<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>
(2/4ページ)
突き当たりまで進むと、右に扉があった。
扉、というのも恐ろしく正確に、進行方向からほぼ九十度の方向に設置されていて、
測量や土木の水準の高さが見てとれた。
地下の遺跡なら水が染みだしていてもおかしくはないのに、
隅の方にわずかに溜まっているだけで漏水らしき跡も見られない。
感嘆する他はなく、このような凄い建築物の最奥部にある『秘宝』とはいったい何か、
否が応にも期待が高まるというものだった。
扉をくぐった先には、ほどなく広間が見える。
何気なく進みかけた九龍の足が、急停止した。
「どうしたの?」
「何かいる」
九龍は囁き、左の脇に手を伸ばした。
そこから現れたものを見て、明日香が目を丸くする。
「は、葉佩クンそれ……てっぽう?」
「ブローニングだ」
物の呼び方は数あれど、てっぽうなどという子供っぽい呼び方は
九龍の気に入らなかった。
『宝探し屋』にとって銃の技量はサバイバルや罠解除のそれに較べて重要ではないが、
自然と自然以外の脅威から身を守るためには必要不可欠だ。
九龍も『協会』に属した時以来銃の扱いは学んでいて、
練習の的以外の物を撃ったことも何度かある。
今回は法律で銃の所持が禁止されている日本での探索ということで
出番はないかと思われたが、用心はしておくものだと
九龍は自画自賛しつつ前方をうかがった。
さっき、小さな鳴き声が確かに聞こえた。
それも一匹ではなく複数だ。
明日香に曲がり角まで戻るよう指示して、九龍は銃を構えた。
鳴き声は近づいてこないので、九龍の方からにじり寄る。
壁に貼りついて広間を覗うと、いきなりそれは襲いかかってきた。
「うわっ」
頭の高さで飛来してきたものをとっさに避けたが、
すぐに後ろから襲ってきたので室内に飛びこむ。
その瞬間、横から別の何かがぶつかってきて、九龍は大きくバランスを崩した。
思いがけない攻撃に驚きながら、室内に他に敵がいないか、
攻勢に出るために良い場所はないかを素早く済ませ、
移動し、振り向くと同時に狙点を定め、
銃口の先に居るものに対してわずかに目を細めると、そのまま銃を撃ち放した。
「キイィッ!!」
落下したそれに目もくれず、もう一匹、最初に襲ってきた方に狙いをつけ、
引き金を引く。
二発目も上手く命中し、部屋には九龍以外動く存在はいなくなった。
「もういいぞ」
明日香を呼んだ九龍は、彼女が来る前に仕留めた獲物を検分する。
その異様さに眉をしかめているところに、明日香がやってきた。
「な……何コレ!?」
「コウモリ……にしちゃ大きいな」
九龍がブーツの先で死骸をつつくと、明日香が半歩後ずさる。
女らしいところも少しはあるのか、などと思いながら、
九龍は目を細めてその生物を眺めた。
一般的にコウモリの頭部は耳を除けばネズミに近く、知能が高いわけでもない。
だが九龍が倒したこの種は、身体の大きさも普通のコウモリの数倍はあるが、
頭部が胴体に匹敵する大きさで、しかも首のような部分まであるため、
人間の醜悪な戯画のようで実におぞましかった。
しかも、それは飾りではなく、一匹が追い立て、もう一匹が待ち伏せするという
コンビネーションを用いるだけの知能を持っているのだ。
二匹だったのと、その頭が重いのが災いしたのか、
飛行スピードが速くないので銃で撃退できたが、
あと二匹いたら危険だったかもしれない。
まだひくついているコウモリからやや目を逸らし、九龍は訊いた。
「お前、校内でこんなの見たことあるか?」
「ないよ、こんな気味悪いコウモリ」
明日香の言うとおりならば、この遺跡はほぼ密閉状態ということになる。
