第五十七話〜螺旋〜


そうして、また繰り返す

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 飛び去っていった鋼の塔目指して、少年は走り続ける。
 その体に魔力により強化をかける事も、風の力を用いてより早く走る事すらも忘れて、少年は其処目指して走り続ける。
 天に広がる巨大な魔方陣。空中に浮かぶ魔方陣は、魔方陣として規定外の大きさを誇る。
 それ故に大儀礼と言われるのか。それは解らないが、その魔方陣の規模から、施行されようとしている大儀礼の恐ろしさを、少年は肌で感じていた。
 麻帆良の鋼塔を基点とし、地平線の果てまで続く真紅の大魔方陣。それは、一節ごとに回転を始めていた。

 互い違いになりながら回転する大魔方陣。
 そして動く大魔力に、少年は初めてこれこそが真の魔法足りえると確信する。
 これぞ魔法であり、これこそが真の禁忌と奇跡の集大成なるべきものであると、それを理解した。
 そして、それは、人間では到底至る事の出来ない領域の大儀礼なのだと。
 それを行使しようと、真紅の魔法使いはしていた。大魔力を消費しながら施行され始めた大儀礼。
 コレほどまでの魔力を消費して施行される魔法に、どれだけの代償が支払われるのか。それを、少年ならずとも考えれば、背筋も凍えるだろう。

 止めなければいけない。少年はそう考える。
 それを、使ってはいけないと心の中で叫びつつ、少年は駆けて行く。
 だが、その足を止めざる得なかった。何故か。黒い霧。それが、鋼塔へと伸びている道に満ち満ちている。
 それもただの黒い霧ではない。徐々に形成していくそれは、フェニックスの片翼なる大儀礼の影響なのか。
 少年が知る、邪霊等と言われるタイプの怨霊であった。
 エヴァンジェリンは、嘗てこの大儀礼で大戦は引き起こされたと言った。
 復活の大儀礼とも言うべきそれでありながら、何故に大戦の原因などに発展したのか。その理由は、正にコレであった。

 集結し続ける大魔力がそれを成していく。大気に満ちた霊らに魔力塊による肉体が形成されていくのだ。
 復活と言う大魔法故に、満ちる魔力とかの大魔方陣が復活の呪文を組み立てていくのだろう。
 それに便乗した邪霊等が肉体を得て、再びこの世に帰化すると言う事。それが、二十数年前の大戦の原因でもあった。
 だが、少年の目の前で展開されていく光景はもうっとおぞましい。黒い霧が、辛うじて生き物としてのカタチを取っていくだけ。
 実態は、限りなくないにも等しい。それが少年の目の前を含め、道の果ての果てまで構築されていっているのだ。
 少年が魔力を溜めようにも、吸い上げられている魔力の量の凄まじさから、魔力の供給が殆ど出来ない状態だった。
 それでも無理に魔力を集結させようとしたのが災いしたか、黒い霧の幾つかが、少年の方を向くかのようなカタチになった。

 少年が身構えるよりも早いか。幾つかの、獣の姿をしたかのような黒い霧が奔る。
 魔力による強化が無い以上、少年の動きはその獣の動きにはついていけない。
 あるいは、少年からも魔力を吸い上げているのか、動きが何処かおぼつかないのだ。
 苦悶に顔を歪めた少年に、形成した黒い霧の幾つかが飛び掛った。
 ソレと同時か。少年の真横に、音も無く大型の二輪が横付けされて――――
 爆音一閃。黒い霧は払われた。

「えっ……!?」

 身を屈めた少年の前に立つのは女性だろう。
 長い黒髪を靡かせた女性が、そのか細そうな腕で操る事は想像も出来ない程の大きさを誇る巨大な銃火器を肩から提げて、迫っていた黒い霧を一気に晴らしたのだ。
 風に靡くその黒髪。僅かに振り返った女性を姿を見て、少年は息を呑む。
 優しげな眼差しに、しかし、勇壮なその気配。色黒の肌をした彼女は紛れもなく、五年前に少年が隊長などと慕ってしまった、かの女性―――龍宮真名であった。

「久しぶりだね。ネギ先生」
「た、龍宮さん!?」
「私だけじゃないよ、先生」

 黒い霧が周囲から一気に飛び掛る。
 最早生き物の形すら成せていないものもあるが、それらの前方は龍宮真名が砲身を少なくした軽量化ガトリングで瞬時に薙ぎ払い、後方内角上方から飛び込んできた黒い霧の相手は少年が受け持とうと構えたと同時か。少年の横を、一陣の風が奔った。
 空中へ飛び上がったその影。身動きをとるのが難しい空中でありながら、その影の動きは猫の如く敏捷であり軽快。
 僅かに発光する手足を空中で独楽の様に振るうだけで、迫っていた黒い影は文字通り一網打尽に臥される。
 回転のままに降りてきた女性。嘗ては少年よりも大きかったその身長だが、今では少年の方が遥かに大きい。

 だが、それは逆に言えばの女性の背丈は殆ど変わってはおらず、しかし、そんな背丈の差など関係ないほどに、その技量はかの五年前よりも遥かに鍛え上げられていると言う事だった。
 現に、目の前に降り立った女性は五年前以上の気迫で佇んで居るのだから―――
 振り返った女性が笑う。何処か拍子抜けするかのような、その軽快な笑顔。
 人を食ったような笑顔と言うよりは、あまり何かを考えているかのようには見えない笑顔の女性が誰であるのかなど、語るまでも無い。

「古老師!?」
「にほほ、もう老師は止すネ、ネギ坊主。お互い実力は互角ぐらいじゃないかネ?」

 褐色の肌でにかかと笑む女性の名は言うまでもない。嘗てのAクラスの出席番号十二番古菲。その人であった。
 駆けつけてきたというのか、二人は少年の前に立ち並んで、お互い微笑みながら顔を見合わせる。

「さぁ、ネギ先生」
「やる事あると違うカ? 此処は私達に任せて行くネ」

 ガトリング砲を大型自動二輪へと収納し、龍宮真名は大型の拳銃を構えなおす。
 それに伴い、古菲もまた、その両拳、両足に黄金の発光を伴わせた。
 黒い霧を前に威風堂々と立ちふさがった二人の背中を見て、少年は心打たれた。
 五年前にも似た光景を、少年は知っている。少年はその場には居なかったが、後の話で彼は二人が助けに駆けつけてきてくれたのを知ったのだから。
 それを同じような光景だった。だが、今回の危険は嘗てのあの頃以上。
 相手は鋼性種と化している存在であり、今施行されている大儀礼は大戦とも言われる悲劇を誘発させたとも言われている禁忌であり奇跡なのだ。失敗として発動すれば、彼女たちが真っ先に危険に会う事など少年は容易く承知できた。

 だが、そうであってもと少年は思う。そうなる前に自分が成さなければいけない事は何か。
 そうなるよりも先に、自分にはやるべき事があるのではないと悟る。
 そうだ。少年は思う。自分の選んだ道は、その道だと。
 少年の肩に手が置かれた。何時の間に追いついていたのか、薙刀を構えたかの契約姿の近衛木乃香と、アーティファクトを胸に抱いた宮崎のどか。
 魔道書を両手に従えた綾瀬夕映までもいる。嘗てのクラスメイトらに囲まれ、少年は顔を挙げる。その先にあるもの。それは、天空に広がる大魔方陣の中心。

「さぁ」
「行くネ!!!」

 二人の声に押されるように。

「はい!! 往きます!!!」

 少年を先頭に、クラスメイトの一員だった者達も続いていった。
 過ぎ去るその瞬間まで、二人は少年と彼女たちを見送り続けた。
 懐かしげな眼差しと、帰ってきた少年が見つけた答えに満足し、二人はお互いの顔を見合わせながら微笑んだ。
 変わっていないものだと。少年の真っ直ぐな眼差しも、それに共に行ったクラスメイトたちの、あの決意に満ちた表情は変わっていないのだと。

「皆大きくなったものネ。夕映なんて、特に。でもやっぱりイチバンは」
「ネギ先生、だろう? 帰ってくると聞いて少しぐらいは叱咤してやろうかとも思ったが、あの調子ならば要らない様だな」

 振り返った両者の前には地平線の果てまで続く黒い霧の形成した異形の群れ。
 ソコには、先に龍宮真名と古菲が駆逐した筈の影も混ざっている。
 フェニックスの片翼なる大儀礼の影響なのか。それとも、元は大気中を漂っているだけの邪霊な為なのか。
 だが、拳銃の扱い手と拳の担い手は差ほども気にした様子は窺えない。

 拳銃を構えた龍宮真名が両目を閉じる。魔眼はない龍宮真名。だがそれがどうしたと彼女は自らを叱咤激励する。
 魔眼があろうがなかろうが私は私だと。それに、多少地味程度が自分にはちょうど良い。
 このような役柄を進んで受け持ったのもまた、あの少年らの為。
 そう龍宮真名は思う。自分は、誰かの為程度に活躍するのが最も丁度良いのだと。
 拳を構える古菲が小さく呼気する。肺に満ちてくる、清浄な世界の清浄な空気。
 それが、嘗て散々痛めつけられた、そして散々痛めつけて此処まで動けるようにした肉体に満ちてくる。
 嘗て限死によってズタズタにされた足に一度だけ目を向ける。五年賭けてリハビリした結果、此処まで動かせるようになった足。
 嘗て程ではないにしろ、そこまで動かせるまでに募らせた研鑽の日々を思い出しつつ、古菲は僅かに笑って、龍宮真名と視線を合わせる。

