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「皆ッ!!」
憑依された人間の空虚な声とは違う、明確な意思の宿った声。
それは龍麻達も良く知る、東京中を事件を追って駆け回る、頼もしい女性の声だった。
「天野さんッ」
張りのある彼女の大声に、憑依者達は龍麻達と彼女と、どちらを先に狙ったものか迷っている。
その隙に乗じて、絵莉は龍麻達に手招きし、率先して走り出した。
「ここは彼らの『憩い』の場なの。一旦逃げましょうッ」
龍麻達に否やはなく、龍麻と醍醐が乱れた輪を強引に突破する。
葵と小蒔を行かせ、自分は殿を務める京一に、彼の隣を走る諸羽が訊ねた。
「京一先輩、あの人は」
「ああ、天野絵莉ちゃんって言ってよ、こういう事件を追ってるルポライターなんだってよ」
それ以上は説明する余裕も、訊ねる余裕もなく、
二人は阻もうとするサラリーマンを突き飛ばして逃げ出す。
そのまま一気に逃げようとした龍麻達だったが、
仲間が突き飛ばされたことでスイッチが入ったのか、憑依者達は一斉に後を追いかけ始めてきた。
「どこへ行くんだね、君たち」
「逃がさないわよ、ボーヤたち」
「ボクが最初に食べるんだッ!」
口々に叫びながら、欲望だけは共通させて追ってくる彼らは、
動物霊に憑依されているからか、速度はかなり速い。
龍麻達は全員が、最も遅い醍醐でさえもOLやサラリーマンに較べたら足は速いはずであったが、
あろうことか距離は少しずつ縮まってきていた。
「うわ、追いかけてきたよ」
「全力で逃げるぞッ!!」
振りかえった小蒔を京一が大声でたしなめる。
京一に言われるまでもなく、龍麻達は前を向き、追っ手を振り払うべく本気で走り始めた。
どれくらいの間逃げまわったのだろうか、龍麻達は気付けば南池袋公園まで来ていた。
さすがにこれ以上は体力が続かず、立ち止まって呼吸を整える。
これで彼らが追いかけてきていたらかなり苦しい状況と言えたが、
幸いなことに彼らの姿はどこにも見えなかった。
「もう追ってこないみたいね」
「はァ、はァ……だいぶ走ったもんね」
「ええ……」
安堵の表情を見せる葵と小蒔も相当に辛そうだ。
「俺もだぜ」
京一でさえもが弱音を吐いているのだから、彼女達が疲労しているのも当然と言えた。
京一の隣にいる諸羽も、口にこそ出していないものの困憊(がはっきりと見て取れる。
龍麻と醍醐もしばらくは口も聞かず、体力を回復させるのに専念していた。
数分が過ぎ、どうにか呼吸が整ってきた龍麻は、仲間達の様子を気遣う。
すると、絵莉だけが異常とも言えるほど元気なことに気付いた。
汗を浮かべるどころか呼吸さえ乱しておらず、年少の仲間を心配するでもなくあらぬ方を眺めている。
龍麻が彼女をじっと見ていると、京一も気付いたのか彼女を見るが、
そのタフネスぶりに素直に感嘆したようだった。
「絵莉ちゃんって足速ェんだな。体力もあるしよ。陸上かなんかやってたのかよ」
「え? あ……えぇ、そうなのよ。ルポライターは足で情報を稼ぐんだもの、日頃から鍛えてるのよ」
絵莉の言い分はもっともで、京一も納得するしかない。
彼女に違和感を覚えたのは彼だけではなかったが、それが形となる前に絵莉が口を開いた。
まるで、違和感を抱かせまいとするかのように。
「皆はそんなに息切れしちゃって。少し運動不足じゃない?」
彼女の口ぶりからは皮肉、というには毒が、そして探るような意図がほのかに透けて見えた。
彼女を頼れる年長者として、そして情報に詳しいルポライターとして尊敬している龍麻達も、
少し鼻白まざるを得ない。
そんな雰囲気を察することもなく、絵莉は更に続ける。
これも、普段の彼女であればまずないことだった。
「緋勇……くん。あなたはどう? 疲れてない?」
「え……ええ、大丈夫です」
