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龍麻が目を開けると、そこに尚雲はおらず、握り飯が置いてあるだけだった。
彼がいてどうなるものでもないが、やはり自分よりも我慢が短い僧に極小の失望を抱きつつ、
龍麻は腹に抱える摩尼を見た。
摩尼にわずかに色合いを強めただけで、重さも大きさも変化はない。
だがこの宝珠の存在を感じることで龍麻は我に返ったのだから、
しっかりと氣が注入されているはずだった。
龍麻は摩尼を置き、握り飯に手を伸ばす。
はじめはそれほど空腹だと思っていなかったが、一つ目を半分ほど囓ると猛烈に腹が減ってきた。
今は何時頃なのだろうかと龍麻は一抹の不安を覚え、
傍に尚雲がいないことに一層の腹立たしさを覚える。
大方座り続けるだけなのに飽きて、武器の修練でもしているのだろうが、
それにしても傍ですればいいものを。
腹立ち紛れに握り飯を食べ終えた龍麻は、固まった手足に難儀しつつ立ちあがった。
次の摩尼は用意されておらず、一度竜泉寺に戻らなければならないようだ。
雑事を受け持つはずの尚雲を口の中で罵りながら、
まだしっくり来ない足を動かして洞穴の出口へと向かった。
出口近くまで来たところで、向こうから人の気配がする。
正体は紛れもなく尚雲で、彼は龍麻に気がつくと気さくに声をかけてきた。
「おう、終わったのか」
「次の摩尼は用意してくれたのか」
嫌みな口調で問う龍麻にも、尚雲の態度が崩れることはない。
「ああ、円空殿が先ほど、残る四つを持ってきてくださった」
「それじゃ、すぐに始めよう」
もう少し不満をぶつけたいところだったが、今は摩尼の方が大事だ。
龍麻は怒りを抑え、洞穴内に取って返そうとした。
「待つんだ、君は少し休んだ方がいい」
「そんな暇はない」
今更何を言っているのか。
怒りに変わる寸前の苛立ちが、語調に滲む。
しかし、尚雲もまた、常にない強い口調で龍麻を制した。
「君が洞穴に入ってから、どれくらい時間が過ぎているか知っているか」
「知るわけないだろう、ずっと陽も射さないところにいたんだから」
答えながらも龍麻の胸中に不安が広がる。
灰色の厚い雲の形をしたそれは、尚雲の表情で一気に暗さを増した。
「君が洞穴に入ってから二日目の、もうじき昼八つになろうという頃だ」
江戸時代の時間の数え方に、龍麻はもう馴染んでいたが、
それでもとっさには計算できず、変換に数秒を要する。
ようやく出てきたもう正午を過ぎているという答えは、
自分の計算が間違っているのかと叫ばせるのに充分な誤差だった。
「なっ……! そんなわけないだろ、それじゃ全然間に合わないじゃないかッ!」
期限は五日で氣を込める摩尼も五個。
一日一個でも摩尼を所定の寺に収める時間を考えるとぎりぎりだと思われたのに、
一つ込めるのに不眠不休で一日半かかっていては間に合うはずがなかった。
「もっと早く言ってくれよ、そうしたら急いだのに」
「気を散らせては良くないと思った」
「それにしたって間に合わなかったら意味がないだろうッ!」
疲労と、これまでしてきたことが無駄になるかもしれないという焦りが龍麻を無用に怒らせる。
暴風にも似た怒りを軽やかに受け流した尚雲は、さらに龍麻の怒りを注ぐことを言った。
「いずれにしても一度竜泉寺に戻って休むべきだ。君の顔色はひどく悪い」
「だからそんな暇なんてないって……!」
龍麻の怒声が急にしぼんでいく。
そして洞窟内に響いた声が消え去るより早く、龍麻の身体は地面へと崩れ落ちていた。
「しっかりしろ、緋勇……!」
駆け寄り、抱きおこす尚雲の声も、もはや龍麻には届いていなかった。
倒れるときもしっかり抱えたままの摩尼だけが、淡い光を放ち続けていた。
龍麻が目覚めたのは、陽が沈む直前だった。
竜泉寺の庫裏に運ばれていた龍麻は、人工の天井に戸惑ったものの、
状況を理解すると跳ね起きた。
辺りには誰もおらず、焦慮にけしかけられるままに本堂に走る。
「おう、目覚めたか」
堂内には尚雲がいた。
血相を変えた龍麻と対照的に、悠然と手をあげる。
「残りの摩尼はどこだッ!」
