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この日最後の授業が終わると同時に、葵が駆けだしていく。
彼女の行動に心当たりがある龍麻は、静かに後を追った。
龍麻の予想通り、葵は学校内に設置されている公衆電話に向かった。
結局姿を見せなかった小蒔が心配で、おそらく彼女の家に電話をしているのだろう。
少し離れた場所で、龍麻は電話が終わるのを待った。
時間にすれば、おそらく五分にも満たない。
たったそれだけの時間が、葵を別人に変えていた。
学園きっての美貌と謳われる彼女の、穏やかな顔は血が全て喪われたかのように蒼白で、
我が子を隠された鬼子母神のように目だけが異様にぎらついている。
受話器を置いて走りだそうとした葵は、すぐに龍麻に気づいたが、
決して好いてはいないこの男に縋るように話しかけたのが、彼女の動揺の証だった。
「小蒔……いつもと同じように、朝、家を出たって。
小蒔が学校に来ていないって話したら、お母さん、びっくりされていたわ」
状況をか細い声で告げた葵は、一転して掴みかからんばかりに龍麻に詰め寄った。
「お願い、小蒔を助けて」
「助けてもいいが、条件がある」
そう龍麻が答えたときの葵の表情は、噴火した火山に等しかった。
蒼白の顔を一瞬で赤黒い怒りの奔流が埋め尽くし、眉目はもちろん肌の細胞ひとつに至るまで、
指向性の熱を龍麻に向かって噴きあげている。
もともと葵には、龍麻に好意を抱くひとかけらの理由もない。
だが、親友――少なくとも、龍麻にとって小蒔は、知人ではあるはずだ――の危機を逆手に取って、
己の欲望を満たそうとするとは!
殺意すらみなぎる苛烈な眼光を、その漆黒の瞳で平然と受け止めた龍麻は、彼の希望を口にした。
「これから先、今回みたいな事件が起こった時、必ずお前もついてこい。それが俺の条件だ」
「どういう、事……?」
過去の体験から、卑劣極まりない要求がくるものだとばかり思っていた葵は、
いくらか怒気を削がれて訊ねた。
「お前の『力』は役に立つ。今まで何人か『力』を使えるやつを見てきたが、
あれほど強力に他人を治せる『力』は見たことがない。
まあ、つい最近あの岩山って院長も見たが」
珍しく龍麻は苦笑した。
怪我をした際に彼女の所に通うというのは、精神的な負担が大きいが故に
選択肢から外したというのは、自嘲するほかない。
「お前が俺に関わりたくないのは知っている。が、お前の『力』は残念ながら手放せない」
龍麻の提案を葵は吟味した。
もちろん、彼とこれから行動を共にするのは嫌だ。
しかし小蒔を救けるためには、彼の『力』が必要なのも確かだった。
「……いつまで、一緒に行動すればいいの……?」
「いつまでこんな事件が続くかは判らない。
が、たぶん俺が卒業するまでに何らかの片はつくだろう。それまで、ってことになるな」
それは思っていた中でも悪い方の長さだったが、最悪というわけでもなかった。
どのみち小蒔を救うためなら、葵は我慢するつもりだった。
「小蒔は、巻きこまないで」
「それは俺が決めることじゃないな。そもそも俺は、俺一人で動くつもりだった。
お前の『力』が強力だから、お前には付きあわせるつもりだったが、
桜井どころか京一や醍醐だって巻きこむつもりはなかった。
だが、旧校舎でお前らは『力』を宿した……偶然にせよ、そうでないにせよ。
そしてその後も、『力』を拒絶しようとはしていない」
「小蒔が緋勇君と一緒に行動するのは、宿命……とでもいうの?」
「そんな大げさなことじゃない。桜井の性格だ。仮に桜井に知られずに動けたとしても、
お前が動いていればいつかは気づかれる。その時、黙って引き下がるタマじゃないだろ、桜井は」
