第四十九話〜歯車〜


 時は来たれり

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 星は遠く瞬いている。年を増す毎に輝きを増していく空。
 ソレは、世界の浄化が速やかに行われている証拠だろうか。
 空気は洗浄され、吐き出された排気ガスの大半は鋼性種が自らの糧として浄化したと聞いたが。
 どちらにしても、世界は頗る平和であり、頗る私達は滅びに向かって歩んでいく。
 このまま世界浄化が続けば、ある程度まで順応と言うものをしていた私たち人間には心底住みがたい世界が生み出されるだろう。

 その時、私達はどうするべきなのだろうか。
 今の世界に生きていく術が無いとは言えない。今の世界で、私達は生かされているにも等しい状態だ。
 否、生かされているというのならば、五年前から誰もが知っている。私達は、単に生かされているだけの存在だと。
 全てを翠が埋め尽くすその日。その日が来るより先に、人間は滅び尽きる。
 あるいは、多くの人間は鋼性種へと転醒を行うであろう。生きたいという意思。それが、多くの人間を鋼化へと導いていくのだ。
 そうなれば必然的に人間は少なくなる。それも仕方のない事かもしれないが、鋼化生命体が増えるという事が未だに良く解っていない連中が多い。
 何れ、タカミチ辺りにでも私の発言を加えて学会に発表でもさせてくれようか。

 鋼化とは、人間の捨てることだ。自殺と同じ。ただ、存在として自己が残るだけに過ぎない。
 そして終わり。他には何も残せない。
 絶望する人間が選ぶ道ではないのだ。鋼化とは、本当の意味で自らを残すと断言できる人間だけ、生物だけが行っていい行為なのだから。
 鋼化すれば人間であった頃など塵芥。それを、私は良く知っている。
 機能得限止と、絡繰茶々丸。この二人の鋼化により、私の居た世界は大きく変貌した。
 だが、転醒した二体に最早そうであった意味など関係ない。鋼性種として。より第二世代に近い第一世代として。彼らは、そう在って生きる道を選んだのだ。

 手を引く女性を見上げてみる。
 黒髪の、美しい女性。その手は仄かに暖かく、私が手を握り返せば、向こうもしっかりと握り返してくれる。
 それが、無性に嬉しいと感じているのだ。この安堵。この普遍的な安堵で、私は充分なんだ。
 満ち足り、後悔など微塵も無い。明日、自らの身が砕け散るか、明後日か、一年後か。それは解らない。解らないが、その日が来るまで。

 その日が来るまで、この安堵と共に居たい。そして、滅び去る時が来たというのならば、鋼化などと言う生存行為には縋らなくても良いように。
 その日が来るまで培った多くのもの。それを胸に懐いて、この安堵と共に、私は、死んでいきたい。
 人として、鋼化などせず。最後の最後まで、一人の『人間足りえるもの』として、私は遠く遠く。長く長く生きて、そして死にたい。
 それが私。エヴァンジェリン・アタナシア・キティ・マクダウェルの願い。五年前とは違う私が願うもの。
 断罪の果てに得た私が思う、最初で最後の我儘にしておきたい。

「なぁなぁエヴァちゃん。今度、クラスの皆を呼んで同窓会でもしよか? 明日菜にせっちゃんはおらへんけども、きっと、皆来てくれるえ」

 それは、きっと楽しいだろうと心底に思う。だけれどと、私は少しで悲しくなった。
 近衛木乃香はそう言うが、それが叶わぬ事であると知っているからだ。同窓会は開けない。集まる人間は多いだろうが、その果てに得られるものはあまりにも―――
 この学園に残っている人間がどれほど居たか。十二人程度だろう。
 そのほかのクラスメイトは、あるものは海外留学へ行き、ある二人は外部で働いている。
 中には、鋼性種の自然発達現象に調べて居るのもいたか。ちなみに、その二人とはあの鳴滝姉妹だ。
 皆、それぞれの道を歩み始めている。それを、迂闊な事で留めてしまうのは上手くないのだ。
 彼女たちは彼女たちとして、彼女たちの道を健やかに進んでくれることを、私は願っている。

