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雹の屋敷は九角の屋敷の離れ程度の広さしかなかった。
彼女の寝室と居間、それに客間と食事場という小さめの四つの部屋に、
あとはガンリュウを置いておく土間くらいだ。
もっとも、これでも江戸時代の家としては大きな方だというのを龍麻はもう知っている。
以前京梧に教えてもらったのだが、江戸の町人の家は基本的に長屋と呼ばれる、
現代で言うアパートのようなもので、間取りは一部屋に台所兼土間という、
これも現代風に言うなら1Kという広さがほとんどだった。
客間に通された龍麻は、おとなしく座りつつあちこちを見渡す。
江戸時代だから物であふれているようなことはもちろんなく、
幾つかガンリュウ用の道具と思われるものを見たほかは、
むしろほとんど何もないという方が早い家だった。
なにがしかの会話のきっかけでもあれば、と期待していた龍麻は落胆する。
そこに、やかんと茶を携えたガンリュウに乗った雹が現れた。
「待たせたの。ん? 何じゃ」
「い、いや、なんでもない」
龍麻は慌てて最中の包みを解き、雹に一つ差しだした。
「ふむ、これが最中というものか」
最中の原型は薄味をつけた皮の部分のみを食べるものだったが、
龍麻が買ってきた最中は百三十年後とほぼ同じ形をしている。
中に餡も入っていて、味もおそらくは砂糖が少ないために甘味が薄い程度の違いだった。
龍麻は自分の分を食べつつ雹を観察する。
顔は無表情のままだったが、紅を塗った唇は、予想以上に可愛らしく黄土色のお菓子を食んだ。
それでいて中々に食べるのは早く、龍麻が見惚れている間に丸い形が半分になり、
消えてなくなった。
「ま、こんなものかの。思っていたよりは悪くない、といったところか」
そう言いながら、雹は手を龍麻に向けて伸ばす。
「……?」
「まだあるのじゃろう? 気の利かぬ男じゃな」
「いや、あんまり美味しいって感想じゃなかったから……」
「妾は悪くないと言ったのじゃ。美味しくないなどとは言っておらぬ」
言い争いはせずに、龍麻は雹の手に二個目の最中を乗せた。
わずかに触れた白い掌が、龍麻の記憶を呼び覚ます。
それは百三十年後に握った手とは、異なる温度だった。
しかし、その温度差は龍麻にとって不快ではない。
新しく刻まれた雹の体温と、覚えている雹の温もり。
二人の雹をそれぞれ好きになるのも、悪いことだとは思えなかった。
「どうした、口が止まっておるぞ。そなたはあまり気に入らなかったのかえ?」
「え、あ、いや、気に入ってるよ、美味しいよ」
別の女の事を考えていたとは言えず、龍麻は一気に最中を口に入れる。
くっつきやすい皮は当然口の中に貼りつき、不誠実な男の呼吸を阻害した。
「……!」
「喉に詰まらせたのか、ほれ、茶を飲め」
雹から湯飲みを受けとり、口に流しこむ。
どうにか窒息死はまぬがれたが、しばらくは咳き込む羽目になった。
「案外そそっかしいのじゃな、そなたは」
呆れる雹に龍麻は苦笑いで応える。
それにつられるように、雹も笑いだした。
手の甲を口に当てた、貴族のような笑い方がよく似合っていた。
雹の小さな屋敷に、二人の笑い声はしばらくの間絶えなかった。
「腹の底から笑うたのは久しぶりじゃ」
笑いを収めた雹が、目元を拭いながら言った。
嬉しくてたまらない龍麻は大きく頷く。
けれども、続く雹の言葉は、予想外のものだった。
「感謝……すべきなのじゃろうな。いや、感謝はしておる。
じゃが、妾はどうしても他人を信じることができぬのじゃ。
お主の笑顔の裏にも、何か魂胆があるのではないかと疑うのを止められぬ」
自嘲気味に呟く雹に、龍麻はかける言葉がない。
「じゃから妾にかまうのはもう止めておくれ。そなたの明るさが妾には辛いのじゃ」
「……そんなの、できるわけがない。俺は雹のためならなんでもしてやりたいと思っている。
でも、それは聞けない」
「……」
龍麻は声を荒げて言った。
思わぬ龍麻の強い語調に、雹も勢いを呑まれている。
「俺は雹に気に入られたいって他に魂胆はない。
だけどそれをいきなり信じてもらえるとは思ってない。だから、もう少し様子を見てくれないか」
