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 タオルを肩にかけ、椅子に座っている龍麻は、葵を見つけると軽く手を上げる。
しまったと思いつつも、今から引き返すわけにもいかず、やむをえず座った。
「もういいのか?」
「え……ええ。緋勇君は?」
「俺ももう充分遊んだかな。あいつら、なんでこんなにプールが好きなんだ?」
 呆れている龍麻にあいまいに頷きながら、葵は気になっていたことを訊くなら今しかないと考える。
 だが、決断してからも、実際に口を開くまでには、一分以上必要だった。
「あの、緋勇君……最近、何か変わったことはないかしら」
 慎重を期するあまりに趣旨が全く伝わらない質問をしてしまったと、
訝しげに眉を寄せる龍麻の反応で葵は気づいた。
「プールに来たっていうのが一番変わったことかな。小学校以来か?」
 嫌味な返答だとしても、少なくとも関心を惹くことはできたようだった。
眉を寄せたままではあったが、龍麻は話題を打ちきろうとはしなかったのだ。
「何かあったのか?」
「い、いいえ……その」
 変わったことがあるのは葵の方で、しかもそれを率直に伝えるのには大いに抵抗がある。
結果葵は、プールから上がったばかりだというのに頬を熱くするしかなかった。
「緋勇君の『力』は……どんなことができるの?」
 龍麻は質問の意図を勘ぐるように唇を曲げはしたものの、答えをはぐらかしはしなかった。
「どんなことも何も、俺の使う氣は生命力だって話しただろう。
身体能力を高めたり、怪我を治したりっていうのは肉体を活性化させるって意味では同じことだ。
あとは相手に当てるってくらいで、だから夢の世界に引きずりこんだり、
他人を石にするなんて芸当は俺には無理だ。
嵯峨野麗司だったか、あいつの件の時は夢の世界に入ったが、
あれはあいつが『力』を使ったからできたことで、一人じゃどうしようもない」
「遠くから他人を操ったり……とかはできないのかしら?」
 龍麻はいよいようさんくさげに葵を眺める。
水着一枚というのがいかにも頼りなくて、葵はタオルを羽織った。
「無理だな。そんなことができるんなら、今までの敵だって苦労せずに倒せたはずだろう」
「そ、そうよね。ごめんなさい、変なことを訊いて」
 どうやら龍麻は葵の変調について本当に関わっていないようで、
内心ショックを受けながらも、葵は話を終えようとした。
「待て、俺に訊くような何かが起こっているなら教えろ。
はじめは些細なことだって、今の俺達にはどんなことが起こったって不思議じゃないんだからな」
「ううん、本当になんでもないの。……あの、少し身体が冷えたみたい。お手洗いに行ってくるわ」
「おい、待てったら」
 強引に話を打ち切り、葵はこの場を離れた。
龍麻が追ってくるのではないかとも思ったが、人混みに紛れてから振り向いても、彼の姿はなかった。
 一安心した葵は、時間を潰すために本当に手洗いに向かう。
 今の会話を思い返すと、動悸が収まらなかった。
 葵の悩みの原因が、龍麻ではないというのは残念ながら事実のようだった。
彼は葵の相談の真意に気づかなかったようだし、仮に彼が関わっていたとしたら、
むしろ今日は絶好の機会として何か仕掛けてきてもよいくらいだ。
 それはつまり、自慰を止められなくなってしまったのは、葵自身のせいだということになる。
それは年頃の少女にとって、とうてい認めたくないことだった。
まして断じて好きではない龍麻のことを考えると劣情が増すなど、
どれほど考えても受け入れられるはずがない。
いっそ何かに取り憑かれているほうがましだ、とさえ考えたのは、
葵の悩みの深刻さを示すものだったかもしれなかった。
 葵が少し時間を置いてから戻ると、小蒔たちも戻ってきていた。
「あッ、葵。そろそろ帰ろうかって話してたんだけど、どうする?」
「ううん、もう充分遊んだわ。皆が良ければ、帰りましょう」