龍麻の言うとおりだった。
正義感と好奇心が強い小蒔は、葵が佐久間に言い寄られた時、
身を挺して守ってくれたことがある。
小蒔と親しくなるきっかけとなったその出来事を貴重に思うのなら、
彼女がこの奇妙な『力』が関わる事件に首を突っ込もうとするのを、止めることなどできなかった。
「……わかったわ。そのかわり、小蒔を絶対に助けて」
「知り合いが死ぬってのはいい気分じゃないだろうからな、最善は尽くすさ。
そうと決まったら教室に戻ろう。京一と醍醐に教えないと」
「……ええ」
呪詛めいた意思をこめた葵の言葉に返ってきたのは、
遊びに行く約束を交わしたかのような軽い返事だった。
一瞬腹を立てた葵は、ふと、龍麻は最初から小蒔を救けるつもりだったのではないかと思った。
それは何の根拠もない考えであり、龍麻が早足で教室に戻ったので後を追わねばならず、
顧みる暇もなく、考えは気泡のように消えていった。
「今、美里が桜井の家に電話した。朝、普通に家を出たそうだ」
教室に戻るなり、龍麻は京一と醍醐に告げた。
それだけで意味は伝わり、二人は血相を変えた。
「……ちッ、そっちに来るとはな。迂闊だったぜ」
腕を組んだ京一が、苦々しげに呟く。
「誰か目撃者がいないか当たってみよう。まずは学校から家まで、しらみつぶしに」
鋭く、明確な意思を持った龍麻の指示は、
まだ友人の拉致に衝撃を受けている仲間達の理性を回復させた。
「二手に別れよう。俺は美里と行く」
「おう、それじゃ一時間後に中央公園で落ち合おうぜ。行こうぜ、タイショー」
京一と醍醐は連れだって教室を出ていく。
できれば彼らのどちらかと行きたかった葵は、少しの間ぼんやりと立っていた。
「どうした、行くぞ」
「あ……は、はい」
龍麻に急かされ、葵は早足で教室を出た。
龍麻はおそろしく真剣だった。
小蒔の家まで戻る途中に、出会った全ての人に小蒔を見なかったか訊ねている。
老若男女、人影を見かければ一人の例外もなく近づき、極めて要領よく小蒔について訊ね、
手がかりがないと見るや素早く、しかし決して失礼ではない立ち去り方で次を探す。
葵の方さえ顧みないほどの真摯な態度に、彼がてっきり二人きりになろうという目的で
同行者に自分を選んだとまだ疑っていた葵は、赤面と共に態度を改めなければならなかった。
「くそッ、駄目だな……一人くらいは見た奴がいると思ったんだが」
しかし聞き込みの結果は思わしくなく、龍麻の顔が焦慮に歪む。
もう小蒔の家まですぐのところまで来てしまった二人は、
やむなく中央公園へと引き返すことにした。
もちろん、その途中でも出会った人に小蒔のことは訊ねるつもりだった。
中央公園に向かい始めて五分ほど過ぎた頃、二人は彼らを探す声に立ち止まった。
二人ともが知っているその声に、怪訝そうな顔を見合わせる。
声の主は二人を見つけると、弾むような足取りで近づいてきた。
「あ〜ッ! 緋勇くんと葵ちゃん、見ィ〜っけ〜!」
「高見沢……どうしたんだ、こんな所で」
「院長先生が、皆はこの辺にいるはずだから行ってこい〜って。緋勇くん、元気ィ〜?」
独特のテンポの声は、桜ヶ丘中央病院の看護婦見習い、高見沢舞子のものだった。
ピンク色の看護婦服を着ている舞子は、柔らかそうな巻毛を風に揺らしている。
龍麻達がいるのは新宿区内で、桜ヶ丘中央病院も新宿区だから、
いてもおかしくはないのだが、看護婦姿でここまで来たらしい舞子は、
やはり周りからは随分と浮いて見えた。
「ねぇねぇ、今度どっかに遊びに連れてってよ〜ッ。わたし、遊園地に行きた〜いッ」
龍麻の手を両手で掴み、親しげに振った舞子は、遂には腕を絡めてくる。
