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 目黒を出発した龍麻達が、新宿駅に着いた頃。
真神学園へ続く通学路は、まだ閑散としていた。
真神学園はそれほどランクの低い高校ではないが、登校の風景は他の多くの高校と大差ない。
学校へ向かう生徒の数は十五分ほど前から急に増え始め、五分ほど前にピークに達するのだ。
その中には京一や小蒔、時には龍麻の姿もある。
 今は始業まで三十分以上あるので、喧騒とは無縁のこの時間の、
数えるほどしかいない生徒達の中に、ひときわ目立つ金髪の、深紅のジャケットを着た女性がいた。
真神学園の英語教師である、マリア・アルカードだ。
その美貌と気さくな態度の為に全校生徒で知らぬ者はなく、一説には彼女を一目見ようと、
彼女の出勤する時間に合わせて登校する生徒が多すぎて問題になり、
止むを得ずにマリアの方が時間を変えたと言われている。
 今、その噂が真実であると証明するかのように、
彼女を見かけた数少ない幸運な生徒達は例外なく挨拶し、
マリアもそれに応えていたが、やがて彼女は一人の生徒の肩を叩いた。
「美里サン」
「あ、マリア先生、おはようございます」
Good Morningおはよう. 今朝は一人なのね」
 マリアは良く彼女──美里葵と、彼女の友人である桜井小蒔が一緒に通学しているのを見ている。
毎回、ではない。
小蒔が寝過ごして遅刻寸前に駆け込んでくる日が、
月に五日ほど──夏休みを過ぎて部活動が終わってからは、もう一日二日ほど増えている──あった。
今日も、その何日かのうちの一日なのだろうか。
教師としてまっとうな感覚を持っているマリアは、生徒の遅刻などもちろん喜ばしいはずもなく、
扉を開けて彼女が駆け込んでくる、ごく近い将来を想像して内心で眉をひそめた。
しかし、どうやら問題児未満の教え子は、まだ夢の続きを愉しんでいる訳ではないようだった。
「はい、小蒔ったら後輩をしごくんだって弓道部の朝練に行ったんです」
「そう……桜井サンらしいわね」
 内心のことなどおくびにも出さず、
マリアは朝という時間には似つかわしくないほど艶やかに微笑む。
葵もそれに応じて小さく笑ったが、マリアは、彼女の表情がすぐれないことに気が付いた。
「美里サン、なんだか元気が無いけれど、何かあったのかしら?」
「あの……大事な腕時計を失くしてしまって」
「まぁ……」
 物にはほとんど執着しないマリアは、葵の悲しみを完全には理解出来ない。
しかし、彼女の小さな染みのようであった不安が、顔一面に広がっていくのを見て、
それを推し量ることは出来た。
目で促すマリアに、葵は落ち込んだ様子で語り始める。
「昨日、ボランティア活動をしている母と一緒に、
大田区の文化会館で行われたバザーの手伝いに行ったんです」
「バザー?」
「はい。世界中の恵まれない子供達の為のバザーで、収益金は孤児院を建てる為の基金になるそうです」
 恐らく葵は、世界中にいる孤児達を実際に見たことは無いだろう。
それを見る必要がないというのは幸せなことであり、
見たこともない子供達の為に慈愛の手を差し伸べる彼女の行為はたたうべきものだが、
マリアの口調には葵に対してだけではない憐憫れんびんが含まれていた。
「……戦争や災害といった混乱で最初に被害を受けるのは、いつの時代も……子供達。
愚かな──いえ、悲しいことね」
「ええ……」
 葵の声は沈んでいる。
彼女を責めても仕方がないと、マリアはかぶりを振って話題を戻した。
「それで、腕時計はその時に?」
「はい。高校入学の時に父から贈られたものなんです」
 そこまで葵が言った時だった。
突然、マリアの表情が険しくなる。
何事かと葵が驚いていると、
極度の摩擦を与えられたタイヤが上げる、けたたましい悲鳴が鼓膜を撃った。
ほぼ同時に、敬愛する教師の身体が覆い被さってくる。
 彼女がまとう甘い薔薇の香りに五感を惹かれながら葵が見たものは、
停まった車から降りてくる幾人かの人間だった。
黒服の男達が二人、それに子供が二人。
一直線にこちらに向かってくる彼らは、どうやら自分達に用があるらしかった。
でも──どうして。
暴力の匂いを隠そうともせず近づいてくる男達を見ながら、葵はひどく冷静に考えていた。
マリアの腕の中という安心感と、彼女がもたらす薔薇の香りが
恐怖を忘れさせていたのかもしれない。
『力』のせい──?
