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龍麻が元いた場所に戻ると、小蒔が自分達を探していた。
友人と話を終えて戻ってみれば二人ともいないのだから、驚いたに違いない。
「どこ行ってたの?」
隠した弁当を巧みに彼女の目に映らないように自分の鞄にしまってから、
ようやく龍麻は彼女に答えた。
「ん、ちょっと」
お茶を濁したのが丸わかりな返事にも、小蒔はどうやらトイレか何かと思ってくれたようで、
それ以上追求してはこなかった。
「でもさ、いくら京都だからってお寺巡りばっかりじゃやっぱり気が滅入るかも」
今の彼女の関心はここから五百キロほど離れた場所にしかないらしく、
それは龍麻と葵にとって好都合だった。
「そんなことはないわ。京都は他にも見るところはたくさんあるし、
今はきっと紅葉がきれいなはずよ」
葵が友人をなだめるように、その実彼女の関心を維持させるつもりで言うと、
背後から同意する声があった。
「秋晴れの京都か……見応えがあるだろうな」
「醍醐クン」
馴染みのある声に小蒔が振り向くと、大きな鞄を軽々と抱えた醍醐がそこに立っていた。
彼に頷いてみせながらも、小蒔はまだ納得した様子をみせない。
「それはそうなんだけどさ」
「なんだ、そんなに嫌なのか?」
顎に手をやって醍醐は訊ねる。
醍醐自身それほど寺社仏閣に興味がある訳ではないが、嫌いというほどでもない。
まだこの場にはいない、木刀を肌身離さない友人なら言っても不思議ではないが、
小蒔がそういう態度を表に出すのは珍しく、意外だと思ったのだ。
問いに小蒔はしかつめらしい顔をして腕を組み、厳かに言った。
「そうじゃなくて……ほら、お寺とか紅葉は食べられないじゃない」
黙りこくる三人に、我慢できないといったように小蒔が自ら笑い出す。
三人はまばたきを三度ほどした後、勢い良く彼女に倣(った。
気付けば生徒達も九割ほどが揃い、構内が一時的に制服に満たされている。
時計を見た醍醐は、自分達の班長であると同時にクラス委員長でもある葵に訊ねた。
「ところで美里、そろそろ時間じゃないのか」
「え、ええ……そうなんだけど」
葵の返事は歯切れが悪い。
確かめるまでもなく、自分達の班にまだ来ていない人間が一人いるからだ。
小蒔が肩をすくめながらため息をついた。
「……一人、足りないよね」
「あの馬鹿は……こんな時にも時間を守れないのか」
醍醐が舌打ちする。
龍麻も醍醐と気分は同じだったが、
事ここに至っては彼が遅刻しないよう祈るしかないので仕方なくそうした。
彼を心配してではない。
葵に迷惑がかからないように、だ。
しかし龍麻が祈ったところで京一が瞬間移動(して現れるはずもない。
さっきまで今日の空のようだった龍麻達の顔が、徐々に曇り始める。
そこに、勢いのある声が雲を吹き飛ばす勢いで投げつけられた。
「ハイ皆、こっち向いてっ」
龍麻達が一斉に声の方を向いた瞬間、眩い光が網膜に浴びせられた。
不快なほどの閃光が消えると、カメラを構えた少女がそこに立っていた。
「遠野さん」
真神学園新聞部部長にして、修学旅行特別撮影班の遠野杏子だ。
もちろん特別撮影班と言っても、新聞部と同じく班員は彼女一人だ。
機材の全てを一人で持ち歩かねばならないという悪条件にも関わらず彼女が上機嫌なのは、
今回の撮影に関しては生徒会で予算が承認されたからだ。
記事を書くのと同じくらい写真撮影そのものも好きな彼女は、
公認(で撮れる千載一遇の機会を心待ちにしていたのだ。
「はいありがと。やっぱりアンタ達は揃ってると絵になるわね……一人足りないみたいだけど」
早速チクリと刺した杏子に、小蒔が訊ねる。
「遅刻するとどうなるんだっけ」
答えたのは杏子よりも低く、鋭い刃を含んだ声だった。
「もちろんその間は学校で自習です」
「せんせ……」
「彼……来ていないのね」
マリアの顔には諦観にも似た表情が浮かんでいた。
昨日の訓示もほとんど彼一人に向けて言ったようなものだったのだが、
熱意空しく彼には届かなかったようだ。
「ま、しょうがないよね。いいから置いていこ、せんせ」
「そうだな……たまにはいい薬になるだろう」
彼の友人達はとっくにマリアが達した境地に辿りついているのか、全く心配する様子はない。
