<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>
(2/6ページ)
「きゃあああッッ!!」
突然、けたたましい悲鳴が鼓膜をつんざいた。
慌てて振り向けば亜柚子の姿はなく、
彼女がいた位置にあるのはぽっかりと開いた穴とかろうじて床を掴んでいる手だけだった。
いつもなら考え事をしていても周囲の気配は探っているのだが、どうも没頭しすぎていたらしい。
自分の間抜けさに舌打ちしつつ駆け寄ると、
亜柚子は腐りかけていた木の床を踏み抜いてしまっていた。
青ざめた顔の数メートル下には嫌味のように透き通った、やはり蒼が広がっている。
仕掛けられた罠ではないようだから落ちたところで影響は少ないかもしれないが、
見た目に綺麗だからといってどんな成分が含まれているかわからないし、
深ければ落ちたら最後、上がって来れないかもしれない。
脅かす、と言ってもあくまでだけで、本当の危険に遭わせるつもりはない。
俺にも予想外だった展開に、俺はやや動揺して手を伸ばした。
「大丈夫かッ」
「え……ええ……」
さすがに亜柚子の声は震えていた。
これで以後は静かになるかもしれない、とわずかな期待を抱きつつ、彼女を助けようとした。
しかし、よくよく今日はついていない日だった。
亜柚子を引っ張り上げようと床を支点にして腕に力をこめると、
もうすっかり朽ちていた床板はあっけなく抜け、貪欲に俺をも引きずり落とした。
「──!!」
体重がゼロになる厭な感覚が、耳の後ろを走り抜ける。
それが金属質の響きに変わる直前、俺達は水面に叩きつけられていた。
ゼロから一転、まとわりつく重さが奈落へと俺を誘う。
閉ざされた感覚はあっさりと所有者を裏切り、甘美な永遠へと漂いはじめていた。
何度目かの会合となる美女を装った死神を、だが俺は払いのける術を身につけていた。
多量の泡が視界に入る。
そして泡の向こうには、ゆっくりと沈降していく亜柚子がいた。
四肢に力なく、ゆるやかに蒼く拡散していくようにも見える彼女に、俺は一瞬、ありえない幻想を見た。
見惚れた──だが危機に瀕している時に、そんなことがあるはずがない。
まがりなりにもプロである俺が。
自分を嗤った俺は、とにかく今すべきことを優先すべく、
思考を追い払うと、彼女の許へと泳いだ。
水が澄んでいたことに感謝しつつ、彼女の顎を持って引き上げる。
落ちたショックで気を失ったのか、暴れなかったのは幸いだった。
それほどの苦労もなく岸に上がった俺は、彼女を横たえた。
胸は上下しており、命に別状はなさそうだ。
周りの安全を確かめたうえで、俺は彼女が気づくまで休むことにした。
遺跡の様相は一変していた。
これも特色といえるだろうが、この遺跡はある地点を境に急激に変化を遂げる。
それは文明が変わるのと同じくらいの激変で、石畳の玄室が植物あふれる密林になったり、
宇宙船めいた金属の通路になったり、統一感がまるでない。
時代が、それこそ何百年単位で変わっているのかと最初は思ったが、
使われている仕掛けの種類や建造に用いられている技術からしても、同じ年代に作られたようだ。
だとすれば、どうしてそんな手間のかかることをしたのか。
進めば進むほど謎は深まるばかりだった。
とりあえず近くに生き物──といっても、ここには『あの』化け物共以外に、
普通の、例えばイモリや蛇などの小動物は見なかった。
化け物に捕食されてしまうのか、それとも激変する地相が地球の生態系を拒むのかは
わからないが、こういうとき余計な心配をしないで済むのは助かる。
人心地ついた俺の視界の端に、クリーム色のブラウスが映った。
生命の危険に陥った彼女を、疎ましく思う気持ちはもうなかった。
プロを自負していながら素人を危ない目に遭わせてしまったという負い目もあったが、
死んだように横たわる亜柚子を見て、俺は自分でも予想していなかったほどショックを受けていた。
仲間の死にすら立ち会ったこともあるのに、どうして気を失っただけの彼女に、
心臓が冷えるほどの恐怖を抱いたのか。
そしてその前、水の中に浮かぶ亜柚子を見て、抱いた感情は何だったのか。
俺は胸に手を当て、焚きつけるように二度ほど叩いて考えようとしたが、
亜柚子の腕がかすかに動いたので中断し、彼女が気づくのを待った。
「ん……」