 見守るものの役割だろう。自らの居未来を望む真似の出来ない、私に出来る唯一の事。
 だからこそ、私は中等部の総合委員長になどなったのだ。彼女たちを見守れるように。二度と、私達の様な中学生を生み出さないようにと。
 それぞれが歩む道。仮令傷痕は大きくとも、その道を進んでいくしかない。
 選んだ道は、その者が選んだ道であり、その者だけでしか出せない答えの在る道だ。

「…………みな何をしているだろうなぁ……大河内のヤツや佐々木まき絵はどうなんだろうなぁ」
「あ、この間ドイツのアキラからお手紙来たえ。順調らしいんよ。
 今年のオリンピック、日本代表になれるかもしれへんて。まき絵のほーも、なんやイギリスでけっぱっとるって。二人とも元気そうやえ」
「ふふ、そうか、それは良かった。アレだけの国が翠に沈んでもオリンピックは沈まないのだな。まったく、人間のタフさにはつくづく恐れ入りたてまつるさね」

 心底にそう思う。此処まで世界が変質しても、人間はそれでも歴史を止める事を辞めようとはしない。
 それは、それだけが、人間と言う生物の誇れる所だろう。仮令、この世の全ての命あるものが、人間と言う生物そのものに愛想を尽かし、滅びるだけの生物として扱われたとしても。その日が来るまで、私たちは生きていくだろう。
 それだけは誇れる。それだけは、人間と言う生物がこの世界に誇っても良い、たった一つだけの事柄だろう。
 歴史を紡ぐと言うこと。悲劇ならずの、無意味のような人と人との繋がりあい。それが果てまで続くことを、遠く遠く願っていよう。
 夜道を行く。満天の星空を見上げていると、まるで田舎の野道のようだ。
 遥か昔に見た風景にも似ている。あの頃は余裕もなく、ただただ生きているだけだった頃か。だから、こんな風に空を見上げていてもいなかったな。
 見上げられるようになったのは何故だろうか。サウザンドマスターのお陰か。
 あるいはぼーやか、それとも、あるいは、彼女。あの、明朗な太陽の申し子のような娘。神楽坂明日菜の、お陰なのだろうか。

 誰であっても、感謝を告げたいと思う。
 そうだ、次ぎ始めて会えたヤツに礼を言おう。私をこんな風にしてくれて有難うと言おうか。
 サウザンドマスターはバカにしてくるだろうし、ぼーやに至っては、熱でもあるんですか、とか言いそうだな。
 ああ、なら、その礼の言い方は彼女に取っておこう。彼女が帰ってきたのならば、彼女に、この言葉を捧げよう。
 神楽坂明日菜。この安堵を有難う、と。こうして過ごせる和やかな世界を、お前のお陰で過ごせている、と。
 仮令それが二度とは伝わらない、何時か、ただ思い出すだけになってしまう流れ行く思い出になったとしても―――
 私は、何時の日かそれを告げたい。何時の日か、私が滅びるその時に、あるいは、お前が滅びて、向こうに至るその時に。
 私は、お前に有難うと言いたいよ。神楽坂、明日菜――――

「…………会いたいなぁ……」

 ぽつっと、私の手を水滴が打った。雨かと見上げてみたが、曇り雲などどこにもありはしない。
 空に広がる満天星。赤青黄色の彩色までも読み取れる。

「……ああ、会いたいな……」

 もう一つ雨がレンガ造りの地面を叩く。ぽつぽつと言う小さな水音。
 私達を避けて落ちていく、清く穢れない数滴の水。
 流しているのが私たちでは、私たちにも当たり様はないだろうか。
 だが、近衛木乃香の雨は私を打ち、私の雨は地面を打つ。お互いにお互い、打つものが違うだけの、雨。
 会いたい。思っても思ってしまうのは、ただそれだけの感情だった。
 唐突な別れと、ありえない別離を以って、私たちは離れ離れになった。
 結果は今のこの状況。私と近衛木乃香は一人ぼっちに、今日も今日とて生きている。

 会うたびに思う事だった。会いたいと言う気持ちは、一日として変化したことは無い。
 恐らくは、生きて、近衛木乃香と私が会う度、この感情は思い返されるだろう。
 否、会う度どころではない。きっと、こうして日常を過ごしていくだけであってもだ。
 それでも信じて待っている。帰って来るという事を。帰ってきても、二度と私達の顔など理解できないような存在になっていたとしても。
 それでも、こうして会う度に、私達は彼女たちとの再会を夢見続けるだろう。
 それは、あの赤い魔法使いが一番大切なものを奪われ、その決着をつけるべく飛び立っていった様に。
 けれど、私達は飛び立てずにいる。飛び立てず、檻と言う名の巣の中だ。

