第四十二話〜死〜(後編)


 顔面を鷲掴みにされている。そんな処までであったが、少女は自らの状況を理解しきった。
 指先一本すらも動かない体。徹底的に叩きのめされた心。
 そして覆い尽くすのは、ただただ孤独に打ち拉がれ震える精神と、涙を意味無く流し続ける瞳だけだった。
 背骨の痛みは世界樹に伸びた腕で叩きつけられただけである。
 背骨が折れそうなほどの痛みだったが、少なくとも。首を弾かれる。陽炎に包まれる。胴体を二分にされる。頭で火花が出るような雑巾掛けをされる。そんなモノよりは、多少なりとも優しかった。

 今一度少女は己が肉体を確認するが、限界であった。
 解き放った魔力は限界以上。肉体の損傷は既に、かの真祖の再生力すら超越して確実に体にダメージを響かせている。
 少女は、わりとあっさりと自分が死ぬ事を漸く受け入れていた。
 長い長い旅路の果て。用意されていたものは、少なからずとも楽しく、しかし、咎人は決して許されるという絶対の掟。
 少女は夢を見てたのと同じだった。
 叶うべくも無い夢。長い長い夢であった。その長い眠りから叩き起こされただけの話。
 荒々しい起こし方。労わりも労いも何も無い、真の覚醒を与える為だけに行われた、鉄槌じみた起こされ方で、彼女は再び戦火に立ったのだ。

 その結果がこうであっただけの話。
 咎人に与えられるものは許しではなく、罰。
 罪には罰を。いつでもそうであった。
 人の世は。人の内に生きていくものには必ず与えられるべきもの。
 エヴァンジェリンは吸血鬼であったが、人であった。
 人の内で生き、結局は人と共に歩んでしまった。
 それが罪だった。多くの未来を奪ってきた罪。それには罰を注がなければならない。そう言うことだった。
 他の理由など無い。彼女は裁かれるべき対象である。
 外見がか弱い少女だから。本心では人の良い人物であろうと、奪った分だけの罪科を彼女は背負わなければいけない。

 少女は想う。これが私に与えられる罰なのだと。
 奪った分を返すには、ここまでされなければいけないのだ。
 その思考に違いは無い。
 彼女は人殺しだ。彼女はあまりに多くの命の未来を奪ってきた。
 戦争などの定義は関係ない。彼女は罪人であり咎人であり、許されてはならない存在なのだ。
 だからこそ、少女はあっさりと自らの死を受け入れていた。
 寧ろ、少女は少しだけこの運命に感謝した。
 漸く、と言う想い。永すぎた命の果てが漸く見えたという思い。
 疲れ、だったのかもしれない。永く生き過ぎたことへの疲れ。それが彼女に諦観として降りかかる。
 だが誰が彼女を責められようか。
 彼女は永く生きてきた。永い永い時を一人歩んできたのだ。
 想い人が生まれ、しかしここで待ち続ける事。従者と共に在り、しかし従者が自らと袂を分った事。
 彼女は、疲れたのかもしれない。生き抗う事も。待ち続ける事も。己が分身とやりあう事も。

 だからこそ受け入れようとしていた。
 この死。果ての果てに得られた罰。
 支払わなければいけないもの。やりなければいけないもの。
 封印しようとした過ちと、忘れかけていた咎。それらに全てを支払い、打消し、自らもまた。
 消え往く事が恐ろしいのではなかった。
 彼女はもう何も恐れてはいない。ただ。ただ一つだけ恐れるというのならば―――――
 少女はもう一人にだけはなりたくなかった。
 一人で駆け出し、一人歩み、そして一人その足を止めることだけはしたくなかった。

 そう願うのは、咎人として咎となるだろうか。
 少女の淡い願いは咎だろうか。罪だろうか。
 それは、恐らくは罪に該当する。彼女はそんな事を、そんな幸せを願えるほど上等なモノではない。
 彼女が奪った多くこそがソレを願い、しかし、叶えられることなく、彼女の手によって滅んでいったのだ。
 その願いを、幾ら外見が少女とは言えど、咎人なる彼女が望んで良い筈が無い。
 彼女に幸福は許されなかった。
 エヴァンジェリンは想う。神楽坂明日菜に想う。言ったとおりに、私に幸せは許されなかったと。
 だが、それでも私は幸福だったのかもしれないと。此処に在れた事。そも、此処で生きていけた事こそが幸福だったのだと。