まばたきをした彼女を、驚かせないようゆっくりと視界に入る。
瞳孔が焦点を結び、丸い目に知性が戻ってきた。
「ここは……?」
「わからない。相当落ちたのは間違いねぇけどな」
「そう……」
亜柚子が身体を起こす。
顔に貼りついた髪に、俺はなぜだか視線を逸らせた。
起きた亜柚子はずぶ濡れの自分の身体によって何が起こったのか克明に思いだしたらしく、
両腕をかき抱いたのは寒さだけのせいではないようだった。
それを見て、俺は少しだけ身体を硬くした。
彼女が素人にありがちなある行動に出るのではないかと思い、
そうなった時に対処できるよう身構えたのだ。
しかし、亜柚子は頭を振ると、俺の予想とは全く異なる行動に出た。
「助けてくれてありがとう」
死の危険に晒されて、てっきりヒステリックに泣き叫ばれると思っていた俺は、
彼女の意外な礼に戸惑い、とっさに何も言えなかった。
俺達は単独探査を旨とするが、誰かと組むことも決して少なくない。
同じ『協会』の奴や学者など、相手は毎回バラエティに富むが、
共通するのはひとたび組むことになったら決して仲間は見捨てないという掟だった。
足が折れようが、腕がちぎれようが、生きているのなら可能な限り助け、
探索が続けられないほどの怪我を負ったら潔く撤退する。
それは『協会』のうっとうしい規則の中でも、珍しく俺が気に入っており、
これだけは守ろうと心がけているものだった。
だから奇妙な成り行きからであっても亜柚子を助けるのは当然だったし、
逆にいえば、彼女を助けるのは義務以上のものではなかった。
「いや……大丈夫か」
訊ねると、亜柚子はいかにも意外そうに目を見開いた。
年上らしからぬ愛嬌のある顔に、思わず噴き出しそうになってしまう。
「心配……してくれてるの?」
「そりゃ、な」
「ありがとう……少し休めば良くなると思うから」
「ああ」
微笑んだ亜柚子に、俺はどんな表情をして良いかわからず、あいまいに頬を掻いた。
ずぶ濡れになった服を悲しそうに見おろした亜柚子は、か細い声で言った。
「あの……服……絞りたいんだけど」
「?」
「少し……向こうむいててくれる?」
今ひとつ意味が解らなかったが、訊くほどのことでもないので言われた通りにした。
その間に装備の点検をする。
落とした装備はないようで、防水ポケットに入れておいた弾薬も無事だ。
問題はどうやって戻るかで、俺は落ちてきた穴を見上げた。
暗い遺跡で天井は見えず、ワイヤーはあってもひっかける場所がない。
こうなることが解っていたならフックをかけておいたのに、と無駄なことを考えてしまうのは、
女を連れて未知の領域から脱出しなければならない困難のせいだろう。
「きゃっ!」
いきなり亜柚子が叫んだのは、その時だった。
敵でも現れたのかと振り向くと、そこには脱いだ服で慌てて胸元を押さえている彼女がいただけだった。
いや、だけ、というのは語弊があったかもしれない。
「お、お願い……こっち、見ないで……」
「あ、ああ、悪かった」
亜柚子は襲われでもしたかのように必死の形相をしていたし、
俺もその煽りを食ってやたらと動転してしまったからだ。
両手を挙げ、悪意がないことを示すともう余計な動きはやめ、壁を見つめる。
亜柚子はご丁寧にも衣服を脱いで、可能な限りの水分を絞り出そうとしていたのだ。
水分は体温だけでなく、体力をも奪うから彼女の判断は正しいと言える。
しかし俺はこれまで幾人かの女性ハンターと行動を共にしたことがあるが、
同じようなケースでも彼女達は実に手際良く絞るか、あるいは見られることを全く気にしていなかった。
もちろん、俺、あるいは俺達もそこで変な気を起こしたりはしない。
仲間割れなどしたら大変だし、事に及んだりしてその最中に敵に襲われたりしたら
ハンター仲間の嘲笑の種になってしまう。
せいぜいが冗談を飛ばすくらいで、その場限りで済ませるのが俺達の不文律となっていた。
だから、亜柚子の反応は新鮮ではあった。
いくらかのうっとうしさは感じたものの、
彼女が俺とは異なる世界に生きているのだと改めて思い知らされたのだ。
俺が彼女に気取られないよう、顔だけで苦笑していると、
恐る恐る、と言ったように亜柚子が声をかけてきた。
「あの……もういいわ」
<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>