おそらくそうなのだろう――こんなコウモリが地上に出現すれば騒ぎになるはずだし、
そうなればこの遺跡の存在を隠し通すのも難しいだろう。
ずいぶんと扉が多いのは、もしかしたら隔壁の意味合いがあるのかもしれない。
まだ数十分も探索しておらず、予断は禁物であるが、
九龍は自分の直感を記憶に留めておいた。
その部屋は大きいわりに何もなかった。
こういった場所は何らかの宗教的な意味で設置されることがあり、それ自体は珍しくない。
ただ、扉を開けた途端に流れだした何千年かの淀んだ空気が鼻をつき、
九龍は思わず顔をしかめた。
「うっ……嫌なニオイ……」
明日香は自分の鼻をつまみながら、それでも玄室に入っていく。
普通女は悪臭を嫌うものなのに、少しだけ九龍は感心した。
「なんにもないね」
きょろきょろ部屋を見渡しながら言う明日香の声は、
鼻をつまんでいるので濁って聞こえ、九龍はつい失笑する。
一瞬の油断が命取りになる探索で、笑うことなどありえないのだが、
空っぽの部屋にこれまでの緊張もほぐれたのか、
笑った自分をとがめる気にはならなかった。
ふと見れば、明日香が部屋の隅にいる。
さっさと次の部屋に行こうとしているのかと思ったが、そうではなかった。
何もないと思われた部屋の、壁に何かがあったようだ。
「ねえ葉佩クン、これなんだろ」
それはどう見てもレバーだった。
何気なく手をかけて今にも下ろしそうな明日香に、九龍の脳裏に緊急のシグナルが灯る。
「触るな馬鹿!」
九龍は叫んだが遅かった。
むしろその叫びをきっかけにしたかのように、
明日香はいかにも怪しいレバーを下げたのだ。
実に軽やかに下がったレバーは、しかし九龍の予想に反し、
下がりきる前に、もう一度、実に軽やかな音を立てた。
「あれ? 折れちゃった」
取っ手を持った明日香は、きょとんとした表情で九龍に折れた棒を差しだした。
レバーであったものを見せられた九龍は、
現実を受けいれるために限界一杯の酸素を吸わなければならなかった。
「何……やってんだお前……!!」
華麗なる『宝探し屋』としての第一歩が、見るも無残に砕け散っていく。
デビュー一発目から仲間内で伝説になるほどの秘宝を見つけだす、
などとうぬぼれていたわけではない。
だが普通に探索し、普通に任務をこなす程度の夢を見るのが、
そんなにいけないことなのだろうか。
運命を司る女神を小声で罵った九龍は、ともかく状況を把握するために、
折れた棒とそれを持つ少女のところへと向かった。
ところが。
「おい、なんか聞こえてこないか?」
明日香までの距離は五歩もない。
その五歩を歩いているうちに、明らかにそれまでは
聞こえなかった音を九龍の聴覚は捉えた。
「えー? 別に」
事の重大さ――レバーを下げたことはともかく、折ったのは重大に決まっている、
何せ元に戻せないのだから――をまるで理解せず、自分の責任を放棄している明日香に、
九龍は殺意に満ちた視線を向ける。
しかし役に立たない明日香(を問い詰めるよりも、少しずつ、
確実に大きくなってきている音の正体を突き止める方が先立った。
呼吸を低め、ゆっくりと四方を見渡す。
壁に変化はない。
音は大きく……というよりも近づいてきている。
焦慮に鳴らしそうになる喉を押さえ、どこで何が起こっているのか、
九龍は『宝探し屋(』としての危機察知能力を全開にした。
狂おしい数秒が針を刻み、九龍は真実を掴む。
原因を突き止めたとき、我慢していた生唾を飲まずにいられなかった。
「お……おい、天井が」
「え……?」
能天気な明日香が、さすがに声も出せないでいる。
それを見た九龍は溜飲が下がる思いだったが、じつのところそんな余裕などなかった。
この部屋の天井全体が、今や九龍二人分ほどの高さまで降りてきている。