怒る労さえ惜しみ、龍麻は龍穴に急ごうとした。
「ここにある」
やはり緊張感の欠片も感じられない尚雲に、たまりかねて殴りかかろうとした龍麻は、
ここで初めて尚雲の隣に座っている男に気がついた。
「澳継……なんでここに?」
「なんでじゃねェッ、下手打ちやがって手前ェ、御屋形様の命令じゃなけりゃ
誰が龍閃組なんぞの手伝いなんかするかってんだ」
全く事情が飲みこめない龍麻に尚雲が説明する。
「今朝の時点で間に合いそうになかったからな。
澳継ならば氣も扱えるし、手助けになると思って呼びに行った」
「それは……助かる。ありがとう」
何もしていないどころか、尚雲は先を見越して動いてくれていたのだ。
龍麻は彼を疑ったことを恥じ、判断力に感服した。
そして、澳継にも深く頭を下げる。
「頼む澳継、このままだと龍閃組どころか江戸の街がやばいんだ。力を貸してくれ」
「くそッ、忘れんじゃねェぞ、一つ貸しだからな」
正座して礼をする龍麻に対して勝ち誇るのはさすがに大人げないと思ったのか、
澳継は彼にしては歯切れの悪い返事を寄越すと、勢いよく立ちあがった。
「さっさと始めようぜ、時間がねェんだろ」
「ああ」
龍麻が立ちあがると、尚雲も続く。
宿敵龍閃組の本拠地に乗りこんだ三人は、彼らに一切の損害を与えずに素通りすること
となったが、不思議なことに、誰もそれを残念だとは思わなかった。
三人の中ではもっとも龍閃組を憎んでいるはずの澳継も、
堂内に安置された百合の石像を見て、彼らしくもない義憤に駆られたようで、
それも摩尼に氣を込める作業を手伝わせる要因となったのかもしれない。
迫る闇の中を三人は龍穴へ急いだ。
まず龍麻が座り、次に澳継が座る。
最後に尚雲も腰を下ろした。
彼はまた雑事をこなしてくれると思っていた龍麻は意外に思うが、
この名前の通りとらえどころのない雲のようで、そのくせ極めて有能な男は
二人と同じく結跏趺坐を組んだ。
悪ふざけにしては度が過ぎているし、昨日も最初、
正面で結跏趺坐をしていたのを思いだした龍麻は、気になって訊ねた。
「まさか尚雲も氣を注入できるのか?」
「できるとも言えるし、できないとも言える」
煙に巻くつもりなのかと疑う龍麻に、尚雲は種明かしをした。
「龍蔵院流奥義に胤影というのがあってな。相手の技を写し、我が物とする秘技だ」
「……そんな便利な技、無敵じゃないのか?」
「そうでもないさ。かなりの集中力を要するから一度に一つしか写せないし、
たとえば、こうして氣の注入を写したからといって
君のように自在に氣を使いこなせるわけではない。
それに、いくら写すといっても鏡のように写すわけではないからな、
どうしても元の技より威力は落ちる」
だとしても、そんな都合の良い技が本当にあるのだろうか。
疑問に思いながらも、猫の手でも借りたい状況だから、
龍麻はこの際文句は言わずに手伝ってもらうことにした。
三人はそれぞれ氣の注入を始めた。
心を落ちつかせ、練った氣を体内に巡らせて、掌から摩尼に注ぐ。
尚雲が本当に氣の注入をできているのか、龍麻は気になったが、
目を開けたいという誘惑を払いのけて己の務めを果たした。
ひとたび瞑想状態に入れば、空腹も睡眠も必要としなくなる。
もちろん欲求がなくなるだけで必要はあるから、
適切なところで中断して休息を取らなければそのまま死んでしまう。
最初の摩尼に氣を注ぐとき、もっと早く完了できると思っていた龍麻は
一日半も経っていたことに驚いたが、もしもっと時間がかかっていたら、
倒れるだけでは済まなかったかもしれないのだ。
今回はおそらく龍麻が一番最初に終わるだろうから、澳継と尚雲の様子も見る必要がある。
さまざまな思いが泡ぶくのように浮き、そして消え、それらが完全に消えたとき、
龍麻の意識は完全に外界と切り離されていた。
龍麻達が龍穴内で奮闘している頃、京梧と醍醐は小岩に居た。
この辺りにあるはずの、鬼道門を探すためだ。
この頃の小岩は関所が設けられているように江戸の端にあたる。
大部分が農地だが、江戸川を用いて物資の運搬が行われていたため、賑わいはかなりなもので、