自分を護っていた腕を解き、今度は背中に押し込めて盾となるマリアの、
美しい金色の髪が、そんなことを考えさせる。
 半年前に突然与えられた『力』。
その意味を、葵はもう数えきれないくらいに考えてきた。
どうして、私なのか──
どうして、誰か他の人じゃないのか──
怨嗟の念さえ混じるその疑問に答えを与えてくれたのは、
同じ『力』を持った仲間達、そしてその中の、力強く輝く瞳を持つ同級生だった。
幾多もの血が流れ、時には仲間が傷つくのを目の当たりにしながら、
葵が巻き込まれた宿命に押し潰されずに闘ってこれたのは、彼がいたからだった。
助けて──
葵は迫りつつある危機に、いつもそばにいてくれる人間ひとに助けを求める。
しかし、いくら彼が超人的な『力』を持っていても、
今は目黒区に行っているはずだから、来られる訳がない。
 無理やりにでもついていかなかったことを悔やむ葵と、彼女を庇うマリアの前に、
悪意を発散させながら男達が立った。
その中の、白に近い金髪を短く刈り上げた目つきの鋭い少年が、尊大な口調で命じる。
「Stop! Freezeうごくな.」
「What──are you doingなんのマネ?」
 命令に詰問で答えながら、マリアは時間を稼ぐことを念頭に置いていた。
朝のこの時間だ、何分か稼げればきっと目撃者が現れてくれるに違いない。
マリアが緊張を隠し、暴力に立ち向かう決意を固めていると、
黒人の、まだ十五にはなっていないだろう少年が、早口でまくしたてた。
Shut upだまれ.」
 下品な音を立ててガムを噛みながらの台詞に、
マリアは彼の頬を思いきり張り飛ばしたい衝動に駆られた。
しかし、葵がいる状況下で激発は出来ない。
この子供はともかく、黒服の男二人、
そして白人の少年はなんらかの専門的な訓練を受けているのが容易に見て取れたからだ。
Aoi MisatoみさとあおいAren’t youおまえだな?」
Come onこっちへこい!!」
 白人の少年が写真を取り出し、そこには恐らく葵が写っているのだろう、
本人と写真を見比べて同一であることを確かめると、黒人の子供が乱暴に葵の腕を掴んだ。
その手を彼女に代わって払いのけたマリアは、
彼らに教え子達には決して聞かせたことのない怒声を浴びせた。
Kidnappersゆうかいね……Don’t be sillyバカなことをLet her goそのこをはなして,and go awayきえなさい!!」
Bitchクソアマッ!!」
Freezeていこうするな.」
 子供はよほどしつけが行き届いていないのか、今にも激発しそうであったが、
少年の方は対照的に恐ろしいほど冷静だった。
彼の命令に応じて、黒服が銃を取り出す。
早朝の青空に鈍色の凶器は空想の産物ではないかと言えるほど浮いていたが、
それが本物であることはマリアも認めざるを得なかった。
 抵抗を諦め、腕を上げる。
Take her with usそいつもつれていく.」
Hey bitchクソアマがcome onきやがれ!!」
 子供が下卑た笑い声をあげて腕を掴んだ瞬間抑えが利かなくなり、
マリアは彼の頬を音高く打ち鳴らしていた。
「Shit!! Fucker.」
 頬を抑えた子供の身体から、異様な気配が立ち上る。
単なる怒りや憎しみとも違うそれに、マリアは思わず立ちすくんでいた。
 マリアが子供を殴ったことに一瞬怯んだ男達も、
再び彼女と葵の腕を掴み、車に連れていく。
「Hey,21トニーッ!! Let’s go awayいくぞ.」
 子供はなおも妖しい気配を周囲に撒き散らしていたが、
少年に呼ばれるとガムを吐き出して車に乗りこんだ。
 マリアと葵を別々の車に押し込めた男達は力任せにアクセルを踏み込み、
来た時と同様スキール音を立てて去っていく。
 そのスキール音が完全に消え去ってから、一人の少女が木陰から姿を現した。
真神学園の制服を着た、手にはごついカメラを持った少女は、誰あろう遠野杏子だった。
「と……とッ、特ダネだわッ!! この写真を週刊誌に売り込めば……
ううん、警察に持ってってコネを作っておくのも悪くないわね。
白昼の誘拐劇を目撃した美少女記者。ワイドショーとかの取材も来たりして」
 ジャーナリストの悪癖として、全ての事柄をまず記事に置き換えてしまうというのがある。
他はともかく、その部分だけは充分にジャーナリストになる条件を満たしている杏子は、
友人と教師が攫われた事実を前に、そのニュース性しか頭にないようだった。
興奮冷めやらぬ様子でまくし立て、撮影した特ダネ映像を収めた機械を愛おしげに見やる。
「ん……? ああッ!! カメラ、壊れてる……
どうして、いつも念入りに手入れメンテしてあったのに」