「準備はいいネ? 真名」
「こっちの台詞だ。怖くなったら逃げてもいいぞ? 古」

 二人が駆ける。応じるように、黒い霧の邪霊もまた飛び掛っていく。生き残れる可能性は限りなく低いと言うのに、二人は笑いながら黒い霧の中へと突っ込んでいった―――

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 少年とソレに連なるように少女たちは駆けていく。
 場所は林。既にかの黒い影の姿は無い。
 黒い霧によって形成されたそれらは全て龍宮真名と古菲が受け持ったのか、少年らの行く先を塞ぐ影は一切も存在しない。
 だが感じ取れる。連なって奔り続ける彼らは魔力を感じに取れる者達なのだ。
 その体の内からすらも失われていく大量の魔力が天空へ昇り、かの鋼の塔へ向かっていくのを目視できずとも感じ取れていたのだ。

 鋼の塔の上方が発光している。
 紅い、あの、家屋の天井を焼き払った時に生み出された大量の火の粉じみた燐光がまるで桜の花が散るかのように、鋼の塔の上から地上へ向けて降り注いでいる。
 その光景は幻想的でもあり、しかし、同時に大量の魔力が炎と化し、一瞬で費やされているのだと言う事実を裏付ける決定的な証拠でもあった。
 他者の魔力さえも消費して行使されている大儀礼がいつ完璧な形になるのかなど、少年を含めて、誰にも解らない。
 解らないが故に奔っているのだ。少年は止める為に。
 ただそれだけの為に。ならば続く少女たちは何の為に居るのか。簡単だ。

 近衛木乃香が何かに感づく。両手を広げ、後方から追って来ていた綾瀬夕映、宮崎のどかの足を止めさせる。
 その状況に気付き、少年も足を止めた時だったか。鋭い気配を、その場の全員が感じ取った。
 視線は鋭く、近衛木乃香は林の奥に向けて薙刀を構えた。皆が構えた薙刀の先を見れば、応じるかのように揺れる林の奥の臙脂が姿を現す。
 何故その場所に居るのか。否、何処に居ようとも関係ない。彼女は鋼性種に支配されて居るのだから。
 この異常な魔力の飛び交う中で唯一感じ取れた懐かしさを感じ取れたのか。
 彼女は、単にその懐かしさにも似た、単なる気紛れにも近い思いで此処に至っただけにも等しかった。
 だが、近衛木乃香にとってはそれは関係ない。
 二度目の、五年越しの再会にしてはあまりにも味気ないものだったが、それでも近衛木乃香には関係ない。
 再び出会えたのだ。それだけでも十分だった。

「明日菜さん……木乃香さん……」

 見合う二人の少女。否、一方は既に成人した女性であり、一方に至っては人間的な要素を全て廃した鋼性種に支配されている獣だ。
 両者は既に五年前に違えたも同じで、今は友として見ているのは近衛木乃香側だけであり、神楽坂明日菜側から見れば、目の前のソレらは、単に懐かしさを放っているだけの、何かだった。
 綾瀬夕映が両手に懐いていた魔道書を空中へ展開する。
 応じて、宮崎のどかもまた、一言だけ本に向かって何かを告げるとその本を開く。
 だが、宮崎のどかはその本の中身を見て表情を暗くする。相手の深層心理を読み取れるソレも、鋼化した相手には無意味なのか。本の中身は空白のページだけが続いていた。

「ネギ君。此処はウチらに任せてぇな」
「ネギ先生はアーニャさんの方をお願いするです。私達が行っても、あの大魔力ではお役に立てそうにありませんです」
「明日菜さんは私達で何とかしますからー……だからっ、ネギせんせー!!」

 大剣を構えた神楽坂明日菜に三人が詰め寄る。
 そうして振り返ったその顔に、迷いも何も無い。否、寧ろその眼差しは少年の背中を押すかのように力強かった。
 少年もわかっている。皆の力を借りると誓った。
 自分一人だけで出来る事など高が知れているのを知った少年にとって、その眼差しは強く、何事にも変えがたいものであった。
 頷いて、駆け出す。振り返りはしない。彼女達に任せると誓った。
 彼女達の力を借りると誓ったのは自分なのだ。だから、少年は少年にしか出来ない事を成しに行くのみ。
 そういう誓いを、彼女たちと交えていた事を思い出しつつ、少年は林の中へ駆けていく。

 その背中を、誰一人見送りはしない。
 見送っている余裕など無いのだろう。目の前に対峙しているのは臙脂の髪の獣だけではないのだ。
 臙脂の髪の少女の影より、巨大な影が姿を見せる。
 白と黒の毛並みに覆われた大型の獣。限死と神楽坂明日菜は並び、若干眼窩に控えた三人を見つめている。
 接近戦等が出来るのは近衛木乃香だけだった。この状況で二体同時に襲い掛かられては、流石の近衛木乃香も相対せないだろう。
 それは、本人も理解できている筈。まともに二人から襲い掛かられて完璧に捌き切れる敵対者など、この地球上に存在しない。目の前の二人は、そんな相手だからだ。

 前傾姿勢となる限死と神楽坂明日菜。
 応じるように、近衛木乃香は薙刀を中段越しに構え、綾瀬夕映も二冊の魔道書を代わる代わるに見定めて口の中だけで詠唱を行う。
 宮崎のどかもまた、両の瞳を閉じ、より深く、深くへと潜り込める様に意識を集中させていく。
 瞬間、神楽坂明日菜と限死の姿が消えた。綾瀬夕映も、近衛木乃香すらも反応できない。
 否、二人は辛うじて二体の姿が消えた瞬間までは目認できた。
 出来なかったのは、一瞬で距離を詰め切って、近衛木乃香の上方から襲い掛かろうとしている姿だ。

 近衛木乃香が上方へ視線を動かした時には既に遅い。
 二体は爪牙と大剣を光らせて、接近戦闘が唯一できるだろう少女へ襲い掛かっている。
 確実に絶命させるであろうその撃を、事もあろうか薙刀の担い手は正面切って受け止めようと薙刀を構えた。
 それは、あまりにも無謀の筈。誰の目から見てもそうだ。だが、近衛木乃香がそれを選んだ理由を、綾瀬夕映は何となく理解した。
 彼女は強くなったのだ。もう、誰かから擁護を受ける必要も無いほどに。
 それはまるで、嘗ての神楽坂明日菜を体現するかのよう。愚直なまでに真っ直ぐで、皆を引き連れていく、太陽の申し子のようだった彼女を模すかのようであり。

 だから、彼女は見て欲しかったのだ。
 そんな自分を、強くなった自分、誰かから守られる必要のなくなった自分。
 それを、神楽坂明日菜に見て欲しかったからだろう。だから正面から受け止めようとした。
 仮令、神楽坂明日菜には何も解らなくなっているとしても、そんな強くなった自分を、今一度見て欲しかった。
 正面から受け止めようと薙刀を構えたのは、そんな想いからだった。

 振り下ろされる爪と大剣。近衛木乃香は、薙刀が砕かれようとその大剣と爪を見続けるつもりだった。
 だが、瞬間、二つの影が大剣と爪、そして薙刀の間へと滑り込み―――]の文字を描くかのように、二つの何かは、斜めに振り抜かれた。
 弾き飛ばされた鋼性種二体が顔を挙げる。そして、近衛木乃香は目を丸くして自らの左右に立つ二つの姿を見つめていた。
 右側には不思議な出で立ちでチェーンソー状の刃を従えた大鎌を持つあの雪広あやかがあり、左手側にはあの烏族特有の戦闘服に身を包んだ桜咲刹那が、鋭い目つきのままに、襲い掛かってきた二体を見据えていた。

「いいんちょ!? …………せっちゃん?」

 雪広あやかの姿にも驚愕したが、傍らに立った桜咲刹那の姿に近衛木乃香は若干困惑する。
 あの夕日の中のような仲違いを犯してしまったにも拘らず、傍らの剣士には迷いも無いかのような清浄な気配が包んでいる。
 雪広あやかは僅かに近衛木乃香の方を振り返り、彼女と視線を合わせる。
 解っていますわね。近衛木乃香にはそう言っているようにも思えた。

「せっちゃん……ウチ……ウチな……」
「―――このちゃん」

 桜咲刹那が振り向きもせずに、ただ前方に控えた二体の鋼性種に睨みを利かせながら呟くように告げる。
 そして、限死は左へ、神楽坂明日菜は右へと移動を開始すると、雪広あやかと桜咲刹那は左手側へと移動していった。
 僅かに振り向く桜咲刹那。穏やかなその顔立ちで、彼女は確かな声で告げる。

「明日菜さんの事、お願いできる?」

 いつか聞いた、幼馴染の声で近衛木乃香にそう告げた。
 一瞬。彼女の心の中が止まる。だが直に動きだす。急加速のように、思いだけが走り抜けていくのを彼女は感じた。
 雪広あやかの言うとおりだ。
 二人には、とうに答えなど出ていた。恐らく、五年前から答えなど出ていただろう。

 桜咲刹那の出すべき答えなど初めから決まっていた。
 彼女は、剣を捨てると誓った。だが得る剣がある。
 彼女が捨てた剣は、大好きな人を守る剣。
 それはもう必要なかったのだ。守る剣ではなく、救う剣こそが新しく得た剣。

 近衛木乃香を守る剣ではない。
 近衛木乃香と共に救う剣を得たのだ。その為に剣を捨てた。守る剣を、捨てたのだ。
 剣と幸せ。選んだ物は相変わらず。二つを選び、しかし、選んだ二つのうち、片方は新たに得たものだ。
 それを担って、桜咲刹那は幸せを取りに行く。二人で。傍らの、近衛木乃香と共に。
 近衛木乃香の欲しかった答えが出た。前に出て守られる必要など無い。共に肩を並べて、並びあって行きたいという思い。

「―――うん!!」

 力強く頷いた。これ以上力の出るような事など無いというぐらいに力強く、近衛木乃香は頷いて、正面を切って見る。
 見る先は任された、そう、初めて任されると言われた少女の姿。
 神楽坂明日菜と言う名の少女が、変わらない姿のままに近衛木乃香を待つかのように佇んでいる。
 桜咲刹那と肩を並べる近衛木乃香。ソレでよかった。他に言葉など無い。
 共に、こうして共に在るだけで近衛木乃香と桜咲刹那は充分だった。
 あの仲違いなど無かったも同然。過去は、今の二人にとってさほど意味の無いものだったから。

