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 浜松町で下りた一同は、プールまでの道を歩く。
アスファルトを避け、木々の並ぶ小道を通るのは少し遠回りになったが、
木漏れ日が形作る心地良い路は、それに見合うだけの価値があった。
「ふぅ、それにしても暑いな」
「今年初めてのプールだもんね、楽しみだよ。……あ、見て、東京タワーだよッ」
「あったりめェだろ! 今更何はしゃいでんだ」
 既に頭の中は水着の女性のことしかない京一は、鉄塔などに全く興味を示さなかった。
一方龍麻はと言えば、こんなに近くから東京タワーを見るのは実は初めてで、
小蒔の指差した先を物珍しげに見ている。
 立ち止まった龍麻に、小蒔が話しかけてきた。
「ねえねえ、この間ミサちゃんに会った時に聞いたんだけど、
東京タワーが年々傾いているって噂があるらしいね」
「……傾く?」
 荒唐無稽と思いつつ、つい応じた龍麻に、小蒔は嬉しそうに続けた。
「うんッ。なんでも、タワーの脚の一本が増上寺の墓地跡に立ってるんだって。
訪れた霊能者によると、眠りを汚された死者の怨念が、塔の脚を土中へと引きずりこんでいるらしいよ」
「……」
 こんな大きな建造物が、一センチでも傾いたら大騒ぎになるに決まっている。
うさんくさげな顔を龍麻がすると、小蒔もしかつめらしい顔をしたが、すぐに笑いだした。
「えへへッ、ホントだったら面白いけどねッ」
「確かに、寝てるところにこんなの建てられたら怒りたくもなるかもな」
「だよねえ。たまに寝てる時に弟が乗ってきたりするんだけど、それでも充分重たいもんね」
「弟か……」
「緋勇クンは兄弟いないの?」
「ああ、一人だ」
 後ろからため息が聞こえたので龍麻が振り向くと、京一があからさまに落胆していた。
「なんだ、一人か……夢が消えたな」
「京一の夢なんてほっといていいよ。どうせ姉妹がいたら紹介してほしい、とかだから」
 それほど狙いを定めたとも思えない小蒔の一球は、見事京一の肺腑を抉ったようだった。
「うッ……それはともかくだ、東京タワーは心霊写真のメッカだなんて言われたこともあったな」
「露骨に話題変えてるよ……でも、ボクも聞いたコトあるよ。
非常階段を駆け下りてきた女の人が突然消えたとか、蝋人形館に無造作に本物の髑髏が置かれてた、とか」
 それらの話はアン子に聞いたら情報源はどこよ、と一刀両断されそうな、あやふやで、
語るのも馬鹿らしいものばかりだったが、なぜか一人だけが如実な反応を示した。
「き、君達、こんな所で立ち止まってないで早くプ、ププールへ行こうじゃないか」
 百人の敵に囲まれても決して怯んだりはしないだろう巨漢は、
真っ昼間だというのに気の毒なほど震えていた。
「いや、俺は俄然東京タワーに行きたくなったな」
 醍醐に向かって京一が意地悪く言う。
反論する余裕もないのか、醍醐は東京タワーに背を向け、早くプールに行くよう龍麻に強く促してきた。
笑ってはいけないと思いつつ、この図体にしてあまりの気の小ささに、
口許がむずむずするのを抑えられない龍麻は横を向いて一歩を踏み出す。
 すると、それを遮るように小蒔が声を上げた。
「ん? なんかこっちに来る人がいるよ」
「だッ、誰だッ!?」
 もはや醍醐の狼狽ぶりは悲惨なほどで、声などは完全に裏返っている。
そのせいか、小蒔の声は、どこか泣き出した子供をなだめるような趣きがあった。
「大丈夫だって、足はあるよ」
 単なる通行人かと思ったが、向こうはこちらに用があるようで、
戸惑う龍麻達に軽く手を挙げて挨拶してきた。