罠(――
明白すぎる事態は飲み下すには少し塊が大きすぎたが、九龍は無理やり飲み下した。
「ちょ、ちょっと葉佩クン、どうするのこれ!?」
「で、出口だッ、いや入口か、どっちでもいいッ、急げッ!!」
刻一刻と降りてくる天上の恐怖に、九龍も明日香も一切無駄口を叩かず入ってきた扉へと駆けた。
流れるような動作で取っ手を掴み、手前に引く。
しかし、入ってきた時には開いた扉は、九龍の渾身の力でもびくともしなかった。
「な、なんで……ッ!?」
焦る明日香の声を背に、九龍は二度、三度と試すが、
扉は入ってきた時の寛大さはどこへやら、軋みすらしない。
額に汗を滲ませ、九龍がもう一度試そうとすると、その肩を明日香が叩き、天井を指さす。
明日香の指を追った九龍は、この扉がもう絶対に開かないと悟らざるを得なかった。
三メートル以上もある大きな扉は部屋の内側に向かって開くようになっていて、
もう扉の上端まで降りてきた天井が引っかかっているのだ。
「どッ、どうしよう!?」
「どっか通路はないのかッ!?」
九龍と明日香は部屋を見渡すが、
マチュピチュの遺跡さながらに隙間なく組まれた石は、
とても崩して突破できそうにはない。
「爆弾とか持ってないのッ!?」
「こんな狭いところじゃ使えねえよ!」
叫びあう間にも天井は降りてきて、つむじに寒気を感じる。
絶体絶命、というのはたいてい死なない(ときの枕詞なのだが、
実際陥ってみるとやはり死ぬものなのだと納得する九龍だった。
「や、やだッ、あたし死にたくないッ、
まだパフェもおいももたこ焼きだってぜんぜん食べたりないのにッ!」
未練が食べ物ばかりなのがあっぱれなくらいな八千穂にもはや構う余裕もない。
腰をかがめ、バックパックを開けて何か策はないか装備を手当たり次第に取りだした。
ロープ、登攀用具、携帯食料に小型爆弾。
その他多くの状況に対応できるよう入念に準備された先人の経験と最先端の科学による
道具は、小さなバックパックから想像もつかないほどたくさん出てきたが、
この罠を突破できそうなものは何一つとしてなかった。
「くそッ……!」
迫りくる天井についに九龍は立っていられなくなり、床に腹ばいになった。
明日香も同じ姿勢をとり、二人は顔を見合わせる。
汗のにじんだお互いの顔に希望はなかった。
ここに至ってようやく死を実感したのか、明日香が、
それでも気丈に涙は浮かべずに謝った。
「は、葉佩クン、ごめんね、あたし」
「次は気をつけろよ」
最後の冗談にしてはおもしろみがなかったが、明日香は小さく笑った。
意外と可愛かったその笑顔を網膜に焼きつけ、九龍は目を閉じた。
彼女がぺしゃんこになる瞬間を見たくなかったのだ。
最後に明日香が何か言ったような気がしたが、もう聞こえなかった。
轟音が狭い空間に荒れ狂う。
吊り天井の罠は、かかったのがたった二人の侵入者では不足だといわんばかりに
音と振動で一分近くも騒いでから、ようやく哀れな獲物を解放した。
床と天井の隙間が広がっていくにつれて、
今日の食事を待ちわびる小動物達に饗される、
見るも無惨な血と肉の塊が姿を現すのだ。
降りてきたときの何倍かの時間をかけて、天井が本来の場所に戻る。
だがそこに、男女の死体はなかった。
「あ、あれ……あたし、生きてる……?」
天井が上がりきってからたっぷり三十秒も動かなかった明日香は、
むくりと起きあがると、信じられないといった顔で両手を見ていた。
隣でやはり、二十秒は動かなかった九龍も、
表にこそ出さなかったものの、生の喜びを全身で満喫している。
これまで何度か死にそうにはなったが、これほどヤバかったのは初めてだった。
その原因を作った少女を怒る気ももはやなく、後ろに手をついて深く深呼吸した。
