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 開始と同時に右足を引いて左腕を上げる彼女。
 オーソドックス、右利きだ。
 そして思ったよりも構えに隙がない。

 軽く頭を振ってフェイントを掛けてみるが動じない。
 しっかりと俺の動きを目で追っている。
 不用意に飛び込んだりしてこない。
 それなりに場数を踏んでいる相手だと判断する。

 お互いにすり足でリング上に半円を描いた頃、彼女が先に動いた!

「シッ!」

 左ジャブ。だがそんなに速くない。
 見てから落ち着いて回避。

 俺も左を差し返す。彼女も軽く身を振って避ける。
 これくらいは楽勝って感じか。

 開始から一分が経過。お互いに様子見のジャブの差し合いが続く。

 ど素人ではないとわかって少しやる気が増した俺はサイドステップから半歩だけ彼女のエリアに踏み込んだ。

(よし、ここなら俺の手が届く!)

 当然だが自分のリーチは把握している。
 そしてさっきまでより速い左を突き出そうとした時だった。

ふにょんっ♪

 脇を締めた彼女のバストが柔らかそうに縦揺れした。
 ほんの一瞬、僅かな時間だがそれに目を奪われてしまう。

「えいっ」

パチィンッ!

「ぶっ!」

 頬に感じた痛み。軽いパンチに首がきしむ。
 俺が拳を出すよりも早く彼女のジャブが炸裂した。

(しまった、試合中に俺は……うおっ!?)

ピシッ、パン、パンッ!

「がっ、はぁっ!」

 軽いジャブで左右に顔が弾かれる。
 彼女の左は返しが早く俺の対応にわずかなラグが生じてしまう。

 だが本当にまずかったのは相手の胸に目を奪われてしまったこと。

(ノ、ノーブラ!? 嘘だろ……ぐああぁ!)

 一度気にしてしまった邪念がなかなか頭から離れない。
 柔らかそうに揺れ続けるバストだけでなくタンクトップの上から見え隠れする乳首に俺は集中力をかき乱される。

「うふふ、やったー♪」

 連続で俺にジャブをあてた彼女は距離を取り得意げに笑った。
 ダメージは殆ど無いけれど流石にイラッとしてしまう。

「うおおおっ!」

 小突いてくるうるさい左を追い払うように放った右フック。
 当たらなくて構わない、ペースを元に戻すための一発。

 彼女は軽く頭を振ってそれをかわし、

「やぁっ!」

ピシィッ!

 可愛い掛け声とともに今度は下から突き上げられた。

「がっ……ぅ……」

 俺の顎先を彼女のショートアッパーが綺麗に捉えていた。
 大振りな右フックの打ち終わりを狙ってきたのだ。
 それを理解したときには彼女は次の行動へ移っていた。

「フッ! シィッ!」

パンパンパンパンッ!

 左右の四連打。
 ぎりぎり見えていたので両手を上げてガードする。

(ぐ……くそっ)

 本来なら連打から抜け出して空振りさせ、相手を消耗させたいのだが今の俺では足がついていかない。
 バシバシと俺のガードに突き刺さる小さな拳。オンスグローブと比べてパンチンググローブは軽い。そこへ彼女が回転の早いジャブにストレートを混ぜてきた。

ドンッ!

「くっ……」

 自分から後ろへ飛んで威力を逃し、同時にロープの反動を使って距離を稼ぐ。

(思った以上の相手だ……本気でやらないとまずいのか)

 気合を入れ直した俺は全力で彼女を捉えようとした。だがしなやかな動きでジャブはかわされ、ストレートを放てば打ち終わりに軽いパンチを当てられ距離を取られる始末。
 学生時代と同じように動けないもどかしさを俺は痛感していた。

「あれ、ガードを固めちゃうんですかぁ?」

 両手を上げて顔面をガードする俺の前で軽くステップを刻みながら彼女が笑う。それに合わせてふたつの柔らかそうな球体も揺れ動く。

(色仕掛けされてるわけじゃないのに何故俺は惑わされているんだ……)

 その屈辱を噛み締めながらグローブ越しに俺は睨む。

 すると彼女がパチンとウィンクしてきた。
 これもまた厄介だった。思わずドキッとしてしまうからだ。

(まさか計算して……いや、そうじゃない! 立て続けにいいやつを何発かもらったがダメージは回復した)

