『せめて責められ四十八手』序章之壱・小雪
文章:11-47 イラスト:みかみ沙更さん
「はぁ……」
困ったのぅ。今更悔やんでも悔やみきれぬ。
恨めしい……晴れ渡った空と透き通る水面が恨めしい。
今日という日が曇り空で、川に流れる水が多少なりとも濁っていたのならば少しはこの結末も変わっていようものを……
「はぁぁぁ……これからどうしたものか」
虚空に漂いながら思いを馳せる。
今の自分にできることは、さらに深い溜息とともに苦悩を吐き出すのみ。
妾の名は狩野小雪(かのうこゆき)。
つい先程、齢十四にて人生の幕を下ろしたばかり。
戦国でもなければ武士でもない妾がなぜこのような若さで生を諦めねばならぬのか。
今も色濃く残るのは無念の情。
師匠である北葛飾北斎の命を受けた翌日、知人から巫女服を拝借してきたことが災いの始まりじゃった。
◆
妾は二年前から師匠に弟子入りをして当世の風俗画を究めんと欲した。
「ではおゆき……今日よりありとあらゆるものを模倣し、描き残せ」
師匠はそう言って微笑みかけてくれた。
その申し付け通りに妾は愛用の筆を握りしめ精進した。
小雪という妾の名を師匠はあえて「おゆき」と呼ぶ。そのほうがしっくりくるらしい。
もともと絵を描くことが好きだった妾は、師匠の代理として湯のみなどの小間物、紙はもとより長屋の内壁、木の板や瓦にまで注文通りに仕事をこなした。
幸いなことに依頼主からの評判もよく、弟子入りして一年が過ぎた頃、世間にはそれなりに絵師として認められるようになった。
夏のひまわりのように日増しに増え続ける仕事。それらを妾は黙々とこなした。
狛鼠のようにい忙しい毎日の中、ついに妾は自分の最も好む題材を見つけることができた。
それは春画。男と女が絡みあう絵を求め、師匠の元へ訪ねてくる客人は絶えない。
特に北葛飾北斎の名はこの道では有名であった。
はじめは汚らわしいものだと認識していた妾も、作品に触れるうちに心変わりした。
春画には絵師としてすべての技術が要求されると気づいた。
情念を筆先に偲ばせるがゆえ、男女の営みを繊細に描いた作風は見るものを陶酔させる。
……師匠の作品に触れ、不覚にも妾もけしからぬ興奮を覚えてしまった。
「師匠・北葛飾北斎を越える春画をこの手で描いてみたい」
いつしか妾はそう志すようになった。
◆
ある日の夜更けにそのことを師匠に告げると、いきなり豪華な装丁の書物を渡された。
その表紙には「超乳戯画」と書かれている。
「ちょうにゅうぎが」と読むらしい。
見るからにいかがわしい題名……これを妾にどうしろというのだ。
師匠は言った。
「おゆきよ、我の代わりにこの書物を完成させてみよ。巷で話題の四十八手を描くのだ」
中を開いてみると上等の紙質なれど全くの白紙。
聞けば金持ちの商人に依頼された春画の一つだという。
「しじゅうはってとはいかなるものですか?」
聞きなれないその言葉に、思わず首を傾げると師匠はいきなり妾の肩を掴んで押し倒してきた。
がばっ
「……じっとしておれ、おゆき」
「ひし、しっ、し、師匠! お戯れをっ……」
がっしりとした材木のような手に抑えこまれているのだからたまらない。
「我が弟子でありながら四十八手を知らぬとはけしからんやつだ」
「お許しを師匠……」
自然と声も小さくなってしまう。
「ええい、許せぬ」
にわかに焦る。師匠とは常に寝食を共にしているとはいえ、男女の隔たりを超えたことはない。
両肩を掴まれ、押し倒された挙句に顔を寄せられた。
ただそれだけで心の臓がありえないほどに早鐘を打つ。
左肩に置かれた手が静かに滑り、固まったままの妾の首筋をなで上げる。
「ああぁぁ……ししょ、お……」
首筋を這いまわるは一本の指先。妾は身をくねらせて逃れようとするが全て無意味な振る舞い。
「男女の営みには終わりがないゆえ、日々変化が必要ぞ? そのための教本となるのが四十八手じゃ」
「師匠、はふっ、あぅ、なにとぞ、なにとぞっ……!」
「おゆきはまだ何も知らぬようだな」
指先が紡ぎだす妖しげな快楽に溺れそうになる。
肩を抱かれたまま目をつむり、生娘のように震えてしまう。
いや……妾は生娘に違いないのだが、いつものように師匠の顔を見据えることが出来ない。
(妾の顔が熱い。気持ちが浮足立って何も考えられないっ!!)
言われてみれば春画を描こうと願う身でありながら、男女の交わりについて自分が知ることは少ない。
身を以て師匠は春画の真髄を教えてくれようとしているのか……。
「四十八手には色々と呼び名があっての……『岩清水』に『ひよどり越え』、『仏壇返し』などというものも……こら、おゆき聞いておるか?」
「ああぁぁ……師匠、小雪はもう……ぅ」
顔を赤くしているに違いないであろう妾に、師匠はとつとつと語りかける。
だが残念なことに言葉のひとつひとつが頭の中に入ってこない!
