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「ステルス!よく戻った!!……おい、大丈夫か!」
「あ、ああ……」

 よろめく足取りで戻ってきたジム期待の星は、ドカッと倒れるようにコーナーポストに用意された椅子に腰掛けた。
 エキジビジョンとはいえ万全の体制で臨んだはずの今日の試合でまさかのハプニングが起こった。赤コーナーで加藤の帰還を待ち構えていたジムの会長は刻まれた傷跡を見て息を呑んだ。

(こいつがここまでボコボコにされたところは見たことねぇぜ!)

 鍛え上げた腹筋が見事に打ちのめされて一部内出血まで起こしている。
 加藤を見れば荒い息のまま、まるで貧乏ゆすりをしているようにふくらはぎが小刻みに揺れている。

(足にまでダメージが来ていやがる……)

 黙々とマッサージや水分補給をさせながら会長は小さくうなった。
 パンチを受けていない顔面はともかく、徹底したボディ打ちのダメージは短いインターバルでは抜け切らない。
 青コーナーのモデル体型の女性は拳に体重を乗せるのがよほど上手いらしい。
 さらに普段は驚異的な回復力を誇る加藤の呼吸が整わない。

「と、とにかく相手の動きを良く見て動け!」
「わかった」

 セコンドアウトのアナウンスが流れた後に第3ラウンド開始のゴングが鳴った。
 気を取り直して奈緒を見据えた加藤は違和感を覚えた。相手の拳が、グローブが小さくなって見える!?

「なに……!?」

 事実、彼の勘違いではなく奈緒はグローブを交換していた。キックボクシング用のオープンフィンガーのグローブに。

「ど、どういうことだ。何だそのグローブは!!」
「あら?この試合に限っては『女子側は好きな重さのグローブを使っても良い』となっていたでしょう?」
「試合の途中で換えるなんて効いてないぞ!」

 キリキリと歯軋りをしながら加藤は抗議した。もともと彼女はヘッドギアを着けなければいけないはずなのに奈緒はつけていない。
 それなのにグローブは先ほどまで14オンスを使っていた。
 すべてがアンバランスなのだ。ボクシングを舐めているとしか思えない。

「さっきのラウンドでパンチしすぎて疲れちゃったの。だからこっちにするわ。軽いしかっこいいし」

 軽いどころか、重さにすれば3分の1程度だろう。それが何を意味するのか。簡単なことだ。
 ただでさえ追いきれない奈緒のハンドスピードがさらに見えなくなる!!

「貴様……」
「なによ。ベアナックルよりはいいでしょ。それともグローブのせいにしちゃう?」

 その挑発には応えず、加藤は一歩前に足を進めた。なにがなんでもこいつをブチのめす!
 そんな決意をこめて軽快なフットワークをはじめるつもりだったが、足より先に身体が前に行きそうになった。

「足、動いてないよ?クスクス」
「くっ!」

 奈緒の嘲笑を自分への怒りに変え、踏み出す足に喝を入れる。だが相手はいつまでも待ってくれなかった。

「こっちから行くわよ」

 ようやくエンジンがかかり始めたフットワークを潰すように奈緒が素早く間合いをつめてきた!

「ちいっ」

 放たれた迎撃の左ジャブをあっさりかわして、お返しの左フックが加藤を襲う。

パパンッ!!

「ぐっ」

 上下に打ち分けた左のダブルだった。なんとかうまく防御するがとんでもないパンチスピードだ。
 さっきよりもパンチは軽く感じたがリズムを崩されてしまう加藤に対して、奈緒は余裕の表情で動き続ける。
 とっさに加藤はガードを固めた。

「あら、もう亀になっちゃうの?」
「…………」

 ガチガチに固めるガードの隙間から覗く加藤の眼を見ながら、奈緒は挑発を続けた。

「まあいいわ。せめてスタミナを回復させてみて。無駄だと思うけど」

ドンッ

「……っ!」

 奈緒が右ストレートをガードにぶつけてきた!
 続いて左、右、右……加藤のガードをこじ開けようとしてくる!!

ビシッ、ドガッ……

(そんな簡単に俺のブロックは破れないぜ)

 それでもお構いなしにパンチを浴びせられる。はじめは遠くに感じていた鈍い痛みが、だんだん近づいてくる……

(なんだこのパンチ……)

 固めたガードの上から軽いパンチをいくら浴びたところでダメージなどたかが知れている。
 しかし加藤は違和感を覚えていた。いつもなら瞬間的に消えるはずの痛みが永続して、痺れに変わりつつあった。

「そろそろ効いてきたんじゃない?」

 30秒近くが過ぎたころ、痛みが左腕だけに集中していることがわかってきた。
 ためしにグローブの中の左手を動かそうとするが、中指の辺りに力が入らない。

(なにっ……!?)

