<<話選択へ
<<餓 狼 2へ 餓 狼 4へ>>


 亜里沙に案内されて、龍麻達はまず墨田区の白髭公園に来ていた。
「この公園は、あの事件ときからずっとエルの散歩コースなんだ」
「そうか……それじゃ、この辺りから探してみるか」
 彼女もこの辺りは捜したというが、何しろ全く手掛かりもないので、
しらみつぶしに歩いてみるしかない。
「えっと……エルはいつ頃いなくなったの」
「寝る前に小屋を覗いた時はまだいたんだ。だから、多分夜中か朝方……」
 朝、と言っても空が白み始めれば新聞配達の人間などが回り始めるから、
そんな時間であれば人目についているはずで、恐らく時間は夜だろう。
そう推理した醍醐は、ややためらいがちにこう付け加えた。
「……もしかしたら、誰かに連れ去られたのかも知れんな」
「そんな……あの子は他人についていくような子じゃないよ」
 強い調子で否定した亜里沙は、不意に何かを思い出したような顔をした。
「まさか、昨日の事件に巻き込まれたんじゃ」
 昨日の事件、と急に言われても、何のことだかいつもなら判らなかったが、今日は違った。
数十分ほど前に、五人揃ってその話を聞いたばかりだったのだ。
「昨日の事件……アン子が言ってた大臣が殺されたってヤツか。
あの事件アレ、お前んの近くなのかよ」
「うん……そんなに遠くじゃない。だけど、そうだとしてもなんでエルが」
 意外なところで繋がり始めた二つの事件に、龍麻達は首を傾げる。
しかし情報が少な過ぎて、考えたところで答えは出ず、それに今は他にすべきことがあった。
「とにかく、探してみようぜ」
「あ、あたし一旦家に戻って救急箱取ってくる。もしエルが怪我をしてたら、手当てしてやらないと」
 朝から動揺しどうしで、龍麻達に会ってようやく落ちつきを取り戻したのだ、と亜里沙は言う。
彼女がそこまで犬を大切にしているとは意外だったが、頼られた以上は結果を出してやりたかった。
「じゃあボク達は先に探してるね。えっと……八時にここに集まることにしよう」
「うん、それじゃ頼むよ」
 公園の街灯の下を待ち合わせ場所に決めた龍麻達は、別れて捜すことにした。
 一人で救急箱を取りに行こうとする亜里沙に、京一が声をかける。
「待てよ。エルが昨日の事件に巻き込まれたんだとしたら、一人で歩くのは物騒だろ。
ついてってやるよ」
「え……?」
 一瞬、驚いた顔をした亜里沙も、素直に頷いた。
背中越しに手を上げてさっさと歩いていく京一に、龍麻も思わず手を上げて応じる。
「ひゃ〜、行っちゃったよ……どういう風の吹き回しだろ」
 並んで宵闇に溶けこんでいく二人を見送って、小蒔が興味津々と言った態度で呟いた。
どうもそこには邪推も含まれているように感じられたが、そうではないだろう、と龍麻は思う。
きっと、弱さを剥き出しにした亜里沙を放っておけなくなったのだろう。
 今はほとんどわだかまりを持っていないとはいえ、
一度は葵を苦しめた敵として彼女と闘った龍麻でさえもが、
今の亜里沙に対しては庇護欲を感じずにはいられないのだから、
京一がそう思ったとしても、理解は出来るのだ。
もちろんそれが恋愛に発展する可能性はあるかもしれないが、
今の時点では京一にそんな意図はないと考える龍麻だった。
 ここでこうしていても始まらないので、龍麻達もエルを捜しに出ることにする。
京一の言ったように事件が起こったばかりのこの辺りを女性一人で歩かせるのは危険な為、
必然的に四人は二組に分かれた。
「俺達も行こう。醍醐は桜井さんと、美里さんは俺とで……いい?」
「そうだな、それでいこう」
「うん」
「ええ、もちろん」
 適当なようでいて、実のところそれ以外は考えられない組み合わせに、
反対の声はもちろん上がらなかった。
「俺達は公園を抜けて向こうの通りへ行ってみる。お前達は少し公園の中を捜してみてくれ」
 そう言って去っていった醍醐と小蒔とは反対方向に、龍麻と葵も歩き始めた。
 エルの名を呼びながら、二人は公園内を捜す。
人気ひとけはない公園で、自分達以外の声は聞こえない。