 そうして支払われるのは咎人への罰。
 少女は、奪ってきた多くが得られなかった幸福を潰した。
 如何様な理由があろうとも、それが許される事は無い。
 少女もソレを理解していた。だからこそ受け入れようとしていたのだ。この罰を。自身が犯し続けた、数多くの罪に対する罰を。
 黒い掌に包まれ、少女は瞳をゆっくりと閉じる。
 終ぞ諦めたのか。だがそれは違った。
 少女には最後の役割がある。彼女は消え行くその前に、ソレを成さなければいけなかった。

 少し昔を、思い出した。

――ハカセ。コイツは本当に役に立つのか? どうにも信用できん――
――うーん、でもでも一応自信作ですからねぇ。力添え程度は出来る所までは仕上がっているかと――
――ふん――
――ああっ!! エヴァンジェリンさん!! 蹴るなんて酷いじゃないですかぁ!!――
――どうにも信用できん。私の魔力を使って動くのだから完璧に仕上げてもらわねばいかんのだ。オイ、お前。何とか言ってみろ――
―― ――ハカセ。この方は?――
――あ、起きたんだね。この人は今日から貴女の主になる人だよ。仲良くするんだよ〜?――
――阿呆。なんで私が従者と仲良くせねばならんのだ。オイ、起きたなら付いて来い。ここは人間くさい――
――了解いたしました。エヴァンジェリン様――


――如何様でしょうかエヴァンジェリン様――


――申し訳ありません。エヴァンジェリン様――


――その案には賛成しかねます、エヴァンジェリン様――


――それで今週の献立ですがエヴァンジェリン様――
――オイ茶々丸。お前私が何度私の事を『マスター』と呼べと言ったか覚えているか?――
――今の発言を加えるのであれば丁度500回目を数えます――
――……それだけ言っていて、何故『マスター』と呼ばない?――
――失礼ですので。私は奉仕用に作られたロボットです。主に対しては謙譲語で応じる事がプログラムされていますから、粗相はないかと――
――それが粗相だというのだ。お前の主がマスターと呼べと命じているのだ。毎回毎回同じ事ばかり言わせおって、役立たずめが――
――役には立っているかと――
――あぁ〜〜〜!! お・ま・え・はっっ!! 本気で叩き壊されたいのか!?――
――申し訳ありませんエヴァンジェリン様――
――だからマスターと呼べと言っているだろうがっ!! このロボめっ!!!――


――桜、満開のようですね――
――何時もどおりだ。この桜を見て心躍らせたのも最初の頃ぐらいなものか――
――今は、違うのですか――
――咲いて散り往くだけの花に興味なぞ無い。弱さを明るみにしていると言うのにこの華々しさが気に入らん――
――……羨ましいのですか――
――何をたわけた事を言っている。行くぞ―――――――――だが一応聞いておくが、何故そう想った?――
――そう、見えましたので――
――……ふん――


――マスター――
―― ―― ――
――如何なされましたか。マスター――
――お前、何時からマスターと呼ぶようになった?――
―― ―――何時からでしょうか――
――……まぁ、いいか。で、何の用事だ?――


――よし……では行くぞ、茶々丸――
――はい、一緒に――


 涙ながらに、少女は黒い掌の中で瞳を開いた。
 泪に暮れる瞳。しかし、少しだけその眼を吊り上げて、黒い鋼鉄じみた外殻の纏われた指の間より掴み上げる、ソレを睨み上げる。
 最後の役割を果たすべく、最後の最後を迎える為に、少女は自らの手で自らの宿命に決着をつけるべく動かぬ体を振り絞ったかのように動かしていく。
 再生も追いつかなくなった折れかけの腕を上げ、自らの頭部を掴む黒い腕を握る。
 あまりにもか細い少女の力で、彼女はその腕を握り締める。
 折れかけの指は動かすたびに軋み、完全に限界に到達しきった肉体が悲鳴を上げる。

「―――μελανοs ευαγγελιον《黒き祝福》
 αιθω 買ヘφια《輝ける命》」

 痛みは無かった。
 ただ、少女の胸には凍えそうな孤独がこれから降りかかるということに対する恐怖だけがあった。
 彼女が生涯の禁じ手として持ち続けた呪文。
 サウザンドマスターにさえもその手だけは告げなかった。
 サウザンドマスターが見たのは、あの深紅の槍。真祖の幻槍と言う名の、彼女の封じ手だけであった。
 彼女は、想い人にさえもその手だけは告げず、決してか誰一人にも語ることはなかった。