全く場をわきまえない舞子に、はじめ辟易していた龍麻は、
院長が自分達を探す為によこしたという意味に気づいて真剣な面持ちで尋ねた。
「高見沢、四人の容態に何かあったのか? まさか」
「ううん、反対〜ッ。さっきね、ひとりの意識が戻ったの〜ッ」
「そうか。しかし、容態は悪くなっているんじゃなかったのか?」
「うん、石化はすこうしずつ進んでるんだけどね、前よりゆっくりになったの。
院長先生が言うにはね、一度に多人数を石化させるには、ある程度の限界があるんじゃないかって」
舞子の言葉を噛み締めた龍麻は、野草を口に詰め込まれたような顔をした。
彼に半瞬遅れて、葵も舞子の言葉の意味を理解した。
口にするのも嫌な現実だったが、確かめない訳にはいかなかった。
「小蒔が……小蒔が、新しく石にされつつあるってこと?」
「小蒔って、この間病院に来た、元気のいい子〜?」
事態を把握したというよりも、龍麻と葵の感情に感化されたように舞子は泣きそうな顔になった。
「まだそうと決まったわけじゃないが、今朝から連絡がつかないんだ。
学校にも来ていないし。そうだ、意識が戻った奴は何か言ってなかったか? 犯人の特徴とか」
自白を迫る刑事のような龍麻の勢いに、舞子はしゃっくりを飲みこんだように目を丸くした。
「落ち着いて〜。あのねェ〜、確かァ〜、
飾りが一杯ついた黒い服のつるつるのお兄さんでェ〜、あっ、そうそう、
左の腕に大きなイレズミがあったってェ〜」
「……紫暮の話に出てきた男に似ているな」
その男が小蒔をさらった可能性は高い。
一刻も早く、その男を探しださなければならなかった。
龍麻の雰囲気に圧されたのか、舞子は龍麻の腕を離し、距離を置く。
「忙しそうね〜。じゃ、わたしも帰るね。院長先生が待ってるし〜。今度は遊んでね〜」
「ああ、ありがとう、高見沢」
舞子が角を曲がるまでは見送っていた龍麻は、彼女の姿が見えなくなった途端、
仮面を付け替えたかというほど表情を一変させた。
「……醍醐に訊かねえとな」
それは、葵がその意味を問うのをためらうほどの険しい顔だった。
龍麻と葵が新宿中央公園に到着したとき、京一と醍醐はまだ来ていなかった。
龍麻は苛立ちを隠そうともせず腕を組んで立っている。
時折人の気配を感じると、顔を跳ねあげて確認するが、
二人でないと判明すると不機嫌そうに顔を伏せた。
葵も焦りを覚えながらも、それ以上に怒っている龍麻に近寄りがたく、やや離れた場所で立っている。
出来の悪い鹿威しを、龍麻が何度か繰り返したあとだった。
「ヘヘッ、ずいぶんとマブい女じゃねェか」
「よォ、こんな所で何してんだよ。俺達と遊ぼうぜ、天国を見せてやんよ」
「おう、気持ちよすぎて戻ってこれねえかもしれねえけどよ」
下卑た男達に龍麻がすぐに気づかなかったのは、
京一達がやってくる公園の外に注意を向けていたからだ。
「や、やめてください、離して」
か細い葵の悲鳴にようやく振り向き、改造した制服をだらしなく着崩した男達が、
彼女の手首を掴んでいるのを見ると、大股で近づいた。
「なんだァ、手前ェ? 何見てやがる、死にてェのか?」
男達の一人が肩をいからし、斜め下から見上げるようにして龍麻を威嚇する。
威嚇した男を完全に無視して、龍麻は葵の手首を掴んでいる男の腕を掴み、
振りほどかせると、いきなり殴り飛ばした。
「ぐぅエッ!」
鋭い殴打を食らった男は、たまらず地面に転がる。
龍麻は自分が攻撃した相手を見ることもせず、葵を背後にかばうと残る二人を睨みつけた。
暴力を信奉する男達は、自分達より先に暴力をふるった龍麻を間の抜けた顔で眺める。
しかし数瞬のあとに我に返ると、一斉に龍麻に襲いかかった。
一対三であったこと、先制されて激昂したこと、