 いったん頭の中から煩悩を打ち消す。
 ただ思ったよりも相手の動きが軽やかで、このあとどうすればいいのか迷う。
 そんな俺に対して彼女が大きく踏み込んできてこういったのだ。

「怖いんですか? 女の子相手に……クスッ」

「こ、このおおぉぉ!」

 顔が近い。拳を出せば当たる距離だ。
 得意のクロスレンジでの挑発に俺はキレた。

「シュッ、シュッ!」

 スタミナを無視して左右のパンチを繰り出す。
 今の自分が出せる最大の力を彼女にぶつけようとするのだが、まるで動きが読まれているみたいに軽快なフットワークで回避されてしまう。
 わずか数秒で息が続かなくなりパンチのキレが失われ始めた時だった。

「はい休憩~」

ぷにゅうううっ!

「んはあああ!」

 不意に彼女が俺の上半身を抱きしめてきた。クリンチだ。
 押し付けられた胸の柔らかさのせいでせっかく押さえ込んでいた煩悩が再び目覚めてしまう。

「……からの、再開です。それっ!」

 どんっ、と俺を突き放して離れ際に軽いジャブを放つ彼女。
 ガードはできたがようやくリズムに乗りかけてきたところで振り出しに戻された。

(くそっ、くそおおお!)

 弄ばれた屈辱が俺の手足を動かす。しかし無理な動きを重ねて鈍くなったをじっくり観察しながら彼女が左を差し込んできた。

パァンッ

「がっ!」

「うふ、また当てちゃった」

 そしてまた距離を取る。憎らしいほどのヒットアンドアウェイ。
 目の前の整ったきれいな顔が今は憎らしい。
 せめて一発あてて赤く腫れ上がらせてやりたい。

(熱くなるな……こういうときこそ基本だ……冷静になれ)

 自分に言い聞かせながら俺は彼女の左へと回り込む。
 当然相手もじっとしてはいない。
 軽いパンチで俺を牽制しながら優位に立とうとするのでひとつひとつ丁寧にさばいて距離を潰してゆく。
 疲労感の中で徐々に勝負勘を取り戻しながらようやく彼女をコーナーへ追い詰めた時、コーナーポストのスマホからゴングの音が鳴り響いた。

「ふぅぅ、あぶなかったぁ~!」

 そう言いながらゆったりと自分のコーナーへ戻る彼女。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 逆に俺は緊張感と消耗で全力疾走したあとのように肩で息をしていた。

 反対側でロープに両腕をかけて微笑む彼女を見ながら深呼吸を繰り返す。

(スゥー、ハァー……スゥーハァー……くっ、なかなか戻ってこない……)

 頭の中で秒数をカウントする度に地獄が近づいてくるようだった。
 俺にとって短すぎるインターバルのあと、無情にも再びゴングが鳴った。

 2ラウンドめの開始直後、まっすぐ距離を詰めてくる彼女。
 ほんの数歩、小さなリングに逃げ場はない。

「スタミナは戻りました?」
「うるせえ」
「あー、そんなこと言っちゃうんだ!」

 彼女は頭を軽く振ってから腰を落とし、グッと踏み込むと同時に左フックを俺にぶつけてきた。その動きが先ほどよりも速くて回避が遅れた。左にステップしながら右脇を締めてガードする。

ガシッ!

「ぐうぅっ」

 ガード越しでも十分に伝わる威力だった。
 腰の入った左ボディ狙いのパンチに俺の体がふらついた。

「これならいけそうですね。では」

 右足でステップインしながらもう一度左を叩きつけてきた。
 そして次に右フック、それを交わせば左のショートアッパーからの右ストレート……俺からの反撃は来ないと読んで、彼女がラッシュを仕掛けてきた。
 足を使って抜け出したいところだが左右から激しく打たれてそれどころではない。

(しかも、あれが……鬱陶しい!)

 左右の連打に合わせて揺れ動くバストが目についてたまらない。
 ここへきて相手の実力以上に手強い煩悩が俺を悩ませている。

「ガード堅いですね」

 そのあと何発か俺にパンチを当て続けてからサッと身を引く彼女。
 正直助かった。
 両腕が痺れ始めていた。
 あのまま続けられたらヤバかったのだ。

「今日は暑いですね。やだ、ズレてるし……」

 だが彼女は休ませてくれなかった。俺との距離を保ったまま、慌てたように右手の親指でタンクトップの肩紐を軽く引っ張り位置を直し始めたのだ。

ぷるんっ……

 その仕草に目を引かれてしまう。

「ごめんなさい。見えちゃいました?」

 そして、そのことを彼女に悟られてしまった。
 ニマーっと笑いながら俺の顔色をうかがってくる。

「じゃあいきます!」

「はぁ、はぁ……ぅくっ!」

パンパンッ!

