屋の壁へと貼り付けにされた。
 常人ならば全身の骨が粉々になっている。
 その衝撃と、飛美散る瓦礫の中。
 鋼化茶々丸の喉元を掴んだエヴァンジェリンは、砕け散ったその左腕を瞬時に治し、槍を放棄した右腕で握り拳を形成して―――今再び、その顔面を殴打した。

 一撃。その一撃で周辺の瓦礫はますますに舞威上がる。
 鋼化茶々丸の頭部は捩じ切れる程後方へ仰け反り、打ち込まれた少女の右拳は、再び左腕同様に完全に砕けた。
 だが、それを以って少女は殴打をやめなかった。
 殴る。なお殴る。
 鳴り響く鈍すぎる音は全て少女の腕が砕けていく音だ。
 瓦礫を優雅すぎるまでに舞威飛美散らせ、少女の拳は、喉元を捕らえたかつての従者へと容赦なく叩き込まれていく。
 血潮舞い上げ、瓦礫飛美散る中で殴る。
 少女は、俯き、その表情を誰一人に悟られる様には見せず、しかしそれでも泣きながら、かつての従者を殴り続けた。

 回数など数えられていない殴打の連続。だがそれは唐突に途切れた。
 殴打し続けていたエヴァンジェリンの右腕、なおも一発と振りかぶったと同じタイミングだったか。
 少女の腕はかつてのあの時同様、肩口から真っ直ぐに吹き飛ばされた。
 殴打の度に飛美散っていた瓦礫がスローに為って落ちていく。
 エヴァンジェリンはその目を見開いたままで動けない。
 吹き飛ばされた右腕は、振りかぶる度砕けた部分を再生させつつ殴っていた為、吹き飛ばされた時点では美しかった。
 同時に、その傷口も美しかった。
 肩口から断頭台で叩き落されたかのような綺麗な切れ口の右腕。
 それが飛ぶ中で、鋼化茶々丸の右腕が上がっている。
 中指と薬指。そこから上下に二分となった、妙な形態のその腕。
 肘の辺りまで二分となったその腕がエヴァンジェリンの腕を吹き飛ばしたのだろうか。それはある意味で正解であり、ある意味で間違えていた。

 その右腕が冗談のように伸び、エヴァンジェリンの顔面右真横に構えられる。何をするのかなど、言うまでも無いだろう。
 それは容赦なく発動した。
 エヴァンジェリンの首から上が、跳ぶ。
 弾かれたというに近いか。表現は何であれ、エヴァンジェリンの首から上。頭部はあっけなく鋼化茶々丸のその一撃を前に弾き飛ばされた。
 その上で、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの身体が動いた。首の無い身体が動いたのだ。
 首なしのエヴァンジェリンの体の、残った左腕。それが、弾けとんだ少女自らの頭部から伸びた、鮮血の中尚美しく見えるその金髪の先端を握り―――鎖つきの鉄球の如く、鋼化茶々丸の顔面目掛けて振り抜いた。
 鋼化茶々丸の体は逗他の如く吹き飛ぶ。
 顔面で殴打するという一撃。誰がそんな一撃を読めるだろうか。
 弾き落とされた首での殴打。とても自分のモノとして扱うような手際ではなかった。
 別もの。完璧に自分を蔑ろにした撃で、吸血鬼の少女は一撃を叩き込んだのだ。

 血飛沫を撒き散らせながら、右腕なし、首なしの深紅のドレス姿の少女の身体が吹き飛ばした鋼化茶々丸の方を向く。
 頭部があればの話だが、その頭部の上で回転させるかのような鉄球―――自らの首。
 それを高らかに投げ上げ、首は重力に惹かれるまま落ちていく。
 ごぎゃりと言う鈍い音と共に彼女の頭部は元に戻った。
 切り口が鋭利だったのが幸いしたのか。接着の際の音は生々しかったが、無事に頭部を接着し終えた少女の顔には傷は無い。
 ただ、喉に詰まっていたのか。大げさなまでの血の塊を吐き出す仕草を見せるまでだった。

 左指がぱちんと鳴らされる。
 それで右腕もまた戻った。尋常では無い吸血鬼特有の再生力。真祖であっても頭部を叩き落され、腕を得体の知れない撃で飛ばされたのだ。
 再生には如何様であっても時間はかかる筈。だが、少女には一切の時間の差異などない。文字通り瞬時に癒し、再びその右腕に槍を引き寄せ、握る。

