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夏の陽射しに似つかわしくない、か細い声が聞こえてきたのは、
龍麻達がいいかげん待ちくたびれた頃だった。
「京一く〜ん、醍醐く〜ん、緋勇く〜ん」
「おッ、おい、どっからしてんだこの声は……」
京一の言う通り、周りを見渡してみても、それらしき人影はない。
そのくせ歓声があちこちで飛沫を上げている中、その声はいやにはっきりと聞こえるのだ。
きょろきょろとせわしなく首を動かす龍麻の前に、いつのまにか少女が立っていた。
「うふふふふ〜、こんな所で会うなんて〜」
その特徴的な髪型と、さらに特徴的な声は、間違い無く龍麻の知っている女性のものだった。
それでもどうしても拭えない違和感の正体に気付いた時、龍麻は思わず叫んでいた。
「裏密さん!?」
龍麻の前に立っているのは、紛れもなく裏密ミサその人だった。
ただし彼女を象徴する、底の分厚い眼鏡がないために、まるで別人のように見えるのだった。
水着こそ少し野暮ったいものの、
龍麻がどうしても想像できなくて断念した眼鏡の向こう側にあった目は、
思わずまじまじと見つめてしまうほど可愛いもので、龍麻はまばたきも忘れてミサを凝視する。
その傍らで、まだ信じられないと言った表情で京一が呻いた。
「う、裏密? なんだその格好は……」
「うふふふふ〜、もちろんプールに来る格好よ〜」
ミサはそう答えたが、彼女がプールに来た理由は泳ぐためではなさそうだった。
「でも緋勇くんたちもこのプールを選ぶなんて流石ね〜」
「どういう意味?」
訊ねる龍麻を、ミサは知っているんじゃないの、とばかりに斜め下から覗き上げた。
ミサの瞳には思いのほか強い眼光が宿っていて、
まっすぐ見つめられると、龍麻はなんとなく恥ずかしくなってしまう。
まさか彼女はそれを遮るために眼鏡をかけている訳でもないだろうが。
「うふふふふ〜、ここには出るのよ〜、白い腹、灰緑色の鱗、瞬きしない濁った目をした〜、
忌まわしき深きものどもが〜」
「ディープワンズって……あ、裏密さん」
聞いた事のない言葉──たぶんオカルト用語なのだろう──について、
さらに龍麻が訊ねようとすると、ミサはその前に身を翻してしまった。
気味が悪いだけだと思っていたミサの意外な素顔を目の当たりにした京一が、
狐につままれたような顔のまま呟く。
「行っちまった……けどなんだよ、海坊主でも出るってのか?」
「こッ、ここはプールだぞッ」
海坊主は妖怪であって幽霊ではない──つまり、足はあるのだが、
醍醐はそういったものはとにかく全部苦手なようだった。
「そりゃそうだ。ま、あいつの言う事は気にしないのが一番だな。
──ッと、ようやくお出ましのようだぜ」
肩をすくめた京一は、こちらに向かって来る葵と小蒔の姿をいち早く見つけて軽く口笛を吹いた。
少し軽薄なその音色は、彼女達の許に届く前に初夏の陽炎にかき消される。
「おっ待たせーッ。何、二人ともそのカッコ」
「うるせェな、大事なもんは肌身離さず持っとく主義なんだよッ」
開口一番吹き出した小蒔に、木刀を掴んでいる京一はどなりつける。
一方醍醐はといえば、既に心ここにあらぬといった風で、
遠くを見たり近くを見たりで視点が全く定まっていない。
「免疫ゼロかよ……それより、二人とも結構可愛いじゃねェか。なぁ龍麻」
「あ、あぁ……」
免疫がゼロなのは、実は龍麻もだった。
絵莉や舞子の水着姿でさえ直視するのには抵抗があるほどだったから、
同級生の水着姿などまともに見られる訳がなかった。
意味なく顔の下半分を覆い、眼球を忙しく動かしてちらちらと見るのがやっとだ。
そんな龍麻の態度を見抜いた小蒔は、怒った口調を作ってみせた。
「なんか気のない返事だね。ホントに可愛いと思ってる?」
「お、思ってる。似合ってるよ、桜井さん」
「ん、よろしいッ。まぁ当然なんだけど、一応褒めてもらったからお礼は言っとくね。
……何、葵、なんで隠れてるの」
「だって……」
「ほら」
影に隠れるようにしている葵を、小蒔が前に押し出す。
龍麻の瞳に、否応なしに同級生の肢体が飛び込んで来た。
