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 そして俺がランニングマシンを降りて筋トレを始めようと考えていた時、

「スパーリングの相手をお願いできますか」

「えっ」

 突然声をかけられた。件の女性から。

「俺と?」

「はい。ここのオーナーさんから聞いてます。元ボクサーだって」

 元ボクサーか……俺ごときが名乗っていいと思えない重い響きだ。
 ちなみに俺の個人情報を漏洩したオーナーは本日不在。
 あの人、いつの間にそんなことを他人に話していたのだろう……

「あ、私は仲台っていいます」

 にっこり微笑む彼女を正面から見るのは初めてなのでドキッとしてしまう。
 やはり美形だ。

「自分は大橋と言います。あの、もしかしてモデルさんとか……されてます?」

「わぁ、ご存知でしたか! 『美鈴アンナ』という名前で活動してます」

 まだ無名に近いですけど、と彼女は謙遜した。

「そうでしたか。いうや、すみません。あまり詳しくなくて……」

「ふふっ、それは残念」

 ちょっぴり困った顔で見つめ返されますます申し訳なくなる。
 仲台さんは良くも悪くもありふれた美人さんなのだ。
 巷ではそういうのを量産型というらしいけどそれもまた失礼だと思う。

「話を戻しますけど今日は誰も相手をしてくれなさそうなんです」
「そうなのですか?」
「だってほら、私たちの他に誰もいません」

 辺りを見回す。他のみんなはどこ行った?

「でも自分と貴女では階級が違いすぎる」

「たしかにそうですね。なら、少し手加減してくれればいいですから」

 対戦自体が有り得ない。スラリとした細身の彼女は良くてバンタム級。
 一方で俺はライト級……いや、最近太った気がするのでスーパーライト級か。
 この体重差は危険なのでどんな悪徳プロモーターでもマッチングしないだろう。

 それでも彼女は臆せず俺との対戦を希望している。

(もしかして舐められているのだろうか?)

 そう感じた俺はその申し出を受け入れることにした。
 女性とボクシングするのは初体験だが。

 このジムに設置されているのは非常に簡素なフロアリングで、サイズは4m四方しかなくてとてもコンパクトだ。ある意味通常のものよりも緊張感がある仕様なのだが経験者の俺が彼女相手に本気を出す訳にはいかないだろう。

 あれやこれやと考えつつ向かい合う。
 彼女は親指に穴が空いている軽量なパンチンググローブを使い、俺は練習用のオンスグローブを選んだ。これで彼女へのダメージは限定的となる。せめてものハンデだ。

「モデルさんならヘッドギアをしないと」

「あ、いいです。痛みに耐えられなくなったらすぐギブアップしちゃいますから」

 それで本当にいいのだろうか。対戦相手がそれを望むなら仕方ないのだが。

「じゃあ俺もこのままで。ヘッドギアなしでいいです」

「はい、ぜひそうしてください」

 ニコっと笑いながら親指でスマホを操作しはじめる彼女。今は手動でゴングを鳴らさなくてもインターバルタイマーなんてアプリがあるらしい。これは便利だな。

「2ラウンドでいいですか?」

「自分はそれでオッケーです」

 特に異論はない。
 その一分後、やけに軽いゴングの音がスマホから鳴り響いた。





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