 その男は全く見覚えのない顔で、一行はお互いに顔を見合わせて誰かの知り合いかと目で訊ねる。
順番に首を捻ることで、誰の知り合いでもないと判明した人物を、
龍麻は見知らぬ他人に対するごく普通の警戒を抱いて観察した。
 龍麻と葵の中間辺りの背丈の男は、きちんと首元までボタンを留めた長袖のカッターシャツを着て、
その上からベストまで羽織っている。
醍醐という前例があるので断言はできないが、よほどの寒がりか馬鹿でなければ、
立っているだけでも汗が滲むこの季節にそんな服装をする必要があるとも思えない。
しかし男は暑そうな顔など微塵もみせておらず、やせ我慢だとしたら大したものだった。
 もう一つ、龍麻が抱いた違和感は、その顔立ちだった。
汗を浮かべていない、というのもあるが、あまりに日本人離れしているというか、繊細な顔で、
それを表現する耽美、という使い慣れない言葉を思い浮かべるのに、しばらく時間がかかったほどだ。
丁寧になでつけた髪を片側に垂らし、細い眉と、同じく切れ長の目でこちらを見る男は、
その服装とあいまって、貴族の子弟を思わせる風貌だった。
 危険はなさそうに見えるが、龍麻は重心を前に取り、警戒していることを隠さない。
 それに対して男は、龍麻の思いも寄らない行動を取った。
両目を閉じ、片手を胸に当て、もう片方の腕は大きく横に広げたのだ。
演劇か映画のワンシーンくらいでしかお目にかかれないポーズを取る男に、
龍麻もどう反応して良いか全く解らなかった。
そんな龍麻になど見向きもせず、男は葵と小蒔に向かって話しかけた。
「やぁ……この世界は、放蕩と死に溢れている。だが、それも美しき婦人たちの前では無きに等しい」
「……?」
「なんか、ブツブツ言ってるよ……」
 男は、葵でさえもが判断に戸惑うほど訳のわからない挨拶をよこした。
あっけにとられた小蒔などは、思わず素直過ぎることを言っている。
それを聞き咎めた男は小蒔に向き直った。
「君──今、僕に何か言ったかい?」
「えッ!? う、ううん、別に何も……」
「フッ……君は、美しい顔をしているね。まるで、髑髏の上に腰掛けた乙女のようだ」
「……!?」
「小蒔を見て美しいとは……かなりイカれてるな……いてぇッ」
 京一の最後の呻きは、小蒔に足を踏まれたからだ。
 反射的にそうしたものの、小蒔も実は京一の言葉の後半には賛成だった。
大体褒めるにせよ、初対面の者との会話で髑髏などと言う単語を持ち出す人間はそうはいない。
褒められた嬉しさより、不気味さの方が勝った。
「だが、美しいものほど、残酷で、罪深きものはない……なんという惨劇。
時こそが人の命を齧る。姿見せぬこの敵は、人の命を蝕んで、
我等が失う血を啜り、いと得意げに肥え太るのだ──」
「……」
 どこか詠み上げるような男の口調に、小蒔と葵は手を握りあっている。
そうでもしなければ、龍麻達を置いてさっさと逃げ出してしまっていただろう。
 明らかに嫌悪の情を見せる二人に、男は態度には何も出さず、再び口を開いた。
「フフフ……ボードレールの詩だよ」
「ぼおどれえるゥ?」
「ボードゲームとは違う……よね」
 京一と小蒔とは違い、国語の教科書に載っていたその名前を龍麻は知っていたが、
薄気味悪いこの男を喜ばせる必要もないと沈黙を貫いた。
「フフ……シャルル・ボードレールはフランスの詩人だよ」
「あの、キミは一体……」
「僕を知らないのかい? 詩人という高貴なる僕を。
何と言う事だ、僕の心はシテールのように荒涼たる風が吹いている」
 男は基本的に小蒔と葵の二人を相手にしているようで、龍麻達にはあまり関心を見せない。
それに気付いた京一が、龍麻に耳打ちした。
(なあ龍麻、こいつ新手の宗教かナンパか?)