ただ、エルが返事を出来ない可能性も充分あるので、
二人は慎重に耳を澄ませ、暗くなりかけている白髭公園を進んだ。
「いないわね……藤咲さんが朝から探していなかったんだから、この辺にはいないのかも」
 予想はしていたが、全く反応がないことに葵は諦めの念を抱きつつあった。
龍麻達とは異なり、エルに命を救ってもらったという恩がないのも、
彼女にらしくない酷薄さを与える一因になっていたかもしれない。
既に辺りは人の判別がようやくできる程度の明るさしかなく、季節の風も肌に冷たい。
腕時計をちらりと見た葵が龍麻にかけた声は、怠惰の微粒子が自身にも判らない程度にまぶされていた。
「そうかもしれないけど、もしかしたら怪我して動けないかもしれない。
もうちょっと捜してみるよ」
 しかし、振りかえりもせずに答えた龍麻は制服が汚れるのもいとわず、藪をかき分けて入っていった。
もしかしたら、龍麻も彼女を──
献身的な龍麻を見て、一瞬ではあるが頭をよぎった考えに、葵は激しい自己嫌悪を抱いていた。
自分が好きになったひとは、そんな心の狭い男ではない。
自分の心のかげを照らし、暖かく包んでくれる優しさを持った、強い男だ。
その彼のひかりを狭めてはいけない。
 大きな背中に向けてかぶりを振った葵は、
心の中で龍麻と亜里沙に謝罪し、彼と反対側の草むらに入っていった。

 公園内のあらゆる場所を、二人は随分と長い間捜した。
しかし二人がどれほど真剣であっても、残念ながら結果は伴わなかった。
 肌寒い季節だというのに額に汗と悔しさを滲ませて、龍麻は葵に告げる。
「いないな……もう約束の時間だ」
「そうね……残念だけれど、一度戻りましょう」
 二人は残念そうに顔を見合わせつつ、定められた集合場所へと戻ることにした。
戻る途中も注意深くエルを捜したが、やはり見つけられないまま到着してしまった。
「まだ誰もいないわね」
「もう少し捜せたかな」
 疲れを笑顔に押しこめて龍麻は言い、葵も応じて笑った。
そこに小蒔と醍醐が帰ってくる。
「葵っ、ひーちゃんっ!」
「どうだ……見つかったか?」
「いや、駄目だった……そっちは」
「ううん……見つからなかったわ」
 二時間以上捜して得るところのなかった四人は意気消沈する。
これでは亜里沙に会わせる顔が全くなかったが、もう辺りは完全に夜で、
このまま捜し続けるのは難しかった。
あとは京一と亜里沙が見つけてくれていることを祈るしかない──
そう思って、龍麻はふと時計を見た。
「京一と藤咲さん、遅いな」
「そうね、もう一五分以上過ぎてるわね。小蒔、どこかで会わなかった?」
「うん、途中では会わなかったよ。どうしたのかな」
 首を傾げる小蒔に、龍麻と醍醐も顔を見合わせる。
京一がついているからおかしなことにはならないと思うが、
時間も時間であるし、四人の間に不安が音もなくせり上がってきていた。
「どこか遠くまで行っちゃったのかな」
 小蒔がことさらに明るい声を出す。
今ごろこっちに向かってるのかな、などとこちらも軽く応じた龍麻だったが、
結局一時間待っても二人は戻ってこなかった。
「ねぇ……どうしちゃったんだろ」
 すっかり真っ暗になった公園を透かす小蒔の声に、もう陽気さはなかった。
それでも声に出しただけ彼女はまだ良い方で、龍麻達はむっつりと黙りこくったまま、
せわしなく時計を見たり、足先で地面を叩いたりしている。
いくら京一が時間にルーズであったとしても、これは異常であり、
何かが起こっているのは間違いなかった。
龍麻は己を激しく動悸させる、得体の知れない恐怖を全霊で抑えつけねばならなかった。
「醍醐……桜井さんと美里さんを送って行ってくれ」
 恐らく自分と同じように、
喋らないことで動揺を表に出さないようにしていた醍醐が応じる前に続ける。
「俺は二人を捜してみる。一人暮しだからこういう時は気楽だし」
 口を開きかけた醍醐は、龍麻の提案に無言で同意した。
本当なら自分も同行して捜したいところではあるが、
京一に何かあったとするなら、葵と小蒔を二人で帰らせるのも危険だ。