「Δαλιδα Αννα Νυμφη《か弱く愛しいわが娘》
 Υπνοs Μορφευs Λωτ《死の眠り 夢の神に覆われよ》」

 その手を以って、少女は最後の幕を引く。

 自らの頭部を鷲掴みにしている鋼化茶々丸の腕を握ったか細い指に力が篭る。
 そして紡がれるのはたった一声。たった一声で、少女はこの世と決別するような最後の魔法を発動させる。

「――――μονο μελανοs《唯一つの黒》
 Μαριαμ θανατον ευαγγελιον《望まれしこの子に、死の祝福あれ》」

 これが、私と茶々丸に与えられる罰になりますようにと。


「―――ο Βυθοζ θανατον」≪――深き死≫


 少女は―――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、その魔法を発動した。


 ぶわり―――そんな具合に周辺の風が撒いた。
 同時に鋼化茶々丸の腕が、鷲掴みにしていた筈の少女の頭部から外れ、大きく、凡そ十数メートルの単位で吹き飛ばされる。
 吹き飛ばされて鋼化茶々丸が見る先には金髪の少女。
 だが違う。その表面が、次第に異形へと変質していく様。
 鋼化茶々丸は無機質にソレを見つめ、その両目を見開いたエヴァンジェリンは、その手足先より、その外殻を徐々に纏っていった。

 吹き飛ばされて居た筈の真祖の幻槍。
 それがいつの間にかエヴァンジェリンの手前に浮かび、その布を捻りに捻って形成されていたかのような槍が、徐々にほどけていく。
 そして解けた先。解けた深紅の帯こそが、今まさに、足先より纏っていくエヴァンジェリンの外殻の正体であった。
 両手が埋め尽くされる。
 その腕はか細い少女のものではない。
 既に怪物と呼んで過言なき状態。
 鋼化茶々丸同様の外殻。
 だが直線的であり、金属光沢を放つような磨き上げられた外殻ではない。
 どちらかと言えば、溶岩石。冷えて固まり、鋭利な突起を幾つも天へ向けて立てる。
 クリームを角が立つまでかき混ぜるという表現がある。
 エヴァンジェリンが纏っていく外殻はまさにソレ。
 角が立ったかのような深紅の溶岩石状の外殻を、鱗のように折り重ねながら纏っているのだ。

 足も同様。指先から始まり、大腿までをも完全に埋め尽くしていく。
 無論。スカートは引き裂かれ、下半身は完全にその外殻で包み込まれた。
 そして上半身。小柄な少女の体は、蟲に蹂躙されたが如く、瞬く間、深紅の外殻で覆いつくされていく。
 最後に残ったのは頭部。だが其処にも容赦はなく装甲がまとわり付いていく。
 最早愛らしかった少女の外見などない。
 いわばソレは、目鼻のないしゃれこうべ。それに近かった。
 そこから金髪が生えているようなものだ。金髪が生え、しかし、その少女だったモノの頭部は、獣じみた歯を乱雑に並べた耳まで裂けたかのような口を持ったしゃれこうべに代わり―――その頭部右外殻が、音も無く崩れた。

 下からのぞくのは紛れも無くエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの瞳。愛らしい少女の瞳だ。
 だがその周辺は原形など留めていない。
 僅かに見える少女の瞳だけが少女と認識させるものであり、その他は全てが異形。
 頭部はしゃれこうべを模し、肉体に至っては、柔肌含む全てを深紅の外殻で覆いつくした鎧鬼の様な体躯と化している。

 それが、少女の最後の魔法だった。

 深き死。それが少女の扱う究極にして、生涯禁じ手として封じ込め続けてきた極限強化魔法の一環であった。
 しかし、その内容は至ってシンプル。単純な身体強化魔法の一種である。
 真祖の幻槍を外殻として身に纏う。そんな単純なもの。
 だがソレは本当に単純なのだろうか。

 シンプルイズベストなる言葉が存在している。
 単純なものこそ強力でありより良いと言う定義。
 この魔法『深き死』はまさにソレを体現したかのような身体強化魔法の始原たる魔法の一種であった。
 高度なハイエンシャント言語で唱えられた事が、何よりの証拠である。『深き死』それは、全魔法界にあっては最初紀の身体強化魔法なのだ。

