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入り口こそ狭かった通路も、階段を降りて少し歩くとすぐに高い天井の洞窟へと変わっていた。
道はそれほど歩きにくくはなく、人の手が入っているようだった。
始めは立てないように気をつけていた足音も、
これだけ反響してしまってはどうしようもなく、すぐに諦めて普通に歩いている。
時折その足音に被さるように水滴が落ちる音が響き、
下水道の中とはまた異なる不気味さを醸し出していた。
「鍾乳洞みたいね」
「うん……なんか、ひんやりする」
葵と小蒔の会話を皮切りに、京一達も口を開く。
特に、学校の帰りからいきなり異世界に連れて来られた雨紋は、驚嘆することしきりだった。
「こりゃ凄ぇな。東京の地下にこんな場所があるなんてよ」
「あぁ……全くだ。この先に、水岐がいるんだろうな」
「間違いないだろう。奴は『門』が開くと言っていた。
そこで神だか悪魔だかを復活させようってことだろうな」
ここでそれまで無言だったミサがいきなり口を挟んだ。
いかにもこの場所に似つかわしい口調に、皆一斉に黙って彼女に耳を傾ける。
「多分〜、復活させようとしているのはダゴンだと思うの〜」
「ダゴン……?」
「うん〜、あの深きものどもが仕えているのはクトゥルフっていう邪神なんだけど〜、
その配下にダゴンっていうのがいて〜、深きものどもはそれを復活させようと活動しているの〜」
ミサがこの手(の話に関して嘘は吐かないことは周知の事実だった。
それでも、ダゴンだのクトゥルフだの、
そんなに邪神とやらが数多くいると言うのは簡単に信じられるものではない。
「けど、そんな物騒なのがこんな東京のど真ん中にいんのかよ」
「うふふふふ〜、邪神達が活動していたのは人類誕生以前と言われているわ〜。
だから、都市の中に邪神がいるんじゃなくて〜」
「邪神の居た場所に人間が街を作っちまったってことか」
「ご名答〜」
褒められても嬉しくない京一だった。
更にミサの話によると、クトゥルフの配下であるダゴンは、
神として崇められているだけのことはあり、その力はクトゥルフに較べるべくもないが、
それでも人間が容易に対抗出来るものではないという。
つまり、何としても復活の前にそれを止めなければならないと言う訳だった。
そんな話を聞けば、武者震いと共に否応無しに士気も上がるが、
何しろもう三十分ほども歩いているというのに、目的地はまだ見えない。
目的地が見えなければ敵も見えず、せっかく高まった士気も空回りしてしまうと言うものだった。
「随分長いな」
「そうね……地の底まで続いてそう」
ミサの話から五分ほどで、早くも飽きてきた京一がぼやく。
それに律儀に答えた葵の声が、いきなり悲鳴に変わった。
「きゃっ」
「美里さん!」
悲鳴が聞こえた瞬間、龍麻はためらいなく手を伸ばしていた。
倒れそうになる葵の腰を抱きとめ、力強く引き寄せる。
「大丈夫?」
「え、ええ……ありがとう。足元が濡れていて」
しかし、葵の声は思ったよりもずっと近くから聞こえ、
龍麻は今更ながらにあたふたしてしまった。
葵は気付いていないのか、それとも気にしていないのか。
この間に引き続き、掌に残る彼女の感触を懸命に記憶に留めながら、
ある意味京一よりも始末が悪い龍麻は緊張感もまるでなく、
その些細にして重要な違いについて答えのない問いを繰り返していた。
「へへッ、得したな、龍麻」
耳打ちする京一にも、答えられないほど真剣に。
洞窟は次第に広さを増し、緩やかに下っている。
加えて先ほど葵が足を滑らせたように、地面が濡れているのでそちらにも気を配らねばならず、
一同は歩くことに集中せざるを得なくなっていた。
龍麻もそれは同じだったが、ただ一人、全く危なげなく歩いていた如月が、
巧みに歩調を合わせて囁いてきた。
「……彼は?」
「ああ、雨紋って言って、前に渋谷で鴉が人を襲う事件があったろ?