飾り気のない白いワンピースの水着は、特にセクシーな印象を与えるものではなかったが、
似合っている、という点ではまさにぴったりだった。
その水着が形作る曲線は緩やかで大きなもので、
特にまだ女性らしさが出ていない小蒔の横に並んでいると、
その成熟の度合いがはっきりとわかる。
それは女性に初心(な龍麻でなくても視線を惹きつけられることは間違いないものだった。
こちらは京一によって前に押し出され、一対一にされた龍麻は、やたらに掌を開閉させる。
助けを求めて京一を仰ぎ見ようとすると、彼の手によって後頭部を鷲掴みされ、
逃げ場を閉ざされてしまった。
進退極まって目を閉じようとして、それはかえって失礼にあたると考え、真っ直ぐ葵を見つめる。
直視された葵は、痛いほどに輝く青い空の下でもはっきりとわかるほど頬を紅く染め、
彼女らしくない滑舌(の悪さの、
一メートルと離れていない距離でも聞き取るのがやっとのか細い声で尋ねた。
「あッ……。あ、あの……緋勇くん……その……私……水着……似合ってる……?」
「う、うん……凄く……か、かッ、可愛いよ」
それに対する龍麻の返事は、全く制御の出来ていない、著しく乱高下を繰り返す、
自分でも何を言っているかさっぱり解らないものだった。
「あッ、ありがとう。でも、そんなに喜ばれると……恥ずかしいわ」
「ごッ、ごめんッ」
龍麻は両腕を身体の横にぴったりと付け、ほとんど地面と平行になるまで頭を下げる。
始めは微笑ましげに見守っていた小蒔も、あまりのまだるっこさに、
しまいには足先でぺたぺたとコンクリートを叩かずにはいられなくなってしまっていた。
「あぁもうじれったいな」
「いいじゃねェか、初々しくて。ま、水着披露も無事終わったこったし、
そろそろ遊ぶとしようぜ」
「さんせーいッ!!」
ほとんど子供のように駆け出した京一と小蒔に、龍麻と葵も遅れまいと続いた。
お互いに、不自然に顔を反対に向けて。
「いっくよー、葵ッ!!」
「きゃあっ、もう、小蒔ったら」
「エヘヘ、ひーちゃんにも、てーいッ!」
顔中に水飛沫を浴びた龍麻は、お返しとばかりに小蒔に水をかける。
しかしどうしたものか、小蒔の方が圧倒的に飛沫の量が多く、
防戦一方に追い込まれてしまうのだった。
腕で顔を覆っても、構わず攻撃してくる小蒔に、
たまらず水の中に潜る龍麻の後ろでは、京一と醍醐が何やら話している。
「おい醍醐、そのゴーグルちょっと貸してくれよ」
「構わんが……何に使う気だ?」
「ん? ヘヘヘッ、もちろんおねェちゃんのおみ足を鮮明に見る為に決まってんだろ」
「そんな理由で貸せるかッ」
「減るモンじゃなし、いいじゃねェかちょっとくらい」
「駄目だ駄目だッ!」
「この堅物がッ……よし龍麻、後で貸してやるから醍醐を押さえろッ」
少し離れた所に浮かび上がった龍麻は、前後の事情も良く判らないまま醍醐の身体を抑えつけた。
「ばッ、馬鹿ッ、止めろお前らッ!」
「あははッ、ボクも乗ったッ!」
「桜井ッ、お前はどっちの味方だッ」
「面白そうな方に決まってるじゃないッ。いっけーッ、醍醐クンを沈めちゃえーッ」
「そうか、それなら俺だってそう簡単にはやられんぞ……ッ」
さすがにレスリング部部長らしく、京一と龍麻がのしかかっても醍醐は顎を水面に着けなかったが、
三人分を支えるのはさすがに無理だったらしく、小蒔が京一の上に乗るとバランスを崩してしまった。
豪快な水飛沫を上げて水中に落ちた四人が揃って顔を上げると、どこからか女性の声が聞こえてきた。
「フフフ、皆随分と楽しそうね」
「そ、その声は……」
言うが早いか、水の中とはとても思えない素早さで京一がプールを横切る。
不審に思った龍麻達もついていくと、もう水から上がった京一が誰かの前に立っていた。
「あ、マリアせんせーだッ」
「How are you,everyone?」
親しげに声をかけるマリアを見た龍麻は、思わず小さく叫んでしまっていた。
それはもはや水着とは呼べないほどだった。
真っ赤な布地は身体の中央部が大きく切り取られ、
かろうじて胸の一部と腰から下を覆っているに過ぎない。