「様子を見ても、妾の心は変わらぬかも知れぬと言っておるのじゃ」
「なら、変わるまで待つ。俺には百三十年、時間があるんだから」
詭弁にすらなっていない龍麻の屁理屈は、だが、雹の心をわずかにではあるが揺さぶったようだ。
さらに何か言おうとした紅い口は開いたまま止まり、空しく閉じた。
黒い髪を顔が隠れるまで垂らしてうつむいたのは、怒りのせいか、
それとも他の感情の故か、龍麻には判らない。
だが、顔を上げた雹には氷の雰囲気がまとわりついていた。
「今日は馳走になった。いずれ礼は致すゆえ、今日はもう引き取りを願おう」
「なっ、何だよ急に」
「帰らないというのなら、ガンリュウに摘みださせるぞ」
彼女の豹変に全く心当たりがない龍麻は、せめて理由を問おうとする。
けれども一秒ごとに冷たくなっていく雹の態度に、龍麻は返す言葉もなく退去するしかなかった。
半刻後、九角の屋敷で彼と酒を呑み交わす龍麻の姿があった。
雹の屋敷から戻ってきた龍麻を見かけた九角が、
澳継と出かけたはずの龍麻がいるのを怪しんだのは当然として、
魂が抜けたような定まらぬ足取りに驚いたのだ。
事情を聞いてみるとやはり心ここにあらずといった態で、
それでも雹の屋敷に行ったことをぽつりぽつりと話す。
そこで何かがあったのは想像に難くなく、共に屋敷にいた桔梗も呼んで、
三人で昼間から呑むことにしたのだ。
「昼間から酒を呑むというのは止められない愉しみでな。
暗愚な長と見られたくはないから、憚りながらでないと呑めぬのが面倒だが」
「本当ですよ、天戒様。坊や辺りに見られたら、きっと騒がれます」
そう言いながらも桔梗は九角の盃が空いたと見るや妖美な仕種で酒を注ぐ。
彼女が坊や、と呼ぶのは澳継のことで、確かにこのような席には似つかわしくなさそうだ。
だが龍麻は僚友を慮る余裕もなく、一気に盃を傾けると、無言で桔梗に空の酒器を差しだした。
「で、何があったのだ」
九角の問いに、龍麻は今日の朝の出来事を話した。
龍麻よりも年長である二人は、彼が傷心である理由を知ると期せずして顔を見合わせた。
雹が他人を家に招いたのが、信じられなかったのだ。
彼女が心を閉ざした理由を、九角と桔梗は知っている。
ゆえに復讐を遂げても他人に心を開くとは思っていなかった。
それが復讐すら遂げていないのに男と語り合うなど、驚く他はなかった。
「でも、どうしてあの子は急に冷たくなったんだろうねぇ」
「確かに……何故だろうな。緋勇、まさかお前、性急に迫ったのではなかろうな」
唯一龍麻の事情も雹の事情も知っている九角の問いに、
龍麻は千切れそうなほどに激しく首を振った。
あれでは酔いが回る、と九角は内心で危惧する。
「そんなことするわけがない。俺は雹の心が俺の方を向くまで、
百三十年でも待てるって言ったんだ。そしたら急に雹が黙って」
盃を呷った龍麻は、すぐに次の一杯を要求する。
ためらいつつも注ごうとした桔梗を、九角が止めた。
「緋勇。女の機微は、俺には判らぬ。だが、お前は一度冷たくされたからといって
諦めてしまうような男なのか?」
「そんなわけないだろうッ! でも、どうしたらいいかわからないんだよ」
「少し間を置いた方がいいだろうね。色恋ってのは燃えやすいけど、
冷ましながらの方が長く続くもんだからね」
桔梗の言には一理あるように男二人には思われた。
九角は感心して、龍麻はすがるような目で桔梗を見る。
「まァ、あの子の懐に潜りこんだだけでもまずは上出来って見るべきだろうね。
この村に来てからこっち、あの子が天戒様以外の男と話しているところなんて
ついぞ見たこともなかったんだから」
「だったら、いいんだけど」
龍麻は吐息と酒精を同時に大きく吐きだした。
励ましとけしかけを担当する桔梗も、内心でため息をついている。
もう少しけしかけ甲斐があると思っていたのだが、
この未来から来たという男は酒に呑まれる性なのかもしれない。
あまり煽るとどんどん沈んでしまうかもしれず、ほどほどにしておいた方が良さそうだった。
「とにかく、酒を呑んだら一晩寝て、きれいさっぱり忘れちまうことだね
あの子のことを考えるのは、目が覚めるまで一旦止めるんだよ」