 帰ってきた者達がいる。だが、どれだけ帰ってこようとも帰ってはこない日々は確実にある。
 ならば答えなど簡単だった。始めればいい。過去など、過ぎ去った事柄など今更元に戻すことは出来ない。
 ならばどうするのか。どうするもこうするもない。今から変えていけばいいのではないだろうか。
 戻ってこないと言うのならば、五年前以上に楽しくすれば良い。
 過去を、振り返るマネはしなかった。二人とも。否、その場の全員だ。
 皆先を見据える。見据える先には繋ぎ止められている二者。
 神楽坂明日菜と、機能得限止。二人が繋ぎとめられて、そこに居るのだ。
 近衛木乃香は右手側へと足を滑らせていく。ソレに着いて行くのは二人。綾瀬夕映と宮崎のどかの二人だ。限死側には二人。雪広あやかと桜咲刹那がそれぞれに武器を構える。

「いいんちょさん」
「―――お互いに上手くいきましたわね。夕映さん」

 綾瀬夕映の声に伐採魔法少女姿の雪広あやかが踵を返す。
 微笑む眼鏡の綾瀬夕映に、雪広あやかもまた微笑んだ。お互いに人が良いにも程があるとなどとでも思っているのか。
 だが後悔など無いし、無念とも思わない。残念と言う感情すらない。
 あるのは一途。止まったままの五年目を始める為の決意一つ。

「このちゃん!!」
「せっちゃん!!」

 二人の声が合図。雪広あやかと桜咲刹那は申し合わせたかのように飛び掛った限死へ奔り―――
 近衛木乃香は綾瀬夕映を後方に控えさせた状態で、走り寄る神楽坂明日菜へ、向かっていった。

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 奔る。少年は奔り続ける。
 後方から上がる轟音、爆音にすら踵を反さず、目指すは麻帆良の中心に聳え立つ、かの鋼塔。その頂上を目指し、少年は奔り続ける。
 悩みや不安など尽きない。杖の無い状態で、あの壮絶な大魔力を軽々と操作しきるアーニャと言う幼馴染に相対せるなどとは思っていない。
 思っていないが、それでも奔るのを辞めないのは何故。
 こうして走っている間にも、自分たちを行かせてくれた彼女達の身がどうなっているのかを不安に思わないはずも無い。
 だが奔っている。なおも奔り続ける。勝ち目があろうが無かろうが関係ない。
 任された以上、任せたい状少年は少年に出来る事を成しに行くまで。それが少年を突き動かす唯一つの思いだった。

 嘗て、父を真っ直ぐに見詰めていた少年。
 見つめ過ぎていた少年に後悔は無い。後悔は無いが、惜しむべきは見つめ続けていたその時間だろうと思う。
 その時間を僅かでも、かのクラスメイトの少女たちに向ける事が出来たのならば、僅かでも、周辺を見る事が出来たのならば。
 そう思う。そう思い、奔る。それを思って、走っているのだ。
 真っ直ぐに奔り続ける。あの時と同じ、真っ直ぐな眼差しと、愚直なまでに一途な思いで奔っていく。
 それだけで良かった。少年が走り続ける理由など、他には一切も必要なかった。

 息が上がり、疲労感が足を包み込んでも尚、少年は奔るのを辞めない。
 辞めないが、その行く手を阻む気配を感じた以上、歩みを止めざる得なかった。
 息を荒げながら少年が見る方。進行方向に、人影が立っている。
 少年から見れば長身であり、やや歳もいっているかのその姿。
 その姿を、少年は見覚えがあった。実際に話している姿を見たことは無いが、彼の持つ写真から知っていたのだ。
 髭面の男性。神楽坂明日菜と似た苗字を持つであろう筈のその男性。
 名は、少年が知る限りはガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグの筈。
 既に死亡している筈のその男性が、半身が僅かに黒い霧で覆われた状態で、少年の前に立っている。

「ガトウ」

 少年の背後からの声と同時に、少年の左右から進み出る者が二人。
 ローブ姿のアルビレオ・イマと高畑・T・タカミチの二名が、久々にガトウ・カグラの前に立った。

「―――よぉ、アルビレオ。タカミチ。久しぶりだなぁ」

 紡がれた声は紛れも無くガトウ・カグラその人に間違えない。
 悪意の無い声であり、アルビレオにとっても、タカミチにとっても久々すぎる者の声であった。
 だが、両者は向かい合ったと同時に構えを取った。
 敵対する立場ではない筈だった両者だが、今は違う。
 ガトウ・カグラはフェニックスの片翼で呼び出された存在。
 もし、フェニックスの片翼が失敗し、大気中の大魔力が暴走常態となれば、半霊状態のガトウ・カグラもまた、あの大戦発生の原因となったような存在になる。
 それを止めるべく。その万が一を止めるべく、両者は構えたのだ。
 恐らくは全盛期。その頃の力を備えているであろうガトウ・カグラを前に、アルビレオ・イマもタカミチも緊張は隠しきれない。その中で。

「オイ。坊主。ナギの息子だろ? あのお嬢ちゃんを止めるんだったら急ぎな。
 大したモンだぜ。あのお嬢ちゃん。ひょっとしたら―――成功させるかもな」

 ガトウ・カグラの声に少年は胸が激しく動悸するような錯覚を覚える。
 そして冷静に場を見据える。目の前に立ちふさがっているガトウ・カグラと、それに見合うアルビレオ・イマと高畑・T・タカミチ。
 戦闘になれば、成長した少年でも介入不可能に等しい激闘が繰り広げられるであろう事など、三者の実力を知る少年が予測だてる事など容易い。
 少年は両脇に立った二人へと僅かに頭を下げると、一息も着かずにガトウ・カグラの横を抜けて走り抜けていく。
 その少年の姿を、何故か、ガトウ・カグラは懐かしそうに見送った。

「アレがあの唐変木の息子たぁな。
 全然、まるっきり違うじゃねえか。なあ、アルビレオ、タカミチ。そう思わねぇか?」

 軽口を叩く姿も、またあかのガトウ・カグラの姿そのままだった。
 だが、その姿にもアルビレオとタカミチは一切も構えを解く気は無い。

「ガトウ。私と貴方、どちらか強いかで争った事はありませんでしたね」
「ああ、お前なんかとやりあうのはこっちから願い下げだったからな。
 どうせお前のことだ、真正面からやりあう腹じゃないだろう」

 流石とも言うべきか。お互いにお互い、相手のことを熟知している同士、罵りあいも罵り合いにはならない。
 そこには、嘗てサウザンドマスターと言う男と共にかの大戦を生き抜いた者としての出で立ちが漂っている。

「師匠…………」
「へたれた面見せんなよ、タカミチ。今はお前の方が年上だろうし、技術も上だろう?
 まぁ、半死人みたいなもんだ。遠慮せずに、きな」

 眼光が鋭く光る。黒い霧を引きずりながらも、その白いスーツ姿でポケットに手を収める姿は、まさに高畑・T・タカミチと言う人物の戦闘スタイルの元となったそのものだ。
 タカミチもまた、同じ構えを取る。時代を超え、世代を経て、二人の師弟は同じ領域で向かい合う。
 僅かな時と為るであろう見合いの場において、アルビレオはこの奇妙な偶然にほんの僅か、感謝した。
 あの大戦ですら姿を見せなかった巨大にして偉大なる存在として現状地球に君臨した鋼性種。
 それが紡いだ、奇妙な絆。
 深い深い傷の名を以って紡がれてきた、数知れぬ長さの縁。
 それを、アルビレオは目を閉じて見据える。
 全ては五年前に始まり、そして終わりか、新たなる始まりを迎えようとしている。
 結末が何であれ、アルビレオは心持を確かとする。
 あの少年らと同じように、自分もまた、新たな道を選ぶ兆しとして用意されたこの運命。
 それに、僅かな感謝と、僅かな苦悩を懐きつつ。

「タカミチくん」
「……解っています。征きますよ、師匠」
「おう、遠慮すんな」

 天上の真紅の大魔方陣が輝きを強くする。
 その場の三者が集結させる魔力を遥かに上回る量の大魔力が、世界と、魂と、運命をかき混ぜていく―――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――

 聳える鋼塔。天の果てまで続く、魔法使いならば誰でも知っている『バベルの塔』にも似た高さを誇るその鋼の塔。
 五年前、そこに聳えていた巨大な樹木をなぎ倒し、その場から天へ向かって聳え立ったその塔。今の麻帆良はそれを中心に成り立っている。
 鋼塔の壁面に張り付くかのように立ち並んでいる新校舎は、まさに鋼性種と人間の共存をカタチにしたかのような妙なつくりのソレである。
 それを中心としたからこそ、この学園は世界初の鋼性種共存学園都市として成り立ったのだ。

 少年も知っている。それに対して、言う事は無い。鋼性種と言う生命体に対し、今更少年が思うような感情は無いにも等しい。
 何故か。五年前、彼らと彼女らの関係を完璧に崩したのは鋼性種と言う名の生命体だった。それを肯定する事が苦痛ではないのだろうか。
 苦痛では在ったかもしれない。だが、今の少年にはその感情は無い。
 ないというよりは、懐く必要性が感じられないと言うべきか。
 そう、どれだけ否定を繰り返そうと、最早かの存在を完璧に無いモノへは出来ないのだ。出来ないならば受け入れるだけ。
 それを、受け入れられないモノもいるだろう。事実、この様な世の中になっても鋼性種の存在を認めたがらない人間はいる。
 全盛期から比べれば指を折る程度だろうが、何時の時代であってもその時代に順応できない人間と言うのはいるのだから。

