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 頭上遙かから打ちおろされる拳を、後方に跳んで避ける。
足が着くや着かないかのうちに、跳躍した勢いを利用して、鬼の懐に潜りこんだ澳継は、
頭の高さにあるわき腹に、速度の乗った蹴りを命中させた。
 ここで拳をたたきつけられた地面が砕け、礫が飛び散る。
だが、鬼はしたたかに打ちつけた拳にも、身体に当たった礫にも、
そして澳継の蹴りにも痛がる素振りさえ見せなかった。
「畜生ッ……!」
 吐き捨てつつ澳継は再び跳躍する。
燕を思わせる軽快な動きは、鬼の攻撃を躱しつづけて速度が衰えることもなかったが、
澳継の方からも鬼に有効打を与えられないでいた。
このままでは埒があかないと苛立った澳継は、近くにいる味方を見た。
他に適当な相手がいないとはいえ、こんな奴と組まなければならないのは腹立たしいにも程がある。
「おい手前ェッ、何してやがる! 俺にばっかり戦わせるんじゃねェッ!」
 澳継に怒鳴られた龍麻は、怒鳴りかえすでも加勢するでもなく、
鬼の攻撃の届かぬ位置でじっと立っている。
鬼ではなく龍麻を蹴りたくなる澳継だが、激しい鬼の攻撃をかいくぐる中でそんな余裕もなく、
二者に対しての怒りが募っていくばかりだった。
「くそッ、この役立たずッ!」
 横薙ぎに振るわれた腕を回避して叫ぶ。
そうやって叫びながらも巨腕にかすらせもしない技量は尋常なものではなかった。
 鬼にも苛立ちという感情があるのか、まとわりついて離れない澳継に咆吼を放つ。
その程度で動揺する澳継ではないが、唸りを生じた空気に、一瞬次の跳躍が遅れた。
 猛る鬼が拳を繰りだす。
それまでの右腕ではなく、左腕から放たれた一撃に、一瞬反応が遅れる。
合わせて、二瞬。
たったそれだけの隙でも、拳が澳継を捉えるのには充分な時間だった。
「やべェッ……!」
 澳継の背を寒気が駆け下りる。
澳継が初めて抱いた、それは死の予感だった。
全ての感覚がゆっくりになり、思考だけが加速する。
 こんなところで、どうして死ななければならないのかという考えは浮かばなかった。
九角の命令に従って戦い、殺す。
澳継の基準はそれだけであり、命令が下る前になら不平を言うことがあっても、
一旦下された命令に逆らうことなど考えもしなかった。
ゆえに今回の富士山行も、龍閃組という敵と手を組むことには大いに不満があったが、
九角が同行せよと命じた以上、澳継は従うのみだった。
鬼という強大な敵と戦わされたことにも不満はない。
ただ、最後に浮かんだのは、自分一人に戦いを任せて高みの見物をしていた龍麻への怒りだった。
あの野郎さえ働いてりゃァ……!
鬼を挟んで向こう側にいるはずの男を、澳継は睨みつけようとした。
 目の前が金色に染まる。
鬼の身体を縁取るように生じたまばゆい輝きは、すぐに辺り一杯へと広がり、澳継の視界を満たした。
たまらず目を細め、それでも足らずに腕でひさしを作る。
その直後、すさまじい轟音が響き、澳継は慌てて飛び退いた。
「なッ、なんだッ、何がどうなってやがる」
 呆然と澳継は光の源を眺めた。
金色の光はすでにほとんど消えかかっており、一点のみが薄暗く光っているだけだ。
光と呼ぶにはもはや暗すぎる灯りは、人の形をしていた。
今は大地に倒れ、絶命したと一目でわかる鬼の大きさではなく、澳継よりも多少大きい程度だ。
そこにいる人間は一人しかいないはずで、澳継は驚きを隠せないまま訊ねた。
「緋勇……手前ェなのか?」
 龍麻は何か言ったようだが、澳継には聞こえない。
澳継が聞き返そうとすると、金色の光が完全に消え、残像が膝をついた。
「お、おいッ」
 澳継は駆け寄り、肩を揺する。
そこにいたのは確かに鬼哭村の居候である、こしゃくにも澳継と同じ技を用いる緋勇龍麻だった。
 龍麻はまだ息を切らせていて、声も出せないようだ。
状況からして龍麻が鬼を倒したのは間違いない。
しかし、鬼を一撃で倒すような技は、少なくとも澳継は習っていない。
