『怪盗ファズとの記録』





「まさかそんなところに隠れていたなんてね」

 目の前にいる女性が悔しそうに溜め息を吐いた。

 彼女はファズという名で世間に知られている。
 いわゆる怪盗とか義賊などと呼ばれている迷惑な輩だ。

 サラサラの長い髪に真っ白な肌、そして猫のように大きな目で僕を見上げている。
 一般的な男性の視点で言うところの、魅力的な女性ということになる。しかも抜群に美しい。
 彼女の服装は体の線がぴっちりと浮かび上がるようなボディスーツと、口元を隠す黒系のスカーフ、そして革製の手袋のみだ。
 顔面を隠せば闇と同一化できるようなコーディネートである。
 また、履いている靴は特殊な消音素材を使用しているようで、常人なら足音に気づくことはないだろう。

「ねえ貴方貴方、どこを見ているの?」
「いや……別に」

 偶然つま先を見ていた時、そう指摘されたので慌てて視線をそらす。
 相手が悪人であってもセクハラと思われるのは良くない。

 さて、このファズが盗み出したものは全て一流の美術品で、しかも今まで一度の失敗もない。
 僕は刑事課に配属されてからの約一年、ずっと彼女を追い詰めようとしてきた。
 結果は惨敗と言って良いもので、なかなかうまくいかなかった。

 ただ、彼女が盗んだものを分析しているうちに一つの傾向を見出した。
 最初は単なる憶測に過ぎなかったけど、やがてそれが確信に変わる事件があった。
 その経験から、次に狙われるであろう美術品を予測出来るまでになった。
 喜ぶべきかどうか判断に迷うが、おかげでここ数回の予測は全て的中している。

 僕は仮説を立て、次に狙われるであろう美術品を上役に報告した。
 だが、まともに向き合ってもらえなかった。確実に盗まれてから出ないと動けない組織なのだ。
 頭の固い上役にとって、部下の予測など妄想と同義語だ。

 苦々しい思いのまま自らの分析を信じて、盗難予測を元に、ある美術館に潜入した。
 これは上役の許可のない単独行動だ。
 警備員のふりをして、盗まれそうな展示室を一ヶ月以上張り続けた結果、ファズのほうから網にかかってきた。
 そしてようやく目の前の椅子に縛り上げることができたというわけだ。

「油断していたんだろうなぁ……貴方みたいな新人刑事に捕まっちゃうなんて」
「僕のことなんてどうでもいい。悪事はいつか綻びを見せるものだ」

 見下したように、しかしクールに言葉を返す。
 こういう台詞を口にしてみたかった。我ながらカッコイイ。
 そしてちらりと座っている彼女を見ると、緩んだスカーフの隙間から白い肌が見え隠れした。

「どこを見てるのよ」
「い、いや……」

 慌てて再び視線を戻す。
 さっきから感じていたのだが、この怪盗は男の視線に敏感だ。

「ふ~ん……?」

 じっと僕を見つめたまま、不意に彼女が艶のある声を出した。
 値踏みするようで、それでいて男の心の奥をそっと撫でていくような甘みを含んだ声色で。

「お宝はね、追いかけ続けているうちに情が深まってしまうことがあるの」
「それがどうした」
「なかなか手に入らないからこそ諦められない気持をわかってもらえるかなと思って」
「何か良からぬことを考えつたのだろうが無駄だぞ!」
「そうでしょうね。貴方はメンタルが強そうだもの」
「……」

 思い過ごしだったようだ。
 仇敵を目の前にして少し気持ちが高ぶっている。

「もうすぐ仲間の刑事が来る。そうすればお前は終わりだ」
「そうね。そして貴方は私を捕まえた事で大手柄。警視総監から表彰されるかも知れないわね」

 スマホを弄りながら冷たく僕が言い放つと、ファズもそれに答えた。
 だがその声に少しも恐怖や後悔などの念がないことに気付いた僕は、気持ちを落ち着かせることができずに彼女に詰め寄った。

「なぜそんな澄ました顔をしていられるんだ……」
「動けない相手に乱暴は良くないと思うわ」

 左手で彼女の顎を持ち上げ、しっかりと目を見て話す。
 やはりこいつは全く悪びれていない。
 真っ直ぐに僕を見つめ返してから、ファズは小さく笑う。

「貴方こそ何を焦っているの?」
「僕は別に焦ってなんか――」
「当ててあげましょうか……さっきから熱心にケータイをいじっているけど、お仲間に連絡がつかないのでしょう?」