 だから、少年はそれでもいいと考えた。
 ソレも人間で、まだ世界では人間と言う命が息づいている。生きているのだと感じる。
 鋼性種が世界を占めようとも、その世界で今も生きている人たちは確かに居るのだと。
 父が、確かにそのために戦った人々は生きているのだと感じられる。
 大きな世界だった。少年が予測するよりも、遥かに大きな世界を少年は見た。
 その世界は広く、自分に出来る事など微塵程度のモノだった。そう、少年は感じ取り、此処まで来た。
 来て決意したのだ。それでも生きると。それでも、奔り続けるのだと。

 諦めなど無い。ただ奔り続ける。
 いつかと同じだった。仮令世界が変わり、時代が移ろい、世代の変わっていく時になったとしても、嘗て懐いた思いは今も燻り、駆け出すには充分すぎる力となる。
 だから、奔るのだと少年は訴える。今日も明日も明後日も。未来へ向けて奔り続けようと少年は思う。
 誰かと共に、奔っていくのだ。一人で走り続けるにはあまりに世知辛い世界となってしまったからこそ、誰かと共に奔っていくのだ。
 それが新しい世界の生き方。新しい世界での、少年のあり方だった。
 鋼塔を見上げる。果ては真紅に染まり、赤い燐光が欠片となって空から降り注いできている。
 見上げた塔は高く、このまま鋼塔にへばりついている公舎内を駆け上って行っても、半分程度までしか辿り着けない。

 魔力で自身の肉体を強化したとしても、鋼塔に生えている巨大な棘を飛び移っていくではあまりに時間がかかりすぎる。
 如何様にすれば一気にあの鋼塔の最上部まで到達できるのかを考えるも、一人ではあまりに辿り着ける案が出てこない。一人である事に無力感を覚えた時に、左右に影が映る。
 あの黒い影が追いついたのかと体に僅かながらでも魔力を通す。
 だが、次の瞬間には少年は自らの肩に重みを感じた。軽い重み。それが白い影だと認識したと同時に。

「あーにきぃ!! 景気はどうだい!?」

 軽快なあの声が、少年の耳に届いた。

「か、カモくん!? どうしたの!? 急に居なくなったと思ったら急に戻ってきたりして!?」
「へへっ、一人でひぃひぃ行ってんじゃないかって思って、助っ人、呼んできたぜ」

 左右に控えていた影が走る。少年より更に前に出たその理由は、自然界から引き出す魔力ではなく、己が力である“気”によって強化を行っている証拠か。
 影が誰かなど、確認を取る必要も無い。右手側には少年と同じ程度の背丈の少年――犬上小太郎が走りながら振り向き様に笑い、左手側には忍び装束に身を包んだ、あの長瀬楓が微笑んでいたからだ。
 どうするのかを、少年は瞬時に判断する。
 確かに、一気に頂上目指して飛んでいくには他に手段は無い。
 一人では出来ない。それを悟った少年に迷いは無いが、僅かな躊躇いがあった。
 友人とも言えるあの少年と、クラスの一員だった女性を足がかりにしてまで上り詰めるべきなのかと。
 あの高さまで上り詰めるには、相当の膂力が必要。如何に二人が永年に渡って修行を積み重ねきたとはいえ、少年をあの鋼塔まで送り届ければ、その高さゆえに唯では済まないだろう。
 それに僅かに躊躇った少年の横に、犬上小太郎が駆け寄った。

「まーた景気の悪い顔しよってからに。ネギはいつやって悩みすぎや!
 ワイらのことは気にせーへんでええ。お前はお前のやる事やってきぃや。
 忘れたんか? ワイはお前のライバルやで? あの塔の頂上から落ちたって、両足で立って見せるわ!」

 力強く語る。それで、躊躇いなど消えた。否、躊躇った事すらも恥じたくなった。
 そうだ。躊躇う事自体が迷いだったのだ。それを懐く必要など無かった。
 二人は、自分が思っている以上に強い存在なのだと。
 一人ではない。それで充分ではないのだろうか。
 一人で行く必要などない。誰かに支えられて、此処まで奔ってきたのだ。
 それを忘れなければ、充分ではないのだろうか。誰かに支えられている、そう思えるのならば、それで。
 鋼塔が迫る。階段を駆け上っていく中で、犬上小太郎が一人、突出して鋼塔に張り付いている校舎の側面を駆け上っていく。
 追うのは二人。ネギ・スプリングフィールドと、長瀬楓に二人。長瀬楓が少年の背後に着き、僅かに背中を押す。
 それだけで、少年の脚力が著しく上昇したかのような速度になった。

「長瀬さん……!!」

 振り返る少年の目には、微笑む長瀬楓の顔だけが映った。
 忍の少女は何も語らない。あの五年前で、彼女もまた傷ついた一人ではあった。だがその姿が何処にあろうか。
 抉られた側の腕を庇うような仕草も見せず、長瀬楓は少年の背中を押して、なお加速をかけていく。
 そして、階段を昇りきった所で、少年と長瀬楓は飛翔した。
 翼は無いし、杖も無い。飛ぶのは己が脚力だけであり、それにも限界がある。
 急上昇していく中で、長瀬楓が少年の手を握って上昇している方向へと廻った。
 鋼塔のまだ五分の一にも至っていないが、長瀬楓と、僅かな魔力だけで強化しているだけの少年では凡そこの距離が限界であった。
 振り返った長瀬楓と、少年の視線が合う。
 微笑んだまま一言として言葉を発しなかった長瀬楓だったが、少年と目線が合った瞬間、長瀬楓は一言だけ告げ―――

「大きくなったでござるなぁ。ネギ」

 体を反転させるかのようにして少年を更に高め目指して、投げ上げた。
 振り返りはしない。少年は振り返らなかったが、彼女の言葉を胸に刻んだ。
 長瀬楓が告げたのは、たったその一言だけだった。
 大きくなったと告げ、坊主がつかない、少年の名前を呼んだだけだった。

 長瀬楓自身に言うべき事はそれだけだったのか。
 だが実際は違う。長瀬楓にはもっと言いたい事があったはずだった。
 帰ってきた少年。どうするのかなどを、彼女は問いただしたかった。だが、少年の眼差しを見た瞬間に全てを悟ったのだ。
 目の前の少年に最早迷いなどない。
 自分が駆けつける必要も無く、少年は全ての迷いを払っていたのだ。
 ソレを悟っていた時点で、長瀬楓と言う女性の役割は無くなったにも等しい。
 上昇していく少年を見据え、彼女は思う。
 大きくなったと。本当に大きくなったと。自分の支えも要らないほどに大きくなって、よく、帰ってきたと。

 落下と上昇。長瀬楓が落ちていけばいくほど、少年の上昇は高まっていく。
 長瀬楓が篭めた“気”が通っているのか。少年の上昇速度はますます高まり、鋼塔の半分を過ぎていった。
 その直後に、少年の視界に、一瞬何かが映り込んだ。
 上昇していく中で、少年は下を見る。
 丁度、鋼塔に張り付いている校舎の途切れる位置だった。鋼塔に張り付いている新校舎の最上階。
 その屋根に、金と銀の髪を靡かせる少女が立っていたからだ。

 その少女の体を、何故か黒い霧が覆っている。
 足元だけであったが、確かに黒い霧が、あのフェニックスの片翼なる大儀礼の影響の現れであるその少女の体を包み込もうとしているのだ。
 だがそれに気にする様子もなく、その少女が見上げる。
 距離、そして速度的に視線が在ったのは一秒すらない。だが、少年と少女の視線が合った瞬間に、金銀の髪を持ったその少女の背後から、凄まじい勢いで何かが飛び出した。
 飛び出し、瞬時に少年を追い越したその影。それは紛れも無く絡繰茶々丸と似た姿をした傀儡茶々の姿であった。
 少年と茶々が並ぶ。少年が茶々を見つめる視線は、何処か悲しげだった。
 無理もない。神楽坂明日菜にしろ、アーニャにしろ、彼女達はまだ生きているにも等しい。
 だが、絡繰茶々丸の場合は違う。その肉体は完全に崩壊し、人格や記憶すらも尽きてしまい、こうして、少年の目の前の傀儡茶々の名が示すとおり、嘗ての絡繰茶々丸だった頃など一欠片も残さない姿となってしまった。

 目の前で少年に力を貸そうとしているのもまた、エヴァンジェリンの命令としてただ単純に命令を実行しているだけに過ぎない。
 機械的に、傀儡茶々は少年の下へと回りこみ、その足に自らの右腕を翳す。何をするのかなど、少年は瞬時に悟った。
 少年はその足元に力を込め、次の瞬間にかかるであろう衝撃に備える。
 だけれどその前に、少年は振り返った。進行方向ではなく、自分の真下へと潜り込み、自分を更に高みへと持ち上げてくれる、最早あの時の記憶など無い傀儡茶々へ向けて。

「有難う御座います、茶々丸さん」

 その一言と共に、少年は傀儡茶々のロケットパンチで更に加速をつけて上昇していった。
 通じない言葉と、伝えたかった言葉を伝え、少年は振り返らずに更に高みへと―――
 鋼の塔を、ただただ高み目指して昇り続けていく。
 多くの助けと、多くの支え。多くの人々の願いと想いを背負って、少年は飛ぶ。
 鋼塔の半分を越え、天上の空が真紅の炎に染まりつつある時の中を、少年は、只管に上り詰めて行く。

 そして少年は気がついた。
 鋼性種が、一体として飛んでいないのだ。
 夜であったとしても、この鋼塔には多くの鋼性種が張り付き、日中であってもソレは変わらない筈だった。
 だが一体としていない。鋼の性を持つ、かの人を滅ぼす完全種。それが、少年の行く先には一匹とても見えないのだ。
 興味など、恐らくはないのだろう。少年は思考する。
 完璧である種と、不完全すぎる種。相容れないが故に、鋼性種の世界に人は入りこめていけない。
 そのままに、世界は何れ緑に沈むだろう。沈み、その果てに、人は滅びるのだ。