「生きてる、生きてるよ葉佩クンッ!」
いきなり明日香が飛びついてくる。
彼女を支える気力がまだ回復していない九龍は、もろともに後ろへと倒れてしまった。
頭をぶつけてそれなりの痛みが湧きおこるが、
それすらも生きているのだと実感させてくれると歓迎し、
床の冷たさにしばらく浸る九龍だった。
背中は冷たく、腹は温かい。
反する温度は実に快適で、九龍は半ば目を閉じかけていた。
それが急に目が覚めたのは、快適さの原因に気がついたからだ。
「おい」
「え?」
「そろそろ離れろよ」
「……あっ!」
自分が九龍を押し倒している、と気がついた明日香は、
九龍も驚くほどの勢いで起きあがった。
そのまま一メートルほども跳びずさり、
意味もなくスカートのすそを引っ張ったりしている。
なにかまた面倒くさいことにならなければいいが、
と願う九龍は、彼女のある変化に気づいた。
それはおさえがたい感情を呼び起こし、ついには我慢できなくなって肩を震わせる。
「なっ、何よ」
九龍は直接答えず、ベストのポケットから鏡を取りだして彼女に放った。
いぶかしげに折りたたみ式の鏡を受け取った明日香は、開いて顔を覗いた。
「あっ、あたしの鼻、真っ赤……!」
元の大きさに戻った部屋に満ちる絶叫に、九龍の笑い声が折り重なって響いた。
「うう……いつぶつけたんだろ……」
あれほどの危機的状況の渦中に生じた傷だから、痛みも感じないようだ。
鼻血は出ていないので大したことはないだろうという判断で、
それでも一応看てやる九龍だが、
まだ笑いの波動が抜けきらず、頬が緩んでしまった。
「ひどいよ葉佩クン、女の子の顔見て笑うなんてッ」
「いや、トナカイだってこんな赤い鼻してねえだろうからよ」
「ううー……でも、どうして死ななかったんだろ、あたし達」
「さあな、罠を作ったやつが設計ミスをしたのか、
それとも最初から脅すだけのつもりだったのか」
「あたしがレバーを折ったから途中で止まったんじゃない?」
「そりゃねえだろ」
思いきり笑ったことで死の恐怖も去り、多少の疲労回復もできた。
散らばったバックパックの中身を元に戻すと、九龍は表情を改めて明日香に言った。
「これでわかっただろ。俺は遊びでやってるんじゃないんだ。
せっかく拾った命があるうちに戻れよ」
「えー……」
なんと明日香はこれだけの目にあったのに、まだ逃げようとしない。
見上げた根性だというべきだが、同行を許すかというと話は別だ。
頬を膨らませる明日香は鼻が赤いのでピエロのようだが、
愛嬌のある外見に惑わされるわけにはいかなかった。
「えーじゃねえ、ほれ、帰れ」
「お願い、今日だけ」
「駄目だ」
話は終わった、と九龍は次の部屋へと向かう。
すると明日香に思いきりバックパックを引っ張られ、
危うくむち打ちになってしまうところだった。
「お前なあ、いいかげんにしろよ!」
「だって」
「だってじゃねえ、こんな調子で罠引かれたら俺の方がたまんねえんだよッ!!」
「どうしてそんなヒドいこと言うの!?」
「お前がヒドいことしたからだろうが!」
双方の怒鳴り声が反響する。
当事者達にとってさえいささかうるさいそれらの反響音は、
空間に余裕がある上方向へのものが必然跳ね返ってくるのが遅く、
二人は期せずして同時に、さっきまで自分たちを押しつぶそうとしていた
天井を見上げた。
それはそこにあった――ありがたいことに。
幾分トーンを落として、九龍は続けた。
「とにかくだな、ぺしゃんこになるのなんて嫌だろうが」
「葉佩クンだって嫌でしょ」
「だからここから先は一人で行くって言ってんだよ」
「大丈夫だよ、二人の方が絶対楽しいって」
遺跡探索は男のロマンで、男のロマンに楽しいもへったくれもない。