渦を巻く疑問や苛立ちや好奇心に焦れつつ、龍麻の回復を待った。
 六十回近くも呼吸をして、ようやく龍麻は立ちあがる。
まだ足下はおぼつかないようで、頭がふらふらしていた。
「しっかりしやがれッ……!」
 龍麻を励ますという理不尽な状況も澳継は失念している。
それほど龍麻が見せた一撃は度肝を抜いていた。
「はァ、はァ……びっくりした」
「びっくりしたって、手前ェがやったんだろうが」
「そうだけど、あんなに威力が出るとは思わなかった」
「何をしやがったんだ、いったい」
「氣だよ」
 鬼哭村にいた時、龍麻は澳継に氣の使い方を教えた。
澳継も龍麻と同じ武術を学んでおり、当然、氣も扱えるはずだ。
事実、龍穴で摩尼に氣を注ぐときに手伝ってもくれたのだが、
戦いに際して澳継は全く氣を使おうとしなかった。
練るのが面倒くさいだの技だけで充分殺せるだの理屈をつけて鍛錬を拒否する澳継に、
龍麻も真剣に指導はしていない。
それが実戦で使われた龍麻の氣を見て、俄然興味を持ったようだった。
「嘘だろ……氣ってあんなに凄ェのかよ」
「いつもはあんなじゃないんだけどな。練ってたらなんか凄い勢いで流れこんできた」
「くそッ、なんで俺に教えなかったんだッ」
「教えただろ、ただお前がつまんないってすぐ投げたんじゃないか」
 ぐう、と顔を真っ赤にして澳継は黙りこむ。
こんな時にやりこめるつもりはない龍麻が何か言おうとすると、澳継が先に叫んだ。
「そうだ手前ェッ、俺が居るの知ってて撃ちやがっただろうッ」
「あっ……い、一発で倒せるかどうか判らなかったしな」
「今あッって言いやがったな! 下敷きになったらどうすんだこの野郎ッ」
 うんざりしてきた龍麻は、どさくさにまぎれて澳継を蹴ろうとする。
 醜い仲間割れが始まらなかったのは、彼らのかつての敵手のおかげだった。
「やい手前ェらッ!! 喋ってる暇があったらこっちに来やがれッ!」
 見れば鬼と一対一で闘っている京梧と九角が苦戦している。
どつき漫才をしている場合ではないと気づいた二人は、彼らの元にはせ参じることにした。
「御屋形様ッ、今行きますッ」
 澳継は当然主君である九角の方に駆けていこうとする。
その襟首を、龍麻が掴んで止めた。
「なッ、何しやがる手前ェッ!」
 龍麻は何も喧嘩の続きがしたくなったわけではない。
激高する澳継を前に、手甲を外して渡した。
「使ってみろ。それなら上手く氣が使えると思う」
「てッ……手前ェはどうするんだよ」
 澳継は戸惑い、動揺している。
その肩を叩いて、一足先に龍麻は駆けだした。
「頼んだぞ。九角に何かあったら桔梗さんにめちゃくちゃ怒られるからな」
「あッ、手前ェ、責任をなすりつけやがったなッ! 待てこの野郎ッ!!」
 怒声を背中で跳ね返して行った龍麻を睨みつけていた澳継は、逡巡の末龍麻に渡された手甲を嵌めた。
右と左、一対で龍の頭部となる意匠が彫られた籠手は、初めて装着するとは思えないほど手に馴染む。
「これで氣が使えるようになるなら苦労しねェだろ」
 呟いた澳継は、しかし籠手を外さぬまま九角の援護に向かった。
「御屋形様ッ!!」
「澳継か」
 九角が応じた瞬間、鬼が九角を殴りつける。
肝を冷やした澳継だったが、彼の主君は拳だけで肉体ほどもある攻撃を受け止める愚を犯さず、
見事な足捌きで躱していた。
「俺が囮になります」
「うむ、頼んだぞ」
 九角と距離を取った澳継は、素早い掌打と蹴りを連続して繰りだす。
的の大きさゆえにそれらは容易に命中したが、先と同じく効いたようにはみえなかった。
「くそッ、なんて硬ェ野郎だ」
 鬼の一撃を躱し、三打を叩きこむ。
やはり効いてはいなかったが、小うるささを感じたのか、鬼は澳継に狙いを変えてきた。
澳継が巧みに移動したため、彼と正対した鬼は、九角に背中を向ける形となる。
 澳継が作った機会を逃さず、九角は上段に構えると一気に踏みこみ、気合いと共に振り下ろした。
「グオオゥッ!!」