諦めて逃げるには葵は惜しい女だったことが、男達の頭にはあったかもしれない。
しかし、戦う相手の力量を見極められなかった彼らは、すぐに手痛い代償を支払うこととなった。
男達のうち二人が左右に分かれる。
彼らなりの喧嘩の経験を生かした戦術だったが、一般人なら萎縮してしまうところを、
龍麻は自分から見て左側に陣取る男に、無造作に踏みこんだ。
格闘技の訓練を積んでいなければ、利き手で殴るのが普通だ。
だから男達も龍麻が右側に動くと思い、警戒していたのだが、
不意を突かれてしまい、とっさに顔をかばった。
伸びた龍麻の右腕が、ガードの隙間を縫って男の胸に触れる。
踏みこみは深くても打撃は浅く、ほとんど触れただけとしか思えない一打に、
男は警戒から嘲笑へ、そして反撃に転じようとする。
その顔が急激に青くなったかと思うと、男は上から無理やり押されたように膝をつき、
前のめりに倒れた。
そのまま呻き声すら上げず、昏倒している。
「てッ、手前ェッ、何しやがったッ!!」
仲間の異変に驚いた男が、裏返った悲鳴を放つ。
最初に龍麻に蹴られた男も起きあがり、再び二人組になった男達は、
ようやく龍麻が喧嘩の素人ではないと気づき、懐からナイフを取りだした。
「ヘヘッ、手前ェッ、ぶッ殺してやる……!!」
ナイフを龍麻に向かって突きだしたまま、男達はじりじりと近づいてくる。
動かない龍麻に、恐れをなしたと見て取った男達が、ナイフの間合いに入ろうかというその時、
男の一人が突如として横に吹き飛んだ。
「だッ、誰だこの野郎ッ!!」
「ヘッ、手前ェら三下に名乗る名前なんざねェよ」
けれん味たっぷりに告げる男に、龍麻は呆れ顔で言った。
「遅い」
「ヘヘッ、悪ィな。けど、こんな奴らお前一人で楽勝だろ?」
男の頭を殴った木刀を肩に担ぎ直して京一は笑った。
隣にはもちろん醍醐がいる。
彼はナイフを持ちだした不良達に対し、指を鳴らして威嚇した。
数での劣勢に加え、醍醐と京一の実力に薄々感づいたのか、
不良達はナイフを構えながらも挑みかかってはこなかった。
「く、くそッ、手前ェら、俺達に手を出したりしたら、凶津さんが黙っちゃいねぇぜ」
龍麻も京一も凶津という知り合いはいなかったので、恐れ入ったりはしなかった。
ただ一人違ったのは醍醐で、凶津という名前を耳にした途端、
彼は暴風の如き激しさで不良の胸倉を掴んだ。
「お前ら──杉並の者か?」
「ヘッ、そうよ。俺達ゃ杉並の弦城高校の──」
そこまで言った男は、自分の胸倉を掴んでいるのが誰か思い当たったようだった。
身体は半ば宙に浮き、喘ぎながらも嘲笑めいた視線をひらめかせる。
「てめぇ……杉並桐生中の醍醐か……?」
「そうだと言ったら」
「ヘッ、なら丁度いい。俺達ゃお前も探してたんだよ。凶津さんが、お前を待ってるぜ」
男が再び凶津と言う名を口にすると、醍醐の手から胸倉が滑り落ちた。
「やはり……出所てきてたのか」
自由を回復した不良学生は、わざとらしく襟を直す。
凶津という名ひとつで、この場の雰囲気は一変してしまっていた。
油断無く逃げられないようにしながら、龍麻は事の成り行きを見守る。
「あァ。女も預かってる。早く来ねぇとヤバイかもなァ」
「場所は」
「さァね。自分で探しなよ。醍醐ならわかるはずだって凶津さんが言ってたからな」
「くくくッ、今のあの人は何するかわかんねぇからよ、早くした方がいいぜ。
お前の女も、今ごろはもう──」
そこまで言いさした男は、醍醐の形相にそれ以上喋れなくなる。
凶津はここにはおらず、自分達が虎の尾を踏んでいることに今更気づいたのだ。
「よせ、醍醐! こんな奴ら殴ったって時間の無駄だ」
親友の危険を看てとった京一が、虫を追い払うように手を振る。
