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亜柚子の服は皺だらけになっていた。
遺跡探索などにはおよそふさわしくない、淡色のブラウスやスカートを着てくるのが
そもそもどうかしているのだが、一介の教師は探索用の装備など持っていないだろう。
それでも、教壇に立っている姿を微塵も感じさせないみすぼらしい格好にも関わらず、
亜柚子はどこか犯しがたい雰囲気を有していた。
熟練の宝探し屋が持つ、赤茶に焼けた肌やいかなる時も油断なく周囲を窺う眼のようなものとも違う、
内面から滲み出ているような神性めいたものを、彼女は惜しげもなく発していた。
学校で全くそれに気づかなかったのは、俺が授業中でも教壇をろくに見もしない、
生徒というにはあまりに不真面目な人間だったからだろう。
俺は罪を咎められているような気がして、真っ向から彼女を見るのが恥ずかしくなってしまっていた。
探索もほとんど進んでいないが、ケチもついているし、今日はもうあがりにしよう。
そう思いつつ、立ち上がろうとした俺は、彼女の、
今は幾らか青ざめている唇を見てタイミングを失してしまった。
「もう少し休んでからにしよう」
亜柚子は口にこそ出さないが、相当体力を消耗している。
遅まきながらそれに気づいた俺は、安堵の表情を浮かべる彼女に、
これじゃプロ失格だ、と思いながら胡座を掻いた。
と言っても、亜柚子はともかく俺はすることがない。
装備の点検は済ませてしまったし、亜柚子の顔はなんとなく見づらく、
手持ち無沙汰で困っていると、おもむろに亜柚子がポケットを探りだした。
「ね、お菓子持ってきてたんだけど、食べる?」
そう言って彼女が取り出したのは、見たことのない菓子だった。
どうやら手製らしく、簡単にラップに包んであるだけのそれは、
しかし当然というべきか、ぐしゃぐしゃになってしまっている。
悲しそうに菓子を見つめた亜柚子は、それでも半分に割って俺に差し出した。
「ボロボロだな」
「本当ね」
たったそれだけの会話なのに、俺達は揃って笑い出した。
疲労や恐怖が、手足の先から抜けていく。
俺達は死にそうだったことを彼方に追いやろうと、しばらくの間必要以上に笑い続けた。
軽くなった腕に任せ、菓子を口に運ぶ。
「これ、何て菓子なんだ」
「スコーンっていうの。これはオレンジを混ぜてあるから、オレンジスコーン」
「へえ」
オレンジスコーンは既に得体の知れないものに変わり果てていたが、妙に甘かった。
糖分のおかげで抜けていく疲労を実感しながら、俺は大事にオレンジスコーンを噛んだ。
「美味しいな」
「ふふ、良かった。好きなのよ、これ」
「良く作るのか?」
「ええ。いい気晴らしになるの」
「気晴らしって、あんたでも悩みなんてあるのか」
皮肉ではなく、悩みやトラブルの方が避けていくような人種だと思ったから
俺は素直に驚いたのだが、亜柚子はなめらかな頬を一杯に膨らませて拗ねてみせた。
「ひどいわね、あるわよ。いつも寝てばかりで授業を聞いてくれない子のこととか」
「……」
したたかに反撃されて俺は黙るしかなかった。
スコーンが喉にひっかかったような気がして何か水分が欲しいところだ、
と思ったが、あいにく水筒なんぞは持ってきていない。
無理やり残りを飲み下すと、亜柚子は更に詰め寄ってきた。
「ねえ、本当はあなた、この遺跡を調査するためにこの学校に来たんでしょう」
「……ああ」
もう隠す気もなく俺は肯定した。
それが亜柚子への免罪符にはならないと知りつつ。
「それじゃ、調査が終ったら学校を出て行くの?」
随分先走るものだと思いながら、俺はまた頷いた。
正確にはここの報告を終え、新たな宝探し(の指令が出たら、だが。
「……そう」
亜柚子は目を伏せ、小声で言った。
不良生徒を更正させられないのがそんなに残念なのか、と思った俺は柄にもなく慌て、
思いつくまま口を開いた。
「あんたの授業はなるべく起きているようにするよ。小テストはいい点取れねぇと思うけど」
「……」
「テ、テストも頑張るよ、できるだけ」
「……」
まだ望むというのか。
途方に暮れた俺は、彼女自身が要求を口にするのを待った。
俺が見ているのに気づいた亜柚子は、一旦動かしかけた口をなぜか閉じた。
再び開かれた唇から発せられた声は、俺にもわかるほど作った陽性の声だった。
「いいわ、期待してるわよ」
亜柚子はそんなものをまるで期待していない。
それは判ったが、じゃあ何を望んでいるのか、までは判らず、
判らないのを俺は悔しいと思い、そう思った自分に驚いていた。
しかし、どうやら彼女が教師という神性を持っているように、
俺にも持って生まれた役回りがあった。
それは宝探し屋などという格好のよいものではなく、大事な場面で緊張を持続できない道化師だった。
沈んでいるよりは、笑っている方がいい。
そう信じる俺は仲間がいればトリックスター的な役柄を進んで演じたし、
それが嫌でもなかったが、何も今でなくても!