 気合を入れ直した彼女が攻撃を再開した。
 離れた距離からジャブとワンツーが絶え間なく襲いかかってくる。
 懸命にかわすが何発か被弾してしまう。

「ほらほら、手が止まってますよ」

パァンッ、バシッ、パシンッ!

「くっ、このっ!」

 顔面への被弾はかろうじて回避しつつ俺もジャブを返す。
 彼女と比較して手数が足りてないのが自分でもわかる。

「やあっ!」

ヒュッ

「ちっ!」

 こちらの手の引き際に合わせてしっかりカウンターを織り交ぜてくるので一瞬たりとも油断できない。
 相手の肩越しにセットされたタイマーの文字を見た瞬間だった。

「シッ!」

 ほんの少し目を離した隙にジャブに重ねた右ストレートが俺の顔に届いていた。

トンッ

 軽い手応え。ヒットする直前で彼女の右が失速した。だが本能的にまずいと思った俺はガッチリとそれをガードしてしまう。

(しまった!)

 もろにフェイントに引っかかった相手に対して彼女は容赦しなかった。

「ボディがガラ空きですよッ」

ドムゥッ!

「ぐはああああー!」

 肝臓打ち……レバーブローが無防備な俺の腹を打つ。
 右脇腹を下からえぐられ、体の芯を撃ち抜かれたような痛みに次の動きが取れない。
 ガードで上げた両手に力が入らなくなる。
 当然彼女はそれを見逃さない。

「はああぁぁっ!」

ドムッ、ビシッ、パァン、ドスッ!

 もう一度レバー、続いて右フック、ジャブ、右ボディ……あまりの痛みと苦しさに俺はたまらず自分からクリンチしてしまう。バストに触れると意識してしまうので避けるように抱きついたのがまずかった。

「はぁ、はぁっ、ぐうぅ!」

「ふふっ、それでいいんですか?」

「え……」

 彼女の右腕がスゥーっと折れ曲がり、振り子のように動き出す。

ドスッ、ドス、ドスドスッ!

「がはああっ!」

 慌てて距離を取ろうとしたが遅かった。
 彼女は左腕を俺の背中へ回して俺の上半身を固定している。

(がっ、はっ、ごふ、逃げられないっ!)

ドッ、ドウッ、ドムッ!

 至近距離からボディを軽めに何度も撃ち抜かれる。急激に足の先から力が逃げていくようだった。

「ぁぐっ、あうっ、あっ、ぐあ!」

「クリンチはこうしてしっかりと」

ふにゅうううっ!

 ギュッと抱きつかれ、胸の柔らかさを感じた瞬間に――、

ズンッ!

「ぐああああっ!」

 肋骨にヒビが入ったのではないかと思えるほどの痛みが俺を襲った。彼女は同じところばかり何度も叩き続けていたのだ。実際には骨折していないにしてもその痛みは今の俺にとっては厳しい。

「相手を抱きしめて動けなくしないとね?」

 柔らかな胸を押し付けたままグイグイと俺の体をロープまで押し込む彼女。
 同時にギチギチと外側から両腕が締められて痛くなる。
 もちろん反撃などできるはずもない。

「苦しいですか? 女の私に殴られて」

「ぐ、あっ、離せえええ!」

「いいですよ。ふふっ」

 腹を打たれて呼吸を乱す俺を不意に彼女は解放した。
 そして体勢を入れ替え右手で突き放した直後、左ストレートを放ってきた。

ボグッ……

「ぁがっ!」

 顔面を殴られ、たたらを踏んで後ずさる。背中に感じる逆サイドのロープの感触。
 それと同時に焼けるような痛みがやってきた。

(だが距離は稼いだ。とにかく逃げないと……)

 ロープ際から脱出を試みるが足がもつれて動かない。
 今の左ストレートが効いていた。
 その間に彼女は距離を詰めており、ジャブを放ちながらこう言った。

「……少し手加減してあげますね」

「て、てめええっ!」

 逆上した俺は不用意に右を出してしまう。
 スタミナを奪われ、スピード感に欠けたパンチを彼女はやすやすと回避しながら、

「えいっ♪」

パパァンッ!