(だったらお前のお仲間だな)
 心底嫌そうな顔をする京一に、龍麻はちょっと言い過ぎたと反省した。
 少し険悪な雰囲気を漂わせる二人をよそに、自らを詩人、と名乗る男に、
葵が何かに思い当たったような表情をした。
「そういえば……港区のセント=クライスト学院に、十三歳で文壇デビューした天才詩人がいるって。
確か、名前は──水岐」
「おぉ、君こそは砂礫の砂漠にいる慈悲深き尼僧。僕こそがその、水岐涼だよ」
 ようやく水岐と名乗った男は、口許を軽く笑っているような形にさせる。
どうやらこの男の感情は、喜びよりも、哀しみの方が成分が多いらしかった。
それにしても、どうにもこの水岐という男は素直に感情を表せないらしく、
それが薄気味の悪さとなって彼の表皮に膜を貼っているようにも見える。
 対照的に、小蒔が思ったことを一切吟味せずに言った。
「ええーッ、この人、天才だったんだ。どうりで言ってるコトが難しいワケだ……」
「フフフ、僕の高貴な世界を理解できる人間は少ない。気にしないさ。……ところで君」
 急にこちらを向かれて、龍麻は思わず反応してしまった。
すかさず京一と醍醐が半歩離れる。
孤立無援となった龍麻に向かって、水岐は髪をかきあげた。
「そう、君だ。君は海が好きかい?」
 それまでのさっぱり要領を得ない会話から、いきなりストレート過ぎる質問を出されて、
面食らってしまった龍麻だった。
「海……? 別に嫌いじゃないが」
「海の好きな人間は、僕の詩を理解出来る人間だ。君のような人に会えて嬉しいよ」
 夏に海が好きか──と訊かれて、嫌いだと言う人間はどのくらいいるのだろうか。
それでも事前に答えが判っていたなら嫌いだと言っただろう。
それほど、龍麻の水岐に対する評価は下がりきっていた。
そんな龍麻の内心を、京一が代弁してくれる。
「天才詩人だかなんだか知らねェけどよ、いきなり海は好き? はねェだろ……
ンなことどうでもいいじゃねェか」
「フフフ、どうでもいいことじゃないさ。海は偉大なんだよ。全てを生み出し、そして──
全てを無に還す、万物の根源なのさ。海は全てを呑み込む。
汚れた人間も、腐敗しきった世界も。今の世界は一度、海へと還るべきなんだよ」
 急にトーンの変わった水岐の話は、景色にまで影響をおよぼしたかにみえた。
龍麻達の立っている場所から木漏れ日が逃げ出し、影が取って代わる。
優しく髪をなびかせる薫風は肌を嘗める朔風へと変じ、一同の背中に冷たい汗を生じさせた。
「一体……何が言いたい?」
「罪深い邪教を信じた報いを、この世界は受けなければならない。
かつての、紅の花に埋もれた美しい世界を壊した報いをね。
……もうすぐこの世界は全て海の底へ沈む。誰も逃れることは叶わない。
この世界はもうすぐ、海の眷属に支配されるんだ」
 水岐の声は昏さを増し、深青の響きを帯びる。
嫌なのに、惹きつけられる──水岐は文章だけでなく、朗読する才能も確かに一流らしかった。
なまじ感受性などというものを持ち合わせている龍麻と葵は、
彼の紡ぎ出す言葉の深海に引き摺りこまれそうになってしまう。
「頭が痛くなってきたぜ。俺達ゃお前の妄想に付き合うほどヒマじゃねぇんだよ」
 しかし、そんなものは食べ終えたラーメンの残り汁程度しか持っていない京一が、
呪詛とも言える言葉をあっさりと切って捨て、龍麻達を救った。
ちなみに京一は、ラーメンの汁は最後の一滴まで飲み干す派である。
「妄想かどうかはすぐにわかることさ。その時に、人間が犯した罪を知るがいい」
 妄想、と言われ明らかに気分を害した水岐は、
言葉を解さない野蛮人を見るような目つきで京一を睨んだが、その語勢は弱まっていた。
あるいはつき合っていられない、とでも思ったのかもしれない。
もともと話しかけてきたのは水岐の方からだし、彼が去ってくれるのは正直言って歓迎だった。
「やってらんねェな。もういいからさっさとプールに行こうぜ」
 その通り、自分達はこれから遊びに行くのに、なんだって犯した罪だの世界が沈むだの、