 だがこの身体強化魔法『深き死』にはある欠点がある。
 この魔法は魔力で活動しない魔法なのだ。魔力では発動し得ない魔法。
 それがなにを意味しているのか。だがそれは今までのエヴァンジェリンの戦い方が全て証明してくれている。
 魔法が使えないはずの学園内でありながら魔法を発動した事実。
 それもハイエンシャントに始まり小規模大規模構わずの魔法発動。それがそのまま、『深き死』と言う魔法にも当て嵌まるのだ。
 極論から告げれば、この『深き死』と言う魔法は担い手の『寿命』あるいは『魂』を糧にする。
 『寿命』を糧に、『魂』を削り、そこより『魔力』を生産するという魔法。ソレこそがこの魔法『深き死』の正体でもあった。

 しかし、エヴァンジェリンは先ほどこの『深き死』の詠唱を行っていない。
 だがそれは正しくないのだ。詠唱自体は、終えていたに等しい。
 ただ『深き死』と言う名称は単に発動条件となる鍵。キーでしかない。
 『深き死』自体は既に完成した状態でエヴァンジェリンは受け取り、扱っていた。
 もう分っているだろう。真祖の幻槍。真紅の魔槍。アレこそが、既に『深き死』の発動状態だったのだ。

 向かい合うのは異形二匹。
 異常なまでに細い体躯であり、骨に黒い外殻が付いただけにしか見えない無機質無表情のかつて絡繰茶々丸であったモノと、角だらけの外殻を鱗のように折り 重ねながら全身へ纏った、小柄な少女だった時の面影などは微塵も残していないエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだったモノ。
 
 その両者の姿は、ほぼ同時に消えた。

 消えた。しかしその表現は少々違えている。
 絡繰茶々丸だったモノはいつも通りに飛翔し、エヴァンジェリンだったモノは世界中の側面を駆け上がり出したに過ぎない。
 世界樹の直上。息付く間もなくそこまで到達した両者。
 エヴァンジェリンだったモノと絡繰茶々丸だったモノの両手がかち合い、握られる。
 力押しの体勢。相手の腕を圧し折らんとせんばかりの膂力を篭め、お互いはお互いに相手の掌を握り締め続ける。

 その状態で、両者は離れた。空中に浮かぶ二体の異形。
 人ならざるニ種はある意味、この日この時この瞬間、真なる意味合いを以って『人間以外』へと到達したといっても過言ではなかった。
 お互いににらみ合うような状態の中。再び、二匹の姿は誰にも見取られる事が無い筈なのに、視界から消えた。
 学園の世界樹下より学園内に奔る二車線の道路まで、瞬間で砂煙が発生する。
 片方は飛行する絡繰茶々丸だったモノの地上すれすれの飛行痕であり、片方は地面を疾走したエヴァンジェリンだったモノの疾走痕には違いない。

 コンクリート製の地面が抉れて行く。
 それはエヴァンジェリンだったモノの疾走がそれだけ一歩一歩に凄まじい力が込められている事の事実。
 一方、道路上の自動車が瞬く間に吹き飛ばされていく。
 他でもない絡繰茶々丸だったモノの飛行による衝撃波。それが自動車を紙の様に吹き飛ばしていっているのだ。
 だが少しずつ自動車の陰が少なくなっていく。正しく言えば、一瞬であったが。
 無理も無い。両者が向かっている場所は他ならぬ、かの、タカミチ・T・高畑が、機能得限止だったモノに敗北を喫した、かの大トンネル。
 炎が舐め、トンネル内の空気を全て燃焼しきり、その原因解明の為に警察が封鎖していたトンネルであったが、その封鎖線が、衝撃波二つによって引き千切られた。

 トンネル内で数回、火花が上がる。
 その発光が消えるよりも速く、二者は爪と刃をかち合わせながらトンネルの中で。エヴァンジェリンだったモノはゴム鞠が跳ねるが如く、トンネルの壁面を駆け、時に飛び、トンネルを飛翔する絡繰茶々丸だったモノに四方八方から襲い掛かっていた。
 だが、その均衡が崩される。
 飛翔中の絡繰茶々丸だったモノの手が伸び、異常な速度であったエヴァンジェリンだったモノの頭部を鷲掴みにした状態でトンネルの壁面へと押し付けたのだ。
火花がトンネルの壁から一斉に上がっていく。
 もはや火花ではなく火柱になりかけているその摩擦熱。
 その絡繰茶々丸だったモノの、鷲掴みにしている掌での変化をエヴァンジェリンだったモノは確かに捉えた。
 掌の中心。そこに人の瞳の様に瞳孔が変化するかのような動きを見せるレンズがあったのを確認した瞬間。