秩序を重んじるマリアも、彼らの言う通り置いていってしまいたい、
とわずかながら思ってしまったが、教師として同意する訳にはいかなかった。
他に遅れている生徒がいないことをそれぞれの班長から確認すると、整然と並ばせる。
新幹線の停車時間は短く、手早く乗りこまなければならないのだ。
一人足りない苛立ちを押し殺して、教え子達を到着した列車に乗せる。
列の半分ほどが乗りこんだ頃、ようやく教師としてのマリアにとって待ちに待った声が聞こえてきた。
「待て、待ちやがれッ!」
「なんだ、間に合ったのか……」
小蒔が呟いたが、まだそうと決まった訳ではなかった。
発車時間まであと三十秒を切っている。
京一はまだ階段の一番下におり、数秒が彼の命運を分けることになりそうだった。
「いいからアナタ達は乗りなさいッ!」
緊迫したマリアの声に押され、龍麻達は列を崩さず列車に乗り込む。
マリアが最後に乗り、扉のところで駆けあがって来る京一を待った。
発車のベルが鳴り響く。
ここでようやく、階段を上りきった京一が姿を見せた。
「こっちよッ!」
マリアが手を振ると、京一は鬼の形相で突進してきた。
ホームにいた普通の乗客がぎょっとして飛びのき、道が出来る。
それが効を奏したのか、京一が列車に文字通り飛び乗ると、
間髪入れずにドアが閉まり、小さく一度揺れた新幹線が動き出した。
こうして、どうにか間に合った京一と龍麻達を乗せた新幹線は京都へと無事出発したのだった。
静かに走る新幹線の中をマリアは歩く。
理由はもちろん危うく大恥を晒すところだった教え子の一人に説教を行うためだ。
しかし学年主任に人数の報告を終えたマリアが、京一のいる車両の扉を開けると、
恐ろしく威勢の良い罵声が後方へと抜けていった。
「ッたく、何考えてんのさバカ京一ッ!!」
それは彼女の教え子の一人、桜井小蒔の発したものだった。
男勝りの、と評されることもある彼女は、歯切れの良い言葉を投げつけて京一を叱っている。
「あんだけマリアせんせーに遅刻しないように言われてたのに、結局遅刻して」
「うるせーな、俺だって反省してんだからもういいじゃねェか」
「そんなコト言って、どうせ口ばっかりでしょッ」
容赦のない舌鋒に、東京駅に着いてからずっと走りっぱなしだった京一が抗えるはずもなく、
すぐに黙らされてしまっていた。
この車両にはC組だけでなくD組の生徒も乗っており、事の成り行きを楽しそうに注目している。
その為、なお京一に怒りをぶつけようとする小蒔を、不本意ながらマリアは止めなければならなかった。
「はい、桜井サン、もうその辺でいいわ」
「でもせんせー」
マリアは無言で頭を振った。
その仕種で小蒔も自分達が注目を浴びていることを知り、ようやく口を閉ざす。
「ヘヘッ、ほら見ろ、マリアせんせーも旅行なんだから固いコト言いっこナシだってよ」
小蒔に怒られていたことなど既に忘却の彼方へと押しやっている京一に、
前途が思いやられるマリアだった。
そして、彼女の予感は不幸にも的中する。
動き出して数分ほどはしおらしくしていた京一は、すぐに飽きたのか、
棚の上から自分の鞄を下ろした。
何事かと見守る龍麻達の前で彼が取り出したのは、
遅刻寸前になりながらもしっかり買ってきた弁当だった。
「飯食おうぜ」
「まだ早いでしょ」
「いいじゃねェか、どうせ食うんだし」
朝寝坊して飯など食っていない京一は、小蒔の制止も振り切って昼飯を取り出す。
すると次に弁当を取り出したのは、何故か制止したはずの小蒔で、
京一達の班は学級委員長がいるにも関わらず最速で昼飯を食べ始めた。
そうなれば当然他の連中も弁当を広げ始め、車両内は程なく大昼飯大会に突入する。
引率のマリアは病原菌のように瞬時に広まった光景に眉を引きつらせたが、
今更止めることも出来ず、他の教師がこの車両に来ないよう祈りつつ、
窓の外に視線を固定し、流れていく景色に逃避することにした。
遂に教師まで黙認したことにより、一時的な無法地帯と化した車両の中で、
原因の九十パーセントほどを作った男は、その中にあって孤独に闘う男を見つける。
「なんだ龍麻、お前食わねェのかよ」
「た、食べるよ」
龍麻はもちろん腹が減っていないのではなく、こんな衆人環視の中で葵の手弁当を晒す勇気がないのだ。