 一瞬で全身の毛穴から冷や汗が吹き出した。
 だがそれを相手に悟られることは避けたい。
 僕は背を向け、スマホを操作し続ける。悔しいが、ファズの言うとおりなのだ……。


「お前、何か知っているのか?」
「知っていても教える義理はないと思うわ」

 数分後、スマホの画面を消してから尋ねてみるとそっけない返事が僕を待っていた。

「そんなに気になるのなら外の様子を見に行ってくれば?」
「馬鹿な。お前をここに残して行けるわけがないだろう!」
「クスッ♪」

 笑いを噛み殺す彼女を見ながら、思わず声を荒くしてしまった自分に驚く。
 たしかにファズの言う通りで、この部屋の電波が悪いだけなのかも知れない。

「私に逃げられるのが怖いのね」
「そういうわけではないが……」
「冷静に考えて? こんなにきつく縛られたら誰だって抜け出せないわ。それに私は逃げ出す気がないもの」
「そんな言葉に騙されるものか。お前の言葉は信じられない」
「ふふっ、用心深いのは貴方の長所だと思うわ」

 そしてまた彼女はしばらく黙り込む。
 電波が通じなくてもあと数時間で夜明けだ。そうすれば、誰かしらここに人が来る。

 うっすらと眠気を感じるが、今までの苦労を思い出せばこんな眠気なんて――、

「ねえお願いがあるの……逃げたりしないから、少しだけ背中の縄を緩めてくれないかしら」
「なっ……」

 彼女からの一言で眠気が吹っ飛んだ。
 お前はいきなり何を言い出すんだ、と怒鳴る寸前に彼女の言葉がさらに割り込んできた。

「しっかりと手足は縛られてるから私は動けないし、もちろん背中以外はこのままでいいから……ね?」
「僕が背後に回って縄を緩めた瞬間に、隙を作って前に飛び出して逃げようと考えているのだろう」
「じゃあ正面から私を抑えたままでいいから」

 後ろ手に縛られたままで、ファズは傷ついた子猫のように僕にすがりつく。
 あまりにも健気な様子なので思わずじっと見つめ返すと、椅子に座ったまま綺麗に揃えられた彼女の両脚が見えた。

 そこを跨いで正面から抱きつくような姿勢になれば、縄を緩めても逃げることはできないだろう。
 数秒間ほど考えたが、僕は彼女の願いを聞き入れることにした。

 眼下の美脚に触れないようにしつつ、細い首に両腕を回す。
 密着しないように心がけてもどうしても髪や肩などの一部には触れてしまう。

(いい匂いがする……)

 ファズの体臭なのか香水なのかは判断つかないが、不覚にもその香りに反応してしまった。
 それだけじゃなく、ほんの少し触れただけなのに彼女の体や髪、体温までもが……まずい、とにかく早く縄を……!

「こんなに汗をかいていたのね……タバコは吸わない人?」
「だ、だったら何だと言うんだ!」
「ふふ、私の好みだなーって思っただけ」

 彼女の背中を締め付けていた部分を少しだけ緩めながら、不意に囁かれた。
 甘い声が脳髄に染み込むようで、顔が熱くなる。自分でも判るほどドクンドクン、と心臓が高鳴る。
 無抵抗な女性に正面から抱きついている背徳感と、相手からかけられた甘い言葉に戸惑っている。

 悪戦苦闘しつつ縄の結び目をひとつだけ解いて、僕は飛び退くようにして彼女から離れた。
 少々名残惜しさはあるが、これ以上密着しているのは危険な気がした。

「ありがとう。おかげで呼吸が楽になったわ」

 にっこりと彼女が微笑む。
 その表情に見とれていた刹那、信じられないことが起きた。

パサッ……

 眼の前で、スルスルと彼女を締め付けていた縄の一部が崩れ落ちたのだ。
 後ろ手にきつく縛り上げていたはずなのに、さっき緩めた背中の結び目は全体に関係ない部分のはずなのに!