 カメラは彼女にとってペンの次に大切な物だ。
だから手入れはプロも舌を巻くほど丁寧に行っていたし、
何か故障があれば必ずチェックしてあった。
現に今も、ピントを合わせ、シャッターを切るまでは間違いなく動作していたはずなのだ。
それからわずか数分の間に故障するなどと、考えられないことだった。
 マスコミデビューのチャンスを逃した杏子はがっくりとうなだれていたが、
気を取りなおして現場検証を始める。
「そういえばあいつらが逃げる時、何か光る物が落ちたみたいだったけど……あ、あった」
 眼鏡を常用している杏子は、もちろん決して視力が良いわけではない。
しかし、彼女の興味の対象である限り、
そのまなこはどんな小さな事柄をも見落とすことはないのだ。
 油断なく地面を見渡していた彼女は、
マリア達が誘拐犯と揉み合っていた場所に落ちている小さなものを拾い上げた。
「何コレ……バッジかしら。わし……? でもどっかで見たことあるような気が……」
 考えてみたが、この場では思い出せそうにないので、とりあえずポケットにねじ込む。
「これは面白くなってきたわね」
 呟いた杏子は、事件を報告すべく、真神学園の、自分の隣のクラスに向かって駆け出したのだった。

 龍麻が自分のクラスの扉を開けると、もう九割がたの級友達が来ていた。
それも当然で、あと三分もすればマリアがやって来て朝のホームルームが始まる時間だ。
龍麻が軽く手を挙げて挨拶する友人達に応じていると、京一が全く焦った様子もなく入ってきた。
「ふぅ、ギリギリセーフってトコか」
「お前が飯でも食っていこうなんて言わなければ後三十分は早く着いただろうが」
 更にその後ろから入ってきた醍醐の言う通りだった。
 新宿駅に着いた時点ではまだ相当に余裕があったのだが、それが災いしたのか、
京一は温かいギンシャリが食いたいなどと言い出し、
パンでも買って学校で食べようという龍麻達と対立した挙句
二十四時間営業のチェーン店に強行突入したのだ。
「あぁ? 腹減ったんだからしょうがねェじゃねぇか。それに間に合ったんだからいいだろ」
 朝飯はしっかり腹に入れたものの、その後運動を強いられた為に、京一の機嫌は普通に戻っている。
早速口を尖らせて言い争いを始める二人を放って、
龍麻が自分の席に向かおうとすると、小蒔がやってきた。
「おっはよ」
「おはよう、桜井さん」
「随分遅かったね。迷ったの?」
 答えたのは龍麻ではなく、京一との不毛な争いを打ち切った醍醐だった。
「いや、そうじゃなくて京一こいつがな」
「なんで俺のせいにすんだよ」
「お前のせい以外、他に何があるんだ」
 力強く断言する醍醐に龍麻も首を振る。
黙らされた京一に、小蒔がしみじみと諭した。
「京一……あんまり醍醐クンとひーちゃんの足引っ張るなよ」
 防戦一方に追い込まれた京一は、わざとらしく額に手を当てて教室を見渡す。
「そういえば、美里はどうしたんだよ」
「あ、うん……ボクも気になってるんだけど」
 葵は遅刻したことがない。
時にはマリアより遅く教室に入ることがある小蒔とも違い、
始業ぎりぎりに来ることさえまずないといって良かった。
だから、この時間にまだ姿を見せていないということは、具合が悪くて休むのかもしれない。
 龍麻と小蒔が揃いの表情を浮かべると、扉が叩きつけるような勢いで開かれた。
ちょうど扉の前に立っていた小蒔は、思わず飛び上がってしまう。
小蒔だけでなく、クラス全員を振り向かせた主は、隣のクラスの遠野杏子だった。
彼女がこうやって入ってくるのはいつものことなので、生徒達はすぐに自分達の会話に戻る。
目の前に用のある四人が揃っているというのに、杏子の声は教室の奥まで優に届くほど大きかった。
「ちょっとアンタたちッ、事件よ事件ッ!!」
「なんだアン子、新聞部が廃部にでもなったのか?」
 京一の毒は、普段と較べて特に強かった訳でもない。
しかし龍麻達が見たのは、雷光の如き速さで繰り出された杏子の掌と、
それが見事命中してよろめく京一の姿だった。
「それどころじゃないんだから余計なコト言わないのッ!!」
「どしたのさ、そんなに大変なコト?」
 龍麻の肩にもたれて身を支える京一には一瞥いちべつをくれただけで、小蒔が訊ねる。
すると杏子は、雷速の手の動きをそのまま声に変換したようにまくしたてた。
「大変も大変よ、耳かっぽじって良く聞きなさいよ、
美里ちゃんとマリア先生が誘拐されたのよッ!!」
「誘拐……って」
 高校生と教師が、この日本の中心で、早朝から。
いくらなんでも鵜呑みにするには引っ掛かる部分が多すぎる情報ネタだった。
「ちょっとアン子、本当なのソレ? 冗談だったら趣味悪すぎるよ」
「本当も本当、あたしがこの目で見たのよッ!!