 トンネル全ての壁面に、亀裂が走った。
 トンネルが崩れていく。
 何をしたのかを判断するような余裕など、誰にも無かった。
 ただ、絡繰茶々丸だったモノはエヴァンジェリンだったモノの頭部目掛けて一切の躊躇も無く、『何か』を打ち込んだのだ。それこそトンネルを、今こうして、崩れさせるほどに。
 瓦礫が降り注ぐ。瓦礫が降り注ぎつつある中を、絡繰茶々丸だったモノは幾度もエヴァンジェリンだったモノの頭部目掛けて何かを打ち込み続ける。
 その速度。物が落ちるよりも速い。瓦礫となって行くトンネルの天井が崩れ落ち、瓦礫がトンネル下のコンクリの地面へ接地するより早く。
 それこそ、破片一片コンクリート製の地面に接地しカツンとも音を立てていない中で、絡繰茶々丸だったモノは只管にエヴァンジェリンだったモノの顔面目掛けて、何かを撃ち込み続けていく。

 だが、その腕がはじけた。文字通り、絡繰茶々丸だったモノの、今まで彼女の頭を鷲掴みにしていたその漆黒の腕が粉みじんに砕けたのだ。
 ソレと同時に、絡繰茶々丸だったモノはトンネルの壁面から離れ、そして加速する。
 一気にトンネルを出るべく。だがそれを、エヴァンジェリンだったモノは、それを凌駕するような速度で加速し、トンネルを脱した。
 先に告げるが、まだトンネルは崩れ落ちていない。
 ただし間違えてはいけない事は、トンネルは完璧に崩壊しているという点だ。
 壁面は天井含めて完全にひび割れ、崩れ落ちる一歩手前でも無い、崩れ落ちているのだ。
 それこそ、波のトンネル。サーファーが水のトンネルの中を通り、その時、かの頭上から水が一気に落下する。それと同じだ。
 トンネルは、同じように崩壊している。
 だがそのトンネルの瓦礫の落下速度は遅い。
 遅い。それは違う。遅いのではない。二匹が、速過ぎるだけだ。

 崩落を始めたトンネルの中から二匹が出現する。
 絡繰茶々丸だったモノの顔面を鷲掴みにしながら、かつての仕返しの如く、その頭部をコンクリート製の地面が削れて行くほど。
 それほどの勢いで、エヴァンジェリンだったモノは絡繰茶々丸だったモノをがむしゃらに押し付け、駆けていく。
 通常の人間なら、そも、人間の理解力に当て嵌める方が間違えではあるが、一応人間と言う生物に当て嵌め、この戦いを明記するというのなら、どちらかは初撃で死亡している。
 即死。否、死んだと気付く間もなく、死んだ時は破片も残らないだろう。それだけの勢いと凄まじさ。それを以って、両者は激突していたのだ。

 無表情なままの絡繰茶々丸だったモノ。
 それを頭をがむしゃらに押し付け、コンクリ製の地面を抉り続けていたエヴァンジェリンはその頭を鷲掴みにしたまま、僅かに飛ぶ。
 凡そ1メートル。その程度の跳躍。
 その上で、エヴァンジェリンだったモノは一回転した。くるりと、綺麗な放物線を画くような回転。
 絡繰茶々丸だったモノの頭部は握り締めたまま。その状態で、エヴァンジェリンだったモノは、絡繰茶々丸だったモノの体を、思い切り、其処へたたきつけた。

 クレーターが出来上がる。
 円形に地面が沈んでいく。非常にゆっくりとした世界の中で、無表情の絡繰茶々丸だったモノだけが印象的でもあった。
 だが無表情なままでかの存在は腕を挙げた。
 吹き飛ばなかった、残された片腕。それが天高く、いまだ跳躍したままの装甲纏のエヴァンジェリンだったモノへと伸ばされ、その腕が一気に展開する。

 何時か、長瀬楓の肩口からを一気に抉り取り。自らの従者の腕を二度、そして頭までを叩き落したかの兵装。それが展開される。
 コレは何なのか。
 実際コレの性質は極めて単純である。
 何時かコレを発動させた時、内角外角に九十度角に割れた小石が落ちた。
 それがもう答えである。
 コレの正体。絡繰茶々丸だったモノが掲げている、中指と薬指から上下に二分される腕から打ち出されているもの。
 だが、それが先ず間違えなのだ。打ち出されているのではない。『動かして』いるのだ。
 どの様に。簡単だ。
 内角外角九十度に割れた小石。外角と内角を合わせれば完全に合わさる様な小石。
 それらはそれぞれ、数メートル程度離れた場所に落ちた筈。
 それが答え。そう。絡繰茶々丸だったモノは―――空間を、丸ごと平行に『動かした』だけであった―――

