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 龍麻達がエルを捜しに墨田区へ行った日から、五日が過ぎていた。
あの後、龍麻は帰る電車がなくなるぎりぎりまで京一と亜里沙、それにエルを捜したのだが、
結局誰も見つけられなかったのだ。
翌日、朝から顔を青ざめさせて謝る龍麻を葵達は責めたりなどしなかったが、
京一達は捜さねばならない。
授業が終わると三人はすぐにまた墨田区へ向かった。
しかし、前日に優る真剣さで二人と一匹を探した三人だが、
姿はおろか、手掛かりさえ見つけられずにまたも帰るしかなかった。
翌日以降も手を尽くしてはいたが、不安と焦慮だけが積もる結果に終わっていたのだった。
 朝、登校した龍麻達は、自然と集まる。
五日前までのように明るい気分にはなれなかったが、そうせずにはいられなかったのだ。
 龍麻から昨日の状況を聞いた小蒔が、沈んだ面持ちで呟く。
「京一……どうしちゃったんだろ」
「藤咲さんもあの日から行方が判らないし」
 息子に続いて娘まで失うのではと半狂乱の亜里沙の母親を、
龍麻は必死になだめなければならなかった。
絶対に見つけだします、と胸を締めつけられる思いで言ったものの、
未だ彼女の期待に応えられていない。
そして何より、強さを認めている友人が亜里沙と一緒にいながら失踪したことに、
龍麻は友人達には言えない恐怖に精神をさいなまれていた。
言葉にすれば現実になってしまう気がして固く口を閉ざしていたのだが、
五日も状況が進展しなければ、隙間から漏れ出してしまう。
 龍麻の沈痛な表情を見ていた葵は、遂に恐怖に耐えかねてそれを口にしてしまった。
「まさか……事件に……」
「そんな……だって京一と藤咲サンだよ?
なんかあったってその辺のヤツになんか負けるワケないじゃない」
 小蒔が強い口調で親友に反発する。
葵も言い返しこそしなかったものの、常になく険しい表情で小蒔を見返した。
親友である二人が、剣呑な雰囲気をお互いにぶつける。
 誰もがそう考えざるを得ない、最悪の可能性。
一度言の葉に乗せられた言霊が、たちまち広がってしまったのだ。
龍麻は思わず葵に鋭い眼差しを向けてしまったが、いずれは誰かが口にしなければならないことだ。
彼女に罪がある訳ではなく、それに今は解決策を探る方が大切だった。
 だが、探ると言っても、結局足で捜すしかない。
今日の放課後にもう一度墨田区に行こう、と予定を決めたところで、醍醐が入ってきた。
「あ……おはよう、醍醐クン」
「緋勇……ちょっといいか」
 挨拶した小蒔に顔すら向けず、醍醐は呼ぶ。
 その表情と態度で、彼が何か大事な、そして良くないことを話そうとしていると解った。
聞かなければならない──どんなに辛い話でも。
龍麻は醍醐に向き直ると、早くもふるえ始めた内心を押し殺して頷いた。
「ああ」
「何? どうしたのさ醍醐クン」
「悪いな、桜井、美里。緋勇は借りていくぞ」
「え、でも醍醐くん、授業……」
 醍醐も龍麻も、二人の方を振りかえらずに教室を出ていった。
そうしなければ、怯えた顔を見られてしまうからだった。

 屋上に龍麻を連れてきた醍醐は、前置きもせずに一通の封書を渡した。
「まずはこれを見てくれ。今朝俺の家の前に置いてあったんだ」
 封書に差出人はなく、宛名もない。
恐らく何者かが、直接醍醐の家に置いていったのだろう。
中に入っていた手紙は、古風な毛筆でこう書かれていた。
「今夜の刻、帝釈天の御膝元、刑場地下に設けて待つ。
醍醐雄矢、緋勇龍麻、美里葵、桜井小蒔──以上四名で必ず来られたし。
約定たがえし場合は、女の命の保証は無い」
そして同封された写真には京一が写っており、大きく朱でバツが引かれていた。
 写真を持つ手が冷たい。
手だけではない、全身から血の気が引いている。
誰か、違う自分がそう冷静に分析するのを受け入れながら、
龍麻があえぐように醍醐を見ると、彼の顔も蒼を通り越し、白くなっていた。
