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 霊研の中は、相変わらず不気味な雰囲気に満ちていた。
扉の外から既に首筋のうぶ毛を逆立たせるような、名状しがたい空気が漂っている。
今は仲間がいるから良いものの、例えば夜、
一人でここに行けと言われたら尻込みしてしまうかも知れない、と思いながら、
龍麻は、恐らく自分よりは怖がりであろう大男をちらりと見た。
その大男は態度にこそ出していないものの、案の定顔色が少し悪くなっている。
こいつよりはましだ、と低いレベルで満足した龍麻は、
先陣を切って入った小蒔に続いてオカルトの巣窟へと足を踏み入れた。
「ミサちゃん……? あれ、いないのかな」
 薄暗い部屋の中は、龍麻達五人が入るともう窮屈さを感じてしまう。
だが部屋の主の気配はどこにもなく、留守なのかと小蒔が後ろを向いた。
まさにその瞬間、前を向いたままの龍麻は、
部屋の主であるミサが蜃気楼のようにゆらめいて忽然と現れたのを確かに見た。
驚きのあまり、口をぱくぱくと開く龍麻に、ミサはにたりと笑う。
どこにいたのか、どうやって現れたのか、など聞くだけ無駄だ、と既にして告げている笑みだった。
「うふふふふ〜、ようこそ、我が居城れいけんへ〜。待ってたわよ〜、緋勇く〜ん、京一く〜ん」
「なッ、なんで龍麻と俺だけ名指しなんだよ」
 京一が声を張り上げる。
龍麻はと言えばまだショックから立ち直れておらず、
まばたきもせず、黒い瞳を大きく見開いてミサを見つめているだけだ。
「うふふふふ〜」
 そんな龍麻にミサは、全く表情のうかがえない眼鏡を不気味に光らせる。
室内にある光の位置からすると、彼女の眼鏡が光るのは物理的にありえないことなのだが、
この部屋自体が超自然的法則にのっとっているかもしれないので、
誰も余計なことを訊ねようとはしなかった。
「うッ……ま、まぁいい、それより聞きてェことがあんだよ」
 彼女のペースに巻きこまれまいとしたのか、珍しく京一が率先して話しかける。
小さく頷いたミサは、机の上に置いてある水晶珠を愛しげに撫でた。
「我が下に集いし知恵の精霊キュリオテーテスの恩恵により〜、
汝が望む知識の全てを声なき声ナーダにより授けよう〜。
でもその前に〜、あたしも〜、聞きたいことがあるの〜」
「なッ、なんだよ、スリーサイズなら教えられねェぜ」
 どこまでもたわけたことを言う京一だったが、ミサの返答はその京一をも絶句させるものだった。
「うふふ〜、それはもう知ってるからいいの〜」
「なッ……!!」
 命の次に大事だ、と公言してはばからない木刀を取り落としそうになっていることからも、
彼の受けた衝撃が推し量れるというものだ。
それは実は龍麻も同じで、名指しで呼ばれた者同士、
もしかしたら自分ですら測ったこともないスリーサイズを
既に知られているのではないかと慄然としていた。
 だがそんな話は当事者以外にはどうでもいいことらしく、醍醐が苛ついたように声を荒げる。
「もういい、少し黙ってろ、京一。話が全く進まん」
 彼の言う通り、何一つ話を前に進めずに沈黙した龍麻と京一に代わって、葵が進み出た。
「私達に聞きたいことって何、ミサちゃん」
 葵が訊ねた後も、ミサは謎めいた眼鏡を京一の方に向けていたが、
相手が葵だと彼女でも真面目になるらしく、
口調こそ変わらないものの話題は彼女の、そして龍麻達の求めるものへと移った。
「うふふふふ〜、アン子ちゃ〜んからも話は聞いてるけど〜、
皆〜、八俣大蛇ヤマタノオロチを見たって本当なの〜?」
「あぁ……氣の姿で、実体はなかったけど」
 ミサが言う八俣大蛇とは一週間ほど前の、帯脇斬己の変じた姿を指していた。
ふとした縁から知り合ったアイドルの舞園さやかと彼女の同級生である霧島諸羽を、
彼女を歪んだ独占欲でつけ狙っていた帯脇から護るため、龍麻達は鳳銘高校で彼と闘った。
その時、一度敗北した帯脇は、凄まじい陰氣と共に、神話上の存在である八俣大蛇に姿を変えたのだった。