 正確に言うならば。鋼化茶々丸は上下二分した手の先端より対象までの一定空間を長方形型に測定。
 その空間を平行に『移動』させる事で、強制的に目標の存在位置そのものをズラしているのだ。
 小石が九十度角で切り取られたのも。長瀬楓の腕が千切れ落ちたのも。そして、エヴァンジェリンの頭部が吹き飛んだのも。全てはこの機能である。
 機能が何であるかなどの定義は最早関係ない。
 絡繰茶々丸だったモノはそう言うもの。
 あらゆる規格、規定、定義より外れている生命体。
 鋼性種と化し、人間が定義する法則等は意味をなさないモノへとなったのだ。従って、その程度の機能など持っていても、何ら問題は無い―――

 キン。そんな音はエヴァンジェリンだったモノの耳にだけ捉えられた。
 見る者あれば、捉えられたか。
 本当に上空へ向けて打ち出されたのが幸いした。万が一にも並行にコレが。空間をズラすこの撃が横向きに打ち出されたのならば、あるいは、地面へ向けて放たれていたのならば。それは、想像を絶する被害を出していただろう。
 だが絡繰茶々丸だったモノはそれをしない。
 正しくは出来ない。鋼性種は自然的な存在なのだ。第零世代に忠実であり、生き残ることに特化している。
 だがそれは超自然的であるが故だ。そして第零世代は未だに求めている。
 第二世代を。よりよい第二世代を。
 故に絡繰茶々丸だったモノは何一つ存在していない空中目掛けてソレを解き放つしかなかった。
 第零世代が求める第二世代。ソレは、他の生物が到達するかもしれないと言う本能がそうさせるのだ。

 エヴァンジェリンだったモノの右腕が吹き飛んだ。文字通り吹き飛んだのだ。
遥か彼方、恐らくは成層圏近くまで飛ばされたのだろう。
エヴァンジェリンの装甲に包まれた片腕は、今までと何も代わらず、いとも容易く断ち切られた。
 これで互角。お互いに片腕は無し。だが二匹にソレを気にするような様子は無い。
もう痛みなども無い。痛いと感じる部位は互いに存在していないのだ。
だがエヴァンジェリンだったモノはその状態から地面に叩きつけた衝撃で若干空中へバウンドした絡繰茶々丸だったモノを容赦なくその蹴り上げる。
その背骨を叩き折らんとせんばかりの勢い。だが折れもしない背骨へ向けて、全力で蹴り上げたのだった。

 一瞬。絡繰茶々丸だったモノは相変わらずの刹那一瞬でそこまで叩き上げられた。
 遥か空の上。世界樹と呼ばれる樹木の周辺は砂煙が上がり、あちこちで破壊の痕が残る麻帆良学園都市。
 それを一景する事が出来る高度まで、絡繰茶々丸だったモノは瞬時に叩き上げられたのだった。
 無論、その高度までエヴァンジェリンだったモノも瞬時に飛び上がっている。
 片腕の両者。再び、絡繰茶々丸だったモノの片腕が伸びる。空間を平行にずらす撃。空中に浮かんだ事でそれを平行に打ち出そうとしていたのだ。
 だがエヴァンジェリンだったモノはソレを許さない。
 獣の様な牙が乱雑に並んだ口。耳まで裂けたかのような、しかし、今の今まで完璧に閉ざされていた口。それが、本当に開かれた。
 吼えるような仕草。可憐な少女の姿であった時には想像も出来なかった光景だろう。その状態から、エヴァンジェリンだったモノはその口より何かを、撃ち出した。

 衝撃波。単純に言えばソレだ。
 だがその撃を如何様に発動させたのか。
 簡単である。可聴域を超えた声。正しくは、音波。
 音とは何か。空気中を奔る波である。空気の波。それが音である。
 それが聞き取れる域を超え、空気を振るわせたのだ。そう言うことである。
 絡繰茶々丸だったモノを吹き飛ばした要因。
 それは、単純にエヴァンジェリンだったモノが吼えるような仕草で、可聴域を超えて『吼えた』だけだった。