 神楽坂明日菜は恨むだろうか。飛び出して行った神楽坂明日菜は、何もせずに待ち続けている私たちを恨むだろうか。
 もう、恨みと言う言葉さえ認識させないような存在になった神楽坂明日菜は、私たちを同思うだろうか。
 答えは無い。恐らくは、一生答えは出ないだろう。会ったとしても、答えは無いだろう。その答えを知っている者は居ない。旅立っていった神楽坂明日菜でさえも、その答えは、出る事は無いだろう。
 気がつくと桜通り。あの、五年前の私の罪の場所に居た。
 左右には見惚れるほどに見事に咲き誇った桜並木。千本以上の桜の木が、果ての果てまで続いている。
 夜桜の境目を通って、二人並んでその場所を行く。そうして目の前。そこに、五年前から変わっていないものがあった。
 風に揺れる符。楔の様に地面に穿たれているソレを、誰も引き抜く事は叶わなかった。

 事実、五年前から如何なる人間、如何なる機器、如何なる魔法を用いても、ソレを引き抜く事は叶わなかった。
 それは、大剣。気違いのような大剣。片刃の剣のみね同士を組み合わせて生み出された、破魔の大剣。彼女の残した、最初で最後の一欠けら。彼女が残した、最後の一時の―――
 コレもまた、待っていたのかもしれない。だからこそ、誰であっても引き抜かせず、ただただ担い手を待ち続けていたのかもしれない。故あってこそ、この剣は待ち続けているのかもしれない。
 近衛木乃香の手を離し、一人その剣の元へ駆けていく。私の身長など大きく上回っている、その大剣。
 既に魔法使いなどではない私だが、未だにあふれ出しているその破魔の理力は、地球上の如何なる魔法でさえも断ち切ってしまう程だ。

 惜しいとは思わない。コレの担い手を、惜しいとは思っていない。
 もし健やかに成長し続けていれば、きっとこの大剣を完璧に担えるほどの魔法使いの従者にも成れていただろう。そうしたならば、ぼーやから奪ってでも私の従者にしても良かったのだがな。
 微かに撫でて、未練たらしく離れていく。此処を通るたびに、これを撫でては行くだろう。女々しい事かもしれないが、それも仕方のない事かもな。
 何時までも此処に居ても仕方が無い。踵を返して、近衛木乃香のほうへ歩み寄っていく。そこで、気付いた。
 近衛木乃香。眼を丸くした彼女が、私、正しくは私の真後ろを見ている。それほど驚く事でもないだろうに。
 この大剣は、神楽坂明日菜のものであり、それ以外のものではないのだから。
 だがさらに荷物を近衛木乃香は落とした。そこまで驚く様子。一体何がおきたのだろうと振り返り―――――――

 目の前を、一枚の桜の花びらが散った。
 
 風が撒く。符が揺れる大剣の向こう側。霞む視界が、確かにソレを捉えて離さない。

 桜並木の向こう側。臙脂の髪の少女が来る。
 ボロボロの黒い外套を羽織り、胸元には泥だらけの包帯を巻きつけ、両手両足にはかつて純白であったろう、しかし、今では薄ら汚れた篭手と具足。
 その手に引きずられるのは、あまりに大きすぎる鉄の塊。剣と呼ぶなどおこがましい。だが、しかし、彼女が持つ以上、それは剣だ。彼女には、あのような大剣こそが誰より似合っているのだから。
 風が吹く。一際に強い風。焦がれも何もかも吹き飛ばしてしまうほどに強い風が、臙脂の髪と黒の外套を巻き上げる。その少女、五年前から何一つ変わらず。
 頭頂には獣の耳。左右に広がる羽のように大きな、人間のものではない獣の耳だ。それでも、その異形を冠していても。彼女は、彼女だった。
 神楽坂明日菜と言う少女は、神楽坂明日菜のままで、此処に帰ってきた―――