 そして奔る。エヴァンジェリンは両目を吊り上げ、哀惜か慟哭か断末魔か。何れにも該当するほどの絶叫を上げて糸の切れた操り人形の様に倒れ臥している鋼化茶々丸へと肉薄する。
 泣きながら、叫びながら、しかし、全力の殺意を込めて―――エヴァンジェリンは疾走する。
 鋼化茶々丸の体は文字通り不気味すぎるほどの動きで立ち上がった。
 操り人形の糸で無理矢理に引き上げられたかのような動き。
 傀儡の手足の動きであり、関節などを感じさせない、異形の動きで立ち上がり、迫るエヴァンジェリンの目を無機質な眼差しで見上げ―――その右腕を、少女の方へと向け―――

 その腕の『展開』が始まるより先に、エヴァンジェリンは鋼化茶々丸の上げた右掌を深紅の槍で貫いていた。
 だが腕は右腕一本ではない。左腕もあるのだ。それが向けられる。
 正しくは、向けられた。人間ならば凡そ反応できない動きに反応しきったのは吸血鬼としての特性が成せる業である。
 再び『展開』を行い、あの『切断』を行うつもりなのだろうか。
 だが少女はソレを許さない。挙げられた左腕を同様に空いていた右手で押さえ込む。指と指を絡ませるように、両者は丁度向かい合うような体勢となった。

 そのお互いに向かい合った状況で、エヴァンジェリンはコレでもないぐらいまで仰け反った。
 歯を思い切りかみ締め、それこそ、可憐な少女の形相ではない般若の、しかし、悲しいまでに美しい泣き顔のままで歯を食いしばって頭部を仰け反り―――その額を、絡繰茶々丸と言う存在だったモノとして辛うじて認識させる、その鋼化茶々丸の額目掛けて、叩き落した。
 単純に言えばソレは頭突きである。女性が行う場合はパチキとも言う。だがそれはどうでも良かった。
 重要なのはエヴァンジェリンが鋼化茶々丸に向けて、その、鋼化茶々丸の頭部がかの背中に付くほど仰け反らせるだけの勢いと威力を伴った頭突きを叩き込んだと言う事の方が重要だからだ。

 だが、その仰け反りのままで鋼化茶々丸の身体が動く。
 両手を押さえ込まれている筈の鋼化茶々丸。その身体が、ゆっくりと持ち上がり―――エヴァンジェリンをそのまま、地獄車の様な要領で投げ飛ばしたのだ。
 エヴァンジェリンの天地が逆転する。逆転した先には、ブリッジの様な体勢になった鋼化茶々丸が見え―――見えた瞬間、エヴァンジェリンは吐血する。
 背骨が折れたのか。彼女は脳内からの命令が、一切下半身には向かわない事を悟った。
 地獄車の要領で投げ飛ばされた先には、鉄骨。そう、エヴァンジェリンの胴体は、背骨を貫き、腰から腹を貫いていた。

 そこに、鋼化茶々丸の黒い棘の如く細い指が覆いかぶさった。
 顔面を鷲掴みにする針の様な指の、黒い手。
 冷たい感触しか感じさせない、一切の感情と温かみを省いた鋼特有の冷たさ。
 吸血鬼の少女は、全身にそんな麻酔を打ち込まれたかのように竦みあがったのを皮切りとし。
 鉄骨が突き刺さる程度で済んでいた胴体を。力の限り、『横へ』振りぬかれた。

 バヂ。そんな音は聴いたことも無いだろう。
 事実、その音は聞こえない。ただ一人。吸血鬼の少女を除いては。
 吸血鬼の少女は己が内に鳴り響いた音に耳を劈かれる。それと同時に湧き上がったのは、想像を絶する激痛。
 かつて炎に纏われ、全身を焦がしかけた傷痕の時以上の痛み。それが腰元から、頭部へと突き刺さった。

 首が飛ばされた時よりはましだろう。だが少女の痛みは、首を飛ばされた時以上であった。
 首を飛ばされたときはよく解らない要素で弾かれたのだ。鋼化茶々丸の腕から放たれた、何か。それが彼女の腕を薙ぎ、首を飛ばした。
 だが、今回は違う。ただの鉄骨。錆だらけで、鋭利さも何も無いただの鉄骨。そこへ叩き込まれたのだ。
 常人ならば当に即死している傷の中、少女は自ら自らの唇を噛み続ける痛みで、無理矢理意識が飛ぶのをこらえていた。
 胴体が二分になるという悲惨な状況では唇を噛む痛みなど痛みには入らないだろう。
 だが彼女は噛んでいた。噛み、流れ出る血液。己が血液を嚥下する事で吸血鬼が必要な血液を補給していたのだ。
 補給ならざる補給。それが、今の彼女を辛うじて留まらせていた。いたが―――

