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「な、なにがおかしい!」
「フフッ、別に?」
彼の言葉で奈緒は現実に戻った。目の前の苦しげな男をまずは完璧に動けなくしなくては、と。
ダンッ
奈緒の左足が力強い踏み込みを見せた。
(強打がくる―――!)
直感的に加藤はガードを固めた。両腕を顔の前でぴったりとくっつける。
もっとも堅牢な構えのひとつピーカブーブロックだ。
(さあ、こい!)
奈緒の一撃……おそらく左のストレートだろうが、それをガードしてからカウンター気味の右を放つことを考えていた。
だが、奈緒のパンチはアッパーだった!
ばちんっ
「あっ!」
ぴったり合わさった両腕の間を、まるでペーパーナイフで封筒を開封するような鮮やかなガード崩し。
奈緒がニヤリと笑ったのを見た加藤はがら空きの顔面への打撃を覚悟した。
(歯を食いしばって耐える!この一発はくれてやる!!)
ギリギリと顔に力が入る。しかし……。
ズッ
「ぐぶうぅっ!!」
「ざーんねんでしたー♪」
奈緒の高速右ストレートが加藤のみぞおちを捕らえた!
打ち込んだその右に体を寄せるようにして奈緒は間合いを詰める。
あっという間にクロスレンジ(近距離戦)だ。
「もっと腹筋を鍛えないとダメよ?」
ドムッ、バスッ、ドゥッ
さらに密着した状態でのボディの2連打と左腕へのショートフック。
「がああぁぁ!!!」
獣のような咆哮を上げる加藤。
「くっつかないで!」
ピシィッ!
たまらず奈緒にクリンチしようとするも左のショートアッパーで突き放された。
さらに離れ際に加藤の左肘に向かって右フックを置き土産していく。
「ぎいぁっ!」
(やだ……そんな声上げないでよ! 濡れちゃう……)
激痛にもだえる加藤を見て奈緒の背筋がゾクゾクと震えた。
そして今度は明らかに左腕だけを狙ってジャブとワンツーを浴びせる。
「うああああぁぁっ!!」
加藤の左腕が力なく垂れ下がると同時に3ラウンド終了のゴングがなった。
「ふふっ」
背後で小さくうめく加藤を感じながら、奈緒はゆっくりとした足取りで青コーナーに戻る。用意してあった丸イスにすとんと腰を掛ける。
セコンドが用意したボトルを受け取りうがいをしながら次の作戦を考える。ステルス加藤の左腕はさっきのラウンドで完全に不能にした。
少なくともこの試合中は使い物にならないはずだ。そうなると次の狙いは……
「ボディを打ちまくって悶絶させちゃおうかな……ううん、それよりもまずあの黄金の右腕だよね」
考えながら思わず奈緒はブルッと武者震いをした。ボクシング界のホープとして自由に飛び回る彼の片翼はすでにもぎ取った。
残る翼も念入りに弱らせて奪い去る……そんなことを想像しただけで、すでに濡れまくっている花弁がさらに潤いを増してしまう。
(やっぱり私ってヘンタイなのかも……)
それでもいい、と奈緒は思っていた。
いくら金を積んでも手に入らない、この上ない快感を前に何を迷うことがあるのか。
無意識に呼吸が荒くなる。
「だ、だいじょうぶ? 広瀬さん」
ダメージはないはずなのに息が上がっている奈緒を見たセコンドがぎょっとした。
「ええ、平気よ」
仲間からかけられる声も上の空、セコンドアウトのアナウンスとともに奈緒は勢いよく立ち上がった。
反対側のステルス加藤陣営ではジムの会長が吠えていた。
「ちきしょう! こんな短時間じゃなんにもならねぇ!!」
アイシングを施してみたものの、加藤の左腕の腫れは治まらなかった。
満身創痍といっても過言ではない自分の選手を口惜しそうに見つめる会長。
「……オヤジさん、あれやってみるよ」
健気にも加藤は会長に向かってにっこりと微笑んだ。
彼のその目には迷いは無く、まだまだ闘志を充分に感じさせる。
それがまた悲しかった。
(誰が見だってもう負け試合じゃねえか……加藤、お前には先がある。先があるんだ!)
会長は笑顔で彼を送り出しつつも、左手に密かにタオルを握り締めていた。
危なくなったらこれ以上無茶はさせない。
最後は俺がお前を守ってやる……会長の無言の優しさだった。
カーン!
第4ラウンドが始まった。
加藤を一目見て、奈緒は驚きの声をあげた。
「へぇ、なかなか器用なのね」
加藤は右足を前に構えている。そう、サウスポーの構えだ。
「俺は元々スイッチ(両利き腕)ボクサーとしての修練を積んでいるんだ」
加藤の右腕がすっと上がり、奈緒に向かってジャブを繰り出した。
ボヒュッ!!
(この右、速いっ……!)