着流しの京梧と僧衣の醍醐が歩いてもそれほど目立ちはしなかった。
二人は道を往きつつ、さりげなく視線を外に向けている。
彼らが小岩に来た目的は、人混みの中にはないからだ。
人の頭を用いて行う邪法など、このような人気の多い場所で行えるはずがない。
手始めにここから探し始めたが、京梧も醍醐もそう都合良く事が運ぶとは思っていなかった。
人の少ない方へと歩いていく京梧が、彼の方を見ないまま醍醐に話しかけた。
「お前はどう思うよ」
「何がだ」
「鬼道衆だよ。緋勇の野郎はともかくよ、あの坊主」
「尚雲殿か」
「おう。あいつを信じていいのかよ。背中からばっさりなんて洒落にもならねェぜ」
「ふむ……」
醍醐は思慮深げに腕を組んだ。
同じ僧職ということで信じてはいるが、確かに九桐尚雲は鬼道衆の一員であり、
京梧などは直接刃を交えたこともある仇敵といってよい存在だ。
僧でありながら己の肉体と精神を研ぎ澄ます修行に明け暮れ、
人を看る目は師に遠く及ばない醍醐は、十五歩ほど進んでから答えた。
「確かに彼は鬼道衆の一員ではあるが、緋勇が居なければ時諏佐先生をお救いできない」
「そりゃあそうだがよ、その緋勇にしたって女の尻を追いかけて寝返った野郎だし、
お前だって奴にゃやられてんだろ? 腹は立ってねェのか?」
京梧の言に醍醐は顔をしかめた。
醍醐は僧侶であるから過分な欲は捨て去るべきと考えている。
ゆえに女を追いかけて寝返ったという龍麻の態度は好ましくなかった。
一方で、龍麻と闘って負けた事実にはそれほど執着していない。
これは理由はともかく闘いを自分から仕掛けたという僧にあるまじき反省点と、
久しくなかった全力を出せた闘いに対する満足感という、
これもやはり僧としては褒められたものではない感想が、やや醍醐を自省的にしていたのだ。
「……いずれにしても、生首を用いて行うような悪しき儀式を放っておくわけにはいかぬし、
そんな儀式で呼びだされるような邪妖を許すわけにもいかぬ」
「ひとまず鬼道衆のことは置けってことか」
「納得がいかないか」
「まあ、俺は強い奴と闘れりゃなんでもいいけどよ」
晩秋の風に劣らぬ冷たさで、京梧は言い放った。
もし龍麻と尚雲が掌を返すようなことがあれば、まとめて叩き斬るだけのことだと決めている。
京梧があえて疑いを口にしたのは、むしろ醍醐に、
万が一龍麻が裏切った時に迷わないよう促したのだ。
京梧の真意は薄々汲みとったようで、醍醐は組んでいた太い腕を解いて大きく息を吐いた。
「緋勇も尚雲殿も中々に腕が立つ。敵とするのはできれば避けたいところだな」
「そうだな、生首野郎だけでもかなり手強いしな」
醍醐ではないが、京梧はあの敵に二度出し抜かれている。
そして僧ではない京梧の執着は凄まじいものがあった。
――あの野郎は必ず叩ッ斬る。
背中を向け、醍醐には見せない顔に修羅を浮かばせ、剣士は己の魂を強く握りしめた。
賑わいを離れた二人は、藪の中に入っていく。
「で、どうやって鬼道門とやらを探すんだよ」
「うむ」
醍醐は直接答えず、両手を複雑な形に組み合わせ、短く何事か唱えた。
だが、京梧の見る限り、醍醐に変化はない。
「何をしやがった」
「邪妖の気配を感じとるための真言を唱えたのだ」
「で、感じとれたのかよ」
「まだこれからだ」
お前が口を挟むから話が進まないのだ、と醍醐は表情で暗に言ったのだが、
京梧には全く通用していない。
「よし、さっさとやれよ」
敬意というものを全く払わない男に、僧にあるまじき感情を抱きかけた醍醐は、
大きく頭を振って邪念を追い払ってから意識を集中させた。
二つ目の摩尼に氣の注入を終えた龍麻は、周りを見渡した。
尚雲と澳継はまだ終わっていないらしく、結跏趺坐のままだ。
はじめは彼らが終わるまで待つつもりだった龍麻は、すぐに五つ目の、
つまり最後の摩尼に取りかかるよう方針を変えた。
計算の上では五日目の中程で龍麻が受け持つ三個分は終わることになるが、
それぞれの寺に届ける時間を考えるとそれでも間に合わない可能性があり、
少しでも早く済ませた方が良いと考えたのだ。
食事も取っておらず、体力的な心配もある。
それでも、龍麻は摩尼を手に乗せ、再び結跏趺坐を組んだ。