「えへへッ、ホントはもうちょっとだけ遊びたいんだけど、腹八分目って言うもんね」
「お前はいつも満腹を通り越して食ってるじゃねェか」
「たッ、食べてないよ、失礼なコト言うな京一ッ」
 いつも通り賑やかな友人たちに、いっとき不安を忘れて葵も口元をほころばせる。
 その口元が、にわかに引き締まった。
葵から楽しさを奪い去ったのは、別の感情ではなく、別の感覚だった。
「なに……この臭い」
 葵の隣で小蒔がよりはっきり異臭に顔をしかめ、
龍麻たちだけでなく、他の客も騒ぎはじめている。
「うっ、こりゃ……生臭いを通り越して、腐ってるような……」
「プールから……してる?」
 プールにはまだ人が大勢いるが、水から上がっている人々に遅れて異臭を感じたのか、
ざわめきが広がっていた。
賢明な一部の人間は、とにかく身の安全を確保しようとプールから上がり、
その場から離れようとしている。
 異臭は一秒ごとに強烈さを増していくようで、
格好が悪くても鼻を押さえずにはいられないでいる龍麻たちの耳に、今度は悲鳴が飛びこんできた。
「嫌ァ、化け物!」
「化け物!?」
 ただならぬ叫び声に、龍麻達は顔を見合わせた。
声の方向は自分達がつい今しがたまでいたプールの方からしており、
化け物と言われても俄には信じられなかった。
「とにかく、行ってみようぜ」
 鼻をつまみながらも、京一はプールに再び入場しようとする。
悲鳴が女性のものだったからではないだろうが、京一の行動は賞賛されるべきものだった。
しかし、それを制止する声がある。
「駄目だ、行ってはいけないッ!」
 研ぎ澄ました針のように鋭い声に、思わず京一も立ち止まってしまった。
誰が水を差したのかと見渡す京一の前に、声の主が現れる。
「やァ。こんな所で会うなんて奇遇だね」
 先の鋭さとは一転して穏やかな挨拶をしたのは、自分達と同じ歳頃に見える男だった。
プールという場所なのに、パーカーの下にはシャツを着て、水着も着ておらず、
さらには髪も濡れていない。
奇遇、と言った割には、何かが起こることを予期していたようないでたちだった。
「お前は……」
「フッ……」
「誰だっけ?」
 思わず拍手したくなるくらい見事な京一のボケだった。
そしてツッコミの方はと言えば、これも見事にがっくりと足を滑らせている。
周到に打ち合わせていたのかと思うほど、呼吸の合った漫才だった。
「ふッ……ふふふッ……」
 漫才は予定に入っていなかったのか、男はひきつった笑いを肩に浮かべている。
こいつは何をしに出て来たのか、そう思って改めて男を見た龍麻は、
その顔に見覚えがあることに気づいた。
「ええと、骨董屋の──」
「如月だ」
 そう、彼は、以前広告費の打ち合わせに真神学園に来た時に会った、如月翡翠だった。
北区にある如月骨董品店の店主であり、小蒔が弓の修理を頼んでいる相手でもある。
その彼とこんな所で出会うのは確かに奇遇だったが、今はそれどころではなかった。
「そうだ、如月っつったっけ。でも悪いけどよ、今ちょっと取りこんでんだ。また今度な」
 漫才を演らされた恨みでもないだろうが、如月は再び険しく京一を止める。
「待ちたまえ、水の中では、人間は到底奴らに及ばない。
今プールに入っても、君達も餌食になるだけだ。……それに、どうせ今から行っても間に合わない」
 最後の部分はごく小さな囁きで、大きくなる騒ぎの声にかき消されてはっきりとは聞き取れなかった。
「……え?」
「また何人か攫われた……どうやら、増上寺も奴らの手に落ちたようだ」
「また……って」
 思わせぶりなことを言う如月に、龍麻達の疑問の視線が集中するが、
如月は龍麻達を通すまいと立ちはだかったまま、直接の答えにはなっていない事を言った。
「縁とは、不思議なものだ」
「……」
「この東京には、異形の氣を持った者達が集う。
奴らの目的は増上寺の地下に眠る『門』を開けることだ。君達も──」
 言いさした如月は、一度口を閉じる。
