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「池袋か……久しぶりだな」
「ボクも。滅多に来ないもんね。池袋こっちにも美味しいラーメン屋はたくさんあるみたいなんだけど」
 小蒔の頭の中には二十三区のラーメン情報がほぼ網羅されているのだが、
何しろ近場に値段と味の双方をかなり高い基準で満たす店があるので、あまり遠征することはないのだ。
いい機会とばかりに顔を輝かせている小蒔に、さっそく京一が皮肉を飛ばした。
「お前の地図はラーメン屋を基準にしてんのかよ」
「そうだよ。悪い?」
 悪びれもせずに言いきった小蒔に、醍醐が肺の底から大きな息を吐き出す。
「お前ら……遊びに来たんじゃないだろう」
「えー、だって早く終わったらさ、ちょっとくらいいいじゃない。お腹も空いてるだろうし」
「……」
 どうやら小蒔は本気でラーメンを食べて行こうと考えているようで、
その緊張感の無さに心配性の巨漢は危惧を抱かずにはいられないようだった。
小難しい顔をして黙りこんでしまった醍醐に、京一が肩を叩く。
「まぁいいじゃねェか。早くラーメンを食う為に早く悪党を倒す。結構なコトじゃねェか」
 こんな街中で襲ってくるはずもないのだから、と京一は達観しているようで、
確かにあまり緊張していてはいざという時にへばってしまうから、
京一の言い分にも一理あるのだが、醍醐は顔を曇らせたままだ。
 構っていられない、と肩をすくめた京一は、忙しげに歩き回る会社員やOLを見回した。
「しっかし──こうやって眺めてても妙なところはねェな」
「そうね。人々の表情を見る限りではとても事件が起こっているなんて思えないわね」
 無関心──場面を切り取って題名をつけるならそれ以外には思い浮かばないような街の姿だった。
葵の言葉に龍麻が頷くと、醍醐も加わってくる。
「池袋、渋谷、新宿──都内で有数の人と物の密集する地域だ。
こういう所にはあらゆるものが引き寄せられてくるというが、龍麻、お前は何も感じないか」
 訊かれて龍麻は意識を集中してみた。
春先からこちら、鬼道衆との闘いで氣を操る術を実戦で学んできた龍麻は、
ある程度なら他人の氣を探れるようになっていた。
仲間や敵のように極端に強い氣を持つ者の他にも、
潜在的に大きな氣を持っている人間なら感じ取ることが出来るようになっていたのだ。
その察知力センサーは葵のように鋭敏ではないが、興奮している人間ならなんとか判る。
 しかし、今は対象となる人間が多過ぎて、混沌とした氣しか読み取ることは出来なかった。
ところが醍醐が言いたいのはやや異なるようで、彼は頭を振った龍麻に残念そうなだけでなく、
不安めいたものも覗かせて顎に手を当てた。
「そうか……苦手なものほど敏感に反応すると言うが……」
 言葉を濁す大男に、敏感に反応したのは彼の一番の悪友だった。
醍醐の言いたいことを察知し、意味ありげに笑みを浮かべる。
「なんだ醍醐、アレがいンのか」
「アレって……なんですか、京一先輩」
「アレって言やァアレだよ、ほれ、夏になると出るヤツ」
「……?」
 愉快そうに言う京一だったが、諸羽には解らないらしく、小難しい顔をして考えこんでしまった。
さっさと教えてやれば良いものを、意地悪く口を濁す京一に、見かねて小蒔が純真過ぎる後輩を諭した。
「霧島クン、京一の言うコトいちいち真に受けなくていいよ。そのうち判るとは思うけど」
「は、はい……」
 一応はコミュニケーションのつもりだったのか、京一はつまらなそうに鼻を鳴らす。
しかし、後輩と親睦を深めようとしているように見えないのは彼の人徳というものだ。
「人の集まるところには成仏できないのが人肌を求めて漂ってくるっていうじゃねェか」
 諸羽をからかえなくなった京一は標的を醍醐に変えたらしく、
わざわざ雰囲気を出してそううそぶいてみせる。
京一が言うのが真実だとすれば、新宿はもっと幽霊がたくさんいることになるのだが、
怯え気味の醍醐はそんなことにも頭が回らないらしく、
ろくでもない友人の悪意にうそ寒そうに辺りを見渡した。
もちろんそんなものは見当たりはせず、取り越し苦労だと醍醐が安堵しようとした矢先、
今度は葵が口を開いた。
「でも……それだけじゃないわ。何か、激しい憎悪みたいなのが、この場所にはある……」