「そう……もう少し疲れていると思ったのに、案外体力あるのね」
やはり彼女の口調には、褒めるというよりも失望しているような響きがある。
ここに到って龍麻は彼女への疑念をはっきりと抱いたが、
それを口にすることはいくらなんでも失礼にあたる為に出来なかった。
「天野サン……なんか様子ヘンじゃない?」
「そうね」
葵と小蒔も囁きかわしている。
皆彼女の様子がおかしなことに気づいてはいるが、
はっきりとした確証もないのでそれ以上は踏みこめない。
歯の奥に物が挟まったようなもどかしさを押し殺し、京一が訊いた。
「なぁ、絵莉ちゃん、さっきの公園にいた奴ら、あれは皆霊に憑依されてんのかよ」
京一が訊ねたのは、絵莉とこんな形で出会ったということは、
彼女も豊島区で起きている事件を追っているからに違いないと思ったからだった。
彼女のルポライターとしての知識と経験に、龍麻達は何度も救われている。
だから京一も訊いたのだが、彼女の返答は予想外に過ぎるものだった。
「いいえ、違うわ。あれこそが、誰もが心の奥底で望んでいた姿なのよ」
「なんだって?」
思わず京一は訊ね返す。
だが絵莉は彼らの知っている表情のままで、彼らの知らない言葉を口走った。
「滅びの道を加速する現代文明はまもなく終焉を迎える……そして来る新しい混沌の世には、
獣の性を持つ者こそが相応しい。生きる為……ただその純粋で崇高な目的の為に、
殺し合い、奪い合い、そして──食らい合う。それこそが、人間の本能であり、本性──
この世紀末にこそ、人類はあるべき素(へと返るべきなのよ」
「どうしちまったんだよ、絵莉ちゃん」
「ふふふ、真実が知りたければついてらっしゃい」
「お、おい、絵莉ちゃんッ!!」
絵莉は言うだけ言って勝手に歩き始める。
途方に暮れる京一に頷いた龍麻は、この時既に疑念を確信へと変えていたのだが、
それは口にせず、ただ仲間達を促して彼女の後を追うことにした。
絵莉が導いたのは、いかにも怪しげな廃屋だった。
平屋の倉庫風の建物は、窓ガラスは割れ、壁もところどころ剥げており、
随分と長い間使われていないようだ。
華やかな池袋の片隅にこんな場所があったことにも驚く龍麻だが、
まるで自分の家のように案内する絵莉は、どう見ても正常(ではない。
「こんな人気のねェトコ連れてきてどうする気だよ」
「知りたければ中に入りなさい。この中に全ての答えがあるわ」
相変わらず絵莉は返事を待たず勝手に建物の中に入ってしまう。
もはや、彼女の言動全てがおかしいといって良かった。
「ここまで来たらしょうがねェだろ」
だが京一の言う通り、彼女の意図がどこにあるにせよ、それを確かめなければならない。
龍麻達は用心しながら、彼女が消えた廃屋の中へと続いて入った。
「薄暗くて良く見えねェな」
物凄い量の埃に顔をしかめつつ、京一が先頭で入る。
目視出来るほど舞い上がった埃に、彼の後に続く葵と小蒔は一瞬ためらったようだったが、
何も言わずに続いた。
念の為に扉は開け放したまま、最後に龍麻が入る。
どうやら使われていた時は倉庫だったようで、中には乱雑に荷物が積まれていた。
それらの荷物のせいで見通しは悪く、全体がどうなっているのかが確かめられない。
さすがに緊張した面持ちで歩を進める京一が、
扉から真っ直ぐ進み、荷物の壁が途切れたところから顔を出す。
後に何気なく続こうとした小蒔は、いきなり顔を引っ込めた京一と派手にぶつかり、
しこたま鼻をぶつけてしまった。
「痛ッた……なんだよ、急に」
恨みがましく言う小蒔に、京一は黙って奥を見るよう示す。
鼻を押さえながら言われた通りに顔を出した小蒔が見たものは、闇に鈍く光る無数の獣の瞳だった。
「あッ!!」
「どうやら罠だったみてェだな」
ならば、退くか──敵地で闘う不利を熟知している龍麻達だったが、
今回はそうするわけにはいかなかった。