そう言ってやりたい九龍だったが、さすがに恥ずかしい気がしてやめた。
もはや話しても無駄であると、九龍は無言で部屋の出口へと向かう。
その後ろを当然のように、明日香が弾むような足取りでついていった。
はるか向こう、五十メートルほど先におそらく次の部屋への扉がある。
そして広い空間に床はなく、ところどころに手の形をした足場が配置されていた。
下は奈落の底、とまではいかないようだが十メートルくらいはありそうだ。
その趣味の悪さはともかくとして、ロープや橋などといった親切なものはなく、
自力でなんとかして渡らなければならないようだった。
九龍たちが立っているところからは、
一番近くても四メートルほど跳ばなければならない。
単なる走り幅跳びならば、健康な高校生なら跳べるだろう。
しかしここは助走距離が取れないのと、
落ちたら無事ではすまないという恐怖が大きな鉄球となって両足首にぶら下がる。
しかも距離が足りないのはもちろん、跳びすぎても足場は小さく、
落ちてしまう危険があるのだ。
この、いかにも冒険活劇に出てきそうな仕掛けには驚いたのか、
明日香もかわいらしく手など口元に当てている。
そうやっておとなしくしていればまだ可愛げもあろうものをと、
九龍はさりげなく後ろにさがった。
身体能力を充分に発揮できる距離を作りだし、自分の度胸にひとつうなずいてみせると、
「じゃあな」
言い捨てて助走をはじめ、一気に踏みきった。
「あっ……!!」
明日香の声が背中にぶつかった時には、もう九龍は目指した足場の上にいた。
目測も跳躍も完璧であり、『宝探し屋(』にふさわしいもので、
自己満足を覚えた九龍は少し優しい気持ちになった。
これであのやたらとうるさい女との、緊張はゼロ、
スリルは満点以上の冒険から解放され、
本来の孤独ではあるが充実した探索に戻れる。
明日香は帰りにでも拾ってやればいいだろう。
明日学校ではうるさいだろうが、
せいぜい穏やかに明日香を諭してやろうと九龍はふり向いた。
視界を覆う巨大な肉塊が接近してくる。
意味もなく格好をつけてふり向いた九龍の両の眼に映ったのは、
両手と両足を前に突きだして、すでに半ばを跳んでいる明日香の姿だった。
「……!!」
制服のスカートが傘のように広がって、
健康的な太腿がかなりきわどいところまで見えてしまっている。
いや、一瞬ではあるが確かにその向こうに肌とは違う、
黄色の何かを視力のよい九龍は見た。
しかし、そんなことよりも、もっと重要なことがあった。
この足場は狭く、明日香の跳躍を見届けてやるだけのスペースなどないのだ。
一人で探索することが多く、
動揺や驚きをいちいち態度に出したりはしない九龍もこれには慌てた。
おそらく生涯で二度目というほど慌て、そして──何もできなかった。
うろたえる暇さえなく、明日香が突っこんでくる。
とにかく反射的に腕を広げると、ものすごい勢いで五十キロほどの
質量がぶつかってきた。
「うわ、おい……!」
踏ん張らないとまずい、と思ったものの、
物理の法則に従った明日香の身体は容易にはとまらない。
そのままもつれるように倒れてもなおとまらず、二人の動きがようやく止まったのは、
九龍の頭が大きな指の間から完全に出てからだった。
「……!!」
ようやくパニックから一息ついた九龍は、
自分が半分奈落に落ちかけていることを知る。
地の底から吹きあがってくる冷風に首筋を撫でられて恐慌に陥りかけ、
とにかくこの体勢を脱しようと試みた。
まずは慎重に、そのまま身体を下にずらそうとする。
するとちょうど九龍が力を抜いたタイミングでおもしになっていた明日香が起き、
九龍の頭はシーソーの一方のように落ちた。
「うわっ……!」