 次の瞬間。彼女の頭部は地面と接地していた。
 鋼化茶々丸の腕が程なく伸び、取っ掴んだエヴァンジェリンの頭部のある上半身。
 引き千切れた切断面からは絶え間なく血が流れ続けている状況の上半身を、鋼化茶々丸の手で、コンクリの地面に接地させられていたのだ。
 鋼化茶々丸の翼が開く。定規状の翼が伸び、加速。
 なお加速。それがどの様な事態を引き起こすのかなど、確認するまでも無いだろう。
 火花が出るほどの速度。
 それほどの速度で、エヴァンジェリンの頭部はコンクリ製の地面と擦り付けられ続けている。
 学園から直線に砂煙が昇っていく。世界樹の真裏へ向かって突進していくその砂煙の先端。そこに何があるのかなど、言うまでも無いだろう。

 世界樹の真下まで到達しきった砂煙から何かが飛び出た。
 何かが何かなど確認する必要は無い。
 エヴァンジェリンの上半身。それが、世界樹の根元目掛けて投擲されたのだ。
 木の根元に少女の上半身がめり込む。その金髪に隠れた顔の下がどうなっているのかを、知りたがる人間が居るだろうか。
 だが慈悲は無い。鋼化茶々丸は、その顔面を、硬質化した黒い刃の右腕で―――縫いとめるように、穿ち抜いた。
 蝶を針で貼り付けにする様にも似ていた。
 顔面を穿ち抜かれ、上半身だけの少女の体はだらりとしたまま動かない。
 一見すれば絶命にも見えるだろう。だがよく見ればその穿ち抜こうとした鋼化茶々丸の腕がめり込んだ少女の体の後ろにある根までは届いていない。
 良く観よ。その腕。黒い刃の右腕は、金髪で隠れたエヴァンジェリンの頭部に確かに届いている。
 だが根にまでは到達していない。それがどういう事なのか。確認の必要は、ない。

 ギリリ。そんな音は穿ち抜くほどの勢いで繰り出された手刀の叩き込まれた金髪の少女の顔を覆い付くす髪の更に奥より響いた。
 ぱさりと落ちた一纏まりの金髪。その奥で、エヴァンジェリンはその穿ち抜かれるほどの勢いだった一撃を、その吸血鬼の歯で、噛み締めながら受け止めていた。
 その状態で顔を振るってその腕から開放される。
 開放されると同時に、少女の体はゆっくりと地面へと降りて行く。その先には吹き飛ばされたはずの下半身。
 少女の体の形は漸く元に戻った。だがその服。優美な出で立ちであった白のドレスの面影は微塵すらも無い。
 かすかに胸元を包む深紅に染まったドレスの部位と、膝丈までボロボロになってしまった深紅のフレアスカートが残っているのみ。
 だが金髪の少女は、その姿を恥じる真似は無かった。
 ただ、惜しいと想っているだけ。家族との思い出をこのようなことに使ってしまって申し訳ないという惜しみと、その姿で迎えた目の前の―――『怨敵』への惜しみ。

 その惜しみを僅かに心にとどめて両の瞼を閉じ、少女は駆ける。
 槍を再び片手に。もう片方の腕には魔力を載せ―――ようとした。
 彼女は魔法使いである。それは疑いようの無い事実だ。
 だがその魔力。エヴァンジェリンと言う吸血鬼であり魔法使いであり人形遣いでもある少女。その少女が尤も得意とする魔力集結による魔法。少女は、その魔力がまったく以って手先に集わない事を悟った。
 同時に悟る。これは第零世代なのだと。
 第零世代が言っている。お前は生きているべきではない。本当に生きるべきなのは、全力を以って生き延びようとするものであり、生きもがいているものだけなのだ。
 余計な力でしか何も出来ないような奴になど―――生きている意味は、ない。
 
 第零世代は否定をする。
 自己の否定。非自己の判定であった。
 だがエヴァンジェリンの肉体にはいまだ変調は現れていない。だが一つだけの変調が形成を激変させる。
 それは魔力。それがまったく以って集わない。彼女は別のもので代用を立てようとした。
 だがソレも効かない。魔力。呪力。気。全てが自己を否定する。
 彼女は孤独となっていた。あらゆる意味での孤独。
 第零世代が、よりよく生存出来る第二世代を生かそうとするのは当然のこと。それがエヴァンジェリンという魔法使いを、完璧に孤立させた。