 鉄の塊を引きずっている。片刃にも見える鉄の塊。
 形状は確かに片刃の大剣だろうが、その肉厚は凄まじい。恐らく、振り下ろしたのならば斬るのではなく、叩き潰すと言う表現方法の方が似つかわしいその凶器。
 その凶器を携えた獣が眼を開く。目前には、見たことも無い巨大な剣。
 周辺は見惚れるほどに、しかし、見惚れるという感情が無い以上如何なる感慨も懐けない桜並木。
 そして眼前。剣の傍らとその奥には、見た事も無いような金と銀の髪の少女と、長身の黒髪の女性が居た。
 獣が駆ける。その姿を、金銀の髪の少女も黒髪の女性も目視は出来なかった。
 ただ、二人は別の感情に支配されている。二人は別の感情に支配されていたが故に、迫ってくる獣の姿をした少女には反応できなかった。それだけだ。

 だが、一瞬速く黒髪の少女が動く。
 穏やかそうに、和やかそうに見えたその黒髪の女性。だが唐突に動き出した女性の動きは鋭かった。
 鋭利な刃物。それに匹敵するような鋭さと鋭利さを持った雰囲気。それを研ぎ澄まして、女性は金銀の髪の少女の後ろ襟首を持ち上げて、その胸に抱く。
 次の瞬間。鉄の塊が現麻帆良学園都市唯一コンクリート作りの道路を叩き割った。
 爆音。爆撃にも匹敵するような轟音だ。それを叩き鳴らして、鉄の塊は振り下ろされ、金銀の髪の女の子の居た場所に、クレーターを作った。
 金銀の髪の女の子を引き寄せ、胸に抱いた黒髪の女性が華麗な動きでバク転を決めつつ、落とした荷物の有る位置まで戻る。
 そこに立って、そして見る。目の前の臙脂の髪の幼馴染。かつての幼馴染とでも言うのだろうか。

 臙脂の髪が流れた。まるで蝋燭の焔のような揺れ方。それを見たときには、既に臙脂の髪の獣は黒髪の女性の傍らに居た。
 そして突き出される。犀の角。角を持った生物がその己が角で相手を突き刺そうとする仕草にも似た撃。それが、黒髪の女性、近衛木乃香の左舷脇より穿ちぬかれたのだ。
 だが、穿ち抜いた瞬間には既に近衛木乃香の姿も金銀の髪の女の子の姿も無い。
 臙脂の髪の獣。その視線には、誰一人無く、代わりに、天に伸びた木製の細い棒のようなものが入っていた。
 見上げる先。満天の星空へは遠く届かないだろうが、それでも穿ちぬかれた鉄塊の撃を回避するには充分だろう。
 天に向けて立てられた細い棒の最先端に、女の子を抱いた近衛木乃香がしがみ付いている。撃の一瞬。彼女は、薙刀で自身の体を持ち上げたのだ。

 柄に体重を乗せる。薙刀が持ち上がり、臙脂の髪の獣の喉元を割こうとして刃が上がる。
 薙刀の木製になっている部分。そこが発光し、瞬時に刃のようになった。
 近衛木乃香がこの五年で編み出した武装強化。
 木製であっても、真剣並みの鋭利さへと変質できる癒しとはまったく正反対の攻撃の為の魔力操作。それが、これである。
 臙脂の髪の獣はそれを前転で回避した。前転。前の真下から打ち上げられた撃だと言うのに、獣の少女は喉を割く瞬時を見極め、前のめりでそれを回避して見せたと言うのだ。
 結果、獣は落下中の近衛木乃香に肉薄していく。鉄塊。それを、今一度頭上から叩き落さんと振り上げて―――

 瞬間、獣の目の前に小瓶が二つ。不思議な極彩色に輝く液体の込められた二つのガラス製の小瓶。
 その液体二つが獣と近衛木乃香、そして胸に抱かれている金銀の髪の女の子の間で混じり合う。
 そして炸裂。花火のような破裂音と共に、獣は後退。近衛木乃香と金銀の髪の女の子―――エヴァンジェリンは、無事に着地する。
 魔法薬による瞬間魔法の発動。それがエヴァンジェリンの用いた技法である。既に魔力はまったくのゼロであるエヴァンジェリンの唯一仕える抵抗符。
 魔力健在中に精製した魔法薬の幾つか。それを、エヴァンジェリンは護身用として常に持ち合わせていたのだ。
 尤もその破壊力は今の通り。破壊にもならないような炸裂を行うだけの花火のような子供だましである。
 だが、今の魔力一切皆無のエヴァンジェリンからすれば充分なまでの抵抗策。しかし、獣の少女から見れば単なる大きな音を出すだけのモノ。