落ちたのは数センチほどでも、体感的には死に直結していた。
悲鳴の塊がのどにつっかえるなど、九龍には初めての経験だった。
針の山が待ち構えている落とし穴に片手だけでぶら下がった時にも、
猛毒を持つ蛇の群生を突破する時でさえ、
不敵とさえいえる余裕を持っていた才能あふれる若き『宝探し屋』だったが、
齢十八にして立て続けに経験した初めての恐怖は、
何の変哲もない一般人によってもたらされたのだった。
永遠に近い一瞬が過ぎ、九龍はどうやらまだ現世に留まっているらしいと知った。
しかしまだ全身は強張っており、うかつに動かせば要らぬ危険を招きかねない。
若輩ではあるが熟練した判断で九龍は、まず手でしっかりと地面を掴もうとした。
その途端、いきなり手首がつかまれ、三度世界が回転する。
「……!!」
明日香に引っ張られた九龍は、ばね仕掛けの人形のように跳ね起きた。
上半身と下半身が見事な直角になる。
今度こそ声も出ない九龍の目の前には、軽く頬を膨らませている明日香がいた。
大跳躍もその後の九龍の危機もどこ吹く風といったように眉根を寄せている。
膝の上に乗っている明日香はスカートの裾をなおしておらず、
太腿の大部分が露になったままだ。
むろんそれを指摘したり、目の保養をする余裕など九龍にはなかった。
奈落から垂直に、そして水平九十度へと顔を移動させられて、
目が回ってしまっていたのだ。
「もう、ひどいなぁ葉佩クン、置いてきぼりなんて」
「お、お前……この距離を跳べるのかよ」
「あたし、テニス部だもん」
まるで要領をえないくせに、自信たっぷりに笑顔を浮かべている明日香の回答に、
九龍はもう何も言わないことにした。
まだ動悸は収まっていない──『宝探し屋』が聞いて呆れる失態は、
未来永劫秘密にされなければならない。
九龍は十八歳で、平均寿命まで生きるとしても残りの人生の方がはるかに長いが、
今日の恥は何があっても墓の底にまで持っていくと固く決心していた。
目の前の能天気な女は九龍の動揺に気づいてすらいない。
この動揺を笑うようなことがあれば、九龍はもう日本に足を踏み入れられなくなるほどの
恥辱を抱かされるところだったが、この恐るべき女の関心は、
早くも別の話題へと移っているようだった。
「胸、触ったでしょ」
「……は?」
あまりにも場違いな話に、九龍はまばたきし、間の抜けた声を発した。
「あたしの胸、触ったよね。エッチ」
しかし明日香は世界で最も重要な問題であるかのように頬を染め、
軽くうつむいている。
九龍は触った覚えは全くないし、仮に触ったとしても、
ブレーキ代わりになってやったのだから礼を言われても恨まれる筋合いなどないはずだ。
それにそもそも、男として女に興味がないわけではないが、
女性的な魅力より死神としての資質が勝る女など願いさげだ。
たとえその胸が世界で一番触り心地がよくても、
ためらうことなく背を向けるだろう。
だから男の名誉にかけて触っていないと強弁しようとする九龍に先んじて、
明日香が口を開いた。
「もう、女の子のだいじな場所なんだから、
将来のだんなさんにしか触らせちゃダメなんだよ、本当は」
何を言っているのかさっぱりわからないが、関わったら危険なのはよくわかる。
立ちあがり、わざとらしく埃を払った九龍は、前方を見据えた。
まだ部屋の出口までは何度か今のような跳躍をする必要があったが、
最初の一回で緊張と慎重さとその他諸々を落とした九龍は、もう何も怖くなかった。
いや――たったひとつ怖いものができた。それは。
「ねえ……ちゃんと責任、取ってよね」
恐怖に背を向けて、九龍は高く跳躍した。
<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>