龍麻は頷き、頷きつつ前のめりになり、そのまま倒れた。
ほどなく健やかな寝息が漂ってきて、九角と桔梗は揃って苦笑した。
「一晩どころかまだ日が中天にも達しておらぬのにな」
「天戒様の目の前で寝るなんて、とんだ不心得者だこと」
文句を言いながらも、桔梗は龍麻のために布団を敷いてやり、
かなり乱暴にではあったが龍麻を布団に押しこんだ。
「だが、中々に愉快な話だった」
「あら、天戒様も色恋に興味がおありですか?」
明らかな冗談と判る口調の、桔梗の瞳が一瞬に満たない間だけ真摯な輝きを宿す。
それに気づいてか否か、九角は目を閉じて答えた。
「俺とて木石ではないからな。とはいえ今は村のことを一番に考えねばならぬ立場だ」
「承知しております」
深く頭を垂れた桔梗は、九角の傍らに座った。
徳利を持ち、九角の盃に傾ける。
しかし、九角は応じなかった。
「あら、今日はもうお終いにします?」
「いや、河岸を変えよう。男の寝姿を見ながら呑んでも美味くはなかろうし、
いびきでも聞こえてきたらなおのこと興が削がれるからな」
九角が立ちあがり、桔梗がそれに続く。
彼らが出て行ったあと、九角の正しさを証明するかのように、
部屋には品の良くないいびきが聞こえはじめた。
傾きかけた太陽が、一気に空を茜色へと染める頃。
江戸時代の言い方だと暮七つ半を過ぎた、もうじき誰彼時とも呼ばれる時間に、
鬼哭村を歩く人影があった。
灯りがないと足下もおぼつかないような暗さであるが、
影で女性と判るその人物は、何も持たずに平気で村道を歩いていく。
それほど大きくもない村のはずれにある一軒の屋敷に着いたところで、女性は声を発した。
「雹、居るんだろ? 入らせてもらうよ」
女性は桔梗だった。
九角の酒につきあった後、彼女は要らぬおせっかいを焼きに来たのだ。
返事がない家の中に上がりこんだ桔梗は、客間でガンリュウに乗ったまま、
ぼんやりとあらぬ方を見つめている雹を見つける。
何者をも寄せつけがたい雰囲気を放っていた彼女は、桔梗が近づいても反応すら示さず、
彼女が作ったからくり人形なのではないかと錯覚したほどだった。
「ちょいと、しっかりしなよ」
桔梗は雹の身体を揺さぶる。
ようやく我に返った雹は、それでも目の焦点の定まらぬ様子で桔梗を眺めた。
「……桔梗か。何用じゃ」
「そんな呆けちまうくらいなら、どうして緋勇を袖にしたんだい。
ああ、あの子が言いふらしたんじゃないよ。
なんだか今のあんたみたいに死にそうな顔をしてたからさ、天戒様が訳をお聞きになったのさ」
桔梗は前置きを省き、いきなり核心を衝いた。
いわば劇薬だが、雹の態度を見ればこれくらいやらねばと考えたのだ。
果たして効果はあり、雹は細い眼を大きく見開いたかと思うと、悄然とうなだれた。
「袖になどしておらぬ」
「じゃあ、どうして急によそよそしくしたんだい」
「……妾にあるのは醜い復讐心だけじゃ。そしていずれはこの足が必ずかれの邪魔となるじゃろう。
下手に気など持たせては、後で辛くなるだけじゃ」
桔梗はため息をつかずにいられなかった。
「ねえ、雹。あの子はそんなことは百も承知であんたに言い寄っているんだよ。
そりゃあちょっと変わり者かもしれないけれど、あんたを想う気持ちに嘘偽りはない。
それはあんただって良く判っているんじゃないのかい」
「……じゃが……」
「ゆっくり考えてみるんだね」
最後は噛んで含めるように言い、桔梗は屋敷を後にした。
「ふう、慣れないことをすると肩が凝るもんだねぇ」
すっかり暗くなった夜道を往きつつ、ひとりごちる。
しかし彼女の口元は、夜目には判別できないくらいかすかに綻んでいた。
翌朝、子供達に勉強を教えた龍麻は、雹の家に寄ることなく内藤新宿に赴くつもりだった。
少し間を置いた方がいい、という桔梗の言に従った方がいいと思ったからだ。
ところが、遊ぼうとまとわりついてくる子供達をいなしているうちに、
前方に巨大な人影が見えた。
二メートルを優に越えるだろう人影は、ガンリュウのものだ。
鬼哭村のはずれに住んでいる雹が、広場から見える位置まで出てくることは珍しく、
龍麻は居ても立ってもいられずに駆けだした。
「おはよう、雹」