 明らかに自分を脅かそうとして言っている京一ならともかく、
あまり冗談を言いそうにない葵が口にしたことだから、
醍醐は表情の選択に困って顔をしかめるしかなかった。
葵も決して彼を怖がらせようとしているのではないが、
つい口にしてしまうほどのくらい氣がこの地から感じられたのだ。
「それって……ミサちゃんが言ってた渦巻く怨念ってヤツかな」
「わからない……でも、この街の空を覆う、強大な悪意を感じるわ」
 空を見上げて言う葵に、龍麻もつられて上を見る。
紅から紫へと移り変わっている景色の中、威容を放つ巨大なビルが浮かび上がっていた。
サンシャインという名のその建築物は、
今でこそ他の場所でも同じか、もっと高いビルを見ることが出来るが、
ここは周りに同程度のビルがないために、その高さが際立って見える。
昼間は文明と近代社会の象徴のような巨大ビルも、
こうして夜見ると不気味な墓標のようにすら思われ、
何か良くない気分にさせられてしまう龍麻だった。
「ま、着いたばっかりだしな、もうちっと歩いてみようぜ」
 着いて早々沈んでしまった雰囲気を、とりなすように京一が明るく言う。
確かにここでこうしていても始まらないので、龍麻達はサンシャインを離れ、池袋の街を歩き始めた。

 池袋の駅から、サンシャイン通りを雑司が谷の方へと歩いていく。
通りは醍醐が言った通り会社の終わったサラリーマンやOLでごった返しており、
ともすればはぐれてしまいそうなほどだった。
「あんな事件が起こってるっていうのに、結構な人出だね」
「そうだな。ほとんどの人は自分だけは大丈夫、と思っているんだろうな」
 呆れたように言う小蒔に、醍醐が親のように頷く。
なるべく道の端の方を歩くようにしているのだが、それでも人の流れは時として自分達にも及び、
小蒔はぶつかりそうになるとそのつど巧みに身をかわしていた。
醍醐を盾にして自分は悠然と歩く京一が、気ぜわしく行き交う人々を見て達観したように肩をすくめる。
「けどよ、無感動で無関心──そうじゃねェとやってらんねェってのもあるんじゃねェのか」
「そうかも知れない……でも、それは寂しいことね」
 葵が哀しげに呟いた。
 駅へと向かう人の流れに逆らって歩き、信号で立ち止まった龍麻達に、不意に呼びかける声があった。
「あの」
 騒がしい雑踏の中で、その声はひどくはっきりと聞こえ、
しかも龍麻は、それが自分達に向けて発せられているのだと聞いた瞬間に確信していた。
「あン? ……って!」
 いぶかしげに振り向いた京一の顔が、驚愕に変わる。
ファンなら声を聞いただけで判らないとな、と変な優越感を抱いた龍麻は、
それを表には出さず小走りで駆け寄ってきた少女を迎えた。
「皆さん、お久しぶりですッ」
 少女は舞園さやかだった。
 女子高生にしてアイドルの彼女とは、ほんの一週間ばかり前に
数奇な──これに関しては龍麻は心から感謝している──えにしで知り合ったばかりだ。
出会った時はまだファンではなかった龍麻も、直接話をしたらたちまち虜になり、
CDや写真集を厳しい財政状況こづかいかえりみず揃えている。
おかげで今では歌はそらで歌えるほどで、京一などよりも余程筋金の入ったファンになっていたのだった。
 予期しない彼女との邂逅に一行の中で最も驚いたのは、諸羽だった。
思わず声を高めて彼女の名を呼んでしまい、皆に睨まれて慌てて低める。
「さやかちゃん……どうしてここに? 今日は赤坂のスタジオのはずじゃ」
「もう終わったの。今は事務所に帰る途中なんだけど、皆さんの姿をお見かけしたから」
 嬉しそうに笑うさやかに、京一の頬は既に緩みきり、
龍麻もだらしない顔は見せないようにと思いつつ頬がむずむずしてしまう。
 そんな彼らを横目で見やった小蒔が、皮肉とも本心ともつかない風に言った。
「まぁ、京一の木刀は目立つからね」
「うるせェな、この木刀が俺とさやかちゃんを巡り合わせたかと思うと頬擦りしたくなるぜ」
 京一の感想はともかく、邪魔くさい木刀も確かに役に立つものだ、と龍麻は内心で思った。
 そんな彼の隣で葵が微妙な視線を投げかけているが、浮かれているからか、
それとも薄暗い景色のせいか、全く気付いていない。
 彼女を好きなのは解る──顔もスタイルも良いし、歌も上手い。
護ってあげたくなる、という気持ちを抱いても全く不思議ではないのだ。
でも、それにしても。