奥には、先に中に入っていた絵莉が、無数の瞳の首領のように相対して立っていたからだ。
彼女は恐らく敵に操られているのだろうが、放って逃げるわけにはいかない。
意を決した龍麻達は奥に踏み込んだ。
人と同じ高さにある、獣の瞳が一斉に動く。
龍麻達のいる場所に集中した視線は、それだけで気分が悪くなるものだった。
食いたい、奪いたい、嬲(りたい──
あまりにも強烈な本能が凝縮された眼光は、
一行の中でも特に氣を視(る能力が高い葵をよろめかせるほどの苛烈なものだった。
彼女を支えてやりながら、龍麻は素早く計算を立てる。
絵莉を救い、この建物から逃げる。
だがそれにはまず、彼女に憑依している存在を祓(わなければならなかった。
「これ皆……憑依された人?」
「多分な。どいつもこいつも飢えた獣の目をしていやがる」
小蒔と京一が小声で会話を交わす。
するとそれに呼応するように、絵莉が低く笑った。
「フフフ……ようこそ、獣の巣窟(へ」
彼女の声は普段の溌剌(としたものではなく、どす黒い情念が宿ったものだ。
それを聞いた京一が、事実を認めたくない、と言った風に喉の奥から声を絞り出した。
「絵莉ちゃんも……憑依されてたってワケか」
「クククッ、この女は充分に役目を果たしたぜ」
彼女に憑依している何者かが言う。
「天野さんッ」
龍麻は叫んだが、操られている彼女には通じず、奥へと下がってしまった。
彼女を操っている何者かは、そこから獣の霊を憑依させた者達を操るつもりらしい。
狡猾な敵であったが、絵莉の身体を用いて攻撃しようとはしてこないのは救いと言えた。
もし絵莉が先頭に立って攻撃してきたら、龍麻達はなす術がなかったからだ。
むろんその事実を敵に告げる必要は全くなく、龍麻と京一は目配せしあう。
それだけで、もう二人には意思の疎通が出来ていた。
それぞれに構える二人を見て、醍醐と諸羽も構えを取る。
絵莉に憑依している何者かに対して、醍醐が心底からの嫌悪を示した。
「卑怯者め……自分は姿を見せずに、女性を操って罠を張るとは」
「ククク……余計なことに首を突っ込んだてめェの愚かさを呪うんだな」
敵は、今度は操っている人間全てに、同時に同じことを言わせる。
恐らくは自分の正体を気取られないようにするためだろうが、
十人以上の人間が少しのずれもなく同じことを言うのは相当に不気味で、
豪胆な龍麻達も顔をしかめずにはいられない。
それを見た敵は、獣の霊を憑依させた者達を使って嘲笑してみせた。
「俺の可愛い獣たちが飯の時間をお待ちかねだ。
食われたくなかったらせいぜい不様に逃げまわるこったな」
その台詞を合図として、倉庫内にいた者達が一斉に襲いかかってきた。
木刀を構えた京一が先陣を切り、諸羽が後に続く。
醍醐と龍麻は葵と小蒔を護りつつ、彼らが取りこぼした敵を相手にする。
幾多の闘いで熟成されたコンビネーションは、諸羽が加わっても問題なく機能していた。
積まれた荷物は龍麻達の動きを邪魔するものの、敵の進路も遮る。
ここさえ押さえておけば、葵が危険に晒されることはなかった。
京一と諸羽は既に敵のただ中に躍りこみ、木刀と剣(を振るっている。
敵がいくら獣の本能に支配されていても、骨格が人間である以上、
俊敏な動きなど出来るはずもなく、京一については心配なさそうで、
むしろ、憑依されているとは言え一般人相手にやり過ぎてしまわないかの方が気になるくらいだ。
龍麻が特に心配だったのは諸羽の方だ。
病みあがりで、しかも人間相手の闘いでは大変かとも思われたが、
諸羽は自分や京一や醍醐にはない俊敏な動きで敵を翻弄し、的確な一撃を相手の急所に見舞っている。
その闘い方に危なげなところはなく、
薄暗がりの中で彼の身体から立ち上っている氣の明滅が激しいのは、
まだ氣の扱い方に慣れていないからだろう。
彼も安心して見ていられる、と判断した龍麻は、