気が滅入る話を聞かされなければならないのか。
小馬鹿にしたように肩をすくめる京一に大きく頷いた龍麻は、
浪費した無駄な時間を埋め合わせようと葵達を促し、大股に一歩を踏みだした。
すると、なお水岐が食い下がる。
「君達……芝プールに行くのかい?」
「あぁ」
「そうか……楽しんでくるといい」
 短く答えた龍麻に、水岐は小さく笑った。
それはおよそこの初夏に似合わない、どちらかと言うと晩夏にこそ相応しいような、
人を不快にさせる笑いで、気分を払拭するために、龍麻はかなり投げやりに応じた。
「そうさせてもらうよ」
「それじゃ……君達とはまた会える気がするよ」
 全くそんな気がしなかったし、会いたいとも思わなかった。
それは皆同じ気持ちらしく、程度の差こそあれ眉間に皺がよっている。
「なんだったんだ、ありゃ……これから遊ぶってのに、イヤな気分になっちまったぜ」
 水岐の姿が完全に見えなくなったのを確かめてから、京一がぼやいた。
彼を恐れる訳ではないが、あの調子で反論されてはもう逃げるしかなく、
万が一にも聞かれては困るのだった。
醍醐も同じ心境なのか、声は重い。
「確かにな……詩人と言うのは皆あんな変わった奴なのか?」
「そんなことはないと思うけど……」
 葵の評価も歯切れが悪く、 なんとなく沈黙してしまう龍麻達にあって、一人奮闘したのは小蒔だった。
「それはともかくさ、見た目は結構良かったよね」
 それは皆の気分を盛り上げようとしてのもので、必ずしも彼女の本心というわけでもなかったが、
京一はしみじみと呟いた。
「お前、あんなのが好みなのか……」
「ち、違うよ、違うけどさ」
「だったらぼおどれえるとボードゲームの区別くらいつくようにしなきゃな」
「違うッつってんだろッ!!」
 手にした水着の入っている袋で殴りかかる小蒔を軽くかわした京一は、
そのまま小走りでプールに向かい始めた。
「あぁ、もう行こう。こんなところで道草食ってたって仕方ない」
 袋を全力で振りまわす小蒔がそれを聞いているかは怪しい。
ただ、二人の走っていく方向に間違いはなかったので、
誰も止めようとはせず、三人はのんびりと後をついていったのだった。
 芝プールは真夏の日曜日ということもあって、入り口から人々でごった返していた。
「おォ、若いおねェちゃんが一杯だぜッ!!」
「ふふっ、京一くんったら嬉しそう」
 葵が毒のない口調でさらりと言う。
これが彼女の本質ではないだろうし、水岐の出現で多少ストレスが溜まっているのかもしれない。
「んじゃ中でね」
「よし、俺達もさっさと着替えて水着鑑賞会としゃれこもうぜ」
 中で落ち合うことを確かめて、龍麻達は一旦二手に分かれた。
各自水着に着替えて、表に出る。
「やっぱ夏は海かプールに限るなッ! この俺の無駄なく引き締まった身体も見せがいがあるってもんよ」
 誰に向かって言っているのか判らない京一の大声が、プールに来ている他の客を振り向かせる。
しかし振り向いた者は皆、声の主の異様ないでたちに驚き、慌てて目を逸らせるのだった。
その理由に気づいていないのは、一人だけだ。
「それはいいんだが、京一……どうしてお前は、こんな所まで木刀を持ってきてるんだ」
「そういうコトは鏡見てから言えよ……
市民プールにゴーグルとシュノーケル着けてくるバカを俺は初めて見たぜ」
「俺だって市民プールに木刀持ってくる馬鹿は初めて見るがな」
 お互いに罵りあう二人から、龍麻は距離を置いて立っている。
同類と見られるのはたまらなく嫌だったのだ。
醍醐の方は、まだ多少おかしいというだけで済ませることができるかもしれない。
しかし何しろその体格が災いして、結果的には京一と同じか、より危ない人種に彼を見せていた。
「んだと手前ッ! おい緋勇、お前はどっちがバカだと思う」
「緋勇、いいから遠慮なく言ってやれ。馬鹿なのは京一だと」
「……」
 龍麻は聞いていなかった。
正確には聞こえていないふりをして、