「いや、君達は一刻も早くここを離れて、今起こったことは忘れてしまうことだ。
いずれ──全て解決する」
「なんだよ、いきなり出てきて勝手なこと言いやがって。
てめェが出てこなけりゃ助けられたかも知れねェだろうが」
 かなり気分を害しているらしい京一が言葉を荒げても、如月は動じなかった。
静かに首を振り、細面ながらも強い力に満ちた眼光で龍麻達を見渡す。
そこには確かに修羅場を潜った者だけが持てる威があった。
「僕はそうは思わない」
「なんだとッ!」
「助けに行った所で犠牲者が増えるだけだ、とさっきも言った」
 あまりに自信たっぷりに言う如月に、もはや時宜を失したとみた醍醐は、
肩の力を抜き、太い腕を組んだ
「……あんたは、どうしてそんなに落ちついていられるんだ?」
「うん。それに、化け物のコト、奴らって言ったよね。何か知ってるの?」
 鋭い小蒔の指摘に、如月は一瞬緊張を和らげ、何かを言いかける形に口を開いた。
ただ、それもすぐに閉ざし、また事務的な口調に戻る。
龍麻の目には、如月が極力関わりを避けるようにしていると映った。
それが間違いでないことは、続く彼の言葉で解った。
「話してもいいが、君達は決して信じないだろう。
僕は──ただ義務を果たそうとしているだけだ。だからこの一件に他人を巻きこみたくない」
「へッ、こいつと同じコト言いやがる。義務だかなんだか知らねェけどよ、
てめェ一人で解決出来る問題なのかよ。無理して死んじまったらどうしようもねぇだろうが」
 龍麻を顎で示した京一に、如月の視線が向かう。
「緋勇君……君も、そう思うのか?」
「俺は、お前の義務がどんなのかは判らねえ。
だが俺にも目的があって、それは多分、お前の義務と相容れないものじゃないはずだ。
実を言うと俺もあんまりこいつらを巻き込みたくはなかった――けどよ、今じゃ助けてもらってる。
一人じゃ駄目でも、何人かならできることもあるだろ?
だから協力できるのならさせて欲しいし、してもらいたい」
 龍麻の言葉に真実を感じたのか、如月は感銘を受けたように頷いた。
「誰かにそう言われるのは、ずいぶん久しぶりな気がするな。
ありがとう──しかし、この東京を護るのが僕達一族の定めであり、僕の選んだ道だ」
 だが、如月はあくまでも頑なだった。
もっとも龍麻達の『力』のことを知らない彼からすれば、
単にお調子者の高校生が怪事件に首を突っ込もうとしているだけにしか見えないのだろう。
 とにかく、甲高いサイレンの音が聞こえてきたことで、
襲われた人を助けることも、この場で話を続けることも諦めなければならなかった。
「警察が来たか。……僕はこれで失礼するよ。ここであったことは忘れるんだ。
それが、君達にとっても最善の方法だ」
「行っちゃった……」
 足早に立ち去った如月をなんとなく見送っていた小蒔は、
仲間達が向きを変えて逃げ出す準備をしていることに気づかない。
「おい小蒔、俺達もぼーっとしてねぇで、さっさと着替えてズラかるぜ。
事情聴取でもされたらうっとうしいからな」
「えッ、あ、ちょっと!」
 既に何歩かを進み、走り出す寸前の京一に言われ、小蒔は慌てて仲間の後を追うのだった。
 龍麻たちは急いで着替え、プールを後にする。
プールにはまだ人が大勢いたことと、詳しい事情がわからない警察が、
とりあえず少人数を派遣したに留まったという幸運が重なって、
木刀を持った京一や、真夏なのに冬の学生服を着た醍醐も見咎められずに済んだようだった。
 パトカーの音が聞こえなくなった辺りで、ようやく龍麻達は早足を止めた。
そこは計らずも、不気味な会話を交わした、水岐と出会った場所だった。
プールでせっかく流した汗も再び滲み出し、京一は不快そうに額を拭う。
「はぁッ、はぁッ……ッたく、せっかくプールで汗を流したってのに台無しだぜ」
「ねぇ……ボク達、港区じゃまだなんにもしてないのに逃げる必要あったの?」
「これからするかもしれねェだろ。そうなった時に初めてと二回目じゃ警察の態度が全然違うんだよ」