「う、うむ、こんにちは日和も良いようじゃな」
ガンリュウにしがみついている雹の目は、どこか泳いでいるようにも見えた。
だが、龍麻がそれに気づく余裕はない。
ああ、とかうう、とか気色の悪いうめき声を発した挙げ句、
ようやく出てきた意味のある言葉は普段より一オクターブほど高かった。
「今日はどうしたんだ?」
「それじゃ、その、昨日の礼をしようと思ってな。
無論無理にとは言わぬ、そなたが良ければ、じゃが」
良いも悪いもない、龍麻が賛意をどう伝えたものか迷っていると。
「わあ、雹様だ!」
「雹様、おはようございます!」
「ガンリュウも、おはようございます!」
龍麻の後を追ってきた子供達が、一斉に雹とガンリュウを取り囲んだ。
ガンリュウをこんなに間近で見るのは初めてらしく、
龍麻もそっちのけで雹に話しかけていた。
「雹様、僕もガンリュウに乗りたいです!」
「わたしも!」
「こ、これ、危ない、危ないと言うに」
群がる子供達に雹はすっかり狼狽している。
その隙に一計を案じた龍麻が声を張り上げた。
「こら、一人ずつ順番だぞ。ちゃんと並ぶんだ」
「はあい」
「こ、これ、勝手なことを申すでない……あッ……!」
ガンリュウの腕から、龍麻は雹を抱きあげる。
快い重みが両腕にかかった。
「やッ、止めぬか狼藉者、下ろすのじゃッ!」
「これなら子供達を乗せられるだろ?」
「くッ……! 覚えておれよ、許さぬからな」
屹と龍麻を睨んだ雹は、顔をそむけてガンリュウを操りはじめた。
「わあ!」
「凄い、高あい!」
ガンリュウの肩の高さまで昇った子供達は感激もあらわに雹に頭を下げる。
「雹様ありがとう!」
「う、うむ、喜んでもらえて妾も嬉しいぞえ」
一人一人に律儀に答える雹に、龍麻は微笑を隠せない。
すると、腕の動きでそれを察知したのか、雹が振り向いてまた睨んだ。
「何がおかしいのじゃ」
「別に、おかしくはない」
「嘘じゃ、笑っておったじゃろう」
「ほら、次の子が待ってる」
「くッ……!」
顔を朱に染めて、雹はまたガンリュウを操る。
そこに、龍麻を呼びに来た澳継が現れた。
「おい龍麻、昨日はよくも俺一人に仕事させやが……」
喧嘩腰だった澳継の声がぴたりと止まる。
ガンリュウと雹と龍麻の位置関係は、彼の理解を大きく超えていた。
「な……何やってんだ、お前ら」
「こ、これはじゃな」
「澳継」
雹を制して龍麻が言った。
「な、なんだよ」
「俺はこの通り、両手が塞がっている。だから今日も行けない」
「な、な、な……!」
「この埋め合わせは必ずする。氣の使い方も教えてやる。だから頼む、澳継」
雹を抱いた龍麻を、澳継は正視できなかった。
照れずに女を抱く男は、彼にとってあまりに刺激が強かった。
「ぐッ……あ、明日は絶対に行かせるからなッ――!」
捨て台詞を吐いて澳継は走り去っていった。
その後ろ姿に深い感謝をこめて頭を下げた龍麻は、上げた時にはもう同僚のことを忘れ去り、
上半身が感じる柔らかな重みを一瞬たりとも逃すまいと集中した。
「も、もう良いじゃろう、腕が疲れてしもうた」
「今日はお終いだって。また今度な」
「さようなら雹様!」
屈託のない笑顔で子供達が去っていく。
彼らに雹がぎこちなく手を振り、龍麻の至福の時間は終わりを告げた。
「早う下ろさぬか」
「俺の腕はまだ疲れてないけど」
漆黒の瞳に殺意が宿ったので、龍麻は雹をガンリュウの腕に還した。
わざとらしく裾を払った雹は、目を細めて言った。
「気が変わった。今日は気分が優れぬゆえ、妾は帰らせてもらう」
冷たい声は、しかし温度が下がりきっていない。
そう感じた龍麻は、思いきって踏みこんだ。
「それなら、明日……は駄目だな、いいかげん澳継に殺されそうだ。
そうすると明後日……明明後日ならいいかな」
「そんな先のことまで知らぬ」
「じゃあ、朝訊くよ」
雹の眉間に深い皺が寄る。
氷柱を吐きだそうとして開きかけた口は、結局何を撃ちだすこともなく閉じられた。
「阿漕者め」
彼女がそう呟いたのは、ガンリュウに向きを変えさせて歩きはじめてからだった。
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