どちらかが折れなければならないのだった。
「……頼む」
 醍醐が大層重い一言を龍麻に投げかけると、春からの短いつき合いであるが、
友誼ゆうぎの深さは京一に引けを取らないであろう友人は、気負いのない笑顔で小さく頷いた。
それは、全てを任せるに足る笑顔だった。
「それじゃね、ひーちゃん」
「京一君と藤咲さんのこと……よろしくね」
 小蒔と葵にも同様に頷いた龍麻は、三人が駅の方に歩いていったのを見届けると、
いなくなってしまった二人を捜すべく、小走りで駆け出した。

 龍麻達がエルを捜し始めてから、ニ時間が過ぎた頃。
亜里沙の家に戻って救急箱を取ってきた亜里沙と京一は、そのままエルを捜して墨田区の、
亜里沙が朝捜したのとは違う道を歩いていた。
「ふゥ……いねェな」
 京一は事実を告げただけだったが、亜里沙は途端にその先のことを考え、雨の気配を漂わせる。
「このまま……エルが見つからなかったら、あたし……どうすれば……」
「お、おいッ、そんな顔すんなよ」
「うん……ごめん」
 亜里沙は笑ってみせるものの、顔に浮かんだ焦燥は痛ましいほどだ。
沈みこむ彼女に、京一は激しい苛立ちを覚えていた。
それはもちろん亜里沙にではなく、不甲斐ない自分に対してのものだ。
だが剣術には自信がある京一も、犬捜しとなるとどうしようもなく、
こうして地道に歩いて捜すしかない。
 彼女を促して更に進もうとした京一だったが、ふと見かけた時計の針は、
既に龍麻達との待ち合わせ時間が近い時間を示していた。
「時間か……しょうがねェ、一旦あいつらの所へ戻ろうぜ。見つけてるかもしれねェ」
 力なく頷く亜里沙と共に、龍麻達のところに戻ろうとした京一が踵を返した時だった。
 小さくはあったが、それは確かに聞こえた。
二人ともそれを聞きとっており、弾かれたように顔を見合わせる。
「!! 今の……」
「ああ……犬の鳴き声だったな。行ってみようぜ」
 二人は鳴き声のした方へ走り出した。
鳴き声といっても、墨田区だけでも犬など何頭いるかわからない。
しかし、この時二人が信じた予感は、正しく報われた。
灯りもない裏路地のひとつに、うずくまる大型犬を発見したのは亜里沙だった。
「エル……エルっ!!」
 愛犬の許に彼女が駆け寄ると、エルも応える。
その首を抱き締めてやった亜里沙には、さっきまでの彼女が嘘のような喜色が浮かんでいた。
「良かった……無事で……」
「随分酷い怪我じゃねェか。早く手当てしてやらねェと」
「うんッ」
 亜里沙は素直に頷き、救急箱を開く。
 彼女とエルを微笑ましげに見ていた京一を、突然、路地の奥から尋常でない気配が叩きつけた。
颶風ぐふうにも似た、凄まじい殺気。
人外の化物と数多あまた闘ってきた京一でさえ、滅多に感じたことはない陰氣が、
暗いかげから吹きつけられていた。
「藤咲……下がってろ」
「どうしたの?」
「いいから早くッ!!」
 急に怒っている京一に、まだ包帯を取り出しただけの亜里沙は訳も判らず動けない。
すると闇の中から、赤い色の髪をした男が現れた。
その男の危険性は、見た瞬間に亜里沙にも判った。
顔中に苛烈なまでの殺気が満ちており、何より手にした刀が正気まともではない。
加えて男からは、血の匂いがした。
「俺様の気配に気付くたァ、ちったァ楽しめそうじゃねェか」
「何だ、てめェ」
 木刀を抜き放ちながら、京一が牽制する。
男が自分達を狙っているのは明白であり、話し合いの余地などない。 
ますます強くなる陰氣が、何よりそれを証明していた。
「俺様は八剣やつるぎ 右近うこん
ククク、どうやら仕事明けの晩飯にと思ってた犬が、とんだ獲物を釣り上げたみてェだな」
「晩飯……だッて!? ふざけるんじゃないよこのゲス野郎ッ!!」
 いなくなってしまった弟の代わりとして惜しみない愛情を注いできたエルを、
食料にする、などと言われ、元々気性の激しい亜里沙が激怒する。
亜里沙は相手が男だろうが、武器を持っていようが、構わず挑みかかる強さを持っていたが、
京一は彼女を止めた。