 それでも生きていく。そう誓った。
 少年は思う。まだ、この世界の何処かでは父は生きているだろうと。
 そして、また自分も、自分たちも生きている。生きて、こうして進んでいっているではないか。
 興味など持って欲しくはなかった。自分たちは人として生きていくのだと。
 人として生きていくこの世界。人として尽き果てていく、この世界。
 仮令、支配種は鋼性種と言う完璧種にとって代わられようとも、自分たちは人の物語を紡いでいくのだ。それに、鋼性種と言う存在が関わっては欲しくなかった。

 鋼の塔を昇り続ける。その加速に、徐々に低下が見られる中で、少年は手を伸ばす。
 高みへ。その高みへと向かって、少年は手を翳した。
 あの、鋼塔の果てにいる焔の翼を広げる幼馴染の届くように。
 この手も、体も、そして、思いも。全て届くように伸ばした手に、黒い影が、手を差し伸べてきた。
 見間違いもしない。あの犬上小太郎であった。快活に笑うその青年の顔を見て、二人はうなづき合う。
 言葉など必要なかった。ただ、その手を握り合い、犬上小太郎は、更なる力を持ってして、少年はその高み目指して振り上げた―――

 再び加算される高みへの加速。ソレの中で、少年は踵を返した。
 下には、落下していく犬上小太郎。その青年が、両腕に黒い闘気を纏わせている。
 瞬時に少年は理解し、同じように風の力を纏わせた和すかな魔力をその腕に募らせていく。
 そして、放たれた青年の黒い闘気。それが頭上の少年目掛け一斉に集っていく。
 だが集うのはその少年の胴体付近ではない。もっと下部。もっと下の、少年の足元へ集っていくのだ。
 応じるように、少年は募らせた風の魔力塊をその足の裏に集わせていく。
 そして再び睨む先は、かの鋼塔の最上階。其処を目指して加速していく少年に、青年の黒い闘気が、一気に集い、一斉に、炸裂した。

 爆風を持って更に上り詰めて行く少年を、青年は見送っていく。
 行けと。振り返らずに、真っ直ぐ行くのがお前には一番似あっている。
 そんな笑みを浮かべて、昇り行く少年に青年は握りこぶしを翳す。
 落下していく青年。着陸をどうするのか考える前に、下を向いて僅かに後悔した。
 予測していた以上に高さがあり、落下速度も凄まじい。黒髪に獣耳の青年はもっぱら強くなる為の修行と言うものしかしていなかった。
 今のこの世界で、どれだけの意味のある行為かなど青年は知っている。
 それは、単純な青年の意地だった。強くなりたいと言う意地。それは、鋼性種のある世界でも変わるべくもなかっただけの話だ。

 だから、僅かに少年は後悔していた。
 こんなことならば虚空瞬動の修行も備えて行っておくべきだったと。
 そうすれば、鋼塔から飛び出ている幾つかの棘に退避する事も出来ただろうにと。
 だが後悔は後に立てる意味は無い。青年は覚悟を決めて、両足に気を送り込む。
 少年に言った手前だった為に、退く気などなかった。両足で、立つ。そう言った手前だ。成して見せようと意気込んだと同時だったか。
 青年の身体が、ふわりと浮いた。浮いたと同時に、天地が逆になる。
 天に昇りながら、地を向いている状態。何故にと考える余裕すらもない。だが直に理由は理解できた。それは。

「幾ら修行を重ねたといってもあの高さからでは体への影響は計り知れないでござるよ」

 長瀬楓が青年の足を掴んで、急上昇していたからに他ならなかった。
 二人が鋼塔を包むかのように建築された新校舎の最上段、エヴァンジェリンの真横まで到達し、皆は空を見上げる。
 少年が飛び立って行ったあの空。真紅の大結界が輝く、あの空が広がっていた。

「長瀬楓。犬上小太郎。お前達は龍宮真名と古菲の援護に廻ってくれ。此処は、私一人でいい」

 真横に居たエヴァンジェリンの語り掛けに二人は振り返り、そして目を丸くした。
 彼女の足元。それが、この現象で発生している大量の黒い霧で覆いつくされつつたるからだ。
 その状態にも拘らず、エヴァンジェリンと言う少女の顔立ちは穏やかだった。
 足元を包み込んでいるソレ。ソレがなにを意味しているのか、彼女自身も、長瀬楓、犬上小太郎も知らないわけではない。
 それを知っていながらも、一人で良いとエヴァンジェリンは二人を促す。
 穏やかな顔。あの、五年前の彼女とは思えぬほどに朗らかな顔で。

 長瀬楓は一礼し、ご武運をとだけつげ、犬上小太郎を促す。
 犬上小太郎は、暫く迷ったようにエヴァンジェリンと長瀬楓の背中を見つめていたが、大げさに一度だけ頭をエヴァンジェリンへ下げると、長瀬楓と共に、校舎の下へと消えていった。
 エヴァンジェリンは、傍らに立つ自らの従者へ向けて踵を返した。
 相変わらず従者は無表情で、次の勅命を待っているかのようなそぶりを見せる。
 結局、元へ戻る事は無かったか。エヴァンジェリンはそう思いながら、自らを包み込んでいく黒い霧を見る。
 そこから放たれているのは、怨嗟の声。自分が奪ってきた多くの魂の断末魔の叫声であった。
 五年前に下されなかった自らへの審判。
 ソレを、あの紅い魔法使いが下そうと言うのならば、ソレもまた良しとエヴァンジェリンは目を閉じ、開く。
 目の前には元には戻る事の無い従者。それに対して、彼女は、ラストオーダーを送る。

「茶々。この影響が麻帆良外まで出る。それの被害拡大を防ぐべく、全世界の魔法使いネットワークへ中継しろ。
 急げ。コレが私の最後の命令だ。そして、これはお願いなんだが―――ぼーや達の事、見守ってやってくれ」

 茶々は別段たいした感慨も懐かずに、頭を垂らして長瀬楓とは逆の方向へと消えていった。
 エヴァンジェリン一人になったことを感知したのか、それとも、天空を覆う大魔方陣の活動が活発化したからか、彼女の身を包み込んでいた黒い霧が一気にその活動を激しくする。
 一人朽ち果てて行くのは私の罪。それを、エヴァンジェリンは心持にして瞳を閉じた。
 最後に思うのは数多く。
 神楽坂明日菜。近衛木乃香。嘗てのクラスメイト達。
 そして、少年と、あの紅い魔法使いのことだったか――――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――

 鋼塔の最上階は真紅に染まって、否、それは全て炎だった。
 炎が鋼塔の最上階で燻っている。全てを焼き払うような業火が、鋼塔の最上階で猛り来るっているのだ。
 高速で近づいていく少年と、肩のオコジョ妖精はその炎へ込められた大魔力に身を震わせている。
 純粋な恐怖心。それから来る震えが、二人の身を奮わせていくのだ。
 だが、今となって止まる事など出来ない。いや、少年の頭には静止の考えは無い。
 踵を返す気も無ければ、その場から退くような思いすら欠片も無い。
 少年はただ飛び続ける。頭上の其処。あの、紅い魔法使いが立つであろう場所へ。

 オコジョ妖精はその少年の横顔に何かを感じた。共にこの日本に再び渡ってきた時の少年の横顔とは違う。
 五年前に、共に在ったあの頃の横顔。しかし、何処か新しい兆しを見つけた者の意思が混ざった横顔。
 それを力強く思う。迷いが晴れた少年の横顔に僅かな勇気を貰って、オコジョ妖精もまた鋼塔の最上段を見上げた。
 鋼塔が赤くなっている。鋼とは違う単一性元素肥大式で構築されている筈の鋼塔が高熱によって赤くなるほどに熱されていると言うのだ。
 故に、上昇中の彼らの体を強烈な熱が焼いていく。ちりちりと焦げていくかのような感覚は、太陽の間近に居るかのようにも思えてくる程の熱量。

 少年とオコジョ妖精を守っているのは、その上昇力からなる風圧のみ。
 魔力による守りなど、鋼性種支配の世界となった今の世界では望む事も出来ないのだ。
 従って、この勢い尽きた時、その体に襲い掛かる熱量を二人は予測できていないわけではない。出来ていないわけではないが―――
 鋼塔を追い抜く。天空に掘り込まれた巨大な魔方陣が手を伸ばせば届きそうな距離まで迫っている。其処まで上り詰めた少年は、久々に眼窩を臨む。
 そこに、居るのだ。あの紅い魔法少女。
 周辺を炎で埋め尽くし、彼女が慕った二人の遺体を渦巻く炎が包みこむ中に、あの真紅の魔法使いが異形の姿で空中に紅い文字で書かれた三次元詠唱を行いながら、其処に立っている。

 勢いが一気に弱まる。もはや、“気”による身体強化すらも吸収される中だというのか。
 上昇していた二人の体は少しずつ地に引かれ始め、しかし、少年は鋼塔の最上段目掛けてその体を空中で少しでも前へ出そうとする。
 落ちる。落ちる中で少年とオコジョ妖精の体は、真紅の中へと落下した。
 そして体を襲うのは壮絶な熱量。正に太陽の中に居るとしか思えないほどの熱が、二人の体を焼いていく。
 焼いていくと言うのに、少年とオコジョ妖精の肉体は傷ついていない。
 この炎はただの炎ではない。この炎はフェニックスの片翼なる大儀礼によって培われている大魔力の塊。
 大魔力塊なのだろうか。そのあまりに濃度ゆえに、炎としての熱量を感じさせ、しかし、肉体を通り越えては、精神、魂に直接過負荷を与えているのだろう。
 その炎の中に立ち、少年らは前を見据える。炎のその向こう。赤い燐光舞い吹雪く中で、少年は炎のその向こう側を見据え―――炎が晴れた先に立つ、紅い魔法使いと視線を交えた。