 だが少女は止まらない。止まれるべくもない。
 少女はがむしゃらに走る。目前へ向けて、全力で。
 手加減など無い。すれば死ぬ。死にたく無いが故に奔る。
 死にたく無いが故に、彼女は吼えるも無く、一言も口には出さず駆ける。
 発音の余裕すらないのだ。相手は、そこまで壮絶な相手なのだから。
 駆けてくるエヴァンジェリンを、鋼化茶々丸は無機質な表情で見つめていたのだろうか。
 見つめているというよりは、視界に納めている程度。
 鋼化茶々丸にとっては目前の少女が何人であっても関係が無いのだ。
 小石と同じ程度。人間よりも上に立つ吸血鬼と言う存在でありながら、鋼化茶々丸にとっては、その程度でしかない。
 故に鋼化茶々丸にとって、鋼性種と言う存在と化した茶々丸にとっては人間など―――否、そも彼女には、人間と言う定義など、すでに存在していない。

 傀儡の様な黒腕が前へ。鬼神じみた魔手が前へ。
 黒い刃と化した腕が平行に。深紅の槍を持った腕が振りかぶられ。同時に、互いへと打ち振られた。
 黒腕と紅槍が互いに弾け合う。エヴァンジェリンは叩き落しにより蜘蛛の如く地べたへと這い蹲り、鋼化茶々丸はその右腕が背中を廻るまで弾かれる。
 それは先の中空で打ち合ったかの打ち合いに酷似していた。
 弾かれあい、また打ち合う。それの繰り返し。
 だが今回の違いは―――三秒。エヴァンジェリンが三秒と言う高い高い壁を越えた事だろう。
 エヴァンジェリンは槍を構えたまま、踊るように打ち合う。事実、踊りながらお互いは打ち合う。
 エヴァンジェリンは目を吊り上げ、見開き、歯を食いしばりながら、泣きながら。
 鋼化茶々丸は無表情に、無感情に、人形の様に、決められたかのように回転を繰り返しながら、その槍に合わせて黒腕の刃を打ち当てていく。

 決死なのはエヴァンジェリンのみ。
 鋼化茶々丸には決死の意思も、必至の意思も、何も無い。
 ただただ同じ動き。ただただ、相手の撃に対し、合わせていくだけであった。
 だが、急に周辺の空気が変わった。
 翠の発光。エヴァンジェリンはそれを足元に認識する。
 そして想う。ここはどこかと。此処は世界樹下。以前、絡繰茶々丸と共に訪れ、場所は違えど、何かを見た場所。
 そしてやはり、場所は違えどこの光と同じ光を見た場所でもあった筈だ。
 槍を打ち合いながら、彼女がそれを思考したと同時であったか。彼女の腕が捩じ切れんばかりに弾き返された。
 槍は遠く、木の根元まで到達し、少女は自らの手に残る異常な痺れに目を見開いたまま動かない。
 だが、本当の意味で見開いたまま動けないのにはワケがあった。
 目前に佇む鋼化茶々丸。それの様子が、打ち合っていた時と明らかに変改していたからだ。

 刃となった黒腕。その黒腕の刃が、異常なまでに発達している。
 まるで打ち合う最中に進化したかのような、それほどの進化。
 否、最早これは適応でしかなかった。鋼性種と言う生命体の究極の特性。瞬間的な進化。
 瞬間的な、それこそ、相手に合わせてまでも進化と言う行為を合わせてしまうと言う異常さ。鋼化茶々丸は、まさに今、それを発現したのだった。
 だがエヴァンジェリンは思考する。
 何故と。何故今この瞬間になのかと。
 それはだが、エヴァンジェリンの思慮が足りなかった。
 彼女が知らない唯一の事。鋼性種の母体であるのか、だがしかし、誰一人あの、機能得限止でさえも本質のつかめぬ存在の所在。
 ただ一人、掌引心香鶺鴒のみが、その存在を察知しきってみせたかの存在。ソレが居る場所こそ、何を隠さずとも、此処、世界樹のある場所なのだ。

 翠の光はその証。鋼性種と同質でありながら、まったく異なった存在感の究極的な、ソレ。
 エヴァンジェリンも見ているのだ。あの存在。漆黒の、多面体。名前も名称も知らぬ―――あの、存在。
 次の瞬間、金髪の吸血鬼の視界は完璧に塞がれ―――背中に、凄まじい衝撃を感じた。

第四十一話(後編) / 第四十二話(後編)


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