タイミング良く空いたテーブルのひとつに荷物を置きに行っていた。
その後ろで呆然としている京一と醍醐など、知ったことではなかった。
「……美里と小蒔はまだ来ねぇのか……なぁ、俺達だけでひとっ風呂浴びねぇか?」
 まるっきり無視されてさすがに堪えたのか、京一は露骨に話題を変える。
その隣で醍醐が、やはり堪えたのか、つい今しがたまで敵だった京一と共同戦線を張った。
「確かに……ただ待ってても汗が出るだけだしな。どうだ、緋勇」
「目印がいないと困るだろ。荷物は見ててやるから先行ってこいよ」
「そうか……義理固い奴だな、お前は」
 醍醐は感銘を受けたように頷いたが、京一は無視された恨みを忘れていなかったらしく、すかさず口を挟んだ。
「ヘッ、おおかた一秒でも早く美里の水着見てェとかそんなんだろ。
まぁいいぜ、俺達はちょっと行ってくっからよ」
 言いたいことを言って京一は走っていく。
醍醐も申し訳なさそうにしながらも、京一の後を追っていった。
 彼らを見送って、龍麻は椅子に座る。
その表情は芝プールにいる全ての人と異なる、能面に近い無表情だった。
 葵と小蒔はまだ姿を見せない。
水しぶきと歓声がそこら中で弾けているプールを、
龍麻が見るともなしに見ていると、おもむろに一人の女性が立ち止まった。
「あら? もしかして、緋勇君じゃない?」
 視線を遠くに置いていた龍麻は突然名前を、しかも女性に呼ばれて、戸惑い気味に顔を上げた。
 龍麻の名を呼んだのは、妙齢と思われる女性だった。
細身の身体は女性としてかなり理想的なプロポーションを持っており、
身長も高く、一メートル八十を超える龍麻と頭半分くらいしか変わらない。
しかし何しろ、顔の大部分がサングラスに覆われており、
龍麻は反応に困ることしかできなかった。
 少年の怪訝そうな顔に気づいた女性は、洗練された動作でサングラスを外す。
現れた人好きのする笑顔は、数ヶ月前に見覚えのあるものだった。
「……天野さん、でしたっけ」
「嬉しいわね、一度会っただけなのに、覚えててくれたの?」
 破顔した女性は、空いている椅子に腰を下ろした。
 彼女は以前、渋谷の街で鴉が人を襲う事件に龍麻達が関わった時に出会った、
天野絵莉という女性だった。
彼女も独自のルートで事件を追っていたらしいのだが、
事件の原因が記事に書けないとわかるとあっさりと手を引き、
龍麻も名刺を貰ったもののそれきり連絡は取っていなかったのだ。
「天野さんこそ……良く俺がわかりましたね」
「私はそれが半分仕事だもの」
 フリーのルポライターである彼女は、一度会っただけの人物であろうが、
名前と顔を一致させることが出来なければ商売にならないのだ。
それにしても、髪を上げ、学生服も着ていない龍麻をこんな所で見つけだすとは、
やはり大したものだった。
「今日は一人なの?」
 絵莉は問い掛けつつ、素早く周りを観察して自分で答えを見つけていた。
「何、こんなものプールに持ってきて。あの子……蓬莱寺くんもいるのね」
 木刀を見て呆れたように言う絵莉に、龍麻は我が事のように恥ずかしがるしかない。
全く、いくら大切なものとはいえ、どういう精神構造をしたら
真夏のプールに木刀を持ちこむという発想が出てくるのだろう。
 しかし、絵莉は単に京一が馬鹿なだけなのを、随分と深読みしたようだ。
「もしかして……まだ危ないことしてるの?」
「……」
「困ったものね」
 今度の口調には呆れたような響きはなく、それは今度は龍麻に深読みをさせることとなる。
「危ないことって……何かあるんですか?」
 かまをかけてみた龍麻だったが、絵莉は大人の余裕がなせる業か、
小憎らしいまでに鮮やかにその問いをかわした。
「さぁ、どうかしらね。……あら、いけない。
友達が待っているんだったわ。それじゃね、緋勇君。また会いましょう」
 蝶のように軽やかな仕種で立ちあがり、軽く手を上げて絵莉は去っていった。
 去っていった彼女と入れ替わるように京一達が戻ってくる。