この春から知り合った幾人かの女性の前では決して見せることのなかった
しまりのない顔を目の当りにすると、葵はなんとなく面白くない気分になるのだった。
 ひとまず信号を渡るのを止め、邪魔にならないところに移動した龍麻達は、さやかを囲むように立つ。
不良が女性に絡んでいるように見えなくもないのだが、
こうでもしなければとにかくさやかは目立ってしまうので。
「皆さんは、どうしてここに?」
「え? あ、あァ、なんかこの辺に美味いラーメン屋があるって言うからよ、
案内してもらってんだよ、な、諸羽」
「……は、はいッ、そうです、そうなんだ、さやかちゃん」
 さやかの当然の質問に対する、諸羽の返事はあからさまにぎこちないもので、
これで隠し事がなかったらその方が見事なものだったが、
さやかは彼女に似合わない、少し哀しげな顔をしただけで何も言わなかった。
諸羽の言い訳の下手さ加減に龍麻達もとっさにフォローが出来ず、気まずい沈黙が流れる。
そんな彼らを救ったのは、さやかを呼ぶマネージャーの声だった。
「ほら、マネージャーさんが呼んでるよ」
「わかりました……それじゃ、失礼します」
 諸羽にも劣らない礼儀正しいおじぎをひとつすると、さやかはマネージャーの許へ戻っていく。
立ち去る間際に見せた笑顔は、非難がましいものではなかった。
「気をつけてね、霧島くん。皆さんも」
 すぐに雑踏に紛れて見えなくなってしまった彼女に、小蒔が鼻の頭を掻く。
「バレちゃってたみたいだね」
「ええ……少し寂しそうだったわね」
「けど、しょうがねェだろ。いくらなんでもさやかちゃんを連れてはいけねェ」
 京一の言う通り、敵の正体も判らないのだ、
彼女を連れていったらどんな危険が待ち構えているかも判らない。
それに彼女の『力』は癒しにこそ使われるべきで、敵と闘う為に用いてもらうのは気が進まなかった。
 思わぬさやかとの出会いを果たした龍麻達だが、池袋に来た本来の目的を思いだし、
渡るつもりだった横断歩道を渡ろうとする。
だが、先頭の京一が歩き出そうとすると、いつのまにか目の前に立ちはだかるように子供がいた。
両足を肩幅に開いて指を突きつけ、子供とは思えない鋭い眼差しで京一を睨みつけている。
近隣の男子高校生には恨みを買っていたとしても、
こんな子供にまで嫌われる覚えはない京一は、誰かの知り合いなのかと振り返った。
むろん龍麻達の知り合いでもなく、怪訝そうに顔を見合わせるしかない。
人違いじゃねェのか、と京一が追い払おうとすると、子供は金切り声を発した。
「見つけたぞッ!」
「なんだ?」
「お前ら人間なんかに、この世界は好きにさせないからなッ!」
 異様な弾劾に、龍麻達は声も出ない。
なお異様だったのは、子供の声はかなり大きかったにも関わらず、
道行く人が誰も足を止めようとしなかったことだ。
まるで彼らの耳には何も聞こえていないかのように、反応すらしていなかった。
「ボクは知ってるんだぞッ! お前達人間はボクの仲間をたくさん殺した。
自分達の都合だけでボクの仲間を何万匹もッ!!
とぼけても無駄だッ、ボクはもうお前達の仲間を五人もやっつけたんだッ。
でもお前達はしぶといな。未だにボクのお腹の中で泣きわめくんだからなッ!!」
 口の端に泡を溜め、唾を飛ばしながら叫ぶ子供は明らかに正常まともではなかったが、
言いたいだけ言ってしまうと、返事も待たずに走り出した。
「あ、おいッ!! 行っちまった……なんだったんだ、あいつ」
「もしかして、何かに憑かれていたんじゃ」
「ああ、普通じゃなかったな。後を追ってみよう」
 どんな小さな手掛かりでも、探ってみる必要がある。
そう判断した龍麻達は、子供を追ってみることにした。

 すばしっこい子供を追うのに苦労しながら、龍麻達はいつのまにか雑司ヶ谷霊園に来ていた。
「あのガキ……こんな所に何の用なんだ」
 京一が愚痴るのももっともで、子供一人が墓場になど用があるものではない。
加えてもう夜に近いこの時間では死者の安息所らしい不気味な雰囲気が際立っており、
大人でも好きこのんでこんな所に来ようとは思わないだろう。
異形の化け物や怪異を多く相手にしてきた龍麻達も、
なんとなく身体を寄せ合って薄暗い墓地を歩いている。
「広いね……夜来たら確実に迷子になるよ」
「不吉なことを言わんでくれ、桜井。夜の墓場なんて一度行けば充分だ」
