<<話選択へ
<<魔人学園 4へ 魔人学園 6へ>>
「ワタシ達は、それでも耐えたわ。わずかに生き残った闇の住人達は、
人間達の求めるもの全てを差しだし、最低限の生きる場所だけを求めた。
──けれど、彼らはそれすらも許さなかった。
愚かな迷信を信じ、眠っている仲間の心臓に杭を撃ち込み、生きたまま炎にくべた。
そんなことをして生きていられる生命などありはしないのに、
彼らはありとあらゆる残虐な方法で仲間達を殺していったわ。
……ワタシには、彼らが殺戮そのものを愉しんでいるとしか見えなかった」
幼子の悲鳴を聞いて嗤(う人間。
女を姦(し、絶望のあまり憤死した女をなおも犯し続けた人間。
妻を人質に取り、男同士で殺し合わせた挙句に全員を殺した人間。
それらの全てを、マリアは憶えている。
忘れられる訳がない。
仲間達の怨嗟の叫び、人間共の狂気の嗤い、その双方をマリアは深く魂に刻みつけていた。
「不死にも近い寿命を持ち、病気への抵抗力も高いワタシ達は、
外的要因でなければ死ぬことはほとんどないわ。
だから(ワタシ達は、滅ぼされる運命にあったのかもしれない。
でもワタシは、生き残った最後の一人として、闇に生きる者達の安息を取り戻したい。
そして闇への畏怖を忘れた者達へ、自分達もまた、食われる側に過ぎないのだと思い知らせてやりたい。
……その為には、アナタが必要なの。『黄龍の器』が」
マリアの声が低くなる。
生徒を叱る時ですら発しない、可聴域すれすれの、膨大な負の感情(が篭った声だった。
「大地が歓喜に震えているわ。この地に溜まった氣が、寛永寺の龍穴から噴き出そうとしている。
天龍院と真神(……二つの地にある『龍命の塔』が地上へと現出するわ。
そして大地は、選ばれし者に『力』を与える」
蒼い瞳は、溶けることのない氷。
職員室で龍麻が見たのは、この眼だった。
凍てついた絶望、そして最後の渇望。
「あの男の求めているのは、ただ破壊と暴力のみが支配する世界、陽と陰ですらない混沌。
ワタシの望んでいる世界とは異なるわ。だからあの男にアナタを斃させる訳にはいかない」
マリアの指が離れる。
顎に残る柔らかな記憶が月の灯りに消えた時、マリアの姿は数歩の距離を隔てていた。
「ワタシの為に死んで欲しい、なんて都合のいいことは言わないわ。
ワタシはアナタの血を啜(る。それが嫌なら、ワタシを斃しなさい」
何か──なんでもいい、闘いを遅らせることが出来るのなら、どんなことだっていい。
与えられた運命の残酷さに龍麻は喘ぎ、喘ぎつつなお運命を変えようとした。
しかし、干上がってしまった喉を強引に震わせ、マリアに呼びかけようとした刹那、
灰色のコンクリートに伸びるマリアの移せ身が揺らいだ。
とっさに身を沈めると、頭髪が数本、逃げ遅れて宙に舞う。
振り向いた龍麻のわき腹に、膝がめりこんだ。
「く……ッ」
苛烈な打撃によろめく。
体勢を立て直す暇もなく再度膝を、今度は正面から腹に叩きこまれ、同時に背中に鋭い痛みを感じた。
攻撃を受ける瞬間まで、マリアが襲ってくると信じなかった龍麻ではあるが、
躱すだけなら可能だったはずだ。
しかしマリアの疾(さは予測を遥かに上回る、人ならざる者の動きだった。
たまらず片膝をついた龍麻の眼前に、赤いハイヒールが迫る。
正確に顔の中心を狙うつま先を、腕を交差させて防いでも、なお龍麻は現実を受け入れられなかった。
「マリア……先生……」
口の中に広がる鉄の味を吐き捨て、一年間英語を教えてくれた教師の名を呼ぶ。
位置を入れ替え、月光を受けて輝くマリアの瞳は、蒼く、決して溶けない氷の色だった。
「どうしたの、アナタの力はその程度なの?」
言い終える寸前にマリアの姿は消えていた。
龍麻は気配を感じ、かろうじて避けるが、頬に灼熱感が残る。
滲む血を拭う間もなく、マリアの攻撃は矢継ぎ早に続いた。
「く……ッ」
マリアは一瞬も留まることなく影を動き続け、龍麻を幻惑する。
防戦一方の龍麻の身体のあちこちに、たちまち赤い線傷が幾筋も生まれた。
いずれも浅く、致命傷にはならない。
しかしこのままではやがて力尽き、血を吸われてしまうのも時間の問題だろう。
龍麻は氣を練り、まず彼女の動きを捉えることに専念することにした。
気配を読み、大きく距離を取って攻撃を躱す龍麻に、マリアの嘲笑が聞こえてくる。
「そうしていればワタシが疲れるとでも思ったの?