「さっさと行け。今の醍醐は何するか判んねェぞ」
男達は随分と不本意そうであったが、二対三では勝ち目もなく、
何より醍醐の気迫に脅えたのだろう、気絶したままの仲間を肩に担ぐと、足早に去っていった。
端下の不良学生のことなど、誰も気に留めようともしない。
龍麻達の重さを伴った視線は、醍醐一人に注がれていた。
その視線は特に龍麻において烈しく、火花すら散りそうになっている。
醍醐はそれを受け止めながらも、何ら語ろうとはしなかった。
もはや一触即発といった雰囲気の中、場違いなほどのんびりした声をかけたのは京一だった。
「よし、それじゃ杉並に行くか。道案内は出来んだろ、醍醐」
「……ああ」
背負っていたものを下ろすように、深い吐息をついた醍醐は、
過去へと続く、苦い記憶の路を歩きだした。
「俺が奴に、凶津 煉児に会ったのは、中学一年の頃だった。
凶津と俺は五年前、杉並にある同じ中学に入った。
その頃の俺は、ただ自分がどれだけ強いのかを試したい、餓鬼そのものだった。
二年、三年、他校生、相手も選ばず、喧嘩だけをしていた。
そして気がついてみれば──凶津がいた。
あいつの瞳は今も良く憶えてる。決して満たされぬ飢えと、
決して手に入らぬ何かへの渇望に満ちたその瞳は、ただ、相手を、そして自分自身を
傷つけることしか知らないかのようだった。
──だからかもしれない。俺が、奴とつるむようになったのは」
「月日は流れ、三度目の春が来て──
その頃は俺も、手加減や節度ってもんを覚えていた。
自分の中の狂気を、どんな時に、何の為に使うべきなのかということを、
少しずつ解り始めていた。
だが……凶津はそうじゃなかった。あいつの裡で燃える黒い焔は、
まるで衰えることを知らなかった。奴のは既に喧嘩ではなく、只の──暴力だった」
「奴はいつのまにかチンピラの大将になっていた。
日々繰り返される傷害、窃盗、婦女暴行。
定職に就いていない酒乱の父親との生活が、それに拍車をかけた。
俺は……そんな奴を、止められなかった」
「やがて中学最後の冬が訪れようとしていた頃、
俺は奴に逮捕状が出たことを知った。罪状は──殺人未遂だった。
しかも、実の父親に対する」
「新聞にも記事が載った。父親は意識不明の重体。容疑者の少年は依然逃走中」
「そして、二人の城だった廃屋の隅で、俺は奴を見つけた」
「血塗れた手と、泣き過ぎて腫れた目。そこに居たのは、かつて友だった男の変わり果てた姿だった。
『醍醐……助けてくれ』奴はそう言った。
一体奴は、何から助けて欲しかったのか。警察の追っ手からか、荒んだ環境からか、
それとも──自分自身からか……今も俺には解らない」
「俺に出来たのは、俺と奴にとって一番ましだと思える選択を示してやることだけだった。
しかしそれは、奴の最も嫌う、誰かに、何かに──逃げる選択だった。
少なくとも奴はそう感じた」
閉ざしていた扉は錆付いていて、開かれることを主にさえ渋ったが、醍醐は強引にこじ開ける。
時の干渉を許さない、魂の奥底で眠っていた過去の破片は、
二年の時を経ていても、少しも色あせることなく蘇った。
(凶津……自首しよう。お前は、自分のしたことの罪を償わなければならん。
俺も一緒に行ってやる。だから、凶津)
(変わっちまったな。俺とつるんでた頃のおめぇは、もっとギラギラした瞳をしていた)
(違う、変わったのはお前の方だ、凶津)
(うるせぇッ!! ……もう、俺達は友と呼べる関係じゃねぇってことか)
(凶津……)
(──どうしても、やるってのか)
(……あぁ。俺には、これしか思いつかない)
(なんでだよッ!! おめぇだけは解ってくれると思ってたのによッ!)