 近衛木乃香は真剣の様な刃になった薙刀を構え、エヴァンジェリンはその胸から降ろされて立つ。
 二人が見つめる先。臙脂の髪の獣は、鉄塊を持ち上げ構え、その口から暴虐な獣の牙を光らせる。それを見て、二人が僅かに顔を悲壮に染めたと同時か。
 獣が来る。真正面から突っ込んでくる様相は、近衛木乃香とエヴァンジェリンが知っているあの少女そのものだと二人は思う。
 何一つ変わっていないクセに、何一つ覚えていない。それに、二人は心を痛め、そして、一筋泪を流すと。近衛木乃香は、飛び込んでいった。

 降りぬかれる上段の横薙ぎ。疾風怒濤の勢いで繰り出された撃を掻い潜り、近衛木乃香はその胸目掛けて躊躇い無く薙刀を突き出す。
 心の臓腑の真横。そこへ目掛けて、薙刀が吸い込まれていく。無論魔力による硬質化はないが、それでも突き飛ばし、気絶させるには充分すぎる一撃となろう。
 だが、唐突に臙脂の髪が揺れた、鉄塊を片手で扱っている事の意味。どれ程の重量なのかも判断できないその鉄塊の重さに惹かれるように、臙脂の髪の獣はその体を揺らす。
 心臓の真横を抜ける筈だった薙刀は、数ミリ間を抜けるように回避される。臙脂の獣の背中。そこを抜けて、一ミリも傷つけずに回避されていく。
 代わりに迫るのは、右手の持っていた鉄塊。臙脂の髪の獣の反転。剣を振り抜いた勢いのまま、ソレは一回転したのだ。

 顔面目掛けて襲い掛かってくる鉄塊。一回転した勢いを加え、初撃のソレとは比べ物にならないほどの膂力を秘めた一撃。
 近衛木乃香は薙刀の刃を天へ向け、突きの体勢から切り上げへ。その鉄塊を僅かに挙げる。
 それでも、人間程度ではどうしようもないほどの勢いの撃だ。勢いは衰えず、反転の横薙ぎは近衛木乃香の頭蓋を吹き飛ばそうとする。
 鉄塊を持ち上げた薙刀。近衛木乃香の体は極限まで縮められ、薙刀を天へ向けるような形となる。
 頭上には風切りの音を鳴らす鉄塊。その一撃を受ければ、武器は粉砕。肉体は絶命するであろう。
 それを知っている近衛木乃香はあえて受けるような真似などしない。鋼鉄の塊の剣と、魔力強化しただけの木製の薙刀では、その威力が違いすぎることなど、当に知っている。

 故に受け流し。近衛木乃香は打ち抜かれた横薙ぎの一閃の真下をくぐり、臙脂の獣の真後ろへと廻る。
 五年前のふんわりとした雰囲気の女性から、既に彼女はここまで鋭利な動きを披露できる領域まで到達していたのだ。
 黒の外套を抜け、近衛木乃香は臙脂の髪の獣の背後に廻る。そして、お互いに一定の距離。
 僅か寸間数メートルの距離で、二者は己が武装を構える。無骨な鉄塊と、鋭利な薙刀。だが、近衛木乃香の身体が揺れる。苦しげな顔になり、膝立ちとなる。
 魔力強化の行われていたのは武器だけなのか。近衛木乃香の肉体は一瞬の攻防にも相対せるほどに強化はされていなかった。
 故に、どれだけ鋭い動きを見せれても鋼化した生命体と正面切っての激突は、無謀と言いざるえない。
 そこへ臙脂の髪の獣が飛び込む。巨大な鉄塊を構え突っ込む姿。相変わらず容赦のない、ソレで居て愚直なまでに真っ直ぐな太刀。
 それを、近衛木乃香は夢見るように眺め、鈍痛を感じる脇腹を抑えたまま、目を閉じた。先の打突。それが、彼女の脇腹を掠っていたのだ。
 一秒。それだけなくても近衛木乃香は殺される。だが、不思議と近衛木乃香は満ち足りていた。
 二度と会えないと思っていた者。それに会えた安堵なのか。近衛木乃香は満ちたり、けれど、これで終わりかと思うと後悔もあった。