目の前の男からは、余りにも危険な気配が漂っていたのだ。
こいつは、強ぇ──
京一の背中を冷たい汗が落ちる。
まだ構えもしていない敵に強さを認めさせられて不快だが、
亜里沙とエルの安全を確保するまではうかつに動けない。
京一は木刀を固く握り締め、相手の出方を測ることにした。
「うるせェアマだな。もともとこのクソ犬が俺様に吠え掛かってきたのが悪いんだぜ。
まァ、それよりも──」
 亜里沙に好色な視線を一瞬だけ閃かせた八剣は、
だがすぐにそれを収め、より獰猛な眼光を京一に放つ。
八剣は女を食らうのも好きだったが、強い者を斬り、己の刀を鮮血に濡らす悦楽はそれに優った。
ましてやこの獲物は、破格の報酬によって依頼された標的だ。
女などにかまけて仕損じるわけにはいかなかった。
「俺様はてめェに用があるんだ。なァ、蓬莱寺京一」
「なんで俺の名を知ってやがる」
「さァな、教えてもしょうがねェ。なぜならてめェはここで──死ぬんだからな」
 死ぬ、という台詞に、寒気が走る。
それは脅しではない、実際に人を殺めたことのある人間だけが発することのできる、
禍々しい呪言だった。
 木刀を両手で握った京一は、臨戦態勢に入る。
最初から全力でかからねば、られる──
本能が、そう告げていた。
「こりゃ随分とおめでてェ奴が出てきたな。上等じゃねェか、御託ごたくはいいからさっさと来やがれ」
「話がわかるじゃねェか。それじゃ、遠慮なくそうさせてもらうぜ」
 構えた八剣の氣が、膨れていく。
龍麻や醍醐、そしてこれまで闘ってきた敵のいずれとも違う、
どろりとした陰の氣は、層雲のように広がりを増していた。
「なんだ……この氣は」
 危険ヤバい──得体の知れない恐怖を感じ、京一は最初の方策を捨て、
その正体を見極めるべく半歩退がった。
「ククク……鬼剄きけいを見るのは初めてか?」
「鬼剄だと?」
「そうさ、鬼剄さ……冥土の土産に、良く目に焼きつけておくんだな」
 八剣が剣を振りかぶる。
その軌跡を、充分に京一は予測していたが、斬撃は思わぬ方向から襲いかかってきた。
ありうべからざる場所に、痛みが走る。
八剣は正面におり、刀の間合いからも外れているはずだというのに、京一は背中に激痛を感じていた。
「く……ッ」
 このままじゃいけねェ──
痛みを振り払い、京一は自分から仕掛ける。
しかし、半歩退いてしまったのが災いしたのか、木刀が間合いに届く前に、再び激痛が訪れた。
かつて受けたことのない痛みに、遂に膝をついてしまう。
 京一の脳裏を、敗北という文字が掠める。
ひどく冷静に、ひどくはっきりと、その忌み嫌う二文字は明滅を繰り返していた。
それ自体は仕方ない──敵の力量を見定められなかった自分の未熟が招いた結果なのだから。
だが、それは自分一人が負うべきとがだった。
 木刀を支えにして沈みかけた身体を起こし、亜里沙に向かって叫ぶ。
「藤咲……逃げろ……ッ」
「そ……そんな……こと……」
「逃げろってんだよッ!」
 自分でも腹立たしいほど声が出ない。
既に腹から力を振り絞るのでさえ、相当な労力が必要だった。
それでも渾身の力で叫び、最後の力で木刀を握る。
「う、うん、待ってて、皆を連れてくるからッ」
 京一の氣に押され、亜里沙は彼の信頼する仲間を呼びに向かおうとする。
だが八剣は、みすみす彼女を逃がすつもりなどなかった。
「おっと、逃がさねェぜ。てめェは別の餌になってもらわねェとな」
「待てよ……てめェの相手は俺だろうが」
 既に京一の感覚のほとんどは機能を失い、かろうじてぼやけた視界に鈍く光る刀身が映るだけだった。
自分の木刀は見えない。
青眼に構えていたはずなのに、いつのまに下がってしまったのだろうか。
気合と共に持ち上げるが、いつまで経っても切っ先は八剣に向けられなかった。
乾いた音が響く。
それが自分の木刀が立てた音だと知った時、視界があけに染まった。
「ククク……死ねよ」
 朱から、黒へ──京一の意識は、そこで途切れた。



<<話選択へ
<<餓 狼 2へ 餓 狼 4へ>>