その時に知り合ったんだ。……あいつも、『力』を使える」
「そうか……」
如月は頷いたものの、あまり歓迎してはいないようだった。
徳川に仕える隠密と言う彼の出自からすれば、それも当然だろう。
だがあの半人半魚の深きものども(に対するには一人でも仲間が多い方が良く、
まして雨紋の槍術と『力』は龍麻達の大いなる助けとなるはずだった。
再び黙した如月が、突然立ち止まった。
何か、と龍麻が尋ねる前に、険しい顔で頭上を見上げる。
「おい、なんか音がしねぇか?」
「ひ、ひーちゃん、上ッ!!」
先頭を歩いていた京一が振り向くのと、小蒔が叫ぶのはほとんど同時だった。
天井から、人間の頭ほどもある岩が、龍麻と如月の位置めがけて落ちてきていた。
避けるか──自分一人なら、それはたやすい。
如月も問題なく避けるだろう。
しかし、小蒔や葵、ミサがとっさに避けられるとは思えなかった。
彼らしくなく迷った龍麻が、せめて葵だけでも庇おうと身体を動かした時、大きな水音が響き渡る。
何が起こったのかとっさには判らない龍麻の横を、冷たい空気が走りぬけた。
次いで起こる、大きな水音と岩が砕ける音。
水飛沫を浴びた龍麻は皆のな事を確かめると、一人平然としている、危険を救った男を探し当てた。
「如月が……やったのか?」
「あァ」
「そうか……ありがとう」
簡潔に頷くのみの如月に、龍麻は戸惑いながらも礼を言った。
京一達もどうやって窮地を脱したのか、興味津々の態で如月を見るが、
如月は視線を避けるように軽く目を閉じ、これでこの話題は終わりとでも言うように告げた。
「君が無事ならそれでいいさ」
本人が言わなければどうしようもないので、
龍麻達はさっさと歩き始める如月に渋々ながらも続こうとする。
すると、一人の男が飛び出し、彼の前に立ちはだかった。
「おッ、おい……如月さん、あンた何者だ?」
いつもどこか人を食ったような態度の雨紋が、目を丸くしていた。
真剣な表情でこの日初対面の如月をじっと見つめ、訊ねる。
龍麻達は軽くかわした如月もその勢いに気圧されたのか、説明を始めていた。
「大した事じゃないさ。ほんの少し、水の力を借りたんだ」
「水の……力?」
「飛水流は水に纏(わる術を最も得意とする。
四神のひとつで、水を司る玄武を守護神として崇(めているのさ。
そして『飛水』の姓を受け継ぐ者には、元来その血筋として、
水を自在に操る能力が備わっていたという」
「いたという……って、簡単に言うけどよ」
事もなげに言う如月に、京一が呆れて呟く。
しかし雨紋の耳には入っていないようで、
いたく感動したように如月の手を強引に取り、両手で握りしめた。
「如月さんッ! オレ様の名前は雨紋雷人ッてンだ、よろしくな」
「あ、ああ、よろしく」
見た目には麗しい先輩と後輩の友情成立だった。
その傍らで、すっかり蚊帳の外にされてしまった他の先輩がぼやく。
「如月クン、なんだか随分尊敬されてるね」
「ああ……俺達も一応先輩なんだけどな」
小蒔と京一の会話を耳にしながら龍麻は、
雨紋が如月の隔意を取り除いてくれたことを喜びながらも、
どこか釈然としないものを感じるのだった。
落石から更に三十分ほど歩いた頃、ようやく景色に変化が訪れた。
「向こうに明かりが見えるぜ」
地下に灯りがあるはずもなく、京一が示した先が深きものどもの巣窟なのは間違いなかった。
懐中電灯を消した龍麻達は、そっと光の源に近づいていった。
「ここが……その『門』とかがある場所なのかな、葵」
核心に近づきつつある興奮からか、声を上摺らせて小蒔が囁く。
しかし、葵から返ってきたのは、苦しそうな呻きだった。
「……身体が……熱い……」
「葵ッ!」
「何かが、流れ込んでくる……苦しみ……悲しみ……憎悪……」
「美里さんッ」
異変に気付いた龍麻が、狭い通路を無理やり彼女に近づく。
膝を着いてしまった葵の肩に触れた龍麻の掌に、膨大な『氣』が伝わってきた。
そのほとんどは禍々しいものであり、眩暈を起こしそうな陰氣であったが、
それらはすぐに清涼なものへと変わっていく。
葵の『力』が、不浄の氣を清めているのだった。
ただしそれにも容量(があり、あまりに膨大な量が一度に集まったために、
浄化される前の氣が彼女の精神に悪影響を及ぼしたのだ。
「もう大丈夫……ありがとう」
「でも」
気遣わしげな龍麻の肩を借りて、葵は立ちあがる。
自分の意思で来たのだから仲間に迷惑をかけたくないという思いもあったが、
この地に宿る何か(に呼ばれているような気がしたのだ。
それを、見極めなければならなかった。
「どうなっているんだ、ここは」
「おい、醍醐、あれを見ろッ」
広間の様子を覗っていた京一が、醍醐の肩を掴んだ。
葵を龍麻に任せ、京一の隣に立った醍醐が見たものは、圧倒的な数の深きものどもと、
彼らを率いるように岩の上に立つ水岐の姿だった。
下水道で会った時とは違う、力感に溢れた立ち居で何事か叫んでいる。
「罪深き邪教の申し子よ。汝等の慟哭の歌声と噴き上げる泉の如き鮮血が、
破壊の神──汝等の父たる者を蘇らせる。その時こそ、世界は変わるであろう。
目を閉じて、大いなる父の姿を思い浮かべよ。さあ、今こそ迎えよう、大変容の時を!!