「アーニャ!!」
『ネギ』

 お互い見えたと同時に出す声などその一声。その声には全てが含まれているといっても過言ではなかった。
 少年と少女が見えた事など、幼馴染でただの一度としてもない。
 少女と少年は、常に共に在り、常に互いをライバルとしてみながらも、互いを認め合っていたのだから。
 その中で見えた事は無かった。お互いを敵と認識し、お互いを排除しあおうな度と思ったことなど、二人の間では、ただの一度たりとしても無かった。
 そして、それは今も変わってはいなかった、少女は少年を確実に殺せた筈だったにも拘らず、少年に止めを刺さなかった。
 少年の対魔力を見切り、その上でより凶悪な大魔法でケリをつけることも出来た筈であろうに、彼女はソレをしなかった。

 少年とて同じ。少女の敵となった考えなど、一度も無い。
 こうして少女の前に立ったのは、全てを案じて立ったまでの事だ。
 此処まで自分を進めてくれた多くの者たち。今まで自分の支えとなってくれた、そして支えとなっていた者達への思い。
 それを負って、少年は今立った。
 お互いに変わってなどいないその思い。
 少年と少女。少女と少年。
 お互いの思いは、今も幼馴染として変わるべくも無かった。

「アーニャ……フェニックスの片翼を……」
『下の様子はどう? 黒い霧は他者の復活を是とする大儀礼“フェニックスの片翼”発動の過負荷分の魔力のお零れを授かってこちら側へ現界しようとする怨霊、邪霊の類の様ね。
 二十数年前の大戦でも、同じ現象が垣間見えたらしいわ。
 成功すれば、黒い霧は全て向こう側へ返され、特定の人物だけがこちら側に残る。
 けど、失敗すれば、あの黒い霧はこちら側に完全に現界して、大戦の二の舞が起きる』
「アーニャは……知っていて……それを?」

 彼女は語らなかった。語らなかったが、一度だけ笑う。笑って振り返り、炎に巻かれた黒髪の女性と、白身の蛇へと両手を差し出した。

『五年前言えなかった事があるからね。平気よ、ネギ。直に終わるから―――』

 炎が撒く。全てを、炎が包み込んでいく。
 アーニャと言う魔法少女の姿も、ネギと、肩のオコジョ妖精の姿すらも炎へ消えていく。
 鋼塔の最上階が、全て炎に包まれる。地上から見上げている全ての者が捉えた光景。それは。
 鋼塔の最上階から、鳥の羽を広げたかのような炎が広がった光景だった―――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――夢

 夢の中に、居た。
 もう、暫く夢なんて見た事も無かったからソレが夢だと認識するまでに随分時間がかかってしまった。
 両の目を開く。炎に食べられた筈の体に焦げ目なんて言うのは一切も無くてローブに包み込まれていた時のままの身体が、ちゃんと目の前にあった。
 カモくんの姿が見えないところからも、此処が夢の中だって言うのが良く解る。
 だって、目の前に僕が居る。何処か、遠くを見るような眼差しの僕。
 何時だったっけ。こうやって崖の上から、遠い遠い、父さんの居るだろう空を見つめていた事があった。
 目の前の、幼い頃の僕。それが見えるから、この世界は僕の夢の中なんだと認識できた。

―― ――― ―――

 声が聞こえた。思わず振り返ってみて、目が丸くなる。
 アーニャ、だった僕と同じぐらいの頃のアーニャが走っている。
 嬉しそうな表情のアーニャは、何処か、遠くを見つめていた幼い頃の僕とは表裏を逆転したかのように晴れ晴れとした表情で奔っていた。

――― ネカネおねえちゃん!! やったわ! 遂に射撃の授業でネギをトップから引き摺り下ろしてやったわよ!! ―――

 走る先に、ネカネお姉ちゃんがいる。
 午後のお茶会の準備をしているネカネおねえちゃんの処へ、アーニャが走って行っていた。
 ああ、思い出した。これは、ずっと昔の頃のお話だ。
 僕とアーニャが、魔法学校に居た頃のお話。そうだ、この日、確か僕は―――

――― アーニャちゃんが? でも……この間までは手も足も出ないって…… ―――
――― それはそれ、コレはコレよ! コレで明日からネギは大きい顔出来ないわね。ざまぁみなさい!! ―――
――― ああ……そうだったの。だからネギ、あんなしょぼくれた顔をしていたのね? ―――
――― 何? ネギのやつそんなに落ち込んでいたの? まったくほんっとに思い込みの激しい奴だわね。―――
――― そうかもしれないわね。でもね、アーニャちゃん。ネギが落ち込む気持ちも、解らなくはないの―――
――― ? どうして?? ―――
――― ネギがどうしてあんなに頑張っているのか…………何となく解る気がするの。
    ホラ。あの悪魔が村を襲った時、ネギはお父さんに会ったって言っていたでしょう?
    お父さんが私とネギを助けてくれた……その時、ネギが何を見たのかは、なんとなく解る気がするの。―――
――― ……ネギ。サウザンドマスターみたいになりたくて頑張ってるの? ―――
――― そうかもしれないわね。だから……ショックだと思うの。
    僕はまだまだお父さんに敵わないんだって……………… ―――
――― ……バカネギ。ちょっとぐらいは、こっちを見なさいよね。―――

 夢が途切れた。そう、あの頃から、僕は父さんを追いかけ続けていた。
 正面にあるものの大切さ、大きさ、掛け替えのなさにも気付けないで、ずっと独りで走り続けていたんだ。
 アーニャはそんな僕を嫌いだって言っていたっけ。
 そうだよね。今なら、ちゃんとわかるよ、アーニャ。僕は、君の言うとおりでバカだった。
 独りで何でも出来る、父さんみたいな存在に、ヒーローみたいな存在になりたいなんて思っていたんだ。

 でも、今は違うよ、アーニャ。僕はヒーローになれなくてもいい。
 皆と、僕を支えてくれる大勢の人たちと共に行く道を選んだんだ。
 マギステルになって、独りで居て気付けた。
 誰かと一緒じゃなくちゃ、もっと大きな力は引き出せない。
 誰かと一緒だから、僕は此処まで大きくなれた。
 誰かと一緒だから、僕は、強くなれるんだ。

 アーニャも、そうだったと思う。
 彼女がああなってしまった原因。それは、やっぱり誰かを思うアーニャの気持ちからだった。
 その気持ちが強いから、アーニャはあそこまで強大な力を振るえるようになったんだ。
 振り返れば、そこにアーニャが奔っている。
 肩には小さな白い蛇が乗っかっていて、誰かを必至に、でも、とても嬉しそうに追いかけているアーニャの姿。
 そんな姿、見た事もなかった。いつもツンケンしていた態度の多いアーニャだったから、そんな風に笑う彼女があんまりにも珍しくて、思わず自然と笑みがこぼれた。

 アーニャの影が、その人に追いつく。
 髪の長い女の人。黒い髪で、今のアーニャみたいに赤い目で笑っている女の人。
 そして、手を握ったと同時に、アーニャの顔は、花が咲いたみたいにぱぁっと明るくなった。
 その人が、アーニャの一番なんだね。知っている。その女の人の姿を見た瞬間から、気付いた。
 アーニャも、僕と同じだったのかもしれないね。
 マギステルと言う役割。魔法使い故に、常に冷静冷血冷徹であれ。
 一般人には、あらゆる意味で魔法を教えるなかれと言う硬い堅い誓い。それを、守り続けていた中での出会い。

 それがアーニャを変えるきっかけになった人。アーニャが、とても大きくなる起因となった人なんだね。
 でも、その人の死がアーニャに深い傷を作って、アーニャを今の様に変わってしまった起因を生み出してしまった人でもあるんだ。
 アーニャ。そこまでして生き返らせたいの。
 大切な人だって言うのは、痛いぐらいに伝わってくるよ。
 この闇は、アーニャと僕の記憶の介入。だから、目を閉じれば伝わってくるんだ。
 初めて、魔法使い以外で関わり合ってしまった人。その人と一緒に在って、一緒に歩んできた、短くても楽しそうにアーニャが笑えている時期。
 それが、アーニャの中で美しいまでの輝きになっているその意味を、ちゃんと、解っているよ。

 月並みになってしまうかもしれない。
 アーニャの事を解ってあげているなんて、絶対に言えない。
 誰かの心もわかってあげられなかった僕だもの。アーニャが、どれだけに大切にしていたのかなんて、本当の意味で解って上げられる筈なんてない。
 でもアーニャ。それをしてしまっても、彼女は喜ばない。
 死んでしまった人を蘇らせる様な真似をしても、アーニャが大切に思ってくれた人は喜ばない。僕は、そう信じたい。
 止める術は、もうないかもしれない。
 こうしてフェニックスの片翼に取り込まれてしまっている僕が何を叫んでも、もう、君へは届かないかもしれない。

 僕に出来る事は少ない。此処へこうして駆けつけても、君にして上げられる事なんて、殆どありはしなかった。
 鋼性種と化してしまったアーニャ。君にして上げられる様な事は、僕には無い。そう解っていた。解っていて、此処まで皆に支えられてきたんだ。
 僕に出来る事は、なんだろう。アーニャを支えて上げられるほど、僕は強くないよ。
 僕にして上げられる事はなんだろう。アーニャにして上げられるようなことなんて、僕にあるのかな。
 両の目を閉じれば、彼女とアーニャの思い出だけが繰り返されていく。
 優しい彼女と、綺麗なアーニャ。それに、一緒の白い蛇。
 僕と同じ場所でありながら、僕では味わえない多くの事を学んだアーニャの姿が、何度も何度も繰り返される。

 苦しい事も、悲しい事も、辛い事も、楽しい事も。僕では味わえなかった数多く。
 大切な人が居なくなってしまった、その悲しみ。
 僕がいまだ知らないことを沢山知って、それを、全部ひっくるめて、挑んでいったアーニャ。
 暗い、暗い闇に沈む。アーニャの闇なのか、それとも、僕の暗闇なのかは解らない。
 ただ解るのは沈んでいくという事。沈んで、何処までも深いということ。
 沈んでいけば、二度とは上がってこれない暗闇。そこへ、落ちていくという事。