 龍麻の話を、ミサは驚いた様子もなく聞き入っていたが、
龍麻が口を閉ざすとさも残念そうに首を振った。
残念そう、というのはあくまでも態度だけで、表情はどうなのかさっぱり判らない。
「そうなの〜、あたしも見たかったな〜、呼んでくれれば良かったのに〜」
 いかにも興味本位なミサの口ぶりに、帯脇に散々苦戦した龍麻は苦い表情になる。
何しろ偶然一緒にいた紫暮がいなければ、敗れていたかもしれないのだ。
 もともと龍麻と稽古をするつもりだった紫暮は、
人外の強敵と闘わされたことについては全く不満を述べなかった。
それどころか実はさやかの、京一などより遥かに熱烈なファンだった彼は、
己の武道が思いも寄らぬ形で役に立ったことに、その日一日感激しどうしだったのだ。
さやかはアイドルとしてなのか、それともそれが彼女の素なのか、
サインどころか図々しくも握手まで求めた紫暮にも嫌な顔ひとつ見せず応対していたが、
龍麻と京一は何かとびに油揚げをかっさらわれたような気がして面白くない。
またそれを小蒔がからかったりするものだから、
病院を抜け出してきた諸羽を再びたか子の元に送り返し、さやかと別れた後、
龍麻は思わず京一とやけ・・ラーメンを食べに行ってしまったほどなのだ。
 もちろん、ミサは龍麻の口がへの字に曲がろうが、
何を思い出して機嫌を悪くしていようが知ったことではない。
彼女の興味があるのは、オカルト絡みのことだけなのだ。
「それで〜、大蛇オロチは何か言ってた〜?」
 的確な、まるでその場にいたかのような質問に、
龍麻はすぐに記憶からその時のことを引っ張りだすことが出来た。
「そういえば、舞園さんを見てクシナダ、とか霧島を見てスサノオ、とか言ってた」
「うん、言ってたね。……でも、あれってホントに八俣大蛇だったのかな」
 同意した小蒔がついでに疑問を呈する。
するとミサは、良いところに気づいた、とばかりに大きく頷いた。
「多分それは〜、一種の憑依現象ね〜」
「憑依って、その人間の素を呼び起こしたものじゃなかったのか」
「それも無関係ではないけど〜、帯脇って人の強い『念』が〜、
憑依していた大蛇の霊に〜、そのさやかって子を櫛名田姫と錯覚させたんだと思うの〜」
「錯覚……か、確かに状況は揃い過ぎていたな」
 この類のものは嫌いなはずのくせに、醍醐はやけに詳しい。
詳しいから嫌いなのか、嫌いだから詳しくなろうとしているのかは解らないが、
不思議と言えば不思議な話だ。
重々しく頷く醍醐を龍麻が横目で見ていると、ミサが話しかけてきた。
「緋勇く〜んは、憑き物って知ってる〜?」
「憑き物……いや、知らないけど」
「なんだ〜、緋勇く〜んなら知ってると思ったのに〜」
 一体彼女の中での自分の評価というのはどういうものなのか、訊ねてみたい龍麻だったが、
知らないものは知らないのでどうしようもない。
すると、小蒔が思い出したように口を開いた。
「ね、それってさ、キツネ憑きとかいうやつ?」
「そう〜。憑き物っていうのは〜、霊的な存在が〜、人間に乗り移ることの総称なのよ〜。
一般的には〜、動物霊がもたらす憑依現象だと考えられているわ〜。
日本で最も有名なのは『狐憑き』ね〜」
「うん、おばあちゃんに聞いたことあるよ。キツネに憑かれると、気が狂ったようになっちゃうって」
「でも憑き物は幸運をもたらすこともあるのよ〜。例えば、今日はツイてるって言うでしょ〜?
あれは憑き物が良い方に作用してるって意味からきてるの〜」
 ミサの薀蓄うんちくに龍麻達は聞き入る。
杏子とは違った意味でミサの話には何か引き込まれるものがあり、
好むと好まないとに関わらずつい耳を傾けてしまうのだ。
「でもやっぱりそれは稀なケースで〜、狐や狸、いぬといった動物の霊に取り憑かれた人々は〜、
急に暴れ出したり〜、あらぬことを口走ったり〜、その末路は発狂死〜、
もしくは憑き物に内臓を食い荒らされて死ぬって言われてるの〜」
 憑き物について簡単に説明したミサは、話を続ける。
「みんな〜は豊島で起こってる事件のことを聞きに来たんでしょ〜?