 再び世界樹下。
 絡繰茶々丸だったモノは其処にふわりと降り立った。
 それで初めて、周辺から轟音が響く。
 崩れる瓦礫の音。世界樹周辺を舐める、砂煙の量。それが正常な速度で動き出した。
 そこに立つ。絡繰茶々丸だったモノと、エヴァンジェリンだったモノ。
 誰かが居れば、一瞬での変化についていけなかっただろう。お互いに腕が取れている事。学園都市中で鳴り響く轟音の正体に。
 お互いに向かい合う。感情の無い表情の絡繰茶々丸だったモノしかり、片目だけを晒し、鬼神のような出で立ちのエヴァンジェリンだったモノしかり。
 互いに感情は最早無い。感慨も無いだろう。
 ただ、相手を排除しようと思って居るのはエヴァンジェリンだけであり、相手を敵として認識しているのは絡繰茶々丸だったモノだけであるということだけだ。

 エヴァンジェリンだったモノは思い切り残されたその腕を後方へと引き、手刀の形状を取る。
 方や絡繰茶々丸だったモノも同じ様に、片腕をソレへと向けた。
 だが展開はしない。上下に二分するような状態を見せず、ただただ、エヴァンジェリンだったモノへ、その片腕を向けていた。
 両者の身体が奔る。
 疾走ならぬ疾走。瞬間移動と言うにも生ぬるい、瞬時の移動を見せる。
 牙を剥き、獣が吼えるような体勢で突っ込むエヴァンジェリンだったモノと、無表情ながら、初めてその瞳を思い切り見開き、前へと突き出した片腕を不動のものとして突っ込む絡繰茶々丸だったモノ。

 距離は互いに十二分。お互い最大加速となり、最高の一撃なりえる距離であった。

 交差する。腕と腕。意地と本能。
 二つは申し合わせたかのように交差し―――だが、エヴァンジェリンの繰り出した旋風の様な手刀は絡繰茶々丸だったモノの脇に掠める程度で終わり、絡繰茶々丸だったモノの腕は、エヴァンジェリンだったモノの胸元にその手首が添えられるカタチとなっていて。
 ばずん、と鈍い音はエヴァンジェリンの全身を噛み砕くようであった。

 唯一現れていた片目。少女は、その瞳で己が胸元を見た。
 見て、悟った。助からないと。確実に死ぬと、少女は悟った。
 胸元には、杭。断罪のように打ち込まれた、白木の杭が突き抜けている。
 絡繰茶々丸だったモノ。それが手首から射出した白木の杭。それは、確実に、装甲で包まれていた筈の心の臓を穿ちぬいていた。

 彼女は吸血鬼である。
 人間のような吸血鬼であり、人間味溢れた吸血鬼であった。
 だが吸血鬼。吸血鬼の弱点を幾つかは克服したとはいえ、彼女が吸血鬼であるという事実に変化は無い。彼女は人間だが、吸血鬼なのだ。
 そして今、全ての吸血鬼にとって最大級の一撃を喰らった。
 心臓へ杭と言う一撃。それは、如何なる吸血鬼でも耐えられない一撃である。
 太古の昔より語り継がれている対吸血鬼における最終手段。心の臓へ白木の杭を叩き込むという事。それが今、実践された。

 掠れていく。エヴァンジェリンだったモノは、自分の存在が掠れていく恐怖を味わった。
 幾ら真祖の吸血鬼とは言えど、心臓に杭を打ち込まれるというのはどうしようもない吸血鬼と言う存在の否定である。
 それを実践しようとした者を、彼女は知っている幾人も居た。幾人も、彼女の心臓へ向けて杭を打ち込もうとしたものがあった。
 だがソレが成功したものは一人も居ない。それは其処まで彼女が相手を近づけなかった為である。
 近づくものを全て八つ裂きにしていた頃。それが、無性に懐かしいとエヴァンジェリンだったモノは想った。そして今、再び想いしかし、

 絡繰茶々丸であったモノを、このまま放置しておく事は許されないと―――

 エヴァンジェリンの身体が跳ぶ。跳ねるという方が正しいか。
 牙を剥き、エヴァンジェリンは目の前にあった絡繰茶々丸だったモノの首元へ目掛けて飛び、その細く、しかし、漆黒の装甲に纏われた首へと、吸血鬼としての最大の武器。
 吸血行為の噛み付きと言う撃を以って、喰らい付いた。
 鋼が砕かれる音。あるいは枯れ木が踏み砕かれていく音か。
 ミシミシと鳴る音は断続的に、絡繰茶々丸の首筋から続いていた。