Vの字に開いた腹部には一応紐が通されているが、
肌との隙間が持ち上げている胸の巨大さをアピールするだけだった。
そしてサイドから背中部にかけては全く遠慮を捨て、真っ白な肌を存分に見せつけている。
彼女の何から何までが男にとって暴力的なまでに訴えかけるもので、
この手のものに不馴れな龍麻と醍醐は何をどうすれば良いのか判らなくなっていた。
小蒔でさえもが深く切れこんだ水着のラインを見て、ただただ感嘆するだけだ。
「せんせー……すっごいね……」
「男の子にはちょっと刺激が強すぎたかしらね。
でも、ワタシもまだそういう風に見てもらえるのかしら」
「せんせー……それ嫌味で言ってるの? ほら、周りの男が皆せんせー見てるよ」
「フフ……でも、そういう目で見られるのって、女としては嬉しいけれど、
教師の立場からすると少し複雑な気分だわ」
そう言いながらもマリアの口許は、やはり嬉しい方に振れてしまうらしく綻んでいる。
すると大概の男なら骨抜きにされてしまう微笑みが浮かび、
龍麻などはその視線から逃げるようにうつむくしかないのだった。
「もしかしてせんせー、今日はカレシと一緒?」
骨抜きにされた男共に構わず、小蒔はここぞとばかりに担任のプライベートを知りたがる。
マリアのプライベートと言えば、その人気に反比例して全く明らかにされておらず、
噂では、新聞部(が信憑性のある情報(には高い情報料を払うとまで言われているのだ。
「だったらいいんだけど、残念ながら女友達とよ」
「とか言ってせんせー、実は犬神せんせーと一緒だったりするんじゃないですか?」
何気ない一言に、マリアの態度が一変する。
「え?」
「ほら、せんせーって犬神せんせーのコト好きみたいだし」
あまりに直球、というか幼稚園児が先生に訊ねるような無邪気な爆弾は、
投げた当人よりも周りで見ている方が爆発を恐れずにはいられない。
「こっ、小蒔」
特に小蒔の親友を自らをもって任ずる葵としては、その爆弾が破裂寸前に思え、
先ほどに続き、彼女らしくない動揺をしてしまうのだった。
そして怜悧な美貌をもって知られるマリアも、葵に劣らず取り乱している。
それは杏子がいたら絶対にシャッターを切っていたに違いない、貴重(な光景だった。
「わ、ワタシと犬神先生がなんて……そんな事、考えられません」
「なんだ、違うのか」
「そ、それじゃ、友達が待っているから」
誰が見ても逃げ出したと判るぎこちなさで、マリアは生徒達の前から去っていった。
ただし龍麻と醍醐は床を見ており、京一は彼女の身体を構成する、著しく突出した部分しか見ておらず、
葵は龍麻を複雑な表情で見ていたので、そのぎこちなさに気付いたのは小蒔だけ、という事になる。
そしてその小蒔は、訊ねておきながらその機微を見逃すという大失態を演じてしまっていた。
彼女にとって恋愛は未だ、放課後の雑談の種以上のものではなかったのだ。
だからこの時も、マリアに口で否定されればあっさりと納得し、
すぐに身近な友人達の方に興味を戻しているのだった。
「いいモン見たな……龍麻」
「あぁ……」
しみじみと呟く男(二人に新たな興味を見つけ、そのうちの片方のわき腹をつつく。
「ふーん……ひーちゃんって、葵の前でそういうコト言っちゃうんだ」
「へ? いや、違う、言ってない」
「葵、ダメだよ、浮気者と付き合うと後が苦労するから」
「そうね……」
悲しげに俯いた葵は、それが冗談であることを示そうとすぐに顔を上げた。
そんな葵が見たのは、トマトのように赤く染まった耳と、
全く対照的に血の気の引いた同一人物の顔だった。
器用なことが出来る──この世の終わりが来たような表情で許しを乞う龍麻を、
無言で眺めていた葵は、やがて堪えきれずに笑い出す。
「あの……」
「ね、もう少し遊びましょう、みんな」
殊更に龍麻を無視して呼びかけ、皆を先に行かせた葵は、
ひとりしょぼくれて歩く男の手を優しく、そしてさりげなく握った。
「……!!」
見えない壁にぶつかったかのように、龍麻の動きが止まる。
葵はあまり強くは握っていなかったから、手はすぐにはずれてしまった。
それをより残念に思ったのは、どちらだったろうか。