あれはもしかしたら憑き物の仕業かも知れないわよ〜」
 手際良く情報を整理し、筋道立てて話す杏子と異なり、
ミサは断片的な情報から急に核心に触れる。
難解な言い回しに加えて、全てを教えてくれる訳ではないので、
時として龍麻達は推理しなければならなかった。
今も、首を傾げながら、龍麻は考えを口にする。
もしかしたら、教師にレポートを提出するよりも緊張して。
「憑き物を自在に操れる奴がいて、そいつが帯脇や豊島の人間に獣の霊を取り憑かせているってこと?」
「多分ね〜。ただし、その帯脇って人の素が蛇なのに間違いはないわ〜。
だからこそ八俣大蛇の霊を憑かせることが出来たのよ〜。
そして、その人間の素を見抜き〜、それに相応しい霊を自在に憑かせることが出来るのは〜、
太古に滅びた憑依師ひょういしと呼ばれた人々だけなの〜」
「憑依師……?」
「平安時代に活躍した呪術師で〜、彼らは常に己の周りに動物霊を漂わせていて〜、
好きな時、好きな場所へと飛ばせるというわ〜。
今回の犯人は多分〜、その憑依師の系譜を継ぐ者ね〜。
そして、豊島に渦巻く強大な怨念をその糧としているの〜」
 答えが合っていたからか、ミサは龍麻達が望んでいた以上の情報を与えてくれた。
 行動の指針が出来た龍麻達は、お互いに頷きあう。
「豊島に渦巻く怨念……ね、よくわかんねェけどよ、
豊島区にいるその憑依師ってヤツを捜し出してブチのめせばいいってこったろ」
「そういうことだな。そうと決まれば俺達は早速」
「ああ、池袋に行こう」
 龍麻が礼を言おうとすると、ミサがあの、なんとも名状しがたい笑みを湛えて告げた。
「強い意思を持つ者は取り憑かれにくいって言うから〜、皆は多分大丈夫だと思うけど〜、
でも憑依師と接触する時は感情を昂ぶらせると霊の侵入を容易たやすくさせてしまうから〜、
気をつけてね〜。死にたくなければ平常心〜、うふふふふ〜」
「お前と話してると意味もなく不安になってくるな……」
「そんなコト言ったら失礼だろッ、ね、ひーちゃん」
 こういう時は振られても困る、と思う龍麻だった。
ミサの口調は、確かに不安をいたずらに煽るようなものだったからだ。
それが思い過ごしであってほしい、という龍麻の願いは、どうやら叶えられないようであった。
「いいのよ〜、これは心配と同時に期待でもあるから〜。お土産楽しみにしてるからね〜」
「土産……って?」
「うふふふふ〜、ヒ・ミ・ツ〜、うふふふふ〜」
 より一層名状しがたい、しかしどこか邪悪をほのめかせた笑みに見送られて、
龍麻達はミサの許を辞したのだった。

 霊研を出た五人は、下駄箱へと移動しながら今後の予定を相談していた。
と言っても、基本的にはもう定まっている。
「よし、んじゃとっとと池袋まで行こうぜ」
 常識では計れない異能力を持った人間が平和を乱すのならば、
それに対抗出来る『力』を持った人間が東京このまちを護るべきだ。
春以来いくつもの事件に関わった龍麻達は、そう考え、行動してきた。
過剰な使命感などではなく、それは彼らにとって、ごく自然なことだったのだ。
今も、五人は改めてそれぞれの意思を確認するまでもなく、揃って池袋に向かう。
こうして五人でいることに、何故か、いくばくかの懐かしさを感じながら。
「今からだとサラリーマンの退社時刻に重なるな」
 傾き始めた太陽を見て醍醐が呟く。
授業が終わってからはそれほど時間を無駄にせずに動いたつもりだったが、
ミサの所で三十分ほども話を聞いていたために、池袋に着く頃には五時を回りそうだった。
 世界でも有数の大都市に住む人間として、
新宿や池袋の混雑を骨の髄まで味わっている小蒔が少しうんざりしたように首を振る。
「人ごみの中で憑依師を捜すのかぁ……大変そうだね」
「いや……案外簡単だと思うぜ」
「どういうことさ」
 いぶかしげに訊ねる小蒔に、京一はにやりと笑って学生鞄を持ち直した。
 象にでも踏まれたようなぺらぺらの鞄の中には、きっと何も入っていないのだろう。
受験を控えた学生としてはちょっと信じられないが、
今日のようにほぼ荒事が待っているのが確実な場合は都合が良いのかもしれない。
三年間で相当手酷く扱われたのだろう、見た目にもぼろぼろの鞄は、しかし京一には似合っていた。
「憑依師が力を貸してた帯脇を俺達は倒した──そいつが何を企んでるかは知らねェが、
向こうの方からちょっかいかけてくるんじゃねェかと俺は思うがな」
「なるほどね」
 京一の推理はそれほどずれている訳でもなさそうだった。