残念だけど満月の夜、ワタシ達の力は最大限に高まる。
夜が明けるまでは疲れを知らぬままよ。そしてワタシは、夜明けまでアナタを生かしておくつもりはないわ」
マリアの言う通り、彼女の動きに衰えはいささかもない。
少し油断をすれば、鋭い牙が首筋に突き立てられてしまうだろう。
冬の夜だというのに額に滲む汗すら拭おうとせず、
龍麻は彼女の動きを探ることに全神経を集中させていた。
一撃離脱(──マリアは闘いの基本を忠実に実行している。
素早く踏みこみ、一打を放ち、間合いから離れる。
そのいずれもが尋常でない疾さで繰り出される為、受け切ることはこれまでの龍麻なら困難だっただろう。
しかし、マリアの攻撃を躱しながら氣を練るうち、
龍麻は己の五感が異常なほど研ぎ澄まされていることを知った。
マリアの一挙手一投足はおろか、彼女の息遣いすら感じ取れる。
鋭利な針のようなマリアの攻撃を、次第に龍麻は完全に躱せるようになっていた。
月を舞台にして、二人は死の舞踏を続ける。
台詞はなく、音楽も風を切る鋭い音が響くのみだ。
二人の真剣さは疑いようがなく、一方は致命的な一撃を与えようと、
一方は攻撃の機会を見出そうと円舞を踊った。
宙に舞うマリアの肢体が、月に消える。
優雅なほどの跳躍は、反転、研ぎ澄まされた殺意となって龍麻を襲った。
空気を切り裂くような蹴りも、だが、今の龍麻には当たらない。
吸血鬼──人を遥かに超える能力を持ったマリアの攻撃ですらも、
活性化した龍脈の影響を大きく受けている龍麻には遅くすら見えた。
マリアの攻撃を受けているうちに、龍麻は気づいたことがあった。
マリアの攻撃には、鋭さはあっても巧みさがないのだ。
防御を考えず、ただ撃ちこむのみ──捨て鉢とも言える戦い方だった。
故(に龍麻は、戸惑っていた。
倒してしまうことは出来るだろう。
しかし、斃(してしまうわけには絶対にいかないのだ。
増大した氣は感覚を鋭敏にし、身を軽くしている。
この分では恐らく打撃も威力が上がっているだろう。
マリアに撃ちこんだ一撃で致命傷を与えてしまう恐れが少しでもある以上、
うかつに攻撃はできなかった。
では、どうすればこの望まぬ闘いを終わらせられるのか。
答えを得られないまま、龍麻はただ躱し続ける。
迷いを抱き、それでも躱し続けられるのは、ひとえに氣が増大しているからに他ならなかったが、
龍麻の数十倍に及ぶ年月を生き、そしてその何割かは逃げ、
闘う日々だったマリアは、龍麻の知らない狡猾さを備えていた。
マリアの貫手が伸びる。
既に彼女の攻撃のタイミングは身体が覚えている。
龍麻は余裕をもって躱そうと動いた。
「……ッ!!」
視界の半分が朱に染まる。
眼を直接やられたわけではないが、すぐ上の部分を切られ、右目はほとんど見えなくなってしまった。
額に手を当ててみると、傷口は思ったよりも深いのか、べっとりと血が付着する。
一体、何を使って──
動揺を叱咤し、龍麻は分析する。
だが、マリアが凶器を持っている気配はなく、この傷が何によって作られたものかは解らなかった。
龍麻は迷い、その迷いが動きを鈍らせる。
さっきまであれほど追えていたマリアの動きが、全く判らなくなっていた。
氣を操る方法を知っている者は、視覚に頼らずとも相手の気配を探ることが出来るのだが、
視界を奪われるのは初めてとなる龍麻はそのことも忘れ、恐慌に陥ってしまっていた。
それまでが嘘のように棒立ちとなる龍麻に、マリアは容赦なく襲いかかる。
龍麻が知らなかった吸血鬼の特性──爪を用いて。