少なくとも龍麻は、指先にわずかに残った感触を、
夜、布団に入ってから克明に思い出すほどに嘆く事になるのだった。
「行きましょう、緋勇くん」
首がちぎれるかというくらいの猛烈な勢いで頷いた龍麻は、
葵を追い抜いて京一達のいる場所にそのまま飛び込む。
たちまち笛が鳴り、指導員に注意されている龍麻を見る葵の瞳は、
水面の輝きを取りこんだかのようにきらめいていた。
少し休もうとプールから上がった龍麻が荷物のところに戻ると、
葵も休憩をしているのか、パラソルの下に座っていた。
遠慮がちに腰を下ろした龍麻を、葵はどうやら待っていたようで、
バスタオルを羽織りながら視線を滑らせてくる。
どちらかと言うと冬の陽射しに近い、少し鋭さが含まれた視線を、
龍麻は真っ向から受けとめなかった。
彼女が訊ねようとすることが、ほぼ予想がついていたからだ。
「あの……あの日の二日後、緋勇くんまた学校休んだわよね。その日……何をしたのか聞いてもいい?」
ためらいがちに訊ねる彼女に、龍麻もまたためらいがちに答える。
頭ではわかっていても、彼女の名を口にする時は、まだどうしても痛みが先に走ってしまうのだ。
その痛みを受け入れるために、龍麻は一度目を閉じる。
「比良坂さんの……お墓を作ってたんだ。しながわ公園に」
彼女が好きだった水族館の隣にある公園。
最初で最後のデートをした、想い出の公園。
その公園の片隅に、龍麻は彼女の墓を作ってきたのだった。
埋めるものは何もなく、目印も何もない。
ただ彼女を思い起こさせる、淡い黄色の花の種を一粒、蒔いただけだった。
「そう……」
「忘れちゃ、いけないと思うんだ。彼女みたいな子をもう出さないためにも」
深い決意を湛える龍麻の言葉に、葵は自分を恥じた。
その想いが、彼女に口を衝かせる。
「私──今も、あの時のことが目に焼き付いて離れないの。
比良坂さん……緋勇くんを護るために、命を懸けた人……優しくて、強くて……
あれから考えるの。自分には、何が出来るんだろうって。
私、役に立ってるのかしら。時々、自信がないの……皆の為に、何かしたいのに」
「美里さん……」
感情が、奔流となって言葉を紡ぎ出す。
それは今の龍麻が受けとめるには、大きすぎるものだった。
口を開きかけたものの、むなしく閉じるしか出来ない龍麻に、
葵は半ば自分に、半ば彼に向けて語りかける。
「誰かのために──、大切な人のために──、私は、愛する人を護ることが出来るの──?」
祈るように手を組み合わせる葵に、龍麻は自分の手を重ねる。
それは今の龍麻にとって出来る最善の、そして最も自然なことだった。
微かに目を見開いた葵は、跳ね除けることはしなかった。
包み込む龍麻の手は、抱いていた苦悩を溶かすだけの温かさを有していたからだ。
「緋勇、くん──」
「きっと、美里さんに──美里さんにしか出来ないことがあるよ。だから、今は俺達と行こう」
「──はい」
葵は龍麻の言葉を、深く胸に刻みつけていた。
彼と、共に、在る──
この、突然与えられた『力』が何の為にあるのかは未だ解らない。
しかし、彼の傍にいれば、きっと答えを見つけられる──
陽光を受けてきらめく龍麻の笑みは、そう信じさせるに充分なものだった。
二人の様子を離れた所で見守っていた京一が、小蒔に話しかける。
「ちっと心配だったけどよ、連れて来て良かったな」
「そうだね」
紗夜と龍麻がどのような関係だったのかは知る由もないが、
二人(が落ちこんでいるのは、彼らにとって好ましいものではなかった。
龍麻と葵がどうやら元気を取り戻したらしいのを見て、大きく頷きあった二人だった。
「む……緋勇が手を振っているぞ」
「お前の図体がでけえから気付かれたんだよ」
「昼飯時だから戻ろうと言ったのはお前だろうが」
でかい声でがなりたてる醍醐に、京一は嘆かわしげに額に手を当ててみせる。
「……だからお前はニブチンだってんだよ」
結局、今一つ事態を把握していない醍醐を無理やり引き連れ、
京一達はもうひと遊びしてから龍麻と葵の所に戻ったのだった。
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