とりあえず杏子の調べてくれた、発狂事件の頻発している地域に向かってみることにして、
龍麻達はまず新宿駅へと向かう。
 校門を出て、幾度か角を曲がったところで小蒔が足を止めた。
弓道をたしなんでいるからか、一行の中でも群を抜いて視力が良い彼女は、
前方を歩いている男性にいち早く気づいたのだ。
「あれ? あの歩いてるのって、霧島クンじゃない?」
「おッ、本当だ。何やってんだあいつ、こんな所で。おい諸羽ッ!」
 京一が声を張り上げると、諸羽はすぐに気付いて駆けよってきた。
身体の何ヶ所かに包帯は巻いているものの、その足取りに危なげなところはない。
もう顔見知りになっているというのに律儀に頭を下げ、挨拶する声も、
初めて会った時の張りがあった。
「京一先輩ッ! それに皆さんも!」
「元気そうじゃねェか。怪我はもういいのか」
「はい、今も病院に行った帰りなんですけど、院長先生にもう通院でいいって言われてるんです」
「そうか」
「はいッ! でも感激です、京一先輩に心配してもらえるなんて」
 諸羽が本当に嬉しそうなのは結構なことだったが、
こうも京一にべったりだと年長者として龍麻達は一抹の危惧を覚えずにはいられない。
前途有望な少年があたら道を踏み誤るようなことがあっては、さやかに申し訳ないではないか。
しかし諸羽は龍麻達全員にきちんと敬意を払いながらも、
やはり本命は京一のようで、彼を見る眼差しはまばゆいほどの輝きに満ちている。
「京一先輩病は相変わらずなんだ」
「怪我は治っても、それは治らなかったか……」
 小蒔と醍醐が口々にため息をつく。
どうやら諸羽のかかった病気は恋の病と同じくらい治すのが難しいようで、
先輩達としては嘆かわしいやら微笑ましいやら不安になるやらなのだった。
「皆さんお揃いで、これから帰るところなんですか」
 ひとしきり挨拶を済ませた諸羽が訊ねる。
彼が自分達と──正確には京一と行動を共にしたがっているというのは明白だったが、
京一の返事は龍麻達にとって少し意外なものだった。
「いや──池袋にちょっと野暮用でよ」
「なにカッコつけてんのさ。ボクたちね、豊島で起きてる事件を解決しに行くトコなんだ」
「それって、もしかして……あの人が突然発狂するって事件のことですか」
 諸羽の顔色が変わる。
後輩に今から池袋に行く理由を話せば、
後の彼の反応がわかりきっているだけに京一は伏せたのだが、
京一が気を回す可能性、などというものを考えたことさえない小蒔には残念ながら伝わらなかったようだ。
 普段から第一印象が真面目以外ありえない諸羽は、今は真剣そのものの面持ちで京一を見ている。
京一はまず小蒔を、次いで諸羽を見て軽く嘆息した。
「またお前は……しょうがねェな、確かにその事件のことなんだけどよ、
どうもあれ……帯脇と関係あるみてェなんだよ」
「帯脇!? ──そうですか、それなら僕も一緒に連れていってくださいッ!
帯脇に関係するのなら僕にも関係があります。
そいつが何者であれ、さやかちゃんを傷つけるのに荷担したのなら──」
「お前……自分が病みあがりだって解ってんだろうな? 俺達もお前を護るほどの余裕はねェぞ」
 静かな怒りに声を震わせる諸羽にかけられた京一の声は、決して甘いものではなかった。
その語勢に諸羽は息を呑んだが、すぐにきっぱりと答える。
「それは……解ってるつもりです。皆さんの足手まといにならないようにしますから」
「ならいいさ。いいだろ?」
 京一の台詞の前半は後輩に、後半は同級生に向けられたものだった。
正直、京一の言う通り病みあがりの諸羽に不安がない訳ではない──が、
諸羽の瞳に満ちた激情──さやかを護ろうとする想いから生じた、純粋な怒り──を
見てしまっては、断ることは龍麻には出来なかった。
 頷く龍麻に、小蒔が囁きかける。
「あんなコト言ってさ、いざって時は霧島クン助けてあげるよね、絶対」
 小蒔の声に棘はなく、この師弟への好意が透けて見えていた。
葵と醍醐も同じ気持ちなのだろう、穏やかな笑顔を京一に向けている。
龍麻がもう一度頷くと、
「誰が助けるかッ! 俺は男を助ける趣味はねェんだよッ!! ほれ、さっさと行くぞッ!」
 明らかに照れ隠しと判る態度で怒鳴り散らした京一は、諸羽を従え憤然と歩き出す。
その後ろを、龍麻達はやや遅れて、笑みを浮かべたままついていった。



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