初めて見せる奈緒のバックステップ。
彼の右ジャブは付け焼刃ではない、と感じた。
もしかしたら左よりもキレがいいと感じさせるほど、彼の右ジャブはすばらしかった。
「さすがね。少し見直したわ」
「そりゃどうも……」
応戦する奈緒の左と同じくらい早い右。
拳だけではなく会話も刺しあう。
加藤と奈緒はしばらくの間お互いを牽制し合った。
「すげーよ、加藤! スイッチだったか!?」
諦めかけていた観客のボルテージも上がってきた。ステルス側のセコンドも応援に熱がこもる。
ジムの会長がタオルを握り締めた手を緩めたそのときだった。
「でも、右手だけじゃ私に勝てないわよ」
ジャブを出した右手が伸びきったところを奈緒はスナイパーのように打ち抜いた。
加藤の肘と手首の間の柔らかい部分を容赦なく右フックが叩き潰したのだ。
「ぐわああああぁぁっ!!!」
大きく右腕を弾かれた彼はバランスを崩した。
「ほらほらぁ」
パンッ、ドムッ!!
そこへ追撃の左ショートアッパーとフックのコンビネーション。
弾かれた右腕をさらに下から突き上げ、綺麗にがら空きになったわき腹をしたたかに打った。
フォンッ
「あら、よけられちゃった」
よろめきながらも3発目はかわす加藤。当たる寸前の右ストレートを避けつつ、苦し紛れで左を放った。
パンッ
「きゃっ」
その左が奈緒の首筋を捕らえた。そしてそのまま尻餅をついてしまう。
「ダウンッ!」
「え、うそっ!?」
奈緒が反射的に叫ぶ。そしてざわめく場内。
当てた側の加藤も信じられないといった様子で、ゆっくりと立ち上がる奈緒を見つめていた。
ラッキーパンチでダウンを取られた奈緒はカウント8になるまで片膝をついて加藤を睨んでいた。
加藤のほうも少し自信を取り戻したようで、奈緒に向かって威嚇するようにシャドーをしている。
「さっさと立てよ、オラ」
ステルス加藤の挑発に、奈緒の美しい顔が怒りでキュッと引き締まる。一方的に翻弄されるはずの加藤が自分を転倒させたという事実。この上ない屈辱。
(もう……許さないっ!)
彼女の怒りを一瞬で頂点に導くには充分な屈辱感だった。
レフェリーが試合の再開を宣言すると同時に、奈緒は一瞬で加藤との距離を潰した!
「なっ!?」
「……終わりにしてあげる」
「は、はなれろよっ!」
ボヒュッ
加藤のキレのある右ジャブを難なくかいくぐり、クロスカウンターを放つ奈緒。
しかしその拳の向かった先は彼の顔面ではなく右上腕部だった!
バシイィィン!!
「があああああっ」
「あら、痛かったの?」
加藤に残された唯一の武器をへし折らんとする奈緒の一撃。
グローブが加藤の右腕の表面を削り取るように食い込んだのもつかの間、奈緒は素早く重心を移動させて右足を強く踏み込んだ。
「私の必殺技、あげるっ!!」
もはや動かない加藤の左腕の下から襲い掛かる奈緒の右拳。
踏み込んだ右足の真下から立ち上るそのパンチは「スマッシュ」と呼ばれている。
実際には奈緒の腰から胸の間付近から右拳が伸びてくるのだが……
ゴギイィッ……
加藤はただでさえパンチの出所が見えにくいスマッシュを無防備な状態で食らってしまった。
しかも奈緒の利き腕である右のスマッシュである。
加藤との体重差は実に15kg以上ではあったが、彼の体を浮き上がらせるには充分な一撃だった!
「ぶぐっ、はああぁ……」
首から上を吹き飛ばされたような衝撃が加藤を襲う。
ここまで実力差があるとは彼もジムの会長も試合前は想像していなかった。
一瞬浮き上がった加藤の足が再びマットに着地した。
(うあぁ……身体がフワフワする……)
事実、彼の身体はマットから2cm程度完全に浮き上がっていた。
女性とはいえ完璧な重心移動を伴って放たれた奈緒のパンチは強烈だ。
わずか50キロ弱の体重全てを乗せた小さく硬い拳。
その威力は彼の左頬を打ち抜いただけでは留まらず、軽い脳震盪まで連れてきた。
鋭い切れ味のパンチが一瞬で加藤の闘争心を強制的に肉体から引き剥がした。
(オヤジ……おふくろ……先生……)
時間にすれば1秒足らずの、ほんのわずかな間だった。
彼の頭の中では今までの人生がすごい速さでフラッシュバックしていた。
(これが走馬灯ってやつか……?)
幼少のころの思い出、中学に入りボクシングを始めたときのこと、高校の入学式……
そんな中、彼の頭の中にグレーのジャージ姿でロードワークに励む自分の姿が写った。
暑い夏も北風が吹く冬も変わらず同じ道を走っている。
息ができなくなるほど激しい坂道ダッシュや百段以上もある階段の上り下り……その自分の後ろには常にジムの会長の姿があった。
(会長……)
ステルス加藤は自分を影で支える会長の姿を見て何かを思い出す。ビクンと彼の右腕が震えた。
奈緒によって切り離されてしまった意識が肉体に戻り始める。
(う……俺は、まだこんなところで倒れるわけには行かない!!)
そう思うとズキズキと左頬に痛みがよみがえって来た。
それは今の彼にとってありがたいことだった。
『目の前の敵に備えろ!!』
徐々に意識を取り戻しつつある自らの肉体に指令を下す。
次の瞬間完全に加藤の意識が回復した!
「があぁっ!」
奈緒の一撃による気絶という最悪の事態は回避できたが、加藤の目の前には次なる危機が迫っていた。
スマッシュを放った後、トドメの一撃となる左ストレートを奈緒が放とうとしていたのだ。
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