「くはっ……」

 彼女がワンツーで俺の動きを完全に止めた。顔を弾かれ目の中に星が飛ぶ。

「お、おおぉ……」

 震える腕で亀になるがお構い無しでパンチが飛んでくる。

バチッ、バチンッ!

 左右のフックで体が揺さぶられる。そこでまた俺はガード越しに目の前で揺れる煩悩に目を奪われてしまう。

ふにゅっ、ふよんっ、ふにゅんっ!

 彼女がパンチするたびに揺らめくバストを見ているだけでガードする腕の力が失われていくようだった。

(クソッ、見るな、鎮まれえええ!)

 だが今回は見えてしまった。
 タンクトップの内側にある桃色の蕾が。しっとりと汗に濡れる美肌が。

「はぁっ、はぁ、頑張りますね!」

 飛び散る彼女の汗と感じる体温、それに呼吸まで全てが俺を悩ませる。
 美しい長身モデルとボクシングしている現実が俺を惑わせる。

 やがて左右の連打が止まり、ショートアッパーが俺のガードを切り裂いた。

「えいっ!」

 そして一瞬の空白。
 ガード越しに見えた右腕を引き絞る彼女の笑顔。それと誇らしげに揺れるバストの揺れに魅了された俺は、スローモーションのようにその細腕が伸びて、俺のみぞおちに突き刺さるのを見るしかなかった。

ドンッ……

「が……はあぁぁっ……!」

 まるで心臓を掴まれて無理やり止められたみたいに呼吸がつまり顎を跳ね上げる俺。
 それを見て彼女が花のように微笑んだ。

「やっと顔が見えました」

バクンッ!

 鋭い左が俺の顔を真後ろへ思い切り弾いた。

「ぶごおおぉぉっ!!」

 ロープまで吹っ飛び、押し戻される俺を彼女を待ち構えていた。

「ほら、またボディ!」

ドンッ、ドムッ!

「ぐはああぁっ!」

 思わず戻してしまいそうな痛みに腹と口元を押さえてしまう。
 そうなると顔面が無防備になる。

「いいんですか?」

バチンッ!

「がっ!」

ビシッ!

「ぎ……ッ」

 鮮やかなワンツーが俺を捉える。もう倒れそうになる俺を立たせるために彼女の方からクリンチしてきた。

「まだ倒れちゃダメです」

ふにゅっ……むにゅ、むにゅう!

(あ、ああああ、やわらかいよぉぉ……)

 存分に自分の体の心地よさを俺に味わわせながら彼女がささやいてくる。

「でも、試合中に大きくしちゃうような人は、これでおしまいですっ」

ズムンッ!

 両腕をだらんと下げたままの俺を抱きしめたまま、彼女は渾身の力で俺の腹に右ボディブローを叩き込む。

ドサッ……

 耐え難い痛みと、彼女の存在をそばで感じながら俺は膝から崩れ落ちた。

 細くしなやかな彼女の体にすがりつきながら、ズルリと俺はフロアに倒れ込んだ。
 呼吸は乱れ手足の感覚が鈍い。立ち上がれる気がしない。

「カウント、ワーン、ツー、スリー」

 屈辱のカウントを聴きながら膝に手をついて体を起こそうとした。
 ファイティングポーズを取ろうとした。だが間に合わない。

 そこでゴングが鳴り響いて試合終了となった。

「ふぅ、ありがとうございました!」

「……」

 ゴングに救われた。ズキズキ痛む体をなんとか起こして礼をする。

 無言でうなだれる俺を称えるように抱きしめる彼女。
 その細くてすべすべした体を感じながら俺は敗北を噛みしめる。

(こんな華奢な女性に遅れを取るほど俺は……)

 彼女が穏やかにささやく。

「腹筋、もう少し鍛えましょうね」

 それはこの上ない屈辱だった。
 だが完全に上から目線の彼女に対して俺は何も言い返せない。

「まっ……てくれ……!」

 泣きたい気持ちを堪え、俺はもう1ラウンド続行したい旨を伝えた。

 すると一瞬彼女は驚き、そして嬉しそうに美しい唇の端を歪めた。









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