「京一、ヘンなことに詳しいね」
「うるせェな」
 褒めているとはとても思えない小蒔を軽く睨んだ京一は、腕を組んでこの男らしくない、考える表情をした。
「……にしてもだ。プールに化け物、そして人が攫われる……
あの如月って奴も含めて、港区で何が起こってやがるんだ」
 龍麻も指を顎に当て、考え深げに口を開いた。
「如月か……何が起こったのか、知っているような口ぶりだったな。
何か――『力』に関係した事件だったのか?」
 龍麻達の周りで春から続けて起こっている事件は、いずれも『力』と関係したものだった。
今回の事件も断片的な情報しか得ていないものの、
それに関わろうとする如月が『力』を持っている、という可能性を疑うのは当然といえた。
「そうだな……ちっと調べてみるか」
「あぁ……だがどうやって」
 言わずもがなの疑問を呈する醍醐に、京一は軽く口の端を吊り上げた。
軽く人を食ったような表情が、この男には良く似合う。
「一人いんだろ、こういうのにうってつけの奴が」
 解るか、と目で問い掛けた京一に、龍麻は思い当たる人物の名を挙げた。
「アン子か……巻きこみたくはないが」
「そうも言ってらんねェだろ。情報集めに関しちゃ俺達じゃどうにもならねぇ。
それに、放っといても勝手に嗅ぎつけて首突っこんできた挙げ句、
『どうしてもっと早く教えなかったのよッ!!』って言われンのがオチだぜ」
「……」
 確かに京一の言う通りだった。
思案した龍麻は、消極的ながらアン子に調査を頼むことにした。
「桜井、アン子に話しておいてもらえるか」
「うん。んじゃ、帰ったら電話しとくよ。
それにしても京一さ、なんだかんだ言ってアン子のこと評価してるんだね」
 おかしそうに髪を揺らす小蒔に、京一は軽く肩をすくめた。
「けッ。結論は出たんだ、さっさと帰ろうぜ」
 新宿に戻った龍麻たちは駅で解散し、それぞれに帰路についた。
 葵は小蒔と途中まで一緒に歩き、家の近くまで来たところで別れる。
「それじゃあね、葵」
「ええ、またね、小蒔」
 手を振りあって挨拶を済ませ、一人歩きだした。
 騒ぎのせいで充分に髪を乾かす時間がなく、痛みが気になる。
家に帰ったらもう一度シャワーを浴びようと決め、
そこから連鎖的に勉強の予定や他にすることを考えながら、路地を一本入った。
「美里」
 背後から呼びかけられて、葵は跳びあがるほど驚いた。
振り向いた先には数分前に別れたはずの、龍麻がいた。
「緋勇……君……」
 小蒔を護ることにばかり気を取られ、自分自身をおろそかにしていたことを後悔せずにはいられなかった。
悪いことに昼間とあって人通りはなく、見渡せる範囲にいるのは自分たち二人だけだ。
 葵は恐怖に小さく後ずさりする。
そのわずかな隙に、龍麻に手首を掴まれた。
「……っ……!」
 彼女をつけ狙う佐久間猪三にもされたことのない、警察を呼んでも差し支えないほどの非礼だった。
なのに葵は、声を上げるでもなく、誘引されるように彼の眼を見るだけだった。
 手首が――悪意か、それとも不運な偶然か、掴まれているのは右の手首だった――熱い。
締めつけるような強さではなく、振り払おうと思えば払えるだろう。
けれども手首から生じた熱が、心臓へと逆流し、そこから全身へと行き渡っていく。
気温による暑さとは異なる熱が内から身体を灼き、葵を低く喘がせた。
 この真夏の日中にあってもいささかも色を薄めることもなく、
葵を呑みこまんばかりの力で見つめる、黒い瞳。
プールで話したときには感じなかったので、油断してしまったのか。
至近距離で直視されて、葵は目を逸らすこともできなくなっていた。
 恐怖に葵は唾を呑む。
学校で、電車内で、周りの目がありながらも破廉恥な行為に及んだ龍麻だ。
その気になれば、場所など関係なく襲ってくるだろう。
そして今、彼はその気になっていると葵は確信していた。
「何があったんだ」
「……え?」
