Act4-1


【刹那】


 夜中に愛衣さんと見張りを交代して、既に朝を迎えていた。
 時刻は午前七時。
 寝起きの悪いアスナさんも、そろそろお嬢様達に起こされている頃だろう。

「――――寝ている姿は、志貴ちゃんそのものだな……」

 私の視線の先では、まるで死んでいるかのように寝ている遠野……志貴の姿。
 その姿はまさしく幼い頃の志貴ちゃんを思わせるが、遠野姓を名乗っている以上疑ってかからねばならない。

――――それは、建て前。
 彼は、私を覚えていてくれなかった。
 それだけが、私を素直にさせてくれない。
 本当は、彼が本物の志貴ちゃんであって欲しいと願っているのに――――

 ふと、あることを思い出して彼の眠るベッドへと近づく。

「えっと、確か……」

 幼い頃、志貴ちゃんが起きてくれなくて困っていた私に、彼のお母様が教えてくれた起こし方。
 まるで彫像か何かのように白かった彼の頬に、ゆっくりと血の色が通い始めてから三秒後。
 彼をゆっくりと、優しく……赤ん坊の眠る揺り籠を揺らすように、小さく体を揺する。
 すると――――


「ん……ひ、すい……?」


 そう、こんな風に寝惚け眼で起きてくれたものだった。
 目を閉じたまま、枕元に置いてあった黒縁眼鏡をかけ……て――――?


(おっ……おおおおお起きたーっっっ?!!)


 神鳴流剣士は常に冷静沈着たれ。
 心の中ではもはや混乱の極みに達していたが、表情は軽く驚いている程度に収まっている……はず。
 ……自信が無くなってきたので、回れ右。
 自分の顔を触ってみれば、まるで茹で上がったかのような熱さ。
 ええい、何たる不覚。
 顔の熱が治まるまで迂闊に振り向く訳にもいかず、彼の朝ご飯にと買ってきておいたコンビニの袋を思い出し、無言でそちらを指差す。


 ああもう――――何で私はこんな朝早くから取り乱しているのか。




〜朧月〜




【志貴】


――――ゆさゆさと軽く控えめに体を揺さぶられる感覚。
 それは、まるで俺の意識が浮上してくるのがわかっているかのようだった。
 頭に浮かんだのは、いつも俺を起こしてくれる、無表情に見えて実は表情豊かな女の子。

「ん……ひ、すい……?」

 目を閉じたまま枕元の眼鏡を手探りで見つけ、かけてから目を開ける。
 そこには翡翠ではなく――――昨夜、問答無用で斬りかかってきた女の子の姿があった。
 まあ考えてみれば、あまり男性に触れたりしない翡翠ならば、揺らしたりせずに俺が起きるのをじっと待っているだろう。
 女の子……刹那ちゃんは目を丸くさせて軽く驚いたような表情をしていたが、何も言わずに背中を向けて隣のベッドを指差す。
 そこには、パンと牛乳の入ったコンビニの袋が置かれていた。

「あ……ああ、コレ、俺の朝ご飯か。ありがとう、刹那ちゃん」

「――――っ……いえ……。その……昨夜はいきなり斬りかかってしまい、申し訳ありませんでした」

「まあ、こうして生きてる訳だし、気にしないでいいよ。君にも事情があったんだろうし……」

 礼を言うと、刹那ちゃんは背を向けたままピクリと小さく肩を震わせる。
 刹那ちゃんはしばらく何も言わずに黙っていたが、やがてこちらを向いて昨夜のことを謝ってきた。
 まあ、こういうことには大概慣れてきたので、頭を下げる刹那ちゃんに気にしないように言って、隣のベッドに置かれたコンビニの袋に手を伸ばす。

「あ……だ、だからと言って、あなたを信頼した訳ではありません! 遠野を名乗る以上、警戒させていただきます」

 刹那ちゃんは持っていた刀の柄を前に突き出して怒ったような顔を見せたが、昨夜の鋭さは薄れ、どこか無理をしているように見えた。
 気にはなったものの、突然腹の虫が鳴き始め空腹を訴えてくる。
 考えてみれば、昨夜七夜との戦いで気絶してから夕飯を食べずに、今朝までずっと眠り続けていた訳だ。
 いくら小食とは言え、減るものは減るのである。
 俺の腹の虫の鳴き声に気勢を削がれたのか、刹那ちゃんは目を丸くさせていた。
 コンビニの袋からパンと牛乳を取り出しながら、ふと朝の挨拶をしてなかったなと思い、その手を止めて刹那ちゃんに顔を向ける。

「おはよう、刹那ちゃん」

「は? ――――あ……はい。おはよう、ございます……」



 もぐもぐ。
 もぐもぐ。
 ベッドに腰を下ろして、刹那ちゃんが買ってきてくれたらしいパンを食べる。
 隣のベッドには刹那ちゃんが腰を下ろしているが、特に何も話さずにこちらに気を配っていた。
 静かな……けれど、心地のいい時間。

――――ふと、どこかでこんな時間を過ごしていたような気がした。

 それがいつなのかはわからなかったが、今では思い出せない頃のものであることはわかった。
 遠野志貴となった後の記憶には、一切存在しなかったものだからだろうか。
 気になって視線を向けると、まるで申し合わせたかのようなタイミングで刹那ちゃんと目が合う。
 合ってしまった目が気まずそうにゆっくりと逸れていき、しかししばらくして再び絶妙なタイミングで互いの目が合ってしまう。

「ねえ……刹那ちゃん」

「ん……何、志貴ちゃ――――……っ!」

 俺の幼い頃――――七夜という姓を名乗っていた頃に出会ったというこの少女と自分は、一体どんな関係だったのか。
 とはいえ、どう聞けばいいのかすらわからず、気付けば俺は彼女に声をかけていた。
 刹那ちゃんは柔らかい声で答えかけて、まるで誰かに停止ボタンでも押されたかの如く、目を丸くさせたまま固まってしまう。
 と、次の瞬間には凄い勢いで医務室の外へ駆け出していった。
 その代わりに、更に凄い勢いで医務室の扉が開かれ、今度はアスナちゃんが般若のような顔で姿を現す。
 気づいた時には金棒……ではなく、ハリセンが振り下ろされてきていた。


「アンタ刹那さんに何したのよっっっ!!?」


――――遠野志貴の朝は、波乱で始まる。





□今日の裏話■


――――静かな、時間。
 まるで、あの時に戻ったかのよう。
 そう感じられるのは、側にいるのが彼だからなのか。
 彼と話している時間は楽しくて、幸せで。
 でも、何も話さなくても彼と一緒にいるだけで、温かくて、優しくて。

 そうして幼い頃のことを思い出していたからだろう。
 ……私が彼をあの名で呼びそうになってしまったのは。


「ねえ……刹那ちゃん」


『ねえ……せっちゃん』


 幼い頃に彼がそうしたように、私を驚かせないようにゆっくりと、優しい声がかけられる。
 そんな小さな優しさが幼い頃の彼そのもので、つい私も幼い頃そうしたように答えてしまっていた。

「ん……何、志貴ちゃ――――……っ!」

 『志貴ちゃん』。
 そう呼びかけて、固まる。
 さっき治まったはずの赤面が、再び下から徐々に顔を赤く染めていく。

――――アカン。
 もう、どうにもアカン。

 一時も早くその場から逃げ出したくて、すぐに医務室から飛び出したのだった――――


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