 けれど、神楽坂明日菜と言う幼馴染に殺されると言うのなら。近衛木乃香はそれで満ち足りたような気分になった。
 会いたいと思い会えたこと。それだけが嬉しくて、でも、それだけで終わりと思うと悔しくて。それが繰り返されていく中で。
 ガィンと、頭上の真上でそんな轟音が鳴った。
 落雷じみた発光と、爆撃じみた爆音だった為、真下の近衛木乃香の意識は跳びかける。
 しかし、それをなんとか留めて、彼女は眼を開き、そして見上げる。満天の星空の下。

 かち合う鈍鋼色の鉄塊と、白銀の斬鋼。
 両手持ちに叩き落されている臙脂の獣の大剣と、同じく両手持ちに構えられている無骨な野太刀がかち合う。キリキリと刃軋りをさせ、ちりちりと火花を散らせ。
 鋼化神楽坂明日菜と、翼持ちの桜咲刹那が見合っていた―――
 見合う。お互いに見合っている。意思の宿らぬ獣の眼差しで神楽坂明日菜は翼の剣士を見下ろし。
 全開の殺意を押し隠す事も無い悪鬼の如き眼差しで桜咲刹那は獣の戦士を見上げ。
 お互いに、一気に距離を開いた。

 獣の動きで離れた神楽坂明日菜。鳥の如き華麗な動きで空を数回廻り接地する桜咲刹那。お互い、足が地面に付いたと同時に駆ける。
 そして、必殺の距離。お互いにお互いの持つ大剣・長剣を最大の加速と膂力で振り切れる距離まで詰め寄り、嵐の様な打ち合いが取り交わされる。
 大振りの筈の神楽坂明日菜の乱撃。鋭利な筈の桜咲刹那の殺技。
 だが威力も速度も互いに互角。僅かに威力は神楽坂明日菜の方が上であり、僅かに剣戟の加速は桜咲刹那の方が上といった程度だ。よって、お互いに威力は互角であった。
 以前、とは言っても、五年前。二人はほぼ全力でぶつかり合った事がある。
 必殺の武器同士ではなかったが、師と弟子として自ら全力を以って合い見えたのだ。
 だが、今のこの死闘は違う。お互いに殺気は充分。相手を絶命させるつもりで打ち合っているのだ。

 神楽坂明日菜の身体が浮く。僅か数センチ浮いた神楽坂明日菜の体は一気に反転し、全体重と全身体筋肉を追加した撃として、桜咲刹那に叩き落される。
 それは、彼女の持つ長剣では捌ききれない。捌こうとして受けたのならば、剣もろとも真っ二つに分断される撃であろうからだ。
 僅かに体をずらし、桜咲刹那はそれを回避する。本当に数ミリ。数ミリ動き、頬を僅かに掠る。
 それだけで彼女は自らの頭部に凄まじい激痛を感じた。完全に回避しなければいけない。彼女はソレを脳内へ瞬時に叩き込み。打ち下ろされた大剣を足がかりにして跳ぶ。
 空中で数回廻り、先の神楽坂明日菜と同じように叩き落された白刃の一撃。
 それを、神楽坂明日菜は回避できない。桜咲刹那が空へ飛ぶ寸前に足がかりにした大剣。
 それが、よほどの力で踏み台とされたのだろう、地面に突き刺さっていたのだ。

 だが回避できないのであれば他に取るべき法など幾らでもある。そう言うものだった。振り下ろされた白刃の一撃。
 羽の膂力も加わったその一撃が神楽坂明日菜の頭部へ到達しきる寸前、その刃は止まる。
 そして先。白刃の先端は、神楽坂明日菜の鋭い牙の生えた口により、受け止められていた。
 互いに一歩後退する。桜咲刹那は白刃の刃を捻りを加え口から引き抜こうと。
 神楽坂明日菜は地面に突き刺さってクレーターを形成していた大剣そのまま振り上げて。
 白刃が口の端を僅かに切る。大剣が、胸元を僅かに掠める。そうして桜咲刹那は先に接地した。
 神楽坂明日菜は振り上げの勢いを留める事が出来ず、体勢制御の為に背後を向けていた。
 今こそ、桜咲刹那はそう思考し、駆け出す。駆け出す一瞬、彼女は神楽坂明日菜の剣に僅かな変化がある事を見過ごしてしまったというのに―――