「その時の俺にはもう一度──奴と勝負することしか思いつかなかった。
そうする事で、あの頃に──出会った頃に時間を戻したかったのかもしれない。
熱く、正直な気持ちで拳を合わせたあの頃を、奴に思い出させたかったのかもしれない」
「勝負には、俺が勝った。決着がつく頃には、警察が周りを取り囲んでいた。
……警察に連れていかれる間、やつは一度も俺を見なかった。
まるで……魂が去った後の、抜け殻のような瞳をしていた。
当然だろう、助けを求めたのに裏切られたんだ。唯一の……友だった男に」
「あれからもう二年が経つ。俺は、今もあの日を、あの時の凶津の背中を忘れられずにいる。
緋勇、お前は……お前は、こんな俺を軽蔑するか?」
「しない、と言えばお前は救われるのか?」
「む……」
冷徹に過ぎる龍麻の返答は、当事者でない京一でさえ鼻白ませ、
訊ねた当の醍醐も不本意そうに渋面を見せた。
彼らの方を見ないまま、龍麻は続ける。
「俺が後悔するのは、自分で決めたことを、本気でしなかった時だ。結果については気にしない」
「人は、その時に出来ることをするしかない。
例えそれが間違っていたとしても、前に進むしかない……そういうことか」
己に言い聞かせるように醍醐は呟く。
いくら昔の友を自分が救ってやれなかったのが原因だとしても、
今の友を蔑ろにして良い理由になどなるはずがなかった。
「……で、これからどうすんだよ」
「話した廃屋……多分、凶津はそこにいる」
拳を固める醍醐の眼に、もう迷いはなかった。
醍醐が案内した場所は、一目でそれと判る廃屋だった。
窓は割れ、コンクリートは剥がれ落ちている、寒々とした光景が龍麻達を出迎える。
周りはフェンスで囲まれているものの、どうやら作業が途中で中断されてしまっているようだった。
人目を避けて中に入った一行は、奥へと進む。
残っている壁には得体の知れない落書きが所狭しと書きつけられており、
そのいかがわしさに葵が眉をしかめた。
「ここは……一体何があった場所なの」
「俺達がまだ中学生だった頃、ここには取り壊し予定の雑居ビルがあったんだ。
ここは俺達の溜まり場で、そして、最後に奴と拳を合わせた場所だ」
「なるほどな。もうほとんど壊されちまってるが、向こうに少しだけ部屋が残ってるな」
京一が指差した先に、扉のついた部屋が二、三見える。
そこだけはあまり薄汚れておらず、ごく最近、あるいは今もなお人が使っていることが推測できた。
片っ端から調べるつもりで龍麻が踏み出すと、その肩を醍醐に掴まれる。
「皆。すまんが、ここからは一人で行かせてくれないか。
これは全て俺が蒔いた種だ。お前達を巻き添えにする訳には」
醍醐の言葉に振り返った龍麻は、前髪の奥で眼光の刃を閃かせた。
それは悲壮な、しかしどこか自己陶酔めいた覚悟を固めていた醍醐をたじろがせるほどの鋭さで、
ある種の危険な輝きを同居させていた。
「いいか醍醐。お前の過去の話は聞いたが、今そんな事はどうでもいい。
俺は桜井を助けに来たんだ」
眼光に続き、言葉の白刃に肺腑を抉られ、醍醐の顔からは血の気が全く失せていた。
そして既に瀕死の醍醐に、京一までもが追い討ちをかける。
「緋勇の言うとおりだぜ。醍醐、お前なんか勘違いしてねぇか?
お前、ここに何しに来たんだよ。大昔の感傷に浸りにか?
それとも、自分の過去にケリをつけるためにか?
そうじゃねェだろ。小蒔を助けるためだろうがよ」
「……すまん。俺は」
「わかりゃいいさ。……行こうぜ」
口の端をにやりと歪めた京一は、先頭に立って歩き出す。
なお立ちすくんでいた醍醐も、龍麻に肩を叩かれると、それに遅れじと歩き出した。
小蒔を、救う為に。
一つ目の部屋には、部屋中に散らばったアルコールの壜と、
鼻を塞ぎたくなるような異臭があるのみだった。
窓から射し込む陽の光に埃が透け、半ば霧のようになっている。
小蒔も、敵も居ないことを一目で確かめた龍麻は、呼吸を抑え、すぐに次の部屋へと向かった。
次の部屋は、最初の部屋とは全く雰囲気が異なっていた。
陽が当たっていないだけでなく、空気もひんやりとしている。
何かの倉庫として使われていたらしく、龍麻の身長よりも高い棚が部屋中に置かれていた。
相当に広い為に、龍麻達は分かれて棚で区切られた通路を進む。
部屋の真ん中辺りまで来たところで、一番端を歩いていた葵から悲鳴が上がった。
「──ッ!」
「どうしたッ!」
葵が指差した先に、石像があった。
女性を模った石像。