 襖のごとき大きさの背に、斬撃が疾る。
鮮やかな刀傷が刻まれたが、九角の手には岩を斬ったような痺れが返ってきた。
渾身の力で打ちこんだ刀は、確かに傷は負わせたものの、分厚い肉を両断するところまではいかなかったようだ。
鬼は再び九角の方を向き、激しい攻撃を仕掛けた。
左右の腕を無原則に振り回し、小癪な人間を潰そうとする。
「くッ……!」
 九角は剣技と共に体術も、尚雲の手ほどきで学んでいるが、澳継ほどには軽快に動けない。
それに刀とは全く違う鬼の攻撃を回避し続けるのは困難であり、
鬼の疲れるどころか加速する腕を、ついに避けきれなくなった。
「ぐァッ……!!」
 九角が大きく吹き飛ぶ。
九角は雪原に叩きつけられ、大きく雪粉が舞いあがった。
「御屋形様ッ!!」
 澳継は声まで蒼白にして叫んだ。
 どうやら九角が避けようとした方向と打撃のそれが一致したため、
直撃はしたものの威力は半減したようだ。
だが、そのまま雪にまぎれて伏せていれば、隠れることもできただろうが、
頭を打って判断力を失っているのか、九角はすぐに立ちあがってしまう。
そのうえ九角の様子は明らかにおかしく、足下がおぼつかないさまが澳継にも、
そして鬼にもはっきり見えていた。
「くそッ……!」
 斬撃も通用しなかった相手に、拳が効くはずがない。
澳継では足止めにさえならず、このままでは主君が殺されるのを指を咥えてみているしかなかった。
己の無力さに澳継は強く拳を握りしめる。
 掌に食いこんだ爪が、澳継に気づかせた。
澳継が持っているはずの力を。
澳継の心を一瞬怖気が吹き抜ける。
「おおおおおッッ!!!!」
 巣くおうとする怯懦を内側から払いとばし、澳継は氣を練りはじめた。
 臍の下、胴体の最も下にある部分に意識を集中させる。
たちまち人体に流れる氣が、七つあるチャクラのひとつ、ムーラダーラに集まりはじめた。
溜まっていく膨大な氣を散らさぬよう、独特の呼吸で制御しつつ、さらに多くの氣を取りこむ。
 龍麻と同じ武術を修練している澳継にも、ここまではできる。
この後の練った氣を制御し、解放する段階が苦手で、すぐ拳や足に頼ってしまうのだ。
尚雲や龍麻に何度も指摘されているが、なまじある武術の才能が、
氣など使わなくても敵を倒せると澳継は真剣に修行をしてこなかった。
そのつけをいつか払わなければならないとしても、それが主君の命がかかった今だというならば、
あまりに厳しい取り立てで、天を呪わずにいられなかった。
 溜まる氣が澳継の感情に揺さぶりをかける。
鬼を殺せ、氣を叩きこんで完膚無きまでに叩きのめせ――
敵に対しての強烈な陰の感情を疑問に思わず、むしろそれに迎合するように澳継は氣を練った。
 地響きを立てて鬼が九角に近づいていく。
あと数歩で鬼の射程に収まる九角は、敵を認識はしているようだが構えに力がない。
鬼の一撃を受ければひとたまりもないだろう。
 九角を、救わなければ――
憎悪と殺気に凝り固まっていた澳継の氣に、他人を救けたいという念が混じる。
瑕瑾でしかなかったその陽の念は、瞬く間に陰の念と融けあい、
より膨大な氣となって澳継の体内に満ちた。
「グオオオオオッッ!!」
 鬼が咆える。
勝利を確信した雄叫びが、巻きあがる雪に祝福を強制させ、九角への視界を開かせた。
鬼は目の前の獲物に夢中で、背後から接近する澳継には気づいていない。
基底から頭頂へ、狂おしく巡る氣を、深い呼吸でもう一段奥へと押しこんだ澳継は、
右腕を振りかぶって狙いを定める鬼の腰に、伸ばした両腕を押し当てた。
 右と左に分かたれた龍が、一に合する。
あぎとを開き、食らいついた龍は、充分に練りあげられた氣をその口から吐きだした。
滾る氣を解放した瞬間、肩が外れたかのような衝撃が澳継を襲い、
両腕を怖ろしいほどの力が通り抜けていく。
煮えたぎった湯の中に腕を突っこんだような、痺れと震えと強ばりが一緒くたに腕を苛む。
「くッ……!!」
 強い力が腕を逆流し、弾きとばされそうになる己の胴体を、澳継は必死で押さえつけた。