 そうして、あっさりと。絡繰茶々丸だったモノの首は、弾けとんだ。
 バヂンと言う歯と歯が噛み合う音なのか、それとも、本当に首が飛んだ音だったのかを少女も従者だったモノも認識できなかった。
 ただ首が飛び、エヴァンジェリンだったモノがゆっくりと口を開くと、絡繰茶々丸だったモノの体は、まるで、しかし本当の意味で。糸の切れた傀儡の如く、其処へと崩れ落ちた。

 エヴァンジェリンだったモノの頭部を覆っていた装甲が全て剥げる。
 下から現れるのは、相変わらず愛らしいあの少女の出で立ちのままの少女。ただ、その金髪の色が生え際から半分、白銀になっていた。
 そうして泣いている。涙に暮れている。
 止めを刺したのだ。完全なとどめ。
 もう、絡繰茶々丸だったモノは確実に動かない。
 首を食い千切られたのだ。動ける筈が無い。
 生物である以上、命令中枢の治められている頭部と肉体が分断されては最早動けない。
 その点で、エヴァンジェリンはやはり、自分は人間じみたバケモノであり、それでも人のカタチをしたモノなのだと結論した。

 千切れた、それでも綺麗なままの絡繰茶々丸だったモノの首をその手で掬い上げる。
 自分の正面まで持ってきた、その首。
 それを抱く。愛しそうに。漸く見つけた最後の一欠けらのピースの様に。
 彼女は、静かにその首を胸元に懐いた、そんな時だった。

 彼女は自分の背中に何かがのしかかるのを感じ取った。それどころか、圧し掛かってきたものは彼女に撒きついてくるのだ。
 その圧し掛かったモノが何で在るのかを認識するより先に、エヴァンジェリンはソレが何かを、知っていた。
 黒い姿の骨格。絡繰茶々丸だったモノの肉体が、エヴァンジェリンの抱く首を返せと言わぬばかりで圧し掛かってき、その体へその細すぎる手足を絡ませているのだ。
 エヴァンジェリンはそれを振り払おうとする。
 ここまで追い込んだのだ。これ以上戦いを続ける気など無かったし、これ以上戦いを続けられる余力も自らに残っていないからと結論したからだ。
 故に首は離さず、圧し掛かってきたその体を振り払おうと体に力を込めた時。

『―――マスター』

 声がした。胸に抱く生首。
 機械的な、有機的な、でも無機質な絡繰茶々丸の首。それが、声を出したのだ。
 カチリ。圧し掛かった黒い体から響いた妙な音にも、少女は気付かなかった。
 ただ、再び聞こえた従者の声。それに心動かされているのみである。
 従って、圧し掛かり、耳元でまさに鳴っている筈の断続的な音にさえも気づけなかったのだ。

 瞬間、エヴァンジェリンの周辺が爆ぜた。
 正しくは圧し掛かっていた身体が爆ぜた。その一瞬まで、エヴァンジェリンは感じる事が出来た。
 高熱に高温。炎に焔。
 それが自らの周辺に立ち上っていく事。それが確実に自らの肉体を焼き、肉を溶かし、血液を蒸発させ、吸血鬼と言う肉体を終結へ導いていくのを確信として感じれた。

だがまだ離脱できる。
エヴァンジェリンはまだ残され、自らの小躯を包んでいた深紅の装甲へ力を込める。
コレの力を以ってすれば、なるほど、確かに脱出は容易い。
高速を越えた高速で移動する事の出来る品物だ。気付くのが一瞬速かったというのならば、焔から逃れるのは容易い筈だ。だが。

『――― 一緒に』

 胸元で響いたその声に、エヴァンジェリンは込めかけの力を全て逃した。
 逃して、爆炎の中でその首を抱く。
 もう一人でいる必要も無かった。もう、待ち続ける必要も無かった。
 そして、喩え逃れた所でもう彼女は助からない。
 胸元に突き刺さったままの杭を、彼女は抜けない。故に、逃れた所で絶命は必至であった。

 だから、少女はその首を抱いて。

「―――ああ、一緒に居ような。茶々丸」

 涙を流し、それでも、何時かの親に向けるような、そんな朗らかな笑顔を浮かべたまま。その爆炎を、受け入れた。

 音も無く、世界樹の裏は天まで届くような炎で満たされた。

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