 急激に神楽坂明日菜の動きが早くなる。一瞬で一回転を終え、突っ込んだ桜咲刹那に向けて先の振り上げの勢いを加えたもう一撃の振り上げを叩き込む。
 それを、白刃を横にし、寸でで受け止めた桜咲刹那は妙な感触を味わった。剣を確かに受け止めたのだが、軽いのだ。
 大剣が、先の打ち合い程の重さが無い。だと言うのに剣の速度は上がっており、その重さだけが失われている。
 その理由を考える。それを成すより先に―――桜咲刹那の足の間際に、鉄の杭が打ち込まれた。
 眼を見開く。だがそんな余裕は無い。風切り音は真上から。桜咲刹那は、何かが落ちてくるのを感じ取り、神楽坂明日菜の振り上げ勢いを利用し、そこから離脱する。
 離脱する寸前、彼女の瞼の上を、何かが掠めていった―――

 ドン。その音は、先まで桜咲刹那の立っていた位置からした。杭。鉄の杭が打ち込まれている。
 それを確認するより先に、桜咲刹那は幾度も幾度も回転を決めて後退していく。そうして回転した位置と言う位置に、空から鉄の杭が打ち込まれていくのだ。
 先の一瞬。振り上げの勢いによって背中を向けていた神楽坂明日菜のとった手段。何処から打ち出し、そして落下するように仕掛けた鉄の杭。
 勿論、神楽坂明日菜にはその様な思考は無い。思考は無いが、その様な手段で生き抜いてきた経験がそうさせたまで。
 横腹を押さえる近衛木乃香の真横まで戻ってきた桜咲刹那。だが止まっている余裕など無い。着地した時には既に、神楽坂明日菜が走りこんでいたからだ。
 降りぬかれる大剣一閃。それを、桜咲刹那はブリッジするような形で回避する。そうして眼前には横に思い切り振るった神楽坂明日菜の隙だらけの体躯。
 だが、それを前にして、桜咲刹那は動けなかった。ブリッジの体勢から両足の裏を神楽坂明日菜に向け、蹴り飛ばす。

 砂煙を上げ後退する神楽坂明日菜と、苦悶の表情を浮かべながら腹部を押さえて立ち上がる桜咲刹那。
 決着は、既についていた。
 後退していった桜咲刹那との距離を瞬時で詰めた神楽坂明日菜の横薙ぎ一閃。
 桜咲刹那がそれを回避し切れなかっただけの話だ。結果、振り抜かれた剣戟一閃は桜咲刹那の腹部を掠め、僅かながら血を滲ませている。
 苦悶の表情と僅かなうめき声を上げるままに、桜咲刹那は顔を挙げる。
 吹き飛ばされた神楽坂明日菜は、鉄の杭の中に一人立っている。数十本からなら鉄の杭。両先端は鋭利であり、飛針をそのまま巨大化させたかのようにも見える。
 体を捻った神楽坂明日菜が超低姿勢で大剣を振るう。それに応じ、地面に突き刺さっていた幾数本の鉄杭は空中へ抜き飛び、それが瞬時に、消えた。

 消えた。近衛木乃香とエヴァンジェリンにはそう見えた。だが桜咲刹那には確かに捉えられていたのだ。
 大剣のみね側。そこが開口し、その中に鉄杭が収納されていく様。あの無骨な大剣はただの大剣ではなく、内側に、無数の鉄杭を収納している剣だったのだ。
 神楽坂明日菜は僅かに瞳を細めた、様な気がした。その場の三人には。鋭い犬歯を口の端から覗かせて、神楽坂明日菜は一言も告げず、一音とて唸り声も挙げず、踵を返す。
 向かう先は夜。夜の闇が支配しながらも、激突によって巻いた風が巻き上げた桜の花びら降り注ぐ、その闇の奥だった。

 先までの暴風と乱撃が嘘のような静寂。その中で、二人倒れた。桜咲刹那と、近衛木乃香。
 お互いに同じような傷を負った者同士。互いに戦う力を得たものは、その場に倒れ臥した。
 声を挙げて、エヴァンジェリンは二人に駆け寄る。桜の花びらは散り往き、風は、暴風と打ち合った鋼と鋼同士の残響をなかったものとしていく。
 あれから五年。止まっていた歯車が動き出した。

第四十八話 / 第五十話


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