と言ってこのままでは余計に不審を誘うので、止むをえずさりげなく弁当を広げることにした。
「なんだお前、弁当なんて作ってきたのかよ」
ああ、ともいや、とも言わず頷いた龍麻は、緊張と興奮を両手に込めて蓋を開けた。
小さな箱の中にあった無限の宇宙に、感動のあまり目の前が霞む。
三十分ほどはただ見ていたい、と願う龍麻のぼやけた視界の向こうで、長細い物体が横切った。
それが未確認飛行物体(の速さで視界から消える寸前、龍麻は箸だと判った。
そしてその先には、卵焼きが刺さっていた。
「うっわ、美味しそう! ね、ひーちゃん、これちょうだい」
返事をする間もなく一品が消える。
「んー、美味しい! ひーちゃんいいお嫁さんになれるよ」
隣で葵が顔を真っ赤にして俯いているのに、小蒔は気付いていない。
葵が自分だけの為に作ってくれた弁当を、自分よりも早く食べた小蒔に、
龍麻はあまり冗談とも言えず憎しみを抱いた。
しかし、憎しみは悲しみしか生まない。
美味しそうに口をもごもごさせている彼女を、龍麻が睨む寸前の表情で見ている間に、
横から京一が手を伸ばしてきた。
「そんなに美味ぇなら、ちょっと俺にも味見させろよ」
返事をする間もなく一品が消える。
「ん、確かに……男が作ったとは思えねェ味付けだな」
偉そうに品評する京一に、龍麻はその横っ面を張り飛ばしたい衝動に駆られた。
しかし、憎しみは悲しみしか生まない。
から揚げを頬張る京一を龍麻が睨みつけていると、
卵焼きを食べ終えた小蒔が再び貪欲に魔手を伸ばしてきたのだ。
「も、もういいだろ、俺の食べる分がなくなっちゃうよ」
「えー……ケチ」
なんと言われようとこれ以上米一粒でさえ他人に渡す気のない龍麻は、
亀のように背を丸めて弁当を死守したのだった。
早弁の後も何かと車両内を騒がせた龍麻達の班だったが、
世界でも随一の正確な運行を誇る新幹線は遅れることなく無事京都に着いた。
より多く胸を撫で下ろしたのは、真神学園の教師か、それとも車掌か、正確なところは判らない。
とにかく彼らは列車を降りると、最初の目的地へと向かったのだった。
「それではここからは班別の自由行動とします。各自が責任を持って行動するように」
「具体的には他人に迷惑をかけない、事故を起こさない、みっともない真似をしない。以上だ」
マリアに続いて告げたのは、生活指導兼三年B組の担任である犬神( 杜人(だ。
低く、聞き取りにくいのに、妙に威のある声は生徒達を黙らせ、神妙に聞き入らせる。
しかしそれも一瞬のことで、彼が脇に下がると、すぐに蜂の巣をひっくり返したような騒ぎになった。
早速次の目的地に向かうグループ、混雑を避け、のんびりと歩き出す連中、
そしてここぞとばかりに勇気を出して異性を誘っている者達。
それはどこにでもある修学旅行の一風景だった。
その中にいる龍麻達も、もちろん普通の高校生として修学旅行を楽しんでいる。
班長である葵のところに集まった龍麻達は、今後の予定を確認することにした。
「やれやれ、やっと自由行動かよ」
「京一は最初ッから自由に行動してたじゃないかッ」
もちろん小蒔が皮肉っているのは朝の遅刻のことだ。
その後もさっさと弁当を食べ始めたりしてまさに自由を謳歌していたのだが、
その点については共犯者である小蒔は触れない。
「うるせェな、間に合ったんだからいいじゃねェか」
都合の悪いことは三分で忘れる京一は、
数時間前のことをまだしつこく言う小蒔に辟易して龍麻の肩を叩いた。
「んで、俺達はどこ行くんだ」
「今日は仁和寺(に寄ってから宿に行くのがコースだな」
もう暗記出来るくらいしおりを読みこんでいる龍麻が即答するも、
京一は歴史ある古刹の名を聞いても全く関心を見せない。
その態度はこの由緒にあふれた古都においては、いっそあっぱれとも言えるものだった。
そのくせ、仁和寺がどこにあるのかも間違いなく知らないだろうに、さっさと歩き始める。
それが方向違いだったらきっと龍麻達はこっそり置いていったろうが、
残念ながら仁和寺へ向かうバスの乗り場は京一が歩く方向と一致していたので、
龍麻は他の友人に肩をすくめてみせつつ後をついていったのだった。
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