それも一体ではなく、女性ばかり十数体もの石像が、無造作に置かれていた。
それが意味するおぞましさに、龍麻達は等しく吐き気を催さずにはいられなかった。
「人……なのか?」
「こんなにたくさん……女の人ばかり」
「多分、時間をかけて石にされちまったんだろうよ。
でなきゃ、こんなに恐怖に歪んだ顔になんかなりゃしねぇ」
「なんて……ひどいことを……」
度胸と大胆さでは前後に落ちない男達も、足が釘で打ちつけられたように動かない。
それでも、どうしてもしなければならないことが、一つだけあった。
龍麻は全身の力を足に回してなんとか動かし、倒してしまわないように注意しながら、
石像の間を歩いて行く。
まだ小学生くらいの子供から、龍麻よりも年上と思われる女性まで、
全ての女性に共通しているのは、表情だった。
京一の言った通り時間をかけて自らが石にされていく所を味あわされたのだろう、
その顔には発狂寸前の恐怖がありありと浮かんでいた。
彼女達がまだ間に合うのか、それとも──もう手遅れになってしまっているのか解らないが、
これ以上の被害者を出す訳には絶対にいかない。
全ての女性を確かめた龍麻は、新たな決意を秘めて仲間達の所に戻った。
「桜井は、いなかった」
それは苦痛を先延ばししたに過ぎない、何の気休めにもならない報告だったが、
石像と化した小蒔の姿など見たくない京一達は、揃って肩の力を抜いた。
龍麻もそれに倣い、知らず額に浮かんでいた汗を拭う。
それは苦痛を先延ばししたに過ぎない、何の気休めにもならない報告だったが、
石像と化した小蒔の姿など見たくない京一達は、揃って肩の力を抜いた。
龍麻もそれに倣い、知らず額に浮かんでいた汗を拭う。
その時、微かな音が聞こえた。
一瞬で緊張を取り戻した龍麻達は、音の聞こえた部屋の奥を目指す。
奥にあった扉を蹴破り、一気に飛びこんだ。
その部屋は更に暗く、前の部屋からの光がわずかな灯りとなっているだけで、
ほとんど何も見えないくらいだった。
罠の存在を警戒した龍麻だったが、その必要はなかった。
仄い、陰惨な氣を隠そうともしない男が、部屋の真ん中に立っていたからだ。
「良く来たな」
「凶津か」
男に向かって醍醐が呼びかける。
闇に目が慣れ、浮かび上がった男の姿は、異様なものだった。
頭髪の全く無い頭の至る所に、血のような赤で何かの模様が施されている。
己を鼓舞し、より強大な存在でありたいという願いを込めた、
未開の部族のフェイスペインティングを思わせるものだった。
全身黒尽くめの服に、スパイクのついたベルトを何本も通しているのも、
恐らく同じ理由だろう。
かつて友だった男の面影は、もはやどこにもなかった。
「随分変わったな、凶津」
「俺は変わっちゃいねぇよ。俺が変わったとすれば、それはお前に裏切られたあの時からだ」
凶津の声は、果てしない闇の底から醍醐を罵った。
いくら龍麻達に諭され、覚悟が出来ていたとしても、足を掴もうとする亡者の手を払いのける為に、
醍醐は並々ならぬ精神力を必要とした。
「桜井をどうした」
三年を圧縮した長い沈黙の後、ようやくそれだけを口にした醍醐に、
凶津は失望と嘲り、憤怒と憐憫をないまぜにした顔で嗤った。
「本当はよ、殺っちまおうかと思ったんだけどよ、それじゃあまりにも芸がねぇだろ?
なにしろ、今の俺には特別な『力』があるからなぁ。見せてやるよ」
部屋の隅に向かった凶津が、部屋の灯りを点ける。
そこにあったのは、一同が最も見たくないものだった。
「小蒔──ッ!」
葵の悲鳴は、龍麻達全員の悲鳴であった。
生気に満ちた瞳も、歯切れの良い言葉を次々と紡ぐ唇も、健康的な肌も、全てを失い、
石と成り果てた小蒔の姿が、そこにあった。
「どうだ、なかなかの出来だろ? まァ、強いて言えば表情が気にいらねぇなぁ。
こいつ、泣きも喚きもしねぇでよ。俺は泣き叫んで許しを請う女のツラを見ねぇとイけねぇってのによ」
手を小蒔の身体に巻きつかせた凶津は、厭らしく舌を伸ばす。
龍麻達の反応を愉しむように凶津が石像と化した小蒔の頬を舐めあげた時、醍醐が一歩進み出た。
鬼神も道を譲り、天魔もひれ伏すであろう、修羅がそこにいた。
それを見た凶津の顔が、狂気の悦びめいたものに満たされる。
「凶津……貴様……」
「その顔だ、醍醐、その顔が見たかったんだよ。表へ出な、二年前の決着をつけようぜ」
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