いあ、いあ、だごん!!」
水岐の声に合わせて、深きものどもが唱和する。
人間の口ではないものから叫ばれる声は、鳴き声に近いものであった。
自らの絶叫に興奮しているのか、深きものどもは全くこちらに気付く気配もない。
見つかる心配はなさそうだが、この数が相手ではうかつに突入は出来ない。
顔を見合わせる京一と醍醐に、近づいてきた如月が言った。
「膨大な量の瘴気が溢れ出しているな……『門』が開きかけているのかもしれない。
あの化け物どもの氣が、水岐とかいう男の近くに吸いこまれている。
どうやら、あそこが異界への入り口らしい」
京一が改めて水岐の方を見ると、確かに『氣』が竜巻のように渦巻いている。
化け物数十体ほどの氣が一箇所に集まって、目視出来るほどになっているのだ。
「気をつけて〜、『門』が開いちゃったら、石の力も役に立たなくなるわ〜」
やはり京一の傍らにやって来たミサが、これだけ化け物の絶叫が響き渡っている中、
何故かはっきりと通る声で囁いた。
「石……って、ああ、これか。何か意味あんのか?」
「これを持っていれば〜、あの子たち(は手を出せないの〜」
「そうだったのか。それでさっきも」
得心したように醍醐は頷いたが、京一はどこか半信半疑のようだった。
そうしている間にも、水岐の声はいよいよ声量と狂熱の度合いを増していく。
「さあ、使徒たちよ。新たなる同志と共に、大いなる父を呼ぶのだ。
その呼び声で、異界の地に縛られた我等の神、父なるダゴンを呼び戻すのだ──!!」
「がががががががぎぎぎぎいいががぎいいいい……」
「まずい、一段と瘴気の濃さが増している」
これ以上相談している暇はなさそうだった。
木刀を握り直す京一の横で、醍醐は上着を脱ぎ捨て、雨紋も槍を取り出している。
目だけを後ろに走らせた京一は、龍麻が葵は無事だと頷くのを確認すると、
化け物の合唱に劣らぬよう、闘いの高揚を乗せて声の限りに叫んだ。
「よし……行くぜッ!」
しかし、京一が機を測り、隠れていた岩場から一気に飛び出そうとしたまさにその瞬間、
足元に何かが突き刺さった。
それ自体よりも、それが切り裂いた空気によってこそ存在を知らしめる。
薄暗い洞窟内とは言っても、拾い上げなければその正体が解らないほど、
投擲されたものは闇に溶けこんでいた。
それは禍々しい黒色をした道具で、十五センチほどある全体の長さの、半分ほどが四角錐になっている。
岩盤にその四角錐の半分ほどが易々と埋まっているところを見ると、
その切れ味も、投擲した人物の腕も相当なものと言うべきだった。
「苦無(……だと?」
拾い上げた如月は、それが見知った道具であることに驚きの声を上げずにいられなかった。
四百年の血が知る、忍びの武器。
自らも懐に何本かを忍ばせていた道具を用いた人物を、如月は思わず探していた。
刺さっていた角度から暗闇へと、視線を真っ直ぐに伸ばし、求めるものを見つけ出す。
如月の視線を受けてか否か、濃色(の古風な装束を纏い、鬼の面を被った人影は、
普通の人間では到底無理な距離を一飛びに近づいてきた。
「このような処に、大きな鼠がおるわ」
「てめえは……鬼道衆ッ!!」
「いかにもわらわは鬼道五人衆がひとり、水角(ぞ」
顔は鬼の面に阻まれ、身体つきも忍者装束に隠されて窺(えないが、
声と、肩の辺りで縛られている長めの髪が、女性だと推察させた。
もちろん女性だからと言って、鬼道衆を名乗る者に手加減するつもりなど、龍麻達には微塵もない。
しかし、やはり目的のためなら手段を選ばない非道な連中の中に女性がいたことに、
意外さは隠せないのだった。
「てめえら……あんな化け物の崇める神なんざ復活させて、何を企んでやがる」
「神? ほほほッ、そのようなものどうでも良いわ。