 気づいたときには遅かった。奈緒ははじめから彼の左腕を破壊するためにパンチを重ねていたのだ。

「まさかお前、ピンポイントで……!!」

 ガードするために力を込めた左腕の一点だけを奈緒は狙いすまして打ち込んでいた。
 左ひじの少し上の部分……前腕屈筋と呼ばれる部分だ。
 もちろん日ごろから鍛えこんではいるものの、長時間責められればどんな筋肉でも悲鳴を上げてしまう。

ビシィッ!!

 また同じところに打ち込まれるパンチに、思わず身を引いてしまう。

「ぐっ!」

 彼にしてみてもダメージを散らすために小刻みに身体をゆすったり、間合いを変えたりしている。
 それでも奈緒は人並みはずれた動体視力で彼の弱点だけをあぶりだして攻め続けられる。

「ほら、これでトドメよ」

ビキッ……

 何かが切れたような、押しつぶされたような鈍い音がした。
 引き絞った弓を放つような右ストレートが筋肉の壁に突き刺さる。

「ぐああああぁぁ!!!」

 あまりの激痛に加藤は声を上げてしまった。
 ガードしている左腕が緩み、プルプル震えだした。

 奈緒のパンチを短時間に何十発も受け、悲鳴を上げた加藤の左腕。
 耐え難い激痛が加藤の体を蝕む。
 肘の靭帯が切れたのか、筋肉自体が押しつぶされたのか…とにかく体が言うことを聞かない。

(うああぁ、くそっ、動けっ!早く動け!)

 とにかく相手に悟られてはいけない。
 敵に弱みを見せることはリングという戦場の中での死を意味する。

「ふうっ」

 必死で冷静な表情を取り繕いつつ、左腕を上げてガードの体勢をとる。

「クスッ、無理しちゃって…」
「なんのことだ?」

 ステップを踏んだ振動でさえも加藤の腕を伝わり、痛みに変換される。
 ちらりと時計を見ると残り58秒…
 視線をはずしたほんの一瞬を奈緒は見逃さない。

「耐えられるとでも考えているのかしら」

ピシュッ

 奈緒が軽いジャブを放つ。
 わざと加藤の左肘の辺りを狙って。

「つっ…」

 さすがに直撃は避ける加藤ではあったが、彼女のパンチが掠めただけで腕がしびれてしまった。

(たまらないよ…その表情だけでイっちゃいそう!)

 奈緒は口にこそ出さなかったがエクスタシーを感じ始めていた。
 履いているスパッツの下で秘所はすでに濡れまくっている。
 自分よりも頑強なはずの男性をテクニックで翻弄して動けなくする。
 奈緒が自らのうちに潜むサディスティックな感情に目覚めたのはボクシングを始めてすぐのことだった。
 スパーリング相手として同じジムの男子練習生を滅多打ちにしたとき、KOには至らなかったものの心底悔しそうな男子の顔を見て体の芯が熱くなったのを鮮明に覚えている。
 その後、背徳感を覚えつつも女子更衣室で何度も自分を慰めた。

 試合を重ねるたび、強敵を倒すたびにスパーリングパートナーも変わる。
 強い男を倒すたびに更なる快感が奈緒にプレゼントされた。
 いつしか手段と目的が入れ替わり、奈緒は女子ボクシング界での功績よりもスパーリング相手の男性を征服することに注力するようになった。

(私ってヘンタイ……なのかなぁ……)

 たまに自問自答するときもある。
 しかし今の奈緒にとってはたいした問題ではなかった。
 目の前にいる相手…加藤アキラは最高の獲物だ。打たれ強い上に、今までで一番いきがいい。
 ジムのスパーリングだと途中で相手があきらめてしまう様子にうんざりしたが彼は違う。「最後まであきらめない」という意思がますます彼女の心を熱くさせていた。

(それにきっと…彼は)

 直感的に奈緒は加藤アキラが童貞だと見破っていた。
 これほどまでに自己を鍛えぬくには女のことなど気にしていられないはずだし、さっき自分がクリンチ状態になったときもパンチを出すのを無意識にためらっていたようだ。

 試合の後、彼を犯す…童貞を奪って何もかも搾り取ってやる、とこのとき奈緒は決意していた。
 自然にうれしさがこみ上げてくる。



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