「恐らく、誰かが俺達を狙っている。藤咲はその巻き添えを食ってさらわれた。
多分この女というのは藤咲のことだろう」
 そんなはずがない──
それだけのことが、どうしても龍麻には言えなかった。
葵の発した言霊に影響されてしまったのかもしれない。
全身の感覚を失いつつある龍麻の耳に、醍醐の声がいやにはっきりと響いてきた。
「そして、京一は──信じたくはないが、可能性は二つだ。
敵に敗れ、何もかも捨ててどこかへ身を隠したか、あるいは」
 何言ってやがる、そんなことがあるか。
龍麻は醍醐をはげしく睨むが、どうしても口が開けない。
醍醐も厳しく、まるで先の葵と小蒔のように、
あるいはそれ以上に怒気を露にし、喧嘩を始める寸前の如く睨みつける。
否、二人がまさしくいわれもなくお互いの胸倉を掴もうとした時、
物陰から放たれた鋭い声が二人の間に刺さった。
「そんなコトあるわけないよッ!!」
「桜井! 美里も……」
 目に見えて醍醐と龍麻は狼狽ろうばいする。
自分達は何をやっているのだろう、という自責の念を、小蒔の声はやじりとなってえぐった。
「卑怯だよ醍醐クン、ボク達に隠しごとするなんて」
「すまん、桜井……俺にもどうしたらいいか解らなかったんだ。仲間外れにするつもりはなかった」
 巨体を亀のように縮めて頭を下げる醍醐を、小蒔は見ていなかった。
激しく頭を振る彼女の顔から、透明な滴がきらめく。
「そんな、京一がやられちゃったなんて……ボクは信じないッ!!」
「小蒔っ!」
 普段いつも口喧嘩をしているのに、いや、むしろそれだからこそ友愛の念が強いのか、
小蒔は昂ぶった感情おもいを抑制できず、走り去ってしまった。
 彼女がそうした原因の、何割かは自分にある。
彼女を追って止めるのは、自分でなければならなかった。
「待ってくれ、美里。俺に行かせてくれ」
 迷っている様子の葵の肩に、龍麻が手を置いた。
頷く葵と龍麻を一瞥いちべつして、醍醐は小蒔の後を追った。
これ以上の悲しみに、大切な仲間ひとを沈ませない為に。
 二人を見送った葵は、龍麻の方を向く。
彼の顔を見た途端、葵はこれまで懸命に抑えていた恐怖が抑えきれなくなった。
「私達……今まできっと考えないようにしていたのね。
私達の闘いの隣には、死が潜んでいることを」
 葵の言う通りかもしれなかった。
鬼道衆との闘いの中で幾人も敵をたおし、また、
鬼に変生したとはいえ佐久間という同級生をも死に追いやっている。
それでも龍麻達は、自分達は死ぬはずがない、とどこかで安易に考えていたのだ。
東京を護るから、正しいことをしているから──だから負けるはずがないなどと、
根拠もなしにそう信じていたのだ。
 だが、それは違う。
たまたま自分達の技量が相手に勝っていただけであって、
自分達よりも強い敵が現れれば、当然勝敗の天秤は違う方向に傾くのだ。
そこにあるのは、死。
まだ人生の半分も生きていない自分達にとって、それはほとんど非現実の出来事であり、
普段は考えることさえない。
しかし、その暗黒は確かに隣であぎとを開け、
いつか敗れた者が落ちてくるのをひたと待ち続けていたのだ。
それを唐突に、もっとも辛い形で突きつけられ、龍麻の顔が蒼白になる。
 その龍麻の袖を、葵は龍麻に劣らず、声まで蒼白にして掴んだ。
そこにいる龍麻を、確かめるように。
「京一くん……大丈夫よね?」
「美里さん」
「怖い……京一くんもだけれど、龍麻くんが……あなたがいなくなったら、私」
 葵の想いが腕から伝わってくる。
龍麻は不意に、先日葵と意見を交わした小説の内容のことを思い出していた。
うしなう、怖さ。
護るべきものを喪う怖さ、そして、護るべきものから喪われてしまう怖さ。
それが嫌ならば、全てを喪う前に去ってしまえばいい。
そうすれば、最悪の悲劇だけは免れる──
だが、龍麻は誓っていた。
「俺は逃げない」と。
 何気ない会話の中で交わされた、取るに足らない誓いだとしても、龍麻にとっては神聖な誓約だった。