「えっ……お、お前! 一体どうやって抜け出したんだ!!」
「簡単なことよ。私は初めから縛られていなかった。だからこそ、逃げるつもりなんて無かった」

 やがて縄はすべてフロアに落ち、ファズはゆっくりと立ち上がり、こちらへ近づいてくる。

「逆に、ようやく貴方を縛ることができたわ」
「く、来るな……!」

 彼女との距離が一気に潰される。僕は身動きができなかった。
 ファズが一歩近づく度にさっき感じた甘い香りがさらに強まり、クラクラする……。
 今の気持ちを素直に認めるなら、これは単純な恐怖だ。

 密室で彼女と二人きりとなり、せっかく捕縛できたはずなのに何故……混乱する僕に、ファズは音もなく擦り寄ってくる。
 そっと伸ばされた左手が僕の胸に押し当てられた。

「貴方のお仲間は皆、ここには来れないわ。私がそう仕組んでおいたのだから」
「いったい何をしたんだ……お前、は、ああぁぁ!」
「教・え・な・い♪」

 手袋をするりと脱ぎ去り、白くて細い指が僕の胸から脇、そして背中へと滑る。
 視界に見え隠れする彼女の手は、顔と同じく端正できめ細やかな印象だった。
 そして僕はやんわりと片腕で抱き寄せられた。

「ここに居るのは貴方だけ……なら、誘惑してしまえばいい」
「待て、やめるんだ!」
「やめないわ。私、正面からの一対一での勝負なら、どんな男にも負けたことはないもの」

 ファズがニヤリと笑った後、今度はぐいって体を押された。
 僕と彼女の間には2メートル程度の隙間が生じた。
 ただそれだけの行為でも、彼女の筋力としなやかな体つきは十分理解できた。

「特に相手が貴方なら、足の速さでも格闘でも、心理的な駆け引きは勿論、セックスでも負ける気はしないわ」
「な、セックス、だと……」
「やっぱりそこに反応したね。フフフフ♪」

 僕の動揺を誘うように、ファズは両手で髪をかきあげて頭の後ろに組んで見せた。
 甘い髪の香りが撒き散らされる。
 暗闇に浮かび上がるシルエットは見事なS字を描き、強気な表情と相まって危険な魅力を放っている。
 服の隙間から見える張り出したバストも、腰のクビレも、長い脚も女性として文句のつけようがない。

「試してみたくなったんじゃない? 私との駆け引きとセックス」
「誰がお前なんかとッ!」
「もしも私に勝てたら、おとなしく捕まってあげる」
「えっ」

シュルッ……

 呆気にとられる僕から目をそらさず、ファズは指先でスカーフを解いた。
 ふわふわとした布が落ちる様子がスローモーションに見える。
 その間に彼女は指先で胸元のファスナーを下へ引っ張り、上着を脱いでゆく。
 黒いライダースーツのようなものと思っていたが、セパレートだったようだ。

「貴方が負けたら、そうね……とりあえず刑事を辞めてもらうことになるかな?」
「ふ、ふざけるな……何故僕が、刑事を辞める必要なんて……」
「必ずそうなるわ。私の魅力に負けて恥ずかしい姿になってしまうから」
「くっ、お、お前……ぇ!」
「私ね、セックスで相手をたっぷり辱めてから、最後に記念撮影しちゃうの。もしそれを警察内部にバラまかれたらどうなるかな?」

 話しながら焦らすようにファズは手のひらで自分の体を撫で回す。
 首から下が露出して、バストはグレーのタンクトップで隠されているものの、肩と長い腕、そしておへそまで程よく鍛え込まれた腹筋が見える。

(僕は今からこの女と、セックスで勝負をするのか……いや、する必要はないんだ。惑わされるな!)

 頭では判っている正論が、目の前の美しい体を見ていると崩れそうになる。
 ファズと勝負したい、体を重ねたい……危険な誘惑に心を蝕まれてゆく。

 構わず飛びかかれば?

 おそらく逃げられるだろう。
 ファズの素早さや狡猾さは今まででよくわかってる。

 セックスの勝負を挑めばどうなる?

 おそらく彼女は受けて立つだろう。
 だが勝敗の行方はわからない。

「さあどうする? 選ばせてあげる」
「ファズ……!」
「このまま尻尾を巻いて逃げ出すか、私と戦って手柄を立てるのか」

 いつの間にか思考が停止していた僕は、彼女の言葉以外の選択肢を完全に見失っていた。






次へ










※このサイトに登場するキャラクター、設定等は全て架空の存在です
【無断転載禁止】

Copyright(C) 2007 欲望の塔 All Rights Reserved.