体内で練った氣を摩尼に注ぎ、消耗した分は龍穴に満ちる氣で補う。
それでも吸収よりも放出する量の方が多く、龍麻の生命力は、
龍穴を使わない時よりは緩慢であるものの、確実に削がれていた。
無心であるゆえに消耗にも気づかないが、
もし気づいたとしても龍麻は他の方途を選ぶつもりはなかっただろう。
それどころか、もっと激しく氣を注ぐ手段があるならば、
危険があってもきっとそちらを用いたに違いない――それが、緋勇龍麻という男だった。
何十時間かが過ぎ、最後の摩尼に氣が満たされる。
龍麻が目を開けると、尚雲と澳継がいた。
「終わったようだな。疲れているところをすまないが、もう一踏ん張りしてくれ」
「ああ」
心配されるほど疲れてはいないつもりだったが、
五日間ほとんど休まずに氣を注いでいたのだから、無事であるはずがない。
立ちあがろうとしただけで、龍麻はよろめいてしまった。
「おい、しっかりしろッ! ここまで来てへばッてんじゃねェッ!」
澳継の容赦のなさよりも、甲高い声の方が堪えて龍麻は苦笑する。
すると、澳継がかなり乱暴にではあったが、肩を貸してくれた。
「おら、しっかり歩けッてんだ」
摩尼は尚雲が持ってくれ、龍麻は急速に襲いかかってくる眠気と闘いながら竜泉寺へと戻った。
「おう、間に合ったようじゃの」
竜泉寺に戻った三人は、円空に迎えられた。
疲労困憊の三人に対して、老僧は落ち着き払っている。
危機感のない態度に苛立った龍麻は、礼儀も忘れて吐き捨てるように言った。
「すぐに摩尼を持っていかないと」
「うむ、その件じゃが」
続けようとした円空を、別の声が遮った。
「ようやく俺様の出番って訳だな。待ちくたびれたぜ」
聞いたことのない声に驚いて振り向くと、年頃は同じに見える男が一人立っていた。
初対面であるはずなのに、なれなれしく近づいて手を差しだす。
意図が分からずに龍麻が男を見ると、彼は大げさに肩をすくめた。
「やれやれ、これは握手と言って西洋の挨拶なんだがな」
訳が分からぬままの龍麻に、男は口の端を吊上げた。
どうやら気障に決めているつもりらしいが、
ぎこちないので顔を引きつらせているようにしか見えない。
「久しぶりにお呼びがかかったと思えば単なる配達の仕事かとがっくりきたもんだが、
どうやら大事なものらしいな」
「あ、ああ」
未だ事情が飲みこめない龍麻が気圧されていると、
男は胸を張って大見得を切って見せた。
「運んで欲しい物がある。届けて欲しい気持ちがある。
この世に道がある限り、野越え山越え走ってみせるぜ届けるぜ。
どんな荷物も、あ、人呼んで江戸の黒い稲妻、この十郎太様がなァッ!!」
「よ、よろしく」
時空を超えたのを筆頭に、さまざまな驚事に遭遇してきた龍麻は、
大抵のことには驚かなくなっていたが、この剣幕には圧倒されておとなしく首を振るほかなかった。
「よし、運ぶ物を渡してくんな」
言われるままに摩尼を渡しつつも、龍麻は訊ねずにいられなかった。
「一人で五つ全部回るのか?」
「あたり前だろ」
五カ所の寺を回るのは、電車を使ってもそれなりに時間がかかると思われる。
江戸時代の人間が現代人より健脚とはいっても、遅刻は許されない配達なのだから、
複数人であたるべきではないか。
そんな龍麻の危惧など意にも介さず、十郎太は摩尼をまとめて風呂敷に包み、状箱に入れた。
「それじゃ、行ってくるぜッ」
遊びに行くような軽やかさで出て行った十郎太を、
龍麻は毒気を抜かれた態で見送るほかなかった。
彼の後ろから円空が説明する。
「十郎太も龍閃組の一員での。足の速さを見込んで登用したと百合が言っておったから、
摩尼に関しては大丈夫じゃろう。それよりもお主、不休で務めを果たしてくれたそうじゃが、
月が満ちるまでにはまだ時間がある。少しでも休んだが良いじゃろう」
円空に言われて龍麻は疲労を思いだした。
一度意識すると空腹と眠気とで一気に限界が訪れる。
円空に返事も出来ぬまま堂内で、再び龍麻は倒れたのだった。
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