彼らの背後を狙おうとしている敵を倒そうと試みたが、その時、傍らをすり抜けていく人影があった。
「桜井さんっ」
俊敏に飛び出したのは、後ろで葵といたはずの小蒔だった。
今回は空間が狭く、生身の人間相手に弓では殺傷力が高過ぎるので後ろに控えてもらったのだが、
どうやら数に優る敵を見て仲間が危ないと思ったらしく、素手で援護に向かったのだ。
龍麻などから見ると少し大き過ぎる動きでOLの攻撃を避けた小蒔は、
容赦無く膝蹴りを高価そうなスーツに見舞う。
素手の武術を学んでいないにしては良い動きで、
彼女の元々の運動神経が窺(い知れるというものだ。
ただ、彼女はあまり女性だということを自覚していないのか、
それとも着ているものを忘れているのか、スカートが翻るのも構わず動き回るので、
彼女を見ていると自然と目に入るものがある。
はじめは加勢に回ろうとしていた龍麻も、
めまぐるしく位置を変えながら闘う彼女にそのタイミングを逸してしまい、
結局、こんな時に不謹慎に過ぎる、と思いつつ、彼女が危機に陥ったらどうする、
とかなんとか言い訳をつけて、ずっと彼女を注視していた。
「龍麻くん!」
不意に後ろから声がする。
葵が叫んだ理由を確かめようともせず龍麻が身を沈めると、
一瞬前まで頭があった場所を、グレーのスーツを着た男の腕が猛烈な勢いで通り過ぎていった。
返す刀で相手の位置を勘で測り、体重を乗せた肘を撃ちこむ。
会社員が昏倒するのを見届けてから振り向くと、葵の顔は安堵しつつもまだ青白かった。
「もう……気をつけて」
「ごめん」
まさか注意力が散漫になっていた理由を言う訳にもいかず、ひたすら謝る龍麻だった。
とんだ失態を晒した龍麻が、その後三人の敵を倒し、
なんとか面目躍如した頃には、京一達も闘いを終えていた。
「これで全部か」
危なげなく敵を倒した京一が不敵に言い放つ。
この場にまだ立っているのは、自分達と絵莉のみだ。
諸羽にも怪我がないことを確認した京一は、倉庫の一番奥で腕を組んだままの絵莉に近づいた。
「一応峰打ちにはしといたがよ、当分は起き上がれねェはず──」
敵を逃がすつもりもない京一は、敵がどう動いても対応出来るよう油断なく近づいたが、
急にしゃっくりを無理やり抑えたような、おかしな表情をした。
「どうした京一……?」
喉を押さえる京一に、醍醐が声をかける。
その拍子に、醍醐も自身に何か妙な感覚が訪れたのを感じた。
「む……?」
「なん……だろ?」
京一と醍醐に続き、小蒔も妙な顔をしている。
自分の身体に何か異変が起こったようだが、感覚的におかしなところはなく、上手く言い表せないのだ。
三人は揃って龍麻を見たが、龍麻は何も異変を感じない。
葵を見てみても、彼女もおかしなところはないようで、思い過ごしじゃないのか、
と龍麻が言おうとした時、突如として絵莉が笑い出した。
「ククク……全く単純な奴らで助かるぜ」
「絵莉……ちゃん?」
「てめェらはもう逃げることは出来ねェ。改めて歓迎するぜ、ようこそ、獣(の王国へ──!!」
「なんだ、一体どういう──」
詰め寄る京一の目の前で、絵莉は糸が切れた操り人形(のように崩れ落ちた。
駆け寄った龍麻が脈を診る。
どうやら気を失っただけで、命に別状はないようだった。
皆に向けて龍麻がうなずいて見せると、安堵の表情が浮かぶ。
それにしても敵は、ここまで罠を張っておきながらあっさりとそれを捨て、
追い詰められて逃げた、とも考えられるが、だとすれば最後の一言が気になるところだった。
「とにかく、一度公園まで戻りましょう」
だが今は葵の言う通り、この場を離れ、絵莉の無事を確かめるのを最優先すべきだ。
絵莉を抱き上げた龍麻は、京一に先頭を頼み、南池袋公園に戻ることにした。
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