弟子入りした後、何度か師匠にすがりつきたい、抱きしめられたいと考えたことはあった。
まさか今がその時なのだろうか。この身をを任せてしまいたい……
もういい、このまま絆(ほだ)されてしまいたい……
「……という今の気持ちを描くのじゃ! わかったか、おゆき」
「ふぇっ!? あ、ありがとうございまする……」
狐につままれたような気持ちで師匠を見つめると、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
ほっとする反面、何か物足りない。体の奥がじりじりと焼け焦げたままみたいな……
「体の芯がとろけてしまったかの?」
「ひゃわっ! は、はぃ……師匠」
図星をさされ狼狽する妾の手を師匠が優しく握りしめた。
「いかんぞ? おゆきは少し緊張し過ぎるきらいがあるようだ」
「し、師匠……これ以上の戯れは」
「ふむ。では今夜はこのあたりでやめにしておこう」
そう言い放つと、あっさりと手を離して師匠は自らの仕事場へと帰っていった。
一人ぽつんとその場に取り残された妾は――
(どうしよう……師匠の手のぬくもりが残ったままで)
初めて噛みしめる恋慕の情。手渡された「超乳戯画」を強く抱きしめる。
その夜は筆を持つ手の震えが止まらなかった。
――そして次の日。
いつもより早く目覚めた妾は、気持ちが浮き足立っていた。
師匠のために女としての自分に磨きをかけたい。
花魁のごとく妖しく、美しく……いやそれはさすがに無謀。
ゆえに神事に使える巫女の如き可憐さ、清楚な美しさを身に着けたい。
「しかし清楚さとは……」
どうやって出すべきものか。それは普段の妾の暮らしの中では不要なもの。
正月にお参りした時の巫女を頭に思い浮かべる。
「こ、興奮するのぅ……」
幸い知り合いが社務所にいるのを思い出し、いそいそと巫女服を借りてきた。
顔を洗い、薄く化粧をしてみる。
髪を整えた後に借り物の衣装を身につける。
誂(あつら)えたように体に馴染む巫女服は、思ったより涼やかで心地よく、気分を高揚させてくれた。
「どれ、せっかくだから着飾った妾の姿を見てみるかの」
外に出てみるとこれまた晴天。
ますます良い気分で水面に写った自分を眺めると……
「ふおおおおおおっ!」
いつもと違う自分の姿に戸惑い、驚き、感嘆する。
美麗・清楚・清らかなど無数の自画自賛の言葉が頭を駆け巡る。
この姿のまま師匠に会いに行こう。きっと妾の変わりように驚き、昨夜の続きをしてくれるに違いない。
どかっ
「へぶうううぅぅ!」
昨夜に引き続き、浮かれた気分のまま駈け出した妾を弾き飛ばしたのは飛脚だった。
勢い良く川に叩き落とされ、そのまま意識を失いそうになる。
(いやじゃ! まだ死にとうないいいいぃぃぃ!!)
真っ逆さまに川に落ちた瞬間、手の中にある白紙の『超乳戯画』を強く握りしめた。
それが妾にとって最後の記憶となる……。
◆
「死んでも死にきれんという思いだけでこの体になってしまったが……」
それからというもの、真っ暗な闇の中を漂いながら妄想にふける日々。
妾は未完成の『超乳戯画』に宿る怨念として悠久の時を過ごしてきた。
「己のせいとはいえ歯がゆいのぅ……」
巫女服を着たまま師匠に会いに行けたらどうなっていたのだろう。抱きしめてくれただろうか。それとも一笑に付されたのだろうか。
『超乳戯画』を白紙のまま逝ってしまったことも悔やまれる。せっかく師匠が与えてくださった課題なのに不甲斐ない。
若き身で事故死した弟子を不憫に思ってくれ師匠は、『超乳戯画』を北葛飾家の土蔵に保管してくれた。
それ以来ずっと暗闇の中で四十八手について熟考を重ねてきた。
なにしろ時間だけは無限にあるのだ。
ガララッ――!
「うくっ、なんじゃ!?」
突然、目の前が真っ白く輝いた。思わず目を伏せる……おそらく超乳戯画の表紙が開かれたのだろう。
「なんだよこの本、真っ白じゃないか……」
まじまじと妾を見つめる小童。なんとも奇異な格好をしておる……だが年齢は生前の妾と同い年くらいか。
「妾の眠りを妨げるのは誰じゃ?」
今までも何度かこの書物を紐解くものがいた。
その都度語りかけてみるのだが、全くの無反応。おそらく今回も――
ガタタッ
「うわああ、本がしゃべったあああ!?」
ほう、聞こえるのか。なかなか見どころのあるやつ……んんっ!?
(こやつ、どこか師匠に似ているような?)
しっかりと顔を拝むために妾は『超乳戯画』から身を乗り出した。
やはり似ている。
こやつはもしかして師匠の子孫では!
「み、巫女さん姿キタコレ!? コスプレ幽霊なんて見たこと無いぞ。とりあえず驚くか、う、うわああああ!」
「ええい黙らぬか! やかましいわ」
わけのわからぬ言葉を連発する小僧の頭を軽く小突いて落ち着かせる。
しかしこうして会話するのも久しぶりで、悪くない気分。
「さて、何から話そうかの……」
それが北葛飾ワタルとの出会いであった。
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