鋭利な刃物にも勝る爪は、マリアの意思で自由に伸縮出来る。
普通に用いても恐るべき武器となる爪は、わざと単調な攻撃を繰りかえし、
相手に間合いを把握させることによって必殺の技となるのだ。
なまじ優れている者は、攻撃を受けるのではなく、避けようとする。
躱した、と確信したところに正体の解らない攻撃を受けた相手は、
今の龍麻のように恐慌に陥り、なすすべなく斃されるしかないのだった。
氣を練ることも忘れ、龍麻は闇雲に拳を繰り出していた。
だがそれらが当たるはずもなく、心を蝕む恐怖に息切れしてしまう。
己の呼吸音に邪魔され、マリアの位置さえ把握出来なくなった龍麻に、勝てる道理はなかった。
「捕まえたわ」
耳元でマリアの声が聞こえる。
同時に、首筋に鋭い痛みが二つ、穿(たれた。
「う、ぁ……ッ」
身体から、力が抜けていく。
闘いの興奮が醒めるほどの脱力感は、だが決して不快なものではない。
少しずつ身体の中に入ってくる異物と、それと引き換えに吸われていく感覚は、
むしろ恍惚に近いものを龍麻にもたらした。
全身に絡みつくマリアの肢体と、月の魔光に犯されながら味わう快感は、
永遠に身を捧げたくなるほどだった。
「マ……リア……せん……く……っ」
悲鳴とも、吐息ともつかない声が喉をつく。
吸血鬼の牙は、獲物と戯れるようにゆっくりと入ってくる。
それの何がいけないのだろう。
こんなにも気持ちの良いことを、もっと続けて欲しいと願って、なぜいけないのだろう。
今やそのほとんどが体内に突きたてられた吸血鬼の牙に、龍麻は抗う意思を失いかけていた。
立っていることも辛くなり、倒れようとすると、マリアが支えてくれる。
背後から抱きとめられる心地良さに存分に浸り、龍麻は許された最後の動作を行おうとした。
もう半ばは閉じかけていた瞼(を、完全に閉じる。
待ちうける闇は、安らぎと同一のもの。
龍麻は怖れもなく、常闇に身を委ねようとした。
その瞳に、何かが映る。
始めはわずらわしさしか感じなかったそれが、像を結んだ時、龍麻の心を烈(しい想いが揺さぶった。
月光が照らし出した、校庭にある桜の木。
今はもちろん葉もついていない──しかし、龍麻はその花片の色を、はっきりと思い出していた。
転校してきた初日、隣の席だった葵の机の隅に置かれていた花片。
そして、それが導いた縁(。
皆を裏切るわけにはいかない──ここまで共に闘い、
そして今日、最後の闘いに赴こうとする仲間達から、一人こんなところで脱落することは許されない。
朦朧(とする意識に、陽(が流れこむ。
身体の中に巣食っていた陰(を消滅させた『力』を、龍麻は一気に解放した。
血液と共に、流れこんでくる氣──
マリアが求める復讐の『力』は、彼女の予想していた以上の奔流となって流れこんできた。
熟した果実を貪るように、マリアは一滴たりとも逃すまいと深く牙を立てる。
この『力』を全て取りこめば、柳生など物の数ではなくなるに違いない。
心身双方の快感に満たされながら血を啜るマリアだったが、突然その牙に異変を感じた。
膨大な、過負荷となりかねないほどの氣が迸る。
危険を察知したマリアは、一旦龍麻から離れた。
彼女の予感は正しく、月の舞台にひとり立つ龍麻の身体からは、氣が鱗粉のように舞っていた。
ほのかに浮かぶ、金色の輝き。
不安定に明滅を繰り返して龍麻の輪郭を形作る光は、マリアが数瞬見惚れるほど美しかった。
しかし、振りかえった龍麻の瞳に浮かぶ憐れみに、
彼が手に入れるべき獲物であることをマリアは思い出す。