 目を開く。すると、何かが降ってくるのに気が付いた。
 紅い、赤い燐光。炎が燃えて生み出される、真紅の火の粉が天空から降り注いできている。
 アーニャが降らす、その赤い燐光。それに、引かれるように身体が上がっていく。
 優しく包み込んでいくその紅い燐光に、邪気や殺気とかは無い。
 あるわけもないよね。アーニャは、何時だって優しい魔法使いなんだから。僕なんかより、ずっとずっと優しいし、強い魔法使いなんだから。

 暗闇に振り返る。そこに、彼女を抱いて泣いているアーニャの姿が見えた。そして、両手も、両足も失ったアーニャの姿が見えた。
 光が降る。温かい光は、心も体も、全部包み込んでいくかのように温かい。それを以って行使される大儀礼、フェニックスの片翼。
 アーニャ。君のやりたい事は。アーニャ、君が、本当にやりたい事は――――

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――現

  がしゃんと、轟音を立てて龍宮真名の手から二挺の大型拳銃が投げ捨てられる。
 応じるかのように、彼女の背中にかかる重量。それは、彼女へと背中を預けた古菲の重みであった。
 状況は四面楚歌。異形のカタチから、徐々に元の姿へと戻りつつある黒い霧に周囲一面を覆い尽くされ、二人は反撃の気力を削がれていた。
 初めから勝ち目があると信じて戦ったわけではない。
 二人は、単に少年の道を作るだけの地味な役割で良いと思って受け持ったのみであった。
 結果、どのような末路が待っていようとも、二人は格段気になどしなかった筈だ。

 現に、この状況下においても二人の表情には笑みが浮んでいる。
 後悔は無いのだろう。だが、死ぬ覚悟が決まっていると言うような表情ではない。
 二人は、あくまでも生き残ろうと言う覚悟の上に此処に立った。そして、それは今も変わるべくも無いのだ。
 しかし四面楚歌。背水の陣でもない。
 もう、龍宮真名は自身の大型自動二輪に収納された火器の殆どと使い果たし、古菲もまた、自らの持つ“気”の殆どを消費しきった。
 よって、二人には反撃するだけの武器は残されていなかった。
 ふぅ、と二人は同時に溜息を付いて、肩越しにお互いの顔を見て、笑った。

「損な役割どころネ。まったく」
「だが私達で決めた事だ。後悔先立たず。その時が良ければ良い事も、あるさ」

 そうであった。それが二人の本心だった。あの時の二人の思考は、単に少年を前へ進ませる事が出来たのならば良かった。
 それだけで、あの場を任されたに過ぎない。そのほかの理由など、二人にはなかった。
 龍宮真名は己の懐にあった携帯電話の着信略歴を見る。
 そこには、友人の長瀬楓の名前が在った。応じる事は叶わなかったが、それは長瀬楓がこちらに来ているということ。
 ならば上手くやってくれるだろうと、龍宮真名は笑う。
 此処で自分たちは尽きようとも、あの長瀬楓ならば、あるいは切り抜け、これらの黒い霧を妥当できるだろうとも。

「どーしたネ、真名。いかれるには早いアルヨ?」
「ああ、大丈夫だ。大丈夫だよ。まだ出来ることはあるからな」

 握り拳を作り、開く。それに応じて、龍宮真名の手には小さめのデリンジャーが二挺握られた。
 元々護身用の拳銃であるデリンジャーでこの場を潜り抜ける事が出来るなどとは思っていない。
 古菲もまた、握り拳を作るが既に黄金の発光は無かった。
 磨耗しきった気による強化など無いも同じ。そう悟って、自ら供給を断ったまでだ。
 足の痛みも激しい。幾らリハビリで此処まで活動できるようになったとは言え、嘗てのあの重傷は、未だに彼女の両足に重い鎖をかしていたからだ。

 本心を言うのなら、二人は或いは諦めたのかもしれなかった。
 デリンジャーの装備にしろ、気供給の寸断にしろ。それでこの場を掻い潜ろうなど甚だ無謀な事この上ない。
 それを知りながら挑もうとする二人は、あるいは、僅かながらの諦観を懐いたのかもしれない。
 だが、取り囲んだ黒い霧の一団の一箇所が爆ぜ、そして彼女らの後方の黒い霧の一団も弾き飛ばされる。
 何事かと振り返り、二人は、嘗て交えた筈の者と顔を交えてしまう事となった。
 それは巨躯の鬼であった。五年前の京都は近衛木乃香が連れ去られた際に、桜咲刹那と神楽坂明日菜を行かせるべく交えた、そこで二人は思い出した。
 今は、その状況にとても似ているのだと、ただ、一つだけ違うと言うのならば。

「あん? なんやあんたら……」

 巨躯の鬼の肩越しに眼鏡の強気な顔立ちの女性が顔を見せる。
 二人は直接見たことは無かったが、後の話に聞けば近衛木乃香を連れ去った張本人であり、今では関西呪術協会は序列一位の符術師として名の通っていると聞く女性。
 かの、天ヶ崎千草その人であった。

「あ〜お久しぶりどす〜。五年前の時はよろしゅうに〜〜」

 振り返った二人の背後から話しかけるのは、やはり五年前に彼女たちが見えたあの白い姿の剣士その人。
 身長は龍宮真名のそれに匹敵するほどの長身になっているが、確かにその甘ったるい、ガムシロップとハチミツを溶かし混ぜたかのような声は彼女に他ならない。

「お前達は……京都の護衛の方はいいのか?」
「総本山の方は一先ず決着を見ましたんで〜詠春様より援護の程を頼まれまして推参した次第どす〜」
「そういうこっちゃ。今日ばっかりは過去の柵、忘れてぇなっ!!」

 天ヶ崎千草が懐取り出した符を龍宮真名らの周囲へ投擲していく。
 それは、彼女らの背後から襲いかかろうとしていた黒い影を爆ぜさせるものであり、確かに、彼女達の手助けとなるものであった。
 豪腕を振るって影を蹴散らす巨躯の鬼に、二本の刀で切り込みをかける月詠なる白い剣士。
 それを目の当たりにして、古菲の拳に僅かながらの黄金の光が戻る。
 同じく、龍宮真名もデリンジャーの予備を、腕の中に確かめる。
 諦めるのは早いかとは思わなかった。そも諦めるなどとは考えていなかったからだ。
 ただ、ほんの少しだけやる気が出た為二人は笑って駆け出した。空からは、紅い、雪のような光が降り出した頃だった。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――

「あうぅ!!」

 近衛木乃香の身体が弾かれる。
 その一撃で木に強く叩きつけられた近衛木乃香に桜咲刹那も視線を配ったが、其処へ駆け寄る真似はしなかった。
 正しくは、怒涛の如く攻め入ってくる限死の爪牙がそれを赦さないのだが。
 だが、そうでなくても桜咲刹那は駆け寄らなかっただろう。頼ったのは彼女であり、頼られたのは近衛木乃香だった。

 二人はお互いの立場を充分に理解している。
 頼った理由と、頼られた理由。それを理解している以上、二人がこの戦闘行為でお互いに駆け寄る場面はない。あるとすれば、それは。
 神楽坂明日菜が駆ける。分解と結合を繰り返す大剣。分殺剣とでも言うべき大剣を引きずりつつ、神楽坂明日菜は駆けてくる。
 狙いは恐らく、自己へ襲い掛かってきたあの薙刀使い。
 それを駆逐しようと、神楽坂明日菜は木々の間をムササビのように飛び交いながら、一気に近衛木乃香の元へと肉薄した。

「夕映ーっ!! 右っ!!」

 宮崎のどかが目を見開いて叫ぶ。その手に懐かれている、他者の深層心理を読み取ると言うアーティファクトの効力が、一瞬だけ見えたのだ。
 本来は人間外にはあまりに無力な筈のソレ。
 ソレが、一瞬だけ効力を発揮した事に宮崎のどかと綾瀬夕映は希望を見出す。そして、その希望を叶える為には。
 駆け抜けた神楽坂明日菜が、宮崎のどかの告げたとおり、右方向から分殺剣を振り抜く。
 振り抜かれる先には木に背中を強く叩きつけた事で苦悶している近衛木乃香。
 その首目掛けて、神楽坂明日菜は躊躇いもせず、その大剣を振り抜いていく。
 しかしその大剣の動きは急停止した。神楽坂明日菜に止めると言う意思があるわけではない。
 他者の介入による静止が入った為、その剣が僅かに動きをとどめたのだ。

 綾瀬夕映が片手を剣に翳した状態で立ちはだかっている。
 風楯であろうか。どちらにしても、今現在のネギ・スプリングフィールドと言う少年のソレにも匹敵する防御力は秘めているだろう。
 だが、相手が悪い。それには綾瀬夕映も気付いている。
 風楯に罅が奔る。手を翳し、一転集中にもして防御性能を高めている筈のその楯。
 その楯に、刃の切先が触れただけで罅が入ったのだ。それは神楽坂明日菜のマジックキャンセラーの能力と、鋼性種としての不認識無力化能力の相互による影響。
 楯など、今の彼女から見れば、紙と同じだ。

 綾瀬夕映が身を翻し、近衛木乃香を伏せさせる。それと同時か、最大魔力を以って展開された風楯は文字通り硝子の如くに砕け散り、大剣は、間一髪で伏せた綾瀬夕映、近衛木乃香の真上を通り抜けて行った。
 押し倒された動きのままに、綾瀬夕映と近衛木乃香は前転にも似た動きで立ち直り、神楽坂明日菜を見る。
 垂れた前髪で、彼女の表情は見えない。だが、どの様な顔立ちになっているのかなど、予測せずとも理解出来る。