「ガアアオオオアアッッ!!!!」
 ようやく澳継に気がついた鬼は、大地をも震わす憤怒の咆吼を放つが、
澳継の拳が放つ氣の威力に抗いきれず、咆吼は悲鳴へと変じていった。
「ゴォ……ァ……」
 振りあげた腕をそのままに、鬼が一歩踏みだす。
効かなかったか、と澳継が案じたのも束の間、人に倍する巨体を持つ鬼は、
身体をよろめかせたかと思うと、そのまま前方へと倒れた。
 轟音が澳継の身体を叩いても、澳継は腕を前方に突き出した構えのまま、微動だにしなかった。
氣のほとんどを放出したことで筋肉が強ばっていたのと、
初めて使いこなした氣の威力に、打ち震えていたからだ。
硬直している澳継の構えを解いたのは、彼の主が褒めたたえる声だった。
「見事だ、澳継。礼を言うぞ」
「御屋形様……」
 裡からこみあげるものが、澳継の声の抑揚を乱す。
硬直は解けたが今度は感極まって動けない澳継に、九角が歩み寄った。
「お前がこれほどの力を持っていたとはな」
「ひ、緋勇のおかげなんです。あの野郎がこれを貸しやがったんで」
 龍麻の功績になるようなことをどうして言ってしまったのか、
澳継にもわからないようで、変な顔をしている。
彼の言葉遣いに九角は失笑しかけたが、臣下の名誉のために堪え、口に出してはこう言った。
「まだ敵は残っている……行くぞ、澳継。期待しているぞ」
「は、はいッ!」
 柳生が待つ上方に九角は駆けだし、澳継がそれに続いた。
 澳継と鬼を斃した龍麻は、京梧の支援に回っていた。
「京梧ッ!!」
 鬼と対峙していた京梧が、龍麻の叫びに呼応するように動く。
 八相の構えから袈裟に斬り下ろし、返す刀で胴を薙ぐ。
京梧の勝利を確信させる鮮やかな斬撃だったが、鬼の強靱な肉体を裂くには至らず、
皮膚を傷つけただけだった。
「ちッ……この野郎ッ……!」
 京梧が鬼の左拳を躱したところに駆けつけた龍麻は、体勢を立て直すや否や、
刀を構え直して突撃しようとする京梧を慌てて止めた。
「こいつは俺が引き受けるからお前は柳生のところへ行け!」
「あァン!? 何言ってやがる手前ェッ! 敵に背を向けろってのかよ」
「刀相手に素手はキツいんだよ!」
 鬼の正拳を揃って跳んで躱しながら二人は怒鳴りあう。
拳と剣の違いはあっても、達人に近い二人の回避運動は奇妙に呼吸が合っていて、
どこか漫才のような趣があった。
もちろん当事者達にそんな意識はなく、唸りをあげて襲いくる鬼の豪腕を、
見た目ほどの余裕はなく避ける。
 続けざまに放たれる拳の連打を大きく後ろに跳び、着地した京梧が言った。
「手前ェ一人でこの野郎を倒せンのか」
「任せとけ」
「……フンッ、手前ェが来るまでにゃあの野郎をぶった斬っておいてやらァ」
 刀を一度収めた京梧は、龍麻の肩を強く叩いて柳生の元へと走っていった。
 残った龍麻は鬼と正面から対峙する。
手甲はなく、龍麻の倍以上の体躯を持つ鬼は決して容易に倒せる敵ではない。
だが、ひとつ息を吐いて不敵に笑った龍麻は、両腕を振りかざした鬼に正面から突っこんでいった。
 富士山頂の高みから、柳生宗崇は四組の戦闘を眺めていた。
剣士に僧、それに拳士が二人ずつ。
剣士二人の腕はそれなりに立つようだが脅威というほどではなく、僧二人も然りだ。
そう見切った柳生の下方で、金色の輝きが生じた。
その輝きに自らが創りだした鬼が呑まれ、消失しても動じる色を見せない。
「ほう……少しは楽しませてくれるではないか」
 外法に長ける柳生は、その輝きが氣によるものだと一目見て把握していた。
鬼を一撃で倒したところからも、かなり強い氣を操れる者が居るようだ。
 もう間もなく刻は満ち、霊峰富士は魔山と化して焔を噴きあげ、
太平に溺れる江戸のニンゲン共を呑みこんでゆくことだろう。
殺戮の幕を開ける贄として、手ずから殺すと決めた柳生は、彼らが上ってくるのを悠然と待ち受けた。



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