我等の目的は、あの『鬼道門』を開く事にこそあるのじゃ。
あの男はその為に役だってもらっただけよ」
「何だと……?」
「あの『門』より魑魅魍魎どもが溢れ出し、この憎き江戸の地を焼き払う事こそ我等が悲願」
江戸、と言う言い回しに、その時代から連綿と続く飛水の家系に連なる男が眉を跳ね上げた。
「鬼道衆……どこかで聞いた名だと思っていたが、そうか、貴様らが──」
相手は如月以上にお互いの宿縁を意識しているようだった。
向ける声に、憎しみがこもる。
「忌々しき飛水の末裔よ、あの時、あの者らと貴様等一族に受けた屈辱、
ひとときたりとも忘れた事はないぞえ」
もちろん如月は彼女が言う屈辱とやらを知る訳ではない。
しかし、彼女の宿怨の念は、それが尋常なものではないと伝えていた。
「この真上は徳川共の眠る増上寺、そして『鬼道門』を封じておるのは徳川の残した霊力じゃ。
じゃが、それももういくばくも保ちはしまい」
勝ち誇るように笑った水角は、岩場に立つ水岐に向けて何事かを呟いた。
「ほほほほ、もうあやつは用済みじゃ。じゃが、もう少し役に立ってもらわねばの」
すると突然、水岐が苦しみ始めた。
頭を抱えて激しくくねる身体から、光が放たれる。
光は水岐が身体を折るごとに明度を増し、それに伴って恐ろしい現象が起こっていた。
「ううう……ううううああいあああいういいいいうういいあいあ!」
おぞましい悲鳴を上げながら、目の前で、水岐が輪郭を失っていく。
あまりに冒涜的な光景に、龍麻達は一歩も動くことが出来なかった。
線は細いながらも整っていた顔立ちは見る影もなく崩れ、人ならざる物へと変じていく。
眼球は魚のように膨らみ、鼻はこそげ落ち、口はだらしなく開いていく。
「僕は、彼らを導き、この腐敗した世界を、う、海……海に……う……いういいあいあいいい」
「ほほほ……我等が外法の力、とくと見るがよい」
水角は更に何事かを呟く。
まばゆい光が水岐を包み、それが失われた時、既に水岐涼はそこにはおらず、
半魚半人の忌まわしい存在があるのみだった。
「こん……な……」
決して好いてはいなかったにせよ、同世代の人間が異形のものに変わり果てる様を見せられて、
さしもの龍麻達も恐怖と嫌悪に身が竦(んでしまっていた。
そして水岐だったものはその恐怖を糧とするように慄然たる叫びをあげ、襲いかかる。
頭では判っていても、龍麻の足は動かなかった。
もちろん氣など練れるはずもなく、無防備に立ち尽くすだけだ。
水角の嘲笑と共に、深きものが飛びかかる。
しかし、口を開け、龍麻を呑み込まんとしたその瞬間、深きものは大きく弾き飛ばされていた。
「キヒィッ!」
獣じみた絶叫が洞窟に響き渡る。
ようやく恐慌から立ち直った龍麻が見たものは、
両手を前にかざし、何かを打ち出すような姿勢を取っているミサの姿だった。
「裏密……さん」
「ダゴンが復活してしまったら〜、次はクトゥルフが目覚めてしまうわ〜。
そうなったら人類はおしまいよ〜」
いつになく真剣な表情で告げるミサに、龍麻達もなんとか恐慌から立ち直る。
彼女の言うことが本当かは判らないが、陰氣はいつしか洞窟を満たし、
不快な瘴気となって精神に影響を及ぼすまでになっていた。
こんなものを糧にする何かが復活すれば、大変なことになるのは明らかだった。
「裏密の言う通りだ。ダゴンだかなんだか知らねぇが、ヤバい氣がどんどん集まってやがる。
なんとかしねぇと」
「よし、行くぞッ!!」
木刀を構える京一に答え、龍麻は深きものどものただ中へと突っ込んでいった。
大半は『門』を開くために氣を吸い取られているが、
それでも十体を優に超える深きものどもが襲いかかってくる。
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