自分は死なず、葵も死なせない。
「大丈夫……俺は、いなくならない。美里さんのそばに、ずっといるよ」
 改めて強く誓い、龍麻は震える身体を強く抱き締めた。
逆らわず葵が顔を埋めてくる。
やがて龍麻の全身に、温もりが広がっていった。

 屋上を出た二人が教室に戻ると、扉の前に醍醐と小蒔がいた。
「あ、葵……ひーちゃんも」
 小蒔は二人を見ると、恥ずかしそうにうつむいた。
彼女の目が赤いように見えたのは、龍麻の錯覚ではなかった。
「さっきはゴメンね」
 目を拭った小蒔は、無理に笑ってみせる。
元から気になどしていない龍麻は、頭をゆっくりと振り、
これ以上その話題に触れるつもりがないと示した。
 醍醐も小蒔の隣で、頭を掻きながら謝る。
「美里も……すまなかったな。
俺はただ、正確なことが判るまで余計な心配をかけない方がいいと思ったんだ。
軽率な判断だったよ」
 教室に戻った四人は、改めて手紙を読んでみることにした。
忌まわしい手紙と呪わしい写真に手が震えるが、今は冷静にならなければならない。
龍麻は無言で、穴の開くほど手紙を凝視した。
「四人で来い……か」
 相手は京一を倒す程の技量の持ち主だ。
自分達はともかく、葵と小蒔を連れていくことにはためらいがある。
しかし二人を連れていかなければ亜里沙の命が危うくなるし、
何より二人は頑として置いていかれることを拒んだ。
小蒔ももちろん、そしてこうなった時の葵の頑固さを知っている龍麻は、
すぐに説得を諦め、四人で文面を検討した。
「こんな夜中に呼び出すのは、相手は人目につくのを嫌がっているということね」
「帝釈天の御膝元……単純に葛飾の柴又帝釈天ってことか」
「ああ、多分間違いないだろう。気になるのは『刑場地下に設けて』だが」
「地下……下水道?」
 夏に青山霊園から地下下水道に入ったこともある小蒔は、それを思い出したのだろう。
龍麻も半人半魚の化け物を思い浮かべたが、小蒔に対しては否定してみせた。
「いや、今回は違う……たぶん、地下鉄のホームか何かじゃないかな」
 相手は人間──それも、組織の可能性が高い。
件の暗殺集団かは判らないが、わざわざ下水道に呼び出すとも思えなかった。
 更に文面を読み進めた醍醐が、忌々しげに呟く。
「刑場……俺達を殺すつもりとでも言うのか」
「……」
 多分……いや、間違いなくそうだろう。
手紙の文面も、写真に引かれたバツも、滑稽こっけいなくらい大仰だ。
その大仰さを持って人を襲うとなれば、その終着点もくてきは死だろう。
ならば、京一は──
また雲霞うんかの如く不吉な考えが湧いてくる。
京一アイツが死ぬはずがない。
何の根拠もないその想いを、埋もれさせてしまうわけには絶対にいかなかった。
だが不吉な考えを捨て去る為には、龍麻は多大な努力を払わねばならなかった。

 指定された時間の一時間前に新宿駅で落ち合うことを決め、龍麻達は一度解散することにした。
誰もが一人でいることに耐えられそうになかったが、
夜中に制服で歩き回るのは都合が悪いし、仮眠を取っておく必要もある。
 重い足取りで校門を出た龍麻達を、一人の女性が待っていた。
女性はルポライターの天野絵莉で、どうやら龍麻達に用があるらしい。
門を出た彼らに気付くと、すぐに近寄ってきた。
「あなた達──!!」
「天野さん」
「あら? 一人足りないのね」
 絵莉の何気ない質問に、皆息を呑む。
その中で最も早く立ち直った龍麻が、適当に嘘をついた。
京一の安否を確かめるまでは、誰にも言えない。
「あいつ、今日サボりなんですよ」
「そうなの。しょうがないわね」
 幸いなことに絵莉はそれ以上は追求しようとせず、短く笑って彼女はすぐに本題に入った。
「ところで杏子ちゃんなんだけど……最近、何してるの」
 絵莉の態度からは、世間話をしに来たのではないというのがありありとうかがえる。
京一に関してはとっさに嘘がつけた龍麻も、杏子のことまでは頭が回らず、
いきなり訊ねられて動転してしまい、口篭もった挙句に正直に話してしまった。