外国人の、まだ子供みたいだったけど、その二人と銃を持った男達が
美里ちゃんとマリア先生を脅して、無理やり車に乗せて連れ去ったのよ」
 どうやら杏子が嘘を言っている訳ではないと知り、龍麻達は顔を見合わせる。
そもそもどれほど馬鹿げた話であっても、自分達は一笑に付せる立場ではないのだ。
そして事実、もうとっくにホームルームは始まって良い時間なのに、まだマリアは姿を見せていない。
どうやら現実は、映画や小説などよりずっと性質たちの悪い脚本によって作られているようだった。
 龍麻はもう少し声を潜めて話すよう杏子に頼み、改めて話を聞く。
「ミサトアオイって言ってたのが聞こえたから、多分狙いは美里ちゃんね。
マリア先生は一緒にいて巻き添えを食った可能性が高いわ」
「外人の子供二人に、銃を持った男か……営利目的か?」
 腕を組み、醍醐がうなる。
龍麻は考えをまとめるために沈黙を保ち、仲間達が交わす意見を聞くのに専念していた。
「あたしが見た感じではそうじゃなかったわ。男達は子供に指揮されていたし、
その子供も一人は黒人、もう一人は多分ロシア系で学生服を着ていたもの」
「営利目的じゃないとすると、まさか、鬼道衆……?」
 醍醐の目許に薄く憎悪が浮かぶ。
この手で同級生であった佐久間を葬ったという精神的外傷トラウマからは立ち直れたものの、
そうなるように仕組んだ鬼道衆に対する念は、消えることなく精神こころの奥底にたゆたっている。
憎悪の感情は己を歪めると、苦すぎる教訓を得ている醍醐は、
もう決してそれに支配されることはなかったが、
鬼道衆の名を聞くと泡のように精神の表層に浮かんでしまうそれを完全に抑えることまでは出来なかった。
「くそッ……今度は美里を狙ってきやがったか」
 京一が拳を打ち鳴らす。
このところ激しい日々が続いた為に、
少しでも葵と小蒔を休ませてやろうという配慮が完全に裏目に出た形となり、
自責の念は己を殴りつけた程度では全く晴れることはなかった。
特に龍麻に対しては、目を合わせることさえ出来ない。
恐らく龍麻は京一おまえのせいじゃない──そう言うだろう。
しかし、何がなんでも彼女達を無事に助け出さなければ、これから先仲間達に顔向けが出来なくなる。
 京一は己の裡に、静かな決意を立てた。
「うーん……鬼道衆とも違うような気がするのよ。これを見て」
 鬼道衆に対する憎しみを露にする醍醐と京一だったが、杏子の見解は彼らとは異なっていた。
その理由をポケットから取り出し、輪の中央に差し出す。
「誘拐犯が落としていったものなんだけど」
「なんだこりゃ、鷲……みたいだな」
「やっぱりそう見えるでしょ? 鬼道衆って組織がどんなのか知らないけど、
アンタ達今までこんなの見たことある?」
 確かに、今まで鬼道衆を名乗った水角、風角、炎角、岩角は、
いずれも忍者装束を着ていて、それらはこのような鷲の紋章とは基本的に相容れない格好だ。
「じゃあ誰が」
「わからないわ。でもとりあえずはこれを手がかりに当たってみるしかないわね。
結構特徴的なものだから、部室へ行って調べてみれば何か判るかも」
「よし、行こう、遠野さん」
 差し当たっての行動が決まり、龍麻は駆け出した。
どんな小さな手掛かりであったとしても必ず見つけ出し、
二人を助け出すという意思を、全身にみなぎらせて。



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