というより、龍麻が女性と話しているのを見つけた京一が急いで戻ってきたのだが、
一足遅く間に合わなかったのだ。
「お前、誰と話してたんだよ」
「天野さんって覚えてるか? ほら、渋谷の」
 龍麻が説明する前に、京一は身を乗り出していた。
彼の身体から滴る水滴が足にかかって、龍麻は気持ち悪さを堪えねばならない。
「んだとッ! 絵莉ちゃん来てたのかよッ!」
 京一は忙しく周りを見渡すが、もう彼女の名残はどこにもなかった。
絶望と羨望に身を焦がした京一は、にわかに躍りかかって龍麻の首を絞める。
男に首を絞められるのは気持ちの良いものではない――
まして、京一の身体からさらに垂れる水滴が身体にかかるとあっては、
龍麻は半ば本気で彼の腕を振り払った。
「てめぇ龍麻、見やがったな!? 俺の絵莉ちゃんの水着姿、見やがったな!?」
 剣呑な雰囲気になるかと思いきや、京一はテーブルに突っ伏して恨み言を言い始めた。
「くそッ、せっかく絵莉ちゃんが俺に会いに来てくれたってのに、
嫉妬して俺を呼ばないとは、なんて女々しい野郎だ」
 自分勝手も極まった京一の主張に、京一と一緒に戻ってきていた醍醐は、
身体に見合った大きな嘆息をした。
「……緋勇、すまんな。俺から謝らせてもらうよ」
「いや……出来の悪い友人を持つと苦労するな」
「あぁ……お互いにな」
 京一をあざとく無視した二人は和やかに談笑する。
絵莉の水着を見れなかった悔しさと、二人に馬鹿にされた悔しさが合わさった時、
京一は木刀に手をかけていた。
「ぐッ、てめえら……」
 二度はやられまいと、無視をしながらも鋭く京一を観察していて、
振りかぶった瞬間を足を払おうと待ち構えていた龍麻だったが、それは未遂に終わった。
絵莉とは違う女性の声が、一触即発の危険を孕んでいた龍麻達の緊張に割りこんできたのだ。
「あ〜、すっごい偶然〜ッ!」
 かん高い、そのくせのんびりとした声は、聞き間違いようのないものだった。
「その声は……高見沢じゃねェか」
「あッたりィ〜! うふふッ、元気〜ィ?」
 看護学校に通いながら、新宿区にある桜ヶ丘中央病院で働いている彼女もまた、
ある事件をきっかけに知り合った、高見沢舞子と言う女性だった。
いつもピンク色のナース服を着ている彼女は、
もちろん今はナース服ではなく、黄緑色のビキニ姿だ。
ただし水着はシンプルでも身体の方はそうではない。
胸の膨らみは見事なもので、そこから腰にかけてきちんとくびれ、そしてまた広がっている。
それは女性を見た数なら誰にも負けない京一の眼鏡にも充分に適うものだった。
「お、お前って結構ナイスバディだったんだな……」
「わ〜い、ほめられたァ〜」
 無邪気に喜ぶ舞子が飛び跳ねるたび、水着が揺れる。
もちろん、水着が包んでいるものも一緒に。
思わず目を上下させる京一だったが、醍醐の恐ろしい一言が白目を剥かせた。
「も……もしかして、院長先生と一緒……」
「大馬鹿野郎ッ!! 気持ち悪いモン想像させんじゃねぇッ!!」
 身の毛もよだつ、とはまさにこのことだった。
京一は木刀によりかかり、龍麻も視線から焦点を消失させ、口を大きく開けて換気した。
「はっずれェ〜、看護学校のお友達とでェ〜す」
「本当かよッ! おッ、おい、その娘達はどこにいンだよッ」
「エッチな人には教えてあげない〜ッ」
 恐ろしい想像の反動からか、京一は目を血走らせて舞子に詰め寄る。
人差し指を唇に押し当てた彼女は、何故か龍麻にその指を向けると、
ひらひらと舞うように去ってしまった。
 あっけにとられて舞子が去るのを見送っていた京一は、
龍麻の両肩に手を置き、がっくりとうなだれる。
「俺の白衣の天使ちゃんをどうしてくれンだよッ! ううう……」
「……知らねぇよ」
「こんな事で泣くのかこいつは……いいから放っておけ、緋勇」
 もはや打つ手なし、と首を振る醍醐に、深く頷く龍麻だった。



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