「えっ……と……その、東京の暗殺集団を取材するんだって。
笑っちゃいますよね、そんなのいるわけないのに」
「そう……やっぱり」
 最後はなんとか冗談めかした龍麻だったが、絵莉は怖いくらい真剣な表情をしていた。
「三日前にね、私の事務所まで来たのよ。その暗殺集団について知ってる事があったら教えて欲しいって」
「……!!」
「もちろんすぐ手を引くように言い聞かせたけど、わたし……気を失うかと思ったわ」
 杏子が言っていた時は与太話に過ぎないと思っていたが、
絵莉もどうやら暗殺集団について知っているようだ。
行方不明になったエル、襲われた京一、そして自分達に届けられた暗殺予告……
いやな想像が、翼を広げる。
龍麻は呼吸が苦しくなるのを感じ、制服の胸元を緩めた。
しかし、身体に溜まった陰の氣は、なかなか出て行こうとしない。
腹の底に、沈殿してしまったかのように。
「そんな……それじゃ、本当にあるんですか? その暗殺集団ってのは」
「ええ、ジャーナリストを一応でも名乗る者で、その存在と絶対の禁忌タブーを知らない者はいないわ」
「皆知ってる? それじゃ、公然の秘密ってこと?」
「それに絶対の禁忌って……そんなに大げさなんですか」
 いつもは後輩の話に気さくに応じる絵莉は、小蒔と醍醐の立て続けの問いにも、
重く頭を振るだけだった。
「悪いけど、いくらあなた達の頼みでもそれだけは言えないわ。
いい、もう一度言うわよ、絶対に関わっては駄目」
 絵莉の口調は、龍麻達の年齢が最も反発したくなる、有無を言わさぬ大人の物言いだった。
特に今、大きな問題を抱えて苛立っている龍麻達は、
頼れる大人として信頼を寄せていた彼女にさえ反発しようとしてしまう。
 激情をそのまま叩きつけようとした龍麻は、寸前でそれを口の中に留め、
一度大きく深呼吸をしてから答えた。
「でも……俺達、そいつらに狙われてるかもしれないんです」
「何……言ってるの?」
 絵莉は呆然とする。
彼女の鋭く理知的な美貌も、禁忌に触れかかっている後輩達にさらされ、色を失っていた。
「俺達にもさっぱり解らない、もちろん心当たりもないんですが、
狙われているらしい、ってことだけは」
 龍麻の顔を絵莉は凝視するが、そこに嘘はなかった。
 まだ駆け出しの頃から幾度となく、彼女自身でさえ深入りすれば命の危険すらあると脅かされ、
何があっても関わるまいと決めていた情報・・
それに、この春から行動を多く共にし、
東京を護るかげの闘いを行っている高校生達が巻きこまれようとしている。
手を引かなければならない──理性が囁き、
彼らを護らなければ──感情が命じる。
 絵莉は目を閉じて彼らから表情を隠すと、己の中に在る迷宮に飛びこんだ。
 まだ三十歳にもなっていない彼女だが、社会の一員として働き、ようやく独立独歩の道を歩みつつある。
彼らにこれ以上介入すれば、それを全て失う可能性もあるのだ。
フリーランスの女性として険しい道を歩んできた彼女の理性はいつしか固く舗装され、
その道から外れることを拒むようになっていた。
馬鹿げている──いくら彼らに深い共感シンパシィを抱いていたとしても、
長らく見続け、ようやく叶いつつある夢を手放すなど、全くもって非常識なことのはずだった。
 しかし。
彼らと共に半年間、追い続け、見た物も非常識なものなのではないか。
伝説上の存在である鬼、江戸の末世から東京を壊滅させんと暗躍する集団、
東京を護る為に異能の『力』を奮う若者──
それらは間違いなくこの現代の東京に居た。
常識と非常識は、表裏一体となって、どこにでも存在しうるものなのだ。
ならば。
 絵莉は薄く笑った。
怯えていた自分を自嘲するような笑みであり、決別する笑みだった。
「そう……だとしたら、間違いないのは、誰かがあなた達の暗殺を依頼したってことね。
──拳武館に」



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