「木乃香さん」
「ん。解ってる」

 綾瀬夕映と近衛木乃香、そして宮崎のどかが遥か彼方に見えるかのような鋼塔を見上げた。
 鋼の塔の頂上は真紅に染まり、三千万里へ届く迦留羅鳥の翼の如き業火を左右へと伸ばしていた。
 正に不死鳥とも言うべき、その外見。
 彼女らの慕ったあの少年は間に合ったのか否か。それは、今の彼女たちが考えるべきことではなかった。
 今やるべき事は唯の一つの筈。それは目の前に立ちふさがっているその存在への―――

「夕映ーっ。私と木乃香さんで頑張ってみるよっ……」

 宮崎のどかが本を閉じ、神楽坂明日菜の前に立つ。

「……そやな。夕映に任すわ。ウチらの明日菜。ちゃんと取り返してな」

 近衛木乃香が薙刀を前かがみになりつつ構え、神楽坂明日菜は応じるかのようにその大剣を振り上げた。
 綾瀬夕映は少しだけ迷う。相手は、ほぼ魔法が通用しない。
 神楽坂明日菜のマジックキャンセルの能力は、自らに害を成す魔法しかキャンセルしないと言う事は知っているが、今の彼女は全てを敵対行動と捉えてもおかしくないほどの性質を備えた鋼化生命体なのだ。
 ソレ相手に、果たして自分程度の魔法が通用などするのか。そんな、疑問。
 だが、顔を上げた瞬間に決意は固まった。通用するもしないもない。頼まれ、負かされた以上はソレを成すまで。
 宮崎のどかですら成しえて見せた。読めない筈の、鋼化した神楽坂明日菜の僅かな内面意識を読んで見せたのだ。
 それを、自身も成せばいいというだけの事。

「いくえ!! のどかっ!!」
「は、はいーっ!!」
「Hele・rum E・lerum Helleborus<ヘレ・ルム エ・レルム ヘレボルス>……」

 神楽坂明日菜が飛ぶ。
 大剣を振り上げて飛ぶその姿に、宮崎のどかは僅かに怯えたように後ずさった。
 だが、傍らの近衛木乃香はそんな神楽坂明日菜に向けて飛翔する。
 一瞬だけの空中での交錯。振り下ろされた分殺剣の一撃は、近衛木乃香の構えた薙刀の柄に落ち、罅を奔らせた。
 剣が柄にめり込み、次の瞬間には砕き散らされる事間違えの無いその一瞬で、近衛木乃香は薙刀から手を離し、神楽坂明日菜の肩へとしがみ付いた。
 空中であったのが幸いしたか、二人はそのままくんづほぐれつの状態で落下する。

 地面に落ちた衝撃でも、近衛木乃香はその肩から離れようとはしない。暴れ狂う神楽坂明日菜の肩になおもしがみ付き、宮崎のどかの方を確かに捉えた。
 宮崎のどかもまた走る。たどたどしい足取りで走り、狂ったかのような神楽坂明日菜の片腕にしがみ付く。
 大剣を持つ肩を近衛木乃香が。もう片方の腕を宮崎のどかが捕らえた。
 鋼化の腕力では、恐らく十秒も持たない。十秒も持たないというのに、二人は全力でしがみ付いてその肩を離さなかった。
 そして、正面に立っていた綾瀬夕映が駆け出した。駆け出しながらその口の中で紡がれていく呪文。
 それが通用するのかどうかなど、彼女は最早構っていない。彼女は単純に任された以上、それを成そうとするだけの事だった。
 駆けて、手を翳す。神楽坂明日菜の顔面目掛けて手を翳し、そして、その手で彼女の頭部を掌握した。

「La porta del suo sogno ha aperto.<この者の夢の扉を、開きたまえ>」

 がくんと、神楽坂明日菜の身体が揺れる。
 狂ったような暴走は無く、ただ両腕を嘗てのクラスメイトらに捕らえられ、綾瀬夕映の片手で頭部を掌握された状態でその場に立ち尽くすのみ。
 だが剣は握られたままであり、その前髪が晴れて見えた両目にも、人間特有の光は無い。
 その様子を、桜咲刹那と雪広あやかはぼろぼろになりながら見据えていた。

 相手は限死。鋼化生命体の第一種。
 鋼化と言う現象を最初に体現した生命体であるが故に、神楽坂明日菜の様な人間的獣の動きではなく、完璧な予測不可能な獣の動きとして襲い掛かってくるのだ。
 だが元より、桜咲刹那と雪広あやかはコレに勝つ気などなかった。
 勝利敗北の有無では既になくなっている。この戦いは、ただの単なる足止め行為だった。
 神楽坂明日菜を元に戻すべくして挑んでいた三人の方へ限死を向かわせない為の行為。それを成していただけだ。
 神楽坂明日菜の両手の動きを奪い、その頭部から直接魔法を叩き込んだ綾瀬夕映の姿が横目で桜咲刹那に捉えられた。
 だが、その一瞬が油断。雪広あやかと桜咲刹那の僅かな合間を、強烈な暴風が抜ける。
「しまっ―――」
「―――このちゃん!!」
 振り返れば既に遅し。限死は高く飛び、内角から襲い掛かるカタチで、神楽坂明日菜を捉えていた三名へと食いかかろうとしていた。限死ならば出来よう。牙で綾瀬夕映。両手の爪で宮崎のどかと近衛木乃香を八つ裂きに出来る。
 一瞬一瞬は酷く遅く、近衛木乃香も、宮崎のどかも、綾瀬夕映でさえも、食いかかった限死を見ながら離れようとはしなかった。ただ切実に戻るようにと。その思いだけを込めて、体にしがみ付き、そして、持ちえる全魔力を注ぎ込んでいる。
 純白を広げて飛ぶ桜咲刹那と伐採鎌を解き放つ雪広あやか。ソレすら遅く、限死が正に彼女らに襲いかかろうとした所で。


 光が降ってくる。紅い、赤い赤い光が、雪のように降り注いできた―――


 爆音が響く。絨毯爆撃じみた撃。
 それは、高畑・T・タカミチの放つ居合い拳と呼ばれる闘法の初代であるガトウ・カグラがやや上方から撃ち放った連続居合い拳のソレであった。
 その連撃故か、二人は接近出来ずにいた。
 否、二人にはそも戦う意思は無かったのかもしれない。
 この戦いはあまりに無意味であり、時が来れば目の前のガトウ・カグラは完璧な亡霊と化す。
 亡霊と化してしまえば、もう意思を保つ事も出来まい。中途半端な発動状態の今だからこそ、ガトウ・カグラはアルビレオ・イマと高畑・T・タカミチを圧倒しえていると言う状態だった。

「どーした。一方的にやられてるなんてお前ららしくないんじゃねぇか?」
「ええ。攻め込みたい気分です。が、少々高揚しているんかもしれませんね。
 ガトウ。貴方と一秒でも長く相見えていたい。それが正直な感想です」

 アルビレオ・イマも高畑・T・タカミチも気付いていた。
 フェニックスの片翼なる大儀礼が成功しようが失敗しようが、目の前のガトウ・カグラは消えうせる。
 成功すれば亡者は全て向こう側に帰り、失敗すればガトウ・カグラとて、意思の無い亡霊と化して黒い霧同様の働きを行うまでだ。
 それを、二人とも知っていた。知っていたからこそ、長引かせていた。
 二度と戻ってこない日々。それが、一時だけでも、一欠片だけでも帰ってきたということに、二人は僅かに、本当に、僅かにだが高揚していたのだ。

 アルビレオは嘗ての友とこうして言葉を交えていられる事に。
 高畑・T・タカミチは師匠と慕った人物の闘法を今再び、こうして目の当たりに出来たその数奇な運命に。
 素直な感謝と、僅かな悲しみ、そして、ほんの少しの哀れみを以って、こうして見えているだけであった。

「ガトウ。フェニックスの片翼がどの様なものか、貴方は知っていたのですか?」
「さぁな。今知った、って言うのが一番しっくりくるかもしれねぇな。
 こっち側に半ば無理矢理呼び出されたんで驚いたが、何、あのお嬢ちゃんからこっちの今の状況は大体教えてもらった。
 何だお前ら大変だったんだなぁ」

 ガトウ・カグラが煙草を口に含んで天を見上げた。
 鋼は飛ばずとも、あの鋼の性を持つ種の大量発生で浄化された空気により星は、美しく、より美しく輝いている。
 徒手空拳で構えた姿は、既に戦闘行為の意義を失っていた。
 お互いに攻め入る気など失せたのだろう。その場の三人。嘗て、サウザンドマスター等と共に歩んだ者達は、欠けた多くが在りながらも、こうして、再び見えていた。

「そだ。嬢ちゃんは無事かい? タカミチ。ちゃんと俺に関する記憶は念入りに消しておいてくれたか?」

 タカミチは押し黙った。ガトウの言う姫様とは、神楽坂明日菜の事である。
 幼い頃の神楽坂明日菜は彼らと共にあり、特にその内の一人であったガトウ・カグラに引き取られてあそこまで大きくなったのだ。
 前々から培われていた神楽坂明日菜の膂力はただの馬鹿力などではない。
 ガトウ・カグラと共にあった事で培われていた“戦う力”だったのだ。それは、その手に担われたあの大剣が語るだろう。
 その彼女は、既に居ないにも等しい。
 鋼化により鋼性種と言う第二世代へより近くなった神楽坂明日菜。嘗て姫様とまで呼ばれていた彼女は、既に居なかった。

「……すみませんっ、ガトウさん。僕は……明日菜君を……」
「―――いやぁ、いいんだ。置き去りにした上に何でもかんでもお前に任せちまった俺も悪かったからな。強くは言えねぇよ。
 ただ―――そうか、ああ、でも、何とかなりそうな感じだぜ? 見な。アルビレオ。タカミチ」

 三人が空を見上げる。赤い雪が降ってきていた。少女の想いが篭められた赤い光の雪が降り積もっていく。

第五十六話 / 第五十八話


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