 小蒔の声も小さなもので、それに答える醍醐の声は更に小さい。
おまけに心底嫌そうな響きが含まれていて、京一から失笑が漏れた。
「そういやそんなこともあったな。──どうした、美里」
「何か……いるような気がして」
 葵は決して脅かそうとして言ったのではなく、感じたままを言ったに過ぎないのだが、
それだけに醍醐に与えた恐怖感は並大抵のものではなかったらしく、
大仰に声を震わせて龍麻の肩を掴んだ。
「なッ、何ッ! 何かいるのか、美里ッ!?」
 またその力がやたらと強く、龍麻は暗がりの中で思いきり顔をしかめる。
表情ももう判らないはずなのだが、気配で感じ取ったらしく、京一がまた笑うのが聞こえた。
「落ちつけ醍醐、大の男がみっともねぇ」
「す、すまん。だが、しかし、やはり……何か……気配が……」
「ボクは何も感じないけど……ひーちゃんはどう?」
 小蒔に訊かれはしたものの、醍醐の手が痛くて集中するどころではない。
払いのけるのも気の毒ではあるが、これでは突然襲われでもしたら対処出来ない、
と龍麻が鬼になろうとした時、いきなり自分達以外の声が霊園の奥から聞こえてきた。
「君たち」
「うわッ。な……何? おじさん」
 お化けに臆することもなく先頭を歩いていた小蒔もこれには驚いたらしく、珍しく声が上ずっている。
それでも一応の礼儀を守ったのは普段のしつけのたまものと言えたが、
彼女に話しかけた中年の男は年長としての礼儀は全くわきまえずに不気味な笑みを浮かべた。
「君たち、死にたいと思ったことはあるかい?」
 男に答えたのは明らかに尋常でない台詞に絶句する小蒔ではなく、
彼の反対側からぬらりと現れた二十歳前後の若者だった。
「俺はあるよォ……いつもいつもだ」
「そう……私もだ。課長さえいなければなァ」
 勝手にコミュニケーションを成立させた男達は揃って不気味に笑う。
そのあまりの異様さに、龍麻達は警戒も露に身構えた。
するともう一人、今度は中学生くらいの子供が現れ、更に物騒な台詞を吐き出した。
「そんなヤツ食べちまえばいいんだよ」
「やはり君もそう思うかい。あのでっぷりとした腹に牙を突き立てて……うふ、うふふふふ……」
 正気を失っている、というよりも狂気そのものの中年男は虚空に向かって舌なめずりしてみせる。
敵意を剥き出しにしてくるならいくらでも闘えるが、
生理的な嫌悪感をそそる相手はどうにもやりにくい。
それが人の形をしているならなおさらで、異形の化け物を向こうに回しても一歩も退かなかった龍麻達も、
憑依された人々に対しては後退してしまうありさまだった。
「きょ、京一先輩」
「あら、可愛いわね、ボーヤたち。柔らかくて……美味しそう。
わたしを捨てたあの男なんかよりよっぽど美味しそう。
ねェ、どこから食べられるのがいい? お腹から? お尻から? それとも……やっぱりそこかしら?」
 新たに登場した水商売風の女性は、諸羽の腰の辺りに淫靡な視線を絡みつかせてくる。
京一ならともかく、純情な諸羽は余程驚いたらしく、ほとんど京一の背中に隠れてしまった。
するとそれを、彼女達は一斉に嘲笑する。
起こった嘲笑が新たな嘲笑を呼び起こし、狂った笑い声が薄闇の墓地に響き渡るさまは、
ホラー映画さながらであった。
「みんなみんな、お腹を空かせてる……今度はボク達が人間を食べる番なんだ!」
 甲高い声で叫んだのは、池袋の街で龍麻達をなじった子供だった。
あどけない顔立ちは悪意に汚染されてしまっていて、小蒔が嫌悪に眉をしかめつつ問う。
「これ、みんな……憑依されてるの?」
「わからねェ……普通じゃねェのは確かだが。どうする龍麻、やっちまうか」
「いや……ちょっと人数が多過ぎるな」
 龍麻が親指で示した先を京一が見ると、黒い影が続々と集まってきている。
それら全てが正気を失った人々だとすれば、確かに闘う訳にはいかなかった。
と言って他に名案がある訳ではなく、憑依された人々は着実に輪を狭めてきている。
葵と小蒔を中心に半円陣を作った龍麻達は、今にも飛びかかってきそうな彼らに対して氣を練り始めた。
致命傷を与えないように、と龍麻が慎重に最も近い会社員に狙いを定めた時、
淀んだ空気を切り裂く、鋭い声が響き渡った。



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