「さっきの話だよ。何もなかったら『力』で人が操れるかなんて訊かないだろう」
「あ……」
 龍麻が襲ってきたのではなく、葵が途中で打ち切った話を続けようとしているのだと知って、葵は赤面した。
だが同時に、言える話ではなかったから逃げだしたのだから、追及されても困る。
なんとか切り抜けられないかと葵は思案した。
「う、ううん、本当に何もないの。ただ、今まで私達が戦ってきた人達にはそういう人達がいたから、『力』にはどんなことができるのかって気になって、それだけなの」
 龍麻は黙したまま葵を見る。
その瞳は葵の発言の真贋を見極めようとするのではなく、
葵の内心そのものを呑みこもうとしているかのようで、葵は口を開けなくなった。
 その間にも手首は彼の熱を伝え続け、この場を切り抜ける嘘を考えようとするのを妨げ、
自慰を覚えて止められなくなったという、恥ずべき事実を暴露させようとするかのように頭の中で鳴動していた。
「俺は修行――一応、それなりに厳しい修行をして氣を使えるようになった。
だけど、旧校舎で急に氣を使えるようになったお前や京一達は、
もしかしたら上手く制御ができていないのかもしれねえ。
それが、体調の変化となって現れるってことは充分ありえる。
何があったのか教えてくれりゃ、もう少し判断できるんだが」
 龍麻は手首を離し、葵の耳鳴りも治まる。
しかし、葵は無意識に左手で右の手首を掴んでいた。
「言いたくないなら仕方がねえ。だが、今以上に変わったことがもし起きたら、必ず教えろ」
「え、ええ……わかったわ」
 龍麻は踵を返し、帰っていった。
 彼が角を曲がるまで見送った葵は大きく息を吐く。
その呼気は熱く、今夜の予定が一つ加わるかもしれない、と漠然と予感するのだった。

 アン子が血相を変えてC組の教室に飛びこんできたのは、龍麻達がプールに行ってから数日後のことだった。
早朝の、まだ生徒も少なく澄んだ教室内の空気を、かき乱しつつ突入してくる。
「ちょっと聞いてよッ! 手がかりを掴んだのよッ!」
「手がかりって……なんだっけ?」
 きょとんとした顔の小蒔に、アン子は首を絞めんばかりの勢いで詰め寄った。
「さーくーらーいーちゃんッ!! 頼んだのは桜井ちゃんでしょッ! 港区の事件の手がかりよッ!!」
「あ……何か判ったの?」
 朝から元気の良いアン子に、ちょうど教室に入ってきた龍麻もただ事でないものを感じて近づいた。
すでに登校していた葵も合わせて、これで四人揃ったことになる。
「へへッ、皆来たわね。手がかり、聞きたい?」
「もったいぶらないで教えてよ」
 するとアン子は、小蒔に向かって手を差し出した。
その掌には何も乗っていない。
「じゃ、ハイ」
「何、この手」
「決まってんでしょ、情報代よ。いくらトモダチでも無償では教えられないわ」
「情報代ーッ!?」
 声をひっくり返らせる小蒔に、アン子は全く怯むことなく主張した。
「そ。全てはこの、今日発売の真神新聞に載ってるわ。どう? 一部たったの五百円!」
「ごひゃく……!」
 小蒔の声が再び高まる。
五百円と言えば、トッピングも大盛りもできないが、ラーメン一杯なら食べられる値段だ。
情報よりは食べ物にお金をかけたい健全な高校生としては、少し高すぎだ。
「アン子さあ……ボク達からお金を取るつもりなの?」
「取材にだってお金かかるのよ」
「それにしたって……」
 最初に情報をあげたのは自分達なのに、と釈然としない小蒔は口を尖らせる。
 どうする、と仰ぎ見る小蒔に、龍麻はあっさり頷いた。
「わかった、買うよ」
「さッすが、緋勇君は話せるわね! はい、確かに受け取ったわ」
 龍麻が硬貨を出すが早いか、アン子はそれをひったくり、代わりに新聞を手に乗せた。
その素早さは、人間から魂を差し出させる契約を取りつけた悪魔さながらだった。
「緋勇クン……ボクが言うのもなんだけど、止めたほうがいいよ。せめてもう少し値切った方が」