「あの状態から動けるなんて……さすがは『黄龍の器』といったところかしらね」
マリアは心底感心していた。
『黄龍の器』というものを、文献でしか知らなかった彼女は、真実を目の当りにして素直に驚いていたのだ。
尽きることのない氣の持ち主。
この『力』の存在を知れば、柳生のように世界を破壊するという野心に取り憑かれるのも判る。
どんな愚者でも、叡智を極めた賢者でも、この誘惑に抗うことはほとんど不可能といって良いだろう。
だから是が非でも、この『力』を手に入れなければならなかった。
他人に渡すわけにはいかない──マリアもまた、取り憑かれた者だった。
彼女の白い口許には、一条の赤い跡がついている。
生徒のみならず教師にも狙っている者が多くいるという端整な貌(は、
凄惨(な表情を、今浮かべていた。
啜(った血の量は、決して少なくない。
今更龍麻が反撃する気になったところで、既に手遅れだった。
「でも足下がふらついているわ……今度こそ、気が狂うほどの快楽の果てに殺してあげる」
マリアの判断は誤っていた。
確かに龍麻は酩酊したように足下が定まっていなかったが、
それは血を抜かれて貧血に陥っていたためではなく、あふれる過剰な氣を制御出来なかったからなのだ。
マリアが跳びかかってくる。
氣を吸ったマリアの動きは俊敏さを増していたが、それですら今の龍麻にはスローに見えた。
再び五本の指を、錐(のように束ねた左手が迫ってくる。
一度目の時は見えなかった攻撃の正体を、龍麻の両目は今度ははっきりと捉えていた。
口紅の色と同じ、深紅に塗られた爪。
目の前で伸びるそれこそが、避けたにも関わらず受けてしまう攻撃の正体だった。
吸血鬼の持つ能力なのか、瞬時に伸縮する鋭い凶器は、
視認することが困難なために恐るべき攻撃手段といえる。
なぜやられているのか判らないという恐怖は、実際のダメージ以上となって心身を蝕んでいくのだ。
しかし、それももう通用しない。
起動を始めた龍命の塔によって、
普通の人間ならば身に受けただけで消滅してしまうほどの多量の氣を宿した龍麻には、
万物に宿る氣の流れすら視(ることが出来るようになっていた。
ここから見える木々、歩行者──
色彩も濃淡も、どれひとつとして同じものはない。
そしてその中で、最も強い氣は、赤い氣をまとったマリアのものだった。
強い憎しみを向ける彼女に、龍麻は悄然(とする。
先生は、もはや敵としてしか俺を見ていないのか──
伸びきった腕から、更に爪が伸びる。
それをも躱した龍麻は、マリアの腕を掴むと、勢いを利用して後方に投げ飛ばした。
「ッ……!!」
背中から落ちたマリアは、声にならない悲鳴を闇に向かって吐いた。
しかしこの程度では大きなダメージにならなかったのか、すぐに立ち上がって構えをとる。
その瞳に優しい教師の面影はない。
斃(すしか、ないのか──
姿勢を低くし、憎悪の氣を撒き散らして迫るマリアに龍麻は悲愴な覚悟を固めた。
噴出の刻を待っている氣を放てば、苦しまずに斃してやれる。
それがせめてもの手向けだと、龍麻は腰を落とし、マリアが最後の攻撃を放つのを見極めようとした。
寸前。
美しい金髪が舞い上がり、月の光を受けて煌いた瞬間、龍麻は見た。
赤い氣の中心にほのかに輝く、哀しみの氣を。
消してはならない──彼女の氣を。
龍麻は放つばかりになっていた氣の、ほとんどを捨てた。
マリアの右腕が首にかかる。
身動きを封じられた龍麻は、静かに目を閉じた。
<<話選択へ
<<魔人学園 4へ 魔人学園 6へ>>