<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>
(4/6ページ)
俺は振り向けなかった。
首根っこを押さえた臆病が、頭上で嗤っていた。
脇腹に眠る愛器では倒せないこの強敵を睨みつけた俺は、そいつに向かって叫んだ。
「嫌いじゃ、ねぇよ」
「……え?」
首筋に巻きついた亜柚子が、びくりと震える。
柔らかな女の感触を、俺はどうしたいのかもわからずに続けた。
「嫌だったら連れてくるわけがねぇだろ」
回された腕が強張る。
亜柚子の息遣いが止んだのを背中越しに感じた俺は、ひりついた声を喉から押しだした。
「そういうんじゃねぇんだよ、あんたを見てると……落ちつかなくなっちまうんだ」
それが俺の本心だった。
原因不明の、苛立ちにも近い感情。
同業者に先に宝をかっさらわれた時とも、情報(がガセで無駄足を踏んだ時とも異なる、
どうやって晴らしたら良いか皆目見当がつかない気持ち。
學園にいるときはなかったのに、遺跡に入った途端、
顔の回りを飛ぶ蚊のように絶えずまとわりついていた感情。
水に落ち、蒼に漂う亜柚子を見た瞬間に、鮮烈なまでに焼きつけられた想い。
それらの全てが、直接亜柚子に触られたことで一気に噴きだしていた。
亜柚子は俺と居たいと言った。
學園という檻の中で、教師と生徒という桎梏から唯一解放されるこの遺跡に、
二人きりで居たいと告白した。
嬉しかった。
他にも思いはあるにせよ、真っ先に浮かんだのは嬉しいという想いだった。
学生は仮面に過ぎず、その仮面すらまともに被ろうとしなかった俺にとって、
亜柚子は担任以上の存在ではなかった。
そう思っていたのだ。
俺のような、生徒と呼べないような生徒にまで目をかけ、あれこれと話しかける職業熱心な教師。
人を疑うことをせず、教え子達を本心から案じる生粋のお人よし。
それが彼女に対する俺の評価だった。
しかし、俺は自分に嘘をついていた。
進路を訊ねられても適当に流し、まともに話すらしたことのない亜柚子に、
俺はいつからか惹かれていたのだ。
亜柚子に墓場で見つからなければ、きっと自分でも気づかずに終ったであろう想いに、
俺は気づいてしまった。
否、亜柚子が気づかせてくれた。
幾つかの想いが頭を巡る。
俺はその中から一つを選び取ると、亜柚子の腕に手を添えて言った。
「俺も、あんたと居てぇ。けど、一緒に遺跡は歩けない。今日みたいなのはもうなしだ」
既に一度俺は自分のミスで彼女を危険に晒した。
二度目はない、と言い切るには、残念ながら俺はまだ実力が不足している。
万が一、ではなく絶対に亜柚子を怪我させないためには、
彼女を連れていかないという方途(しかないのだ。
だから二人で遺跡を歩くのは今日が最後、これだけは譲れなかった。
亜柚子は何も言わない。
嫌われたか、とも思い、それも仕方ないか、とも思った。
彼女への想いは嘘ではないが、たぶん卒業を待たずして、俺はこの學園から去る。
それならばこれ以上情が移る前に、今ならばまだ引きかえせる元の場所へと戻るのも立派な選択だ。
俺はそう自分を納得させ、彼女が身体を離すのを待った。
「九龍さん」
亜柚子が呼んだ俺の名は、誰か同名の別人の名なのではないかと思ったほど、きれいな響きをしていた。
心地良い、全てを委ねたくなってしまう危険な響き。
俺は耳の奥で反響を続けるその快い音に気を取られすぎて、
亜柚子の手が少しずつ位置を変えているのに気づいていなかった。
冷たい指が、顎に触れる。
そこで初めて俺は、亜柚子が見た目からは想像もつかない、強情な女であることを知った。
指先に意思が点り、俺の顔を横向ける。
何をさせるつもりだ、と思った時には、すぐそばにあった亜柚子の顔が、わずかに傾いていた。
「……っ」
何が起こったのか、まるでわからなかった。
鈍器で頭を殴られたような、目の前で火花が散る感じ。
俺は呼吸もまばたきも忘れ、亜柚子に塞がれた左側ではなく、
右目だけでひんやりとした遺跡の壁だけを見つめていた。
俺の前に亜柚子がいる。
皺だらけの服は着ておらず、深い赤の下着姿だった。
水を絞る時は少し顔を傾けただけであれほど騒いだのに、
なぜ今は俺に見せつけるように服を脱いだのだろう。
俺は亜柚子が唇を離した後も変わらぬ姿勢のまま、そんなどうでもいいことを必死に考えていた。
脱いだブラウスを丁寧に畳んだ亜柚子は、俺の、どこを見ているやらわからない視線の前に立つ。
ブラウス越しではない、生の肌から伝わる熱気と、何より白に近い桃色の唇に魅入られ、