俺は運命を司る神を半ば本気で罵った。
突如として、いかにも品性のないくしゃみが遺跡中に反響していた。
もちろんそれは俺の、今は両手で厳重に封をしてある間抜けな口から飛び出たもので、
いつまでも響くエコーをバックに、火鍋に投げ込まれたような気分を味わっていた。
亜柚子は目を見開いたまま固まっている。
真面目な話、少なくとも亜柚子は真剣だった話の最中に、
こんな馬鹿でかいくしゃみをされて怒らない方がどうかしている。
あまりの失態に素直に謝ることさえできず、俺はいかにもわざとらしく胸を叩いた。
良く考えてみれば、くしゃみをして胸を叩くのは意味がない。
そんなことにも気づかないほど、俺は動揺していたのだが、
実のところ、どんな行動を取っていたとしても関係なかった。
「わ、私聞いたことがあるんだけど」
なぜどもっているのか、不審に思った俺は亜柚子を見た。
亜柚子はこちらを見ておらず、うつむいている。
明るめの髪の間から覗く耳が、トマトのように赤くなっていた。
「その、冷えた身体を温めるには、は、裸で抱き合うのがいい……って」
「……それは寒くて死にそうな時だろ」
確かに濡れてはいるが、水は冷たくはなく、気温も低すぎるというほどではない。
濡れた服が気持ち悪いだけで生死に関わるようなことはない、というのが俺の判断だった。
くしゃみはあくまでも生理現象に過ぎず、寒くて出たわけではないのだ。
「……」
俺の失態も中々だが、それにも引けを取らないと思える亜柚子の失言だった。
ここで笑い飛ばしておけば、それで済んだかもしれない。
しかし宝探しなどというものを生業にしている俺は笑うことに慣れておらず、
亜柚子への指摘も思ってもいなかったほど冷たい口調で言ってしまい、
その結果、やたらと気まずい沈黙を提供する羽目になってしまった。
亜柚子は顔を伏せたまま、石像のように動かない。
それが凝視されているからだと気づいた俺は、勢い良く身体を半回転させた。
これで亜柚子は気兼ねなく顔を上げられるはずだ。
だがこれでは亜柚子が顔を上げたかどうか俺が判らない。
振り向いて目が合いでもしたら、気まずさは修復不可能な領域に突入するだろう。
それを知りつつ他に手のうちようもなく、俺は鼓動を唯一の友人として、
脱出できるあてもない迷宮に逃げ込むしかなかった。
オレンジスコーンが胃の中で暴れている。
さっきあれほど甘く感じられた菓子は、口元まで広がる苦味を放っていた。
唾を吐きたい衝動に俺は駆られたが、すんでのところで思いとどまる。
もともと俺は必要以上に遺跡を汚すことを好まない。
しかし今は、それ以外の、俺にも良く判らない理由からそうすることがためらわれた。
することがなくなってしまった俺は、立てた膝に顎を乗せ、
まだ深層の見えない遺跡を見るともなく見ていた。
この遺跡の中心には、何があるのか──宝探し屋としての大いなる動機、
困難に直面した時にまじないのように唱える精神の拠り所に、いつしか俺はすがっていた。
何か得体のしれない、蒼いもやのようなものが、胸中から湧き起こっていた。
それが結びつけるイメージの正体を知った時、俺は見慣れた遺跡に逃げこむしかなかったのだ。
空気がわずかに動いた。
澄んだ空気には似つかわしくない、春の木漏れ日のような暖かな流れが、
ゆるやかに俺の許へとやってきた。
近づいてくる空気に、かすかに匂いがついている。
この遺跡には決してない類の匂いに、俺は動けなかった。
「あなたが私のことを好く思っていないのはわかってるわ」
背中に触れたものに驚き、背中からかけられた声に、呼吸を止められていた。
彼女は何を言い出すのか──聴覚だけが全力で活動していた。
「足手まといでしかないってことも。でも……お願い。
迷惑をかけないようにするから、せめて一緒にいさせて。二人きりの、この遺跡(でだけは」
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