「いいさ。金額に見合った価値はあるんだろう?」
「それはもう、折り紙つきよ」
 ひとつめの契約を済ませた悪魔は、嘆く小蒔に対して更なる商談を迫る。
「はいはい、ごちゃごちゃ言ってないで、桜井ちゃんも買ってくれるのよね?」
「い? いやァ、ボクは緋勇クンに見せてもらおうかな……って」
「なんですってェ」
 人間の悪知恵にしてやられた下級悪魔の形相でアン子はいきり立つ。
 それでも折れてなるものかと抵抗を試みる小蒔は、先ほどから一言も発しない親友が、
実に微妙な表情をしているのに気づいた。
「まさか、葵……買わされてないよね?」
 はしゃぎすぎて怒られた子犬のような表情の葵と、悪戯が見つかった猫のような表情のアン子は、実に対照的だった。
「朝、まだ皆来ていない時にアン子ちゃんに会って……」
 払う気がすっかり失せた小蒔は、大きなため息をついた。
「アン子さあ……あんまりアコギなことしてると友達なくすよ?」
「へへへ……(もう、美里ちゃん来るの早すぎよ)」
「何か言った」
 じろりと睨む小蒔に大げさに手を振ったアン子は、
恐らくこれから学校中で営業活動を開始するつもりだったのだろう、大量に束ねられた新聞を投げだした。
「いいえ、言ってませんッ。あーあ、ほんッとにアンタ達が相手だと商売にならないわ」
「友達相手に商売する方がどうかしてんだよ!」
「あ、京一に醍醐君」
 杏子の背後にはいつの間に登校したのか、京一が立っていた。
その後ろには醍醐もいる。
「そんでなんだよ、俺にも見せろよ」
「はいはい、もう勝手にして」
 結局二人からしか情報料を巻き上げられなかったアン子は、投げやりに全員に配った。
そこには、『港区で多発する連続失踪事件』『水辺の怪異』『水中に潜む者の影』
とセンセーショナルな見出しが踊っている。
それは小蒔が電話で話した情報をもとに、アン子が記事にしたものだ。
龍麻達素早く記事に目を通していくと、その中に見覚えのない事件があった。
「……なんだ、この『青山霊園に怪物』って」
「説明するわ。皆に聞いた港区の事件を追ってみると、いくつか気になる話が出てきたの」
 鞄から愛用の手帳を取り出したアン子は、指を舐めてめくるという古風な仕種をしながら目指すページを探す。
「まず──事件は大きく二つに分けられるわ。
ひとつはアンタ達が教えてくれた、プールでの失踪事件。
もう一回初めから話すとね、二週間くらい前から港区のプールで行方不明になる人が出始めたんだけど、
必ずと言っていいほど、失踪してから数日後、フラフラと彷徨っているのを発見されているのよ」
「発見……って、どこで?」
 アン子は訊ねた小蒔の方を見もしないで続けた。
「それは後で話すわ。で、保護された人なんだけどね、失踪してからの記憶が全くないらしいの」
「ってことは……その時の手がかりとかも」
「ええ、誰一人、本当に何にも覚えていないらしいの。まるで、誰かに洗脳されたように」
 元より、プールで人がいなくなるという異常な事件なので、警察の捜査も難航しているのだという。
足取りを追う事もできず、見つけた行方不明者も記憶がないとくれば、それも当然の話だろう。
 わずかな間をおいたアン子は、龍麻が持っている新聞を顎で示した。
小蒔達は結局、龍麻の持っている新聞に群がっている。
 後で桜井ちゃん達が持っていった分は忘れずに回収して他の人に売りつけなきゃ
──とはおくびにも出さず、昨日徹夜で書いた記事を説明する杏子だった。
「今のが一つ目ね。で、二つ目は、そこに書いてあるように、青山霊園で目撃されている化け物の噂」
「それって、今回の事件とどんな関係があるのさ」
 今度はアン子は無視をせず、会心の表情を小蒔に向けた。
「へへへッ。さっき後回しにした、失踪した人がどこで発見されたか……」
「まさか」
「そう。失踪した人は、その全てが青山霊園の周辺に集中しているの」
「どういうこと……?」
 意外、というよりも唐突すぎる接点に、事態を把握するのは困難だった。