呆けているしかなかった。
頬に触れた亜柚子の手が、後ろへと伸びていく。
耳の後ろから、首筋へ──必然的に身体を近づけた亜柚子は、必要以上に顔を寄せて言った。
「赤い下着なんて、意外だった?」
意外も何も、俺は女の下着になど興味がなかった。
俺の精神を昂揚させるのは失われた文明の古文書や財宝といったもので、
あとはそれらを手に入れる為に必要な道具や銃器にしかこれまでは関心がなかったのだ。
だが健康そうな頬を朱に染める亜柚子に改めてそう言われると、
意識はどうしてもそちらに向いてしまう。
男にはない、柔らかく盛り上がった隆起は、俺の身体に触りそうなところまで近づいていた。
服を着ていた時よりずっと華奢な肢体を、抱きしめて良いのか判らず、
茫洋とたたずむ俺に、亜柚子が触れた。
「でも、私も……女だもの」
俺には彼女の発した、わずか数語の言葉の意味が解らなかった。
もともと文字の解読は得意ではないが、
どんな古代文字よりも今彼女が言った台詞は俺にとって理解不能だった。
「……」
窮した俺はとにかく何か言おうとするが、喉は骨でも詰まったかのように声を押し出さない。
意のままにならない肉体と、それをもたらした原因に恐怖すら覚え、
微かに喘いだ俺の身体は、迫ってくる白い肌に後ずさりしようとしていた。
「──!!」
いきなり俺の呼吸を塞いだ亜柚子の唇は、身体機能を司る神経を一瞬で破壊していた。
頭の傷口が弾け、心肺機能が過剰に激しくなる。
宝探し屋はどんな事態が起こっても平静を保たなければならない。
どんな職業でも言えることではあるが、生死に直結するだけ宝探し屋に求められるそれは水準が厳しく、
新米のハンターの半分はこれを守れなかったために消えていくと言われている。
物心ついた時から宝探し屋として仕込まれていた俺は、特にこれを徹底的に叩きこまれ、
飯の最中だろうが寝ている時だろうがおかまいなしにあの手この手で驚愕に対する耐性をつける訓練
──嫌がらせと言った方が早い──を受けていた。
だから俺は、鈍感だと言われたこともある。
当たり前だ、ガキの頃から世間の中でも特に擦れた大人達に格好のおもちゃにされていたのだ。
おまけに俺は世界中の遺跡と、そこへと続く秘境を歩くうち、
生半可な学者ではたちうちできないだろう量の動植物を見てきている。
人をも食らう巨大花、人に似た鳴き声をあげる一つ目のロバなど、
図鑑にすら載せるのをはばかられるような生物を目の当りにすれば、
大抵の驚きなど尻尾を巻いて逃げ出すだろう。
なのに、身体のごく一部分が触れただけで、俺はこれまで培ってきたそんな評判を、
大瀑布に落としてしまったようだった。
それだけでも彼女が俺とは異なる世界の人間だと確信させる、
薄桃の唇が、俺から一切を奪っていた。
鼓動は音となって聞こえるほどなのに、頭の中は真っ白になっている。
かつて経験したことのない状況の中で、生暖かな、俺のそれよりも少しだけ遅い鼓動が、
全身を揺らしていた。
早い鼓動と遅い鼓動。
二つの、火山の噴火のような脈動は、徐々にもつれあっていく。
その心地良い、というにはあまりに激しい旋律から逃れようと、
俺は半ば無意識に石の床をひっかいた。
そこに、柔らかな温もりが覆いかぶせられる。
手の甲から浸透する心地良さが腕を上り、たちまち全身へと広がっていった。
「……っ……」
隙間を求め、這いまわる指先は、求めていたものを見つけると、するりと潜りこんできた。
唇の不思議な温かさとは違う、汗ばみ、熱い掌。
逃げ場を奪われた俺に、一度離れた唇が、再び重ねられる。
それがさっきよりも熱い、と感じた途端、俺は床に倒れていた。
情けないことに、支えていた腕が痺れてしまったようだった。
背中を打った痛みもなく、俺は遠ざかった亜柚子を見る。
細い肩に浮き上がる異様な赤。
その赤をたどると、男にはない柔らかな隆起が、一層の赤と共にあった。
触れたい、という衝動は、あまりに唐突に起こったため、かえって動きを封じる。
そんなはずがあるわけもないが、その隆起が罠なのではないかと思ったのだ。
じっと見つめていた亜柚子が、わずかに表情を和らげる。
「あなた……まだなの?」
何がまだなのか、くらいはいくら俺でも解った。
解ったが、声が出ない。
幾つかの遺跡を踏破し、単独での調査を許された栄えある宝探し屋(の俺が、
未知の恐怖に声すらあげられなくなっていた。
「いいわ……教えてあげる」
<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>