困惑した顔をお互いに向ける龍麻達に、アン子は更に取材の成果を披露する。
「化け物の目撃時間が、失踪者が出始めた頃と一致するのも、この二つの事件の関連を裏づけているわ」
「プールの怪物と青山霊園の怪物は、同じかも知れないってことか」
「そうね、状況から言ってほぼ間違いないわね。青山霊園で目撃した人の話では、
体型は人間に近いけど、魚と蛙を足したような不気味な怪物だったそうよ。
頭部は魚そのもの。大きく飛び出した眼球に、くすんだ灰緑色の光る皮膚。
長い手には水掻き。それが、静まり返った夜の墓地を、ピョンピョン跳ねてるんだって」
 何故かひどく具体的な描写をして、一行に想像する時間を与えたアン子は、
龍麻達の顔がしかめ面に変わるのを、顔の表には出さずに楽しんでいた。
何といっても記者の醍醐味は、真実を探求し、自分の記事で読者を虜にすることなのだ。
豊かな文章力を養うための鍛錬は、いつどんな時でも怠ってはならないのだ。
「この事件が何を意味するのかは判らないけど、
アンタ達の言ってた鬼道衆ってのが関わってる可能性もあるわね」
 鬼道衆、という言葉に一同の顔色が変わる。
それは、望みもしない『力』を与えられた彼らに、明確にたちはだかってきた『敵』であった。
その真の目的は解らないが、いずれ必ず自分達の前に現れるだろう。
それは、龍麻にとって望むことでもあった。
「それはまだ何ともいえん──が、鬼道衆が裏で糸を引いているとすると厄介だな」
「まァ、鬼道衆とはいずれ決着をつけなきゃならねェがな」
 醍醐に向かって拳を打ち合わせた京一は、同意を求めるように龍麻を見る。
それに対して龍麻は、ごく短く答えただけだった。
「──ああ」
 わずか二語の言葉には、教室中を静まりかえらせる力があった。
あるいはそれは、たまたま会話が途切れただけなのかもしれない。
しかし、龍麻の声が届いた京一達は、背筋がぞくりとするのを感じていた。
 この、四月から新たな友として加わった男は、
時折底の見えない亀裂のような、深い情を覗かせることがある。
それは彼らをたまらなく惹きつける反面、そこに潜む闇を感じ、怖れさせもするのだった。
京一は特にその一人であったが、この時はなだめるように軽く彼の二の腕を叩いた。
「お前の気持ちは判ってるつもりだ──けどよ、俺は正直言って楽しみでもある。
あんな奴ら相手なら、思う存分腕を振るえるからな」
 率直過ぎる京一に対し、醍醐は幾分慎重に事件と関わる決心を告げた。
「……俺達は、目の前で見てしまったからな。放っておくと言うわけにもいかんだろう」
「そうだね。如月クンの忠告は無視することになっちゃうけど、ボク達の『力』で人が救えるんなら──」
「そうそう、その如月くんなんだけど」
 小蒔の言葉に、アン子は思い出したように手帳をめくった。
短い日数で頼んだことのみならず、そんな情報にまで食指を伸ばしているアン子に、京一が呆れ混じりに呟いた。
「なんだアン子、そんなんも調べたのか?」
「まぁね。スポンサーなんだから、あたしにも無関係って訳じゃないし。
……でも、なんっか怪しいのよね」
「怪しい?」
「少し調べてみたんだけど、なんかこう……隠された何かがあるような感じなのよね。
今すぐにって訳にはいかないけど、もう少し追ってみるわ」
 確かに、同年代にしては妙に大人びた──悪く言えば、老成している──
如月のことは、龍麻も興味があった。
本人を介さず知りたがる、というのはあまり良いことではないかもしれないが、
龍麻はこの件に関してはアン子の活躍を期待することにした。
「ま、そっちは危険もねぇから大丈夫だろ。んじゃ、俺達はもう一度港区に行ってみるとすっか」
 京一がそう結論づけたところで朝の予鈴が鳴り、アン子は慌